格安保育、ブラック保育/価値観の多様化/湯沢町で講演して/ジョセフ酋長の言葉/NHKあさイチの「大丈夫?保育の質」

格安保育、ブラック保育

https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html?page=1 こんな状況を作り出した政府の「保育は成長産業」という施策。そこで過ごすのが主として乳幼児だから、これはもう悲劇だと思います。価値観の多様化、親の意識は様々だからこそ「幼児を守る」という国の仕組みが大切だったはず。

 

価値観の多様化 

 最近、「価値観の多様化、生活様式の変化が進んだから、それに合わせて福祉や教育を変えて行かなければならない」ということがよく言われるのです。なぜかそれが定型句のようになっている。私の講演の前に、教育長や福祉部長が挨拶をする時などによく使われる。たぶん文科省か厚労省が、「国の方針」か何かに書いているのに違いない、マスコミでも耳にするのです。その都度思うのです。価値観の多様化、生活様式の変化が進んできたからこそ「中心になる価値観」を取り戻すことが大切で、子育てがほぼ中心になるのが自然の法則、だと。それが進化の最低条件ではなかったか。この国は、まだそれが出来る国だと思う。

 価値観の多様化、生活様式の変化から「幼児を守る」のが社会(仕組み)の役割りのはず。そのためにはどうしても「信頼の絆」が必要なのです。「乳児をもう50万人保育所で預かれば女性が輝く」と総理大臣が国会で発言し、国や学者が経済論で子育ての意味や定義を崩してゆき、「社会で子育て」(実は単純に保育園で子育て)と言って多様化や変化に合わせれば合わせるほど、国は中心となるべき「意志」を失い、混乱はますます進む。

 

 人間が生きる意志の真ん中に「子育て」がなければ、心が一つにならない。



 

 それが感じられるから、いい保育士たちが去ってゆく。


湯沢町で講演をして

 私も全国で色々な保育、教育の現場を見て来ましたが、湯沢町のこども園から中学校まで一つ屋根の下、という取り組みはとても興味深く、これからの教育現場のあり方を考える上で参考になるケースだと思いました。

(湯沢学園:5つの小学校、1つの中学校を統合して湯沢学園とし、4つの保育園を1つの認定こども園にまとめ湯沢学園内に置くことで12年間の一つ屋根の下にした。)

 街の規模、園児数と生徒数、冬の積雪、学校や保育所の立て替えの時期など、いくつかの要素が重なって作られたものなのでしょう。しかし、そこに何か不思議な組み合わせ、社会に絆を取り戻すきっかけがあるような気がするのです。

 教育も、保育も、本来の遺伝子が持つ人間性との間に摩擦が生じていて、制度疲労を起こしている。より深まる矛盾を抱え、「家族」という絆の原点となるべき「場」が「子育て」という存在理由の中心を失い始めている。その結果、制度を担う人たちの精神的健康が保てなくなってきているように感じます。(ここで言う制度を担う人たちとは、保育者、教育者、学童や児童館の指導員、乳児院や養護施設の指導員、福祉に関わる「行政の心ある人たち」ということです。)だからこそ、今までとは異なる仕組みが必要になってくる。

 もう少し「幼児を毎日眺める、一緒に眺める」といった部族的な日常を意識的に取り戻し、増やしてゆくことが社会全体の軌道修正には必要と思っています。

 湯沢町の試みの中で、こども園の園児たちが毎日一度は中学生たちの視線を感じながら校内を行進して回って来る、といった儀式を始めれば、中学生たちの感性が蘇り、彼らの将来の視野に「子育て」の不思議な体験が入ってくるような気がいたします。

 

 

ジョセフ酋長の言葉

 

 

 

“Why do you not want schools?” the commissioner asked. 

“They will teach us to have churches,” Joseph answered.
“Do you not want churches?”
“No, we do not want churches.”
“Why do you not want churches?”
“They will teach us to quarrel about God [translated Great Spirit in other places],” Joseph said. “We do not want to learn that. We may quarrel with men sometimes about things on this earth, but we never quarrel about God. We do not want to learn about that.”
.

joseph1.jpg

 



 

 先生が子どもたちに「夢を持ちなさい」という。その先生たちに、「先生は夢を持っていますか?」と質問すると言葉につまってしまう。「昔は、こんな夢を持っていました」「退職したらこんなことをしたい」といった答えが多かった。矛盾に囲まれて子どもたちは生きています。伝承のプロセスに信頼関係が薄いのです。

 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。

 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」

(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

 もともと西洋人が学校教育を作った背景には、識字率を上げ聖書を読める人を増やす、という目的がありました。アメリカ大陸にきて、「神」を知らないインディアンを西洋人は不幸な人、野蛮な人と見、学校教育が必要だと考えた。

 ところがジョセフは、神はすでに在るもので、議論の余地のないものと見ていた。学校という西洋的な仕組みの本質をついた視点です。なぜジョセフがそれを見破ったか。大自然と一体になった人間の感性が、白人たちの子育てに何が欠けているかを見抜いたのかもしれません。神を広めようとする白人の行動に、神の存在を感じなかったのかもしれません。

 『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)に出てくる日本人の姿と大酋長ジョセフを私は重ねます。西洋人が、日本人は無神論者的だと感じた風景の中に、実は幼児を眺め、幼児を拝み、同時に神や宇宙を眺めることができる特殊な文明が存在していた。そして、西洋人はその無神論者的な社会に、なぜか一様にパラダイスを見た。

 ジョセフがこの発言をしたちょうどそのころ、欧米人は日本というパラダイスを見ている。インディアンの生活が原始的であったがために、そこに日本を見て感じたパラダイスが見えにくかったのでしょう。同じ人間の営む文明として敬意を払うまでにいたらなかったのだと思います。

 当時日本にきた欧米人が、驚いたことの一つに「日本の田舎ではすべての家の中が見渡すことができた」というのがある。当たり前のように時空を共有することが、パラダイスを形成する安心感の土台にあったのでしょう。もし、同じような観察をアメリカインディアンにもしていたら、西洋人はもっと大きなパラダイスを発見していたかもしれません。

 

 西洋人が学校でインディアンに教えようとしてなかなか教えられなかったことの一つに「所有の定義」がありました。共有の中で生きてきた人たちは、西洋人が正当なやり方でインディアンから土地を手に入れても、そこから立ち退かなかった。大地は天の物、神の物であって、人間が所有できる物ではなかった。この視点の違いから、悲惨な闘いの歴史が始まる。

 日本では、土地の所有に関して血で血を洗う闘争の歴史がありました。しかし、それは主に武士階級の間で行われ、村人の日々の生活の中に現実としてあったのは、共有の精神だったと思います。一人の赤ん坊を育てるには数人の人間が必要で、そのことが未来を共有する感性を人々に与えたのだと思います。システムだけ見ているとわからない、魂の次元での一体感や死後へも続く幸福観を村人はちゃんと持っていた。西洋人の観察の中に「確かに日本には封建制はある、武士は一見威張っているように見える、しかし、なぜか村人は武士を馬鹿にしているようなふうがある」とあるのですが、このあたりが本当の日本の姿だったのではないでしょうか。


NHKあさイチ「大丈夫?保育の質」

 

  NHKの「あさイチ」という番組で、「大丈夫?保育の質」という保育の特集がありました。先月の「ふかよみ」という番組でも同様の問題が取り上げられました。不満は残るのですが現実を伝える役割りは果たしたと思います。出発点にはなっているので、ここからもっとマスコミ全体に、この問題の大切さと緊急性が広がってゆく気がします。

 最後に「問題はお金」で終わったところが象徴的だったのですが、それでは政府主導の市場原理に再度巻き込まれるだけ。「感謝」という方向へ進まないと保育士不足は止まらない。子どもを眺め「感謝」。育てる者たちがお互いに感謝。それが人間社会をここまで引っ張って来たのですから、出来ると思うし、それしか道はないのです。

 番組の最後にファックスで障害児デイと思われる虐待の現状が言われていました。あのファックス一枚に書いてあったことだけでもマスコミが掘り下げれば、今の政府の雇用労働施策の中で崩れてゆく「保育」が見えてくるはず。市場原理の中で親と保育士の一体感がこれだけ崩壊に向かっていることが見えてくるはず。

 障害児デイと呼ばれる「資格なし」で回す、ビジネスコンサルが盛んにネットで勧誘する仕組みをマスコミが取り上げれば、市場原理の中で親と保育士の一体感が崩壊に向かっている原因が見えてくるはず。一部の老人介護施設で起こっている人間性の崩壊が実は社会全体に起こっていることが見えるはず。


 

(「あさイチ」で取り上げられたファックスから)

 「特に乳児のおむつ交換、授乳には時間がかかる。授乳は保育士が手で与えず哺乳瓶にタオルを巻いて与えている。事故が起こったらと思うと不安だが仕事がまわらないため仕方がないと言い聞かせている」。

 哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来る時代です。社会全体から、抱っこの意味が不明になってゆく。以前、経済財政諮問会議の座長が「乳児は寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。乳児を抱っこして授乳をしながら、抱っこする側がどう育っていったか、変化していったか、そういう時に人間の遺伝子がどうオンになっていったか、経済学者はまったく考えない。これでは経済も良くならない。

(あさイチから)

 「以前保育士をしていた。0歳児に対して無理やりお茶を飲ませたり、吐き出した食べ物を食べさせたり、絵本で頭をたたく、押し入れに入れる、脅す、見ていられず虐待していた先生に言ったら『新人が生意気な口答えをするな』と言われた。」

 良くない保育は意外と伝承するのです。この保育士は、少なくとも辞めてくれた。辞めて普通なのです。そういう状況を政府が作っている。これだけ保育士が不足していれば、悪い保育士を解雇できない。するとこういういい保育士が辞めてゆく。


(あさイチから)

 1歳児の担任をしている。12人を2人の保育士でしている。朝の支度や給食の準備に1人はいると12人を1人でみていなければいけないのが現状。午前中に帳面を書いたり、掃除や行事の準備もしなくてはならず、寝ない子についている時間はないため寝てほしいというのがある。有給もほとんどとれず、サービス残業や家に持ち帰りの仕事が多くストレスがたまる。現状をわかったうえでの論議をしてほしい」。



 1人で6人がすでに無理なのです。しかも、全般的に「愛着障害」が増え、噛みつく子も増えている。声掛けをしてもらえない、抱っこしてもらえない子どもたちの時間は、将来、記憶の中に「不信?」となり溜まってゆくのです。そのすぐ先に学校がある。学級崩壊がある。

(あさイチから)

 「本当に現場は過酷。虐待を認めるわけではないが、質、質、質と言われても本当にゆとりもない。低賃金すぎる。子供を預かる仕事をするがゆえに、私たち保育士が稼ぎが少ないから子供や家庭を持てない。本当にわかってほしい」

 自分の子どもは預けないという保育士が増えている。当然だと思います。そして、育休をとった保育士の多くが現場に帰ってこない。それで普通だと思います

(あさイチから)

 「保護者の質、子供の質については問題にしないのか。こども園での保育の仕事をしていたが、預けられる子供は問題行動ばかり。親がきちんと家でしつけをしていたんだろうかと思う子が多い。お迎えに来た親御さんも保育士に全く声もかけず、早く帰り支度をするように子供にうながすばかり。保育園で起こる問題は保育士の問題だけではないと思う」

 このファックスが読まれた途端に、司会者の一人が「そういう問題ではない」と発言し議論を止める。「今日は、そういう話ではないですからね。親御さんたちの話ではないから、保育士の話なんだけれども・・」

 「親の問題」には触れようとしないのが、マスコミ全体の流れなのです。それでは問題の本質に行き着かない。幼児の幸せを願えば、保育士は親を見る。それが保育だと、保育所保育指針の第六章にも書いてある。親と保育士の人間関係が「保育」そのものだという視点で常に見ていないと、保育資格を持っていれば「保育」は出来る、という考え方になってしまう。すると、保育士養成校が明らかに現場に来るべきでない学生に「平気で」資格を与えるようになる。養成校で教えている人たちに「幼児たち」が見えない。

 こういう学者たちに諮問している政治家には「幼児」は数でしかない。「保育」は子どもたちの日常です

 

 

 

(講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com松居までどうぞ)



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です