「新聞の記事と保育現場からのメール」

四年前に書いた文章です。

いま、裾野の事件を発端に、現場で起こっていることの深刻さが伝わり始めていますが、保育界が追い詰められている現状については、すでに何年も前から繰り返し、報道されているのです。

問題なのは、この時期、特に三歳までにする子どもたちの体験が、どれほど取り返しのつかない、決定的なものか、という認識が欠けていること。この時期に、多くの子どもたちが、「愛されている」と思えることが、人間社会が整うことの条件だった。その一番基本的、常識的なところが、保育をビジネスと考え、成長産業と位置付け、雇用促進の道具と見なした政府の保育施策によって壊されいく。

保育の専門家と言われる人たちが、「社会で子育て」などという言葉でごまかし、現場の崩壊(保育の質の崩壊)に拍車をかける施策に歯止めをかけようとしなかった。学問や仕組みで子育てはできない。子どもたちは、心のこもっていない「保育」を見抜いてしまう。

不登校児の急増、児童虐待過去最多という数字、不自然な犯罪の増加、どれを見ても、幼児期の不完全、不自然な体験が、すでに世代を超えて連鎖し始めているのは明らかなのです。

 

(四年前の文章です。)

(全国ニュースに、こんな記事がありました。)

世田谷区:企業主導型保育所2園、全保育士7人が一斉退職(毎日新聞)

東京都世田谷区にある保育所2園で7人の保育士全員が10月末に一斉に退職し、園児が転園を余儀なくされたり保護者が出勤できなくなったりしている。1園は休園し、もう1園は受け入れを続けるが、「保育の質」に不安を持つ声が出ている。

一斉退職したのは、企業主導型保育所「こどもの杜(もり)」の上北沢駅前保育園(園児10人)の保育士5人と、下高井戸駅前保育園(同18人)の保育士2人。上北沢園は今月から休園。下高井戸園は今月から新たに保育士を確保し、上北沢園の2児を含む計20人を受け入れている。上北沢園の残りの8児の保護者は近隣園に問い合わせたり、世田谷区に相談したりしているが、待機児童が多く、受け入れ先は決まっていないとみられる。

2園は絵本の読み聞かせができるというロボットを導入するなど特色ある保育をしていた。運営する会社の経営者の男性(47)によると、10月上旬に上北沢園の保育士全員から退職希望があり、保育士の派遣や他業者との提携を模索したが見通しが立たなかった。下高井戸園では31日、保育士から退職の意向を告げられたという。

「保育士には給与の未払いがあったようで、これが一斉退職の要因の一つになった」と証言する関係者もいるが、男性は「給与は払っており、遅れたこともない。子どもの情報の引き継ぎもなく、愛情はなかったのかと悲しくなる」と反論する。

この混乱でしわ寄せを受けているのが子どもたちだ。下高井戸園に通う子の母親は「安心できないので仕事を休んでいる」と憤る。いつもの保育士が見当たらないことで泣き出す子どももいたという。上北沢園から転園した子の父親は「待機児童が多い地域なので、簡単にほかの受け入れ先は見つからない。怒っても仕方がない」とため息をつく。

厚生労働省から企業主導型保育事業の運営を委託され、助成金支給を担う公益財団法人「児童育成協会」(渋谷区)は「保育士が一斉に辞めることは通常は考えられず、利用者のことを考えると非常識」と話し、利用者に新たな受け入れ施設を案内するなどの対応に追われている。

協会は下高井戸園の新しい保育士が有資格者かどうかを確認するため職員名簿の提出を求めているが、経営者は名簿の提供を拒み続けているという。園には栄養士はおらず、給食の献立をパソコンソフトで作成している。2日朝には経営者が自らスーパーで食材を購入していた。

予定していたケチャップ煮用の赤身魚が店頭になく、経営者は白身魚を購入し、「煮物にする」と話した。記者が「大丈夫か」と問うと、「『大丈夫ですか』って僕も言いたい」と困惑気味に答えた。【小野まなみ、矢澤秀範】

企業主導型保育所

主に企業が自社の従業員向けに設ける認可外の保育施設。待機児童対策として国が2016年度に創設した制度で、整備費や運営費は認可施設並みに助成される。今年3月末現在、全国に2597カ所あり、今年度末までにさらに増える見通しだ。一方で、認可施設に比べて保育士の配置などの基準が緩く、行政の目が届きにくいことから、保育の質の低下や安全管理への不安を懸念する声も根強い。

「補助金持ち逃げビジネス」の温床に

保育制度に詳しいジャーナリスト・猪熊弘子氏の話 児童育成協会の対応にも問題があるが、国が丸投げしているのがおかしい。企業主導型は自治体が把握できず、補助金目当てで簡単に参入できるため、制度設計自体に問題がある。一番被害を受けるのは子どもと保護者だ。制度を見直し自治体が関与できる仕組みを作らなければ、企業主導型は「補助金持ち逃げビジネス」の温床になってしまう。

(関連記事)

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(この記事の向こう側に、もう一つの危ない現実があります。報道もされず、ただ忘れられていく乳幼児たちの日々。そこに日本の未来が存在していることに社会全体が気づいていない。「雇用労働施策」と称し「保育制度の規制緩和を進める」政治家や学者、専門家たちがもう考えもしない子どもたちの悲しみや苦しみ、怯え、心ある保育士たちが現場から去ってゆく、あってはならない風景が「全国で」日々繰り返されている。世田谷区の、別の園のベテラン職員からのメールです。)

松居先生、お久し振りです。お元気ですか?

今週水曜日に保育課から電話があり、「近くの企業主導型保育園の経営困難により、今いる園児たちの受け入れ先を探しています。緊急一時枠でお願いできないか」なんて、今でさえ長時間保育の乳児で、基準は満たしているけれど安全に保育するギリギリラインなのに、区や都、国で責任取れ、現場に押し付けるな、待機児童政策は大失敗なんだと言えばいいのに、園長は何も言わず。ただ受け入れは難しいとお断りしました。

そこの園とは、よく散歩先の公園で出会い、見かけましたが、正職員と思われる保育士は卒業したてという感じの若い子ばかり。それに年齢のいったパート職員が子供達を怒鳴り散らしていて、若い子は何も言えず子供達に声かけもできず、ぼんやり砂場に座っているだけでした。

うちの園の子どもも、その怒鳴り声に怯え遊べなくなり、仕方がなくその場を離れました。いく先々でそこの園と鉢合わせると場所を変えるという、お散歩難民状態になりました。

そこの園は皆お揃いのポロシャツ(しかも白)とブカブカのビブスを着せられ、多分お洗濯もしなくていいとかが売りだったのでしょうか。

うちの園の子が泥水遊びをしているところに、その園の子たちが次々やってくるのを必死で抱え連れ戻すので、ご一緒にどうぞと声をかけると、ありがとうと言いながらも、子どもを遠ざけていました。

ある日、新顔のパートの先生(主婦っぽい)が、ありがとうございますと言い、一緒に泥遊びに参加しました。

暫く振りにまたその先生と子どもたちに会い、子どもたちも嬉しそうに私たちのところへやってくると、その先生は悲しそうに「今日は、あっちで遊ぼう」と声をかけていました。すると、若い正職員が、「この前、泥遊びをさせたからシャワーを浴びさせる目にあった、ホント参るよ」と言うのが聞こえ、泥遊びをさせてしまった先生は、もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っていました。

こんな現場のことなんて、行政は何もわかっていない。憤りを感じます。

今、うちの園では、モンスターペアレントととの戦いで、保育課とも戦っています。園長が何も言わないので、聞き取り調査に来た保育課の職員にうちの職員が、保育課は保護者の苦情に対応はするのに、保育士たちを理不尽な親から守ろうとはしない。保育士を守るのは一体誰なんですか、クレームがそちらに行く度に、書類提出を求められますが、その時間も無いし、だいたい保育中に何故聞き取り調査や電話対応をしなければならないのか、と反論していました。

また先生にお会いしたいです。取り敢えず、保育崩壊中の近況報告まで。

(「他園の子どもが、その怒鳴り声に怯え遊べなくなる」ような状況で、一週間も過ごせば、3歳未満児はただ萎縮していくばかり、自分でそれを親に訴えることもできない。そういう幼児たちの表情の変化を読み取れる親も少なくなっています。これが一ヶ月も続けば、2歳半までに一生に影響すると言われる脳の発達がどうなっていくか、怖いくらいです。

記事の中に、

助成金支給を担う公益財団法人「児童育成協会」の保育士たちを非難する「保育士が一斉に辞めることは通常は考えられず、利用者のことを考えると非常識」という発言があります。この法人にとって「利用者」は親でしかない。本当の利用者が「子どもたち」であることをわかっていない。「通常考えられない、非常識な」状況をつくりだしているのが自分たちだということを理解していない。

一年も経たないうちに、経営者が、「『大丈夫ですか』って僕も言いたい」という乳幼児とって危険な、素人頼みの仕組みを助成金を支給して増やしているのは、「子育て安心プラン」という経済政策パッケージです。

「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://www.luci.jp/diary2/?p=2498 

政府の「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている。

「遊びをさせてしまった先生は、もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っていました」。

ここに本当の意味での保育崩壊がある。

乳幼児たちの役割は「育てる側の心を一つにして、社会に信頼関係を生み、人間たちの親身な絆をつくること」。親も、行政も、保育士も、保育園経営者も、まったく心が一つにならないような仕組みを、いま政府が進めている。しかもそれを「人づくり革命」と呼ぶのですから、まったく理解できない。

幼児を可愛がる、という大自然の作った一つの「かたち」が土台にあれば、人間の作った福祉や教育という「かたち」は崩れない。でも、そこが欠けると「人間性」という生きる動機そのものが壊れてしまう。)

(「ママがいい!」にも書きました。ぜひ、読んでみてください。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。

裾野市の保育士による園児虐待事件

「絵本の読み聞かせ」の道筋を示した父が逝った今年、私は「「ママがいい!」という、七冊目の本を出しました。タイトルにした言葉は、人間社会の中心を耕してくれる幼児たちからの、メッセージです。

母親にとっては勲章ともいうべき、この言葉から「社会」という「体験」が始まるのだと思います。

この言葉に、真摯に向き合わないと、保育という仕組みに限らず、その先にある学校教育や様々な形の「福祉」が、連鎖して崩れていく、と書きました。

「ママがいい!」、この言葉が発せられる「動機」と、それが指し示す「道筋」を、うわべの論争や、損得に惑わされず見つめ、率直に受け入れ感謝する時が来ています。

 

裾野市の保育士による園児虐待事件。

「ママがいい!」にも書きましたが、この手の出来事は、もう三十年前から頻繁に起こっている。養成校の実習生に聴けばわかります。繰り返し、報道もされている。それなのに、なぜ、保育の質を下げる規制緩和と、量的拡大が国によって進められたのか。その仕掛けを、この本を読んで多くの人たちに理解してほしい。

裾野のこども園で起こった虐待のニュースを見て、ショックを受けた方達も多いと思います。

一歳児にこういうことをするのは、仕組みが破綻している以前に、人間としての常識を逸脱しているからです。

しかし、それ以上に、この事件で、園長が保育士たちに、口外しないように誓約書を書かせていたということに、保育界の現状を感じてほしいのです。

養成校で教えている教授たちは、その現状を知っていた。養成校が、実は資格ビジネスになっている実態についても書きました。

(「ママがいい!」より)

良心を捨てるか、保育士を辞めるか

かつて保育の現場で、こんな事件があった。

千葉市にある認可外の保育施設で、三十一歳の保育士が二歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている二歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。

(二〇一四年七月 NHK ONLINEより)

三歳未満児を、親しくない人に長時間預けることにはリスクがある。だから長い間人類はそういう仕組みをもたなかったし、そうしなかった。

問題なのは、保育士の逮捕後、施設長が警察の取り調べに、虐待を認識しつつ、「保育士が不足する中、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と述べたこと。

この証言で、保育士個人の資質の問題が、国の政治姿勢の問題に変容する。

政府の保育施策(雇用労働施策)は、保育士の「心(人間性)」が保育の質であることを理解しない。そのことが保育士たちを「良心を捨てるか、保育士を辞めるか」という状況に追い込んでいる。

社会保障制度には致命的な負の連鎖が始まっている。

経済財政諮問会議の元座長が「〇歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。誰が世話をしても同じ、と本気で思っているのだ。教育の義務化と高等教育の資格ビジネス化で「子育ての本質」が見えなくなっている。この人たちは、三歳未満児保育を生産性向上を目的とした「飼育」くらいにしか考えていない。

保育の規制緩和と幼保一元化を進めていた野田政権の厚労大臣が「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言い、三党合意で安倍政権がそれを引き継いだ。

千葉の事件で、施設長の発言が全国紙で報道されたあとも、政府は保育の量的拡大を進めた。

学校で教師が児童虐待を繰り返して逮捕され、校長が「教員不足のおり、辞められたら困るので注意できなかった」と答えたら大問題になるはず。

叩かれ、食べ物を無理やり口に詰め込まれる相手が二歳以下で、経済活動に必要な仕組みで起こると対策が取られないどころか、政府は保育士不足、保育士争奪に拍車をかけていった。

三年後「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が、もっと預かれという趣旨で、国会で取り上げられる。乳児が親と過ごす権利、「保育園落ちた、万歳!」と子どもが思う可能性、悪い保育士を排除できなくなっている現実については国会では取り上げられない。

(引用ここまで)

日常的に行われる園児虐待を口外しないことで、保育士たちの魂が鈍化していったのです。

実習先の園であったことを言わないように、学生たちが学校から口止めされ、先輩から、あの保育園に実習に行くと、保育士になる気無くなるよ、と耳打ちされる。致命的な質の低下が、個人情報保護法、守秘義務、などという法律を隠れ蓑に推し進められていった。

人間社会を守るのは法律ではない。幼児たちを可愛がることによって引き出される「いい人間性」と「常識の共有」です。

(千葉市の事件については、衆議院で参考人をした時にも言いましたし、衆議院調査局発行「 論究 第16号 2019.12」に依頼された提言論文にも書いています。衆議院ホームページで閲覧可。)

私が、何より恐ろしいと思うのは、こういう風景を、日常的に三歳、四歳、五歳児が見て、成長していくこと。異常とも思える風景を繰り返し体験し、親が知らないうちに、トラウマやPTSDを抱えた子どもたちが、すでに親になり、教師や保育者になっているということ。

親と保育者との関係をここまで崩してきたのは、国の経済施策と、実習生たちの内部告発を抑えてきた学者たちだ、と思う。

「保育士辞めるか、良心捨てるか」という決断を迫られた、まったく同じ道筋が、学校教育を追い詰めています。

教師不足が進むほど、良くない教師を排除できなくなる。

「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」とアインシュタインは言いました。

損得にからむ情報だけが、生きる手法、知識のように幅を効かせ、大人たちの子育てにおける体験の質が荒くなっている。それによって、子育てを押し付けられた者たちの「良心」が崩れていく。

子どもたちの体験の質も、当然、一緒に落ちていく。それが、様々に未来に波及していくのです。

義務教育は「義務」であるがゆえに、一層逃げ場がない。

良くない担任に当たった時の親たちの選択肢は非常に限られている。いい親であるほど、手段を失い、うろたえ、苦しみや悲しみが深くなる。それが、不登校児過去最多、という数字に現れている。

今回の事件は、流れを変えるとしたら、最後のチャンスかもしれない。

(保育の崩れかた、子どもたちを守る「常識」が、政府主導の市場原理と豊かさによって壊れていった過程について、ぜひ、「ママがいい!」を読んでください。背後にある「欲の資本主義」に気づけば、そして、保育界が「子どもの側に立って」動けば、まだ十分可能性はあると思います。)

 

 

 

 

(三日前の記事です。親父の最後の一踏ん張りのような気がします。)

伝承すべき物語がある

 

情報は知識ではない、体験が知識なのだ、とアインシュタインは言いました。

 

父は、絵本を作りながら同じことをいい続けた人でした。

その父が逝って、二週続けて、哲学者が父の言葉を「折々のことば」に取り上げてくれました。小さなコラムですが、朝日新聞の一面です。けっこう読んでいる人がいるのです。

 

 

 「赤ちゃんの幸せ」はみんなの願いですが、赤ちゃんの幸せは「お母さんの幸せ」にかかっているのです。

                                     松居 直

(「ことば」を見つけていただいた、鷲田清一さんの言葉)

 うちの子はみな自分で本を読めるようになってもなお読んでもらいたがったと、児童書の編集者は言う。母親のおなかの中にいる時からずっとその声を聴いてきた。子どもは「この声と、この鼓動が聞こえていれば大丈夫」と安心する。だからお母さんの声に潤いが満ちるようみなで支えることが大事だと。『絵本は心のへその緒』から。

(2022.11.18)

 

絵本から得る「情報」も大事ですが、読んでもらう「体験」の中に、生きていくために必要な遺伝子レベルの「知識」の交換、伝承すべき物語があるのでしょう。

それを確かにするために、

絵の動かない、音を発しない、誰かに語られる「絵本」が、象徴的な役割を果たす、父は、そう信じた人でした。人間が人形をつくったり、楽器を奏でたりするのと同じです。

絵は、想像力の中で動き、心の中で、音さえも聴こえてくる。だからこそ、毎回ちがう体験になるのです。

言葉は、温もりと魂を得て、その時の臨場感は次元を行き来する。それが、いつか回帰できる、真の知識になっていく。

そんな感じでしょうか。

 

「母親の声に潤いが満ちるように」と、絆の広がる方向が定まれば、絵本の働きは、いま急速に私たちが失いつつある、だからこそ取り戻さなければいけない、利他の「営み」となってよみがえってくる。

毎月、親子で心待ちにする「月刊絵本」が大切なのだと言っていました。

一緒に待つ、という習慣が、すでに人生の土台をつくる「体験」です。月刊ですから、選択肢がない。

親は子を選べない、子は親を選べない、のとちょっと似ています。人生は、しばしば、選択肢のないものを一緒に待ち、流れに身を委ねて、幸福感につなげていく。

信じること、願うことが土台になっていく。

 

 

『ママがいい!』著者・松居和さんに聞く③保育者の資質

「折々のことば」に、父の言葉が紹介されました。

今朝の朝日新聞、「折々のことば」に父の言葉が載った。

子どもが「本を読んで!」というのは「一緒にいて!」ということです。   松居 直

(紹介いただいた鷲田清一さんの言葉)

絵本を読み終えても「もう一回読んで」と言う。読んであげても心はお留守になっている。なのに読み終えるとまた「もっと」と言う。母親の気持ちが自分だけに向けられているというシチュエーションがきっと心地いいのだろう。子どもは「作者の名前は覚えていなくても、誰に読んでもらったかは、覚えているもの」だと、児童書の編集者は言う。『絵本は心のへその緒』から。

(2022.11.17)

今、親父が逝ってしまったからかもしれません。親子でこのコラムに載ったことがとても嬉しいのです。親父が笑っているのが見えるのです。

 

ーーーーーーーー(以前、書いた文章です。)ーーーーーーーーー

著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」に書いた私の言葉が、朝日新聞の「折々のことば」というコラムに紹介されました。

高名な哲学者に、いい言葉を指摘していただきました。

「赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の『責任』です。」:松居 和

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

(2018.12.15)

渡辺京二著「逝きし世の面影」を読み、書いた言葉です。(江戸が明治に変わる頃、来日した欧米人がこの国の個性に驚き、文献に書き残したものをたくさん集めた本です。)欧米人たちが時空を越えて私たちに「ほんとうの日本」を伝えようとする意図、人間のコミュニケーション能力の不思議さ、動機を感じます。

第10章:子どもの楽園、にこんな風に書いてあります。

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。(モース)』

英国の紀行作家イザベラ・バードは、

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ』と書きます。

江戸は玩具屋が世界一多い街、大人も子どもと遊んでいる。朝、男たちが集まり赤ん坊を抱いて自慢しあっている。日本の子どもは父親の肩車を降りない。日本人は子どもを叱ったり、罰したりしない。教育しない。ただ大切にしているだけで、いい子が育ってしまう。そして、江戸という街では赤ん坊の泣き声がしない、と言うのです。

赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点です。その責任を感じたとき、人間は、自分の価値に気づく。

新聞のコラムを読んだ奈良の竹村寿美子先生(私の第一師匠。元真美ケ丘保育所長)からメールが来ました。

 「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?』と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!

(追伸)

 その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」

(ここから私です。)

仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。竹村先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れていく。そして「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくるのです。

保育に心を込め、人生を捧げてきたひとの自戒の念がそこにあります。

しかし、そういう現場の自戒を無視するように、保育施策が進んでいきます。これほど仕組みが壊されても、乳幼児を40万人保育園で預かれば、「女性が輝く」と首相が国会で言ったことの検証を、誰もしない。

「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/  

「ママがいい!」という叫びを聴いたら、それは聴いた人の責任です。聞き流したり、理屈をつけてその響きに慣れてしまうと、人間社会を支えていた「絆」が薄れ、社会は混沌としてくる。

いま、幼児という弱者の扱いが国中で粗雑になっている。それを知って欲しいという思いで書きました。

子どもの貧困などあり得ない。大人たちの「絆」の貧困が広がっているだけ。

政府(野党も含め)が、待機児童という言葉を使ってこれだけ積極的に乳幼児期の親子の分離を進めれば、社会全体に優しさや忍耐力が欠けていく。絆の中心にあった幼児の姿が見えなくなって、責任の所在が曖昧になって、一層弱者が追い込まれるということなのです。それがすでに学級崩壊や不登校児の急増などに見えているから、幼児たちの役割を思い出してほしい。そうしたことを、わかりやすく書きました。

 

 

 

父、松居直が逝って、一週間たちました

父、松居直が逝って、一週間たちました。たくさんのメッセージをいただきました。心のこもった、自分の人生と重ねた「お礼」がたくさん届きます。

 

 

松居さんの絵本は、子どもの時にお母さんに沢山読んでもらい、僕の感性をくすぐるとても大好きな絵本でした😊

もちろん僕の子ども達にも沢山読んであげ、その感性は次の世代にも受け継がれています❤️‍🔥

松居直さん、子ども時代の僕に、とても素敵な感性を与えてくれて、どうもありがとうございました🙇‍♂️

 

お父様のご冥福を心からお祈りいたします。

ほんとに、ほんとに、お父様の作られたご本に心を作っていただきました。

福音館の編集者の方がやっていらした家庭文庫に母が連れて行ってくれたのが幼稚園の時。そこから全てが始まったような気がします。

きっと私みたいな、お父様に心を作ってもらった隠し子(?)が沢山いますね、全国に。

ご家族が亡くなられるのは、一大事です。

どうぞ、お疲れが出ませんように。

 

(ここから私です)

絵本は親子(人間)が出会う場所、と言い続けた人でした。絵本が語られた時、それは、作家の言葉ではない。読んだ人の言葉になる、と教えた人でした。

父と私は、東洋英和の保育科で、教え子が重なっている時があって、その人たちの幾人かが、授業中に、父に絵本を読んでもらったことをお悔やみのメッセージに書いてくるのです。

授業とか、学問とか、勉強ではなく、親父に絵本を読んでもらったこと、その体験を一番よく覚えているのです。

式の時に牧師さんが教えてくれました。

ある時会話の中で、子ども向けの映像媒体に話題が移ったとき、父の顔が一瞬暗くなって、しばらく黙っていたあと、「イエス様は、本を書きませんでした」と、言ったのだそうです。

その言葉の意味を、ずっと考えています。

父は、「はじめに言葉あり」という聖書の教えが大好きでした。

私は、「0歳児との、言葉を解さない会話が、人間を祈りの次元に導く」と言ってきました。

父は結構、私の本を読むのが好きでした。ある時、「思想家なんだよ」と言ってくれました。

やはり、大切なのは、体験なんですね、人間対人間の。

学問とか、教育ではなく、体験なんです。そこが欠けてくることが心配だ、という思いが、「イエス様は、本を書きませんでした」というつぶやきになったのだと思います。

 

編集者の松居直さんが死去 戦後児童文学の発展に貢献

https://news.yahoo.co.jp/articles/c76ac82762ec39354137175c8b498f2a06370ffc

 

親父が逝った。

親父が逝った。

親父らしい、 オヤジだった。

京都の人だった。

ばたばたと内輪で葬儀を済ませ、戻ってきて、いろいろ考えていたけど、あまり逝った感じがしない。受け継いているものの気配は自分の中にあるから、それをやっていけばいいのだと思った。

今朝、新聞を見て、妙に実感が湧いてしまった。

少し書いておこう、と思いました。

波乱はありましたが、充実した人生を送らせてもらったことに、親父は感謝しているはずです。

私の人生は、親父の仕事人生と平行線で、子どもの時から自然にそうでした。

何しろ、物心ついた頃、家に、今江祥智さんが下宿していました。その次が、薮内正幸さんで、動物の絵を描いてもらって小学校で配りました。(取っておけばよかった。何しろ、ネズミを描いて、と頼めば、さっさっさーと小さなのを一つ描いてくれます。)

花貝塚の丸木位里、俊先生の家の周りで矢じりや土器の破片を拾って夏休みの宿題にし、瀬田貞二さんと太田窪でうなぎを食べ、安野光雅先生は、私の小学校の工作の先生で、それがきっかけで親父にあったのですから、ちょっと、貢献しました。

田島征三さんの作るタンポポのお酒の味見を日の出村でして、丹波の田島征彦さんの家で宅間さんと日向ぼっこをして、エンデさんがうちに来て、ラマチャンドラン氏が、緊急避難でインドへ呼んでくれて、秋野不矩さんとちょっとインドを旅して、堀内誠一さんのパリのうちにちょっと長く居候をして、二人で、絵本関係者東西奇人変人番付、というのを作りました。谷川俊太郎さんがそこへ遊びに来て、俊先生に誘われてアウシュビッツで尺八を吹いて、ロサンゼルスでは、八島太郎さんの句会に入って、あああ、思い出せばキリがない。

その大元に、親父とお袋が居る。

その感覚は、ずっと続くから、そう思うと嬉しい感じがします。

ありがとうございました。     和

(いつか、しっかり書きますね。)

 

「たよりにならない人」の存在意義

 

講演で話したあと、私の好きな園長先生を交えて、数人の母親たちと、お茶を飲みながら懇談していた時のことです。

学童保育の人、療養士の人、仕事に復帰したばかりで疲れてしまった母親、園庭にときどき目をやりながら、みんなで漠然と、考えます。

その母親の疲れと涙がどこから来たのか、見極めようとします。こういう疲れと涙は、普通、その人の子どもが要求していること、なのです。

茫然としながらも、親身な会話が続きます。

療養士の人が突然思いついたように話し始めます。

「子どもが病気がちで、頻繁に保育園から職場に『迎えに来て下さい』と電話がかかる母親です」と自己紹介。そして笑顔で「たよりにならない人って、職場では呼ばれています。でもクビにならない。みんなわかってるから大丈夫」。

横で、園長が笑います。「迎えに来て下さい」と言っている本人です。

きっとその母親の、自然な、困ったような笑顔が同僚を安心させ、それが職場でも必要とされているのでしょう。

子ども思いであるがゆえに、「そのときはたよりにならない人」の事情や心情を受け入れ、助け合うのが人間社会だったはず。病気がちの子どもの気持ちを、みんなで思いやる、それが本当の「社会で子育て」です。

最近、「社会で子育て」と言いながら、それに反比例するように、親身な思いやりや、助け合いの幅がどんどん狭くなっている。福祉や教育、法律や政府が「社会」ではないのに、なぜか、みんな勘違いしている。

本当は、人間の想像力と許容量の中に、「社会」はあるのです。

そういうことをもっと学校で子どもたちに教えてほしい。道徳教育を義務教育に入れると言いつつ、一方では職場で「たよりにならない人」を問題視し、子どもが病気でも保育所で預かれるようにしようとする政府。これでは人間性という道徳の基本は育たない。「病気の子ども」の気持ちが、いつの間にか忘れ去られていく。

教育が、人間性が育つ機会を奪っているように最近感じる。

「まだ、たよりにならない人」(幼児)、そして、「もう、たよりにならない人」(老人)も含め、その時「たよりにならない人」が居るから、社会に人生の目標と喜びの芽が育つのです。

私は保育園のホールで、みんなに「職場では、たよりにならない人です」と笑顔で宣言する「子どもにはたよりになる母」の言葉を聴き、その人を見つめる他の母親たちの笑顔を眺めながら、この国は、まだ大丈夫かもしれない、と思いました。  🍀

 

以前新聞で読んだのですが、三年育休をとられたら職場復帰されても使い物にならない、と言う人がいたのです。ひどい言い方です。

その三年間で乳幼児たちが、この国にとって「本当にたよりになる人」になるかもしれない。乳幼児たちが、社会全体の「いい人間性」を育てているかもしれない。いつから、そういうことが見えなくなったのか。

親が子を思い、子が親を思うことが、実は社会全体を動かす「生きる力」の根底にあった。それさえも忘れている人たちがいるのです。

 

( #ママがいいより )

二〇一八年八月一日、第一生命研究所は、「出産退職による経済的損失が一・二兆円」とする試算を発表した。出生数九四・六万人のうち出産によって退職した人二十万人の経済的損失を計算したものだ。

母親が産まれたばかりの我が子と暮らしたい、子どもが母親といたい本能ともいえる願いを「損失」と計算し発表する人たちの意図には、人間性が欠けている。幼児の笑顔が、欲のエネルギーの対極にあることを恐れているのかもしれない。

こんな連中が定義する「総活躍」のために、「受け皿」が整備される。

児童福祉法(改正児童福祉法)第二条に、「全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努める」とあるのです。

「全て国民は」で始まる条例を、まず政治家たちが守ってほしい。政治家も国民であるはず。幼児たちが「ママがいい!」と言ったら、その意見を尊重し、発達の程度に応じて「最善の利益を優先」してほしい。それができない限り、「総活躍」などあり得ない。

 

 

待たない園長先生の話

一冊前の本「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」に、書いた話です。

 

「 待たない園長先生の話」

 

幼稚園をやっていた園長先生が、役場に頼まれ、保育園を一つ引き受けました。県議会議員もやっているので、行政の方針には協力しようと思ったのです。

引き受けた保育園は、まったく行事をしない、親の言いなりになってきた保育園でした。非正規と四時間のパートでつないできたような保育園です。

園長先生は、そういう保育に慣れて気の抜けてしまった保育士を入れ替えました。そして、幼稚園では必ずやっていた「潮干狩りの親子バス遠足」をやることにしました。

さあ、大変。ほとんどの親が反対です。行事なんてやったことがないのです。園長の言う事を聴くなんて経験がない。結束してボイコットしようとしました。最近の親たちは、時々こういうことで団結するのです。子どものためではなく、自分の権利(利権?)のために。

自分たちの保育園が、新しい園長先生の保育園になってゆくのが嫌なのでしょう。許せないのです。

「なんでバスで行かなければならないのか、自家用車で行きたい」と言う親がいました。

園長先生は「だめです。みんなでバスで行くのです」

「じゃあ、行きません」

もう、子どもの遠足なのか親の遠足なのか本末転倒、むちゃくちゃです。

参加者が半分に満たなかったために、最初の年、園長先生はバス代をずいぶん損したそうです。でも、そんなことではめげません。親たちに宣言します。

「私は絶対に変わらない。それだけは言っておきます。あなたたちが変わるしかない」

わずか三年で、親子遠足全員参加の保育園になりました。親も楽しそうな、子どものための保育園になりました。

色んな園長先生や設置者がいます。

私は、四十年、講演をしたり本を書いたりしていますが、どちらかと言えば、保育園側に師匠(女性園長・主任)が多く、それは保育園の方が親子関係というテーマでは最前線で、日々鍛えられ、乳幼児とつきあうことによって直感的な答えを持っている人が多いからだと思います。

そういう人たちは、子どもではなく、親子を見る。本能的に母親の顔を見分け、見抜き、子どもの異常を察して、家庭に踏み込んでゆきます。

その人たちの使命感、子ども優先で考える勇気が、どれだけたくさんの親子の人生を変えてきたか。一緒に育てているんだ、と家庭に踏み込んでゆく園長や主任の姿が、いかにこの国を支えてきたか、私は知っています。その地域の番人のようなあの園長に救われた、という話をたくさん聴いたのです。

しかし今、豊かさの中で、または、豊かさを求めようとする中で、節度を失った親たちが、そして、保育をサービス産業と見なす政治家たちが、その人たちを崖っぷちに追い詰めている。

子どもが活き活きすると、事故が起きる可能性が高くなる、と言う園長の、「声を掛けない保育、抱っこしない保育」の話をすると、その人たちは黙って悲しそうな顔をするのです。

なぜ、みんな保育を真剣に考えないのだろう、と心底がっかりするのです。

この人たちがいるうちに、流れを変えないと、学校が持たない。

最近、流れてくる、不登校児急増、過去最多、少子化であるのも関わらず児童虐待過去最多というニュースを見ていると、いよいよ始まってしまったのか、もう時間がない、と思うのです。

できることはあるのです。

よろしくお願いします。「ママがいい!」、市長や教育長に、ぜひ、薦めてください。

 

 

父親だけ集めて、年に数回酒盛りをさせる幼稚園がある。

父親だけ集めて、年に数回酒盛りをさせる幼稚園がある。

お母さんと子どもたちはいなくてもいい。父親同士が仲良くなることが目的なのだ。

「父親同士が知り合いかもしれない、友だちかもしれないという意識を、子どもたちに持たせることができれば、小学校や中学校でいじめはなくなるんです」と園長先生が断言する。( #ママがいいより )https://good-books.co.jp/books/2590/ 

人類の歴史を振り返れば、子どもたちは、血縁をベースに、部族的つながりというか、お互いの子どもの小さい頃を知っている大人たちに囲まれて育ってきた。親身、という言葉が示すように、「親の身になって考えることができる」、それが常識的な子育ての絆であって、それが子どもたちを守ってきた。

この種類の絆は子供にとっての安心感であると同時に、運命を共にする者たちの、利他の「意識」を育ててきた。

「その感覚」を少しでも取り戻すことが、いまの社会には大切なのだと思う。

 

半数近くの子どもが未婚の母から生まれ、実の両親に育てられる子どもの方が少数になりつつある欧米先進国では不可能な「耕し直し」が、この国ではまだ可能なのだ。そう、私は信じている。全ての幼稚園や保育園で、父親同士、母親同士がなるべく知り合いになるように仕向ける、その努力はできるはず。この国ならできる。やっている園がある。

 

 

(保育はサービス産業ではない。子どもが育っていく、体験の場所なのだ。それを意識しないと、その先にある「学校」が持たない。

不登校の子どもが急増している。その増え方が尋常ではない。幼児期の体験から、大人たち(人類)を信用していない小・中学生が増えている。

専門家はもっと選択肢を作れと言う、そんな机上の空論が通る状況ではない。家庭崩壊を進めておいて、その代替施設をいくら作っても、追いつかない。

教師不足のみならず、保育現場、学童保育、放課後デイ、あらゆる所で、人材が不足している、絆の質が落ちている。「社会で子育て」などという言葉と「人材不足」に振り回されて、若者たちが生きる意欲を失っているのです。信じる力がない、だから優しさや忍耐力が育たない。そして、家族を持とうとしない。 )

 

もちろん、父親が全員友達になれるわけはないのです。

「友だちかもしれない」という意識でいい。その記憶が子どもの思い出の中に残れば、それで未来の社会はずいぶん変わる。「市場原理」や「損得勘定」に飲み込まれない、欧米化しない、唯一の先進国になれると思う。

子どもの頃の一人一人の思い出が、いまの社会をつくっていることを思い出してほしい。その時期を、政府が大事にすればいいだけ。

保育や教育が限界に来ているのと同じ論理で、「経済」や「市場原理」はすでに限界に来ているのだと思います。そこから、少し身を引くことが、この国は可能なのだと思う。人間は、子どもを可愛がっていれば、いい人生を送ることができる。それだけのこと。それが、長い目で見て、経済にもいい影響を及ぼすはず。

保育園の遠足は父親同伴、と決めた園もあった。

利害関係のない友だちの価値に、父親たちが気づく。

バザーで物を売るのは父親、と決めた園もあった。

欧米を見ていても、子育てという最も確かな幸せへの道筋から、踏み外すのは男たちが先です。父親から逃げる。早いうちに、祈ること、幼児の存在に感謝することを教えておけば、母親(社会全体)がもっと楽になる。

 

お泊まり保育は、両親ともに参加、という保育園がありました。二百人近いお泊まり保育になる。

すごいなあ。保育園ですよ、保育園。

そういう、親を育てる園の子どもたちは、落ち着いていて、どこか、ちがっているのです。

大人を信じて育った子どもたちが、学校で、苦労しないといいのになぁ、と思う。

その思いが、近頃、妙に切実になってきて、立て直せるのだろうか、と不安になる。

いい子たちほど、辛い思いをする。

できることはわかっているのに、何をやっているんだ、と、逆方向に進めようとする政府の保育施策に、憤りさえ感じる。繰り返しますが、保育はサービス産業ではない。

 

いまなら、まだできる。難しいことではない。

(「ママがいい!」を読んでほしい。もうすでにやっていることがたくさん書いてあります。)

 

 

チャンネル櫻の討論会に参加しました。

 

チャンネル櫻の討論会に参加しました。

「日本政府はなぜ子供と若者に冷たいのか?」というタイトルで、司会の水島さんが、前もって「ママがいい」を読んでくださっていて、ありがたかったです。

初めてお会いする方々ばかりで、ちょっと心配だったのですが、いい話し合いができたと思います。

知識とか情報ではなく、人間は「体験」に基づいて話し合うと、ちゃんと道筋が見えてくる、みんな同じ遺伝子を持っている、と感じました。

いま様々な分断が、始まっているからこそ、みんなで幼児の存在意義を意識すること、確認することが大切だと思いました。

特に、乳児を意識すると、その子達が喋れないだけに、自分の中にある「遺伝子」が、代わりに話し始める。そこがいいのだと思います。

お時間のある時に、ぜひご覧になってください。(以下のリンクから繋がるはずです。)