江戸川双葉幼稚園のブログから「お弁当について」/七月、認可外保育施設の宿泊保育で女児死亡/シャクティからの手紙

 小さい頃に、人間の本質は自然に輝く。その繰り返しが波のように続き、生きる力になった。まわりがそれを見つめ、可愛がるほど力が輝きを増し強くなる。そして、全員が輝いていた。なぜなら、1人では生きられなかったから。

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 保育も教育も、家族という体験に代わることは出来ない。家庭での子育ては学校教育がなくてもなりたつ。何千年もの間だいじょうぶだった。学校教育は家庭での子育てがなければなりたたない。学校と家庭は、その意味、目的の次元が異なります。「子育て」と「教育」が混同されると次元の違いが見えなくなる。歴史の長さが違うことを常に意識するべきです。


 江戸川双葉幼稚園の菅原久子先生とは父の代からもう30年くらいのお付き合いで、何度か園にも講演に行きました。久子先生は保育界では論客で、何度かお互いの文章が隣り合わせになることがありました。私が衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をした時には、お願いして、後ろに座っていただきました。

 先日江戸川区の幼稚園教職員の全体研修会で息子さんの創先生にお会いしました。給食のある幼稚園を探していた親が、創先生の書いた園のブログから「お弁当について」の記事を読んで、「お弁当の意味」に納得し、子どもが入園してきたそうです。講演をしていて思うのですが、便利なことは必ずしもいいことではない。特に幼児を育てている時は、知らないうちに親の「思い」がおもわぬ瞬間に子どもに伝わっていたり、毎日のちょっとした努力の積み重ねがとても大切なものを育てていたりする。丁寧に説明すればたいていの親は理解してくれる。

 (政府が保育施策を「親の利便性」と「労働力確保」でやっているから、スマフォやゲームに平気で長時間子守りをさせる親が増えるのです。でも、どういう園に当たるか、で一家の人生はずいぶん変わる。そんな時代になりました。)

 


江戸川双葉幼稚園のブログから、お弁当について

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http://blog.goo.ne.jp/futaba_kindergarten/e/ff7ba42e15b022a6ca46da572da80ad8

「ここの幼稚園はお弁当ですか?」

 幼稚園を見学に来られる保護者の方から、必ずと言っていいほど聞かれることです。

 ふたば幼稚園のお昼ご飯はお弁当です。保護者の方々にとって、お弁当よりも給食の方が楽であることはわかっています。わたし自身、以前は給食を出す幼稚園にいましたが、幼稚園にとっても経営的にかなりプラスになります。でも、やっぱり幼稚園はお弁当の方がいいと思います。それはなぜだと思いますか?

 子どもたちは、給食をよく残します。親御さんは、給食なら嫌いなものも食べられるようになるだろうと期待しますが、幼児期の子どもは、まず食べることはありません。毎日そんな感じですので、かえって残すことが当たり前になってしまいます。教師たちは、食べ残しを捨てることに心を痛めながらも、誰が何をどれだけ食べ、何をどんな理由で残したかを把握することは不可能です。

 子どもたちは、お弁当は残しません。毎日親御さんが何を作ってくれたのかを楽しみにしてお弁当箱を開け、嬉しそうな顔をして全部食べます。もちろん、時には全部食べられないこともあります。しかし、残すには残す理由があります。教師は親御さんに残したときの様子などをお帰りの時に伝えます。親御さんは、残菜やお子さんの顔を見て、また前後の経緯を思い浮かべて考えます。例えば、昨日夫婦げんかを見せてしまった翌日、お弁当を残してきたとか、お弁当を残して帰ってきた日の夜、熱を出したとか。そういうことの繰り返しを通して、子どもたちの言葉にならないサインを読み取ることができるようになっていきます。

 このようにして、子どものことをしっかり理解して育てるというのは、とても大事なことだと思います。このプロセスを通じて、親は子どものことを感覚的に理解できてしまうようになります。このようにしてできていった親子関係は、一生続きます。

 みなさんも記憶があるはずです。お子さんがまだ赤ちゃんだった時、泣いている理由がわからず苦労したはずです。おっぱいかな?眠いのかな?うんちかな?最初はわからなかったものが、だんだんわかってきたはずです。新生児の泣く理由って、4種類ぐらいしかないんですけどね(笑)。でも、最初はわからないものなのです。

 子どもが成長し世界が広がってくると、またわからないことが出てきます。2歳の子どもの情緒は10種類ぐらい、3歳になると数十種類になると言われています。そして、いやなことがあっても泣かないことも出てきます。どこまでわかっていたら十分なのか。それが、幼児期までの子どもの心です。ここまでしっかりつかんでいれば、それ以降は多少ルーズにしていても大丈夫です。

 子育ては、幼児期以降もまだまだ続きます。思春期になると、どんな子どもでもそれなりに不安定になります。子どもが荒れた時、子どもの荒れる理由が感覚的にわかる。そういう親子関係だったら、子どもはすぐに落ち着くでしょう。しかし、親が全然理解できなかったら、子どもは救われません。

 では、しっかりした親子関係を作っていくには、どうしていったらよいでしょう。

 幼稚園のお弁当は、その方法の一つです。これがすべてではありませんが、これに代わるものもありません。この特別な時期だけでも、ちょっと頑張ってみませんか?

 

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悲しい出来事がまた起きました

宇都宮の認可外保育施設で宿泊保育中に女児死亡


 (産経ニュースから、前略)愛美利ちゃんが死亡した施設は、児童福祉法が定める保育所に該当しない認可外保育施設。市保育課によると、こうした施設は市内に19カ所あり、設備やサービス内容などを記した運用状況報告書の提出が義務付けられているほか、年に1回立ち入り検査を実施しているという。

 施設では、パンフレットやホームページで24時間預かりや夜間保育をうたい、「看護師がおり、嘱託医とも提携しているので病気の場合も迅速な対応が可能」などと宣伝していた。

 だが市に提出された報告書には、一時預かりのみで夜間保育などは行っていないと記載され、看護師も常駐していなかった。嘱託医として名前が挙げられていた医療機関は、両親の問い合わせに対して「そんな事実はない」と否定したという。

 市は、愛美利ちゃんが死亡する以前に報告書の内容と宣伝内容が違っているのを把握し施設側に指摘。施設側は「対応する」と返答していたが、「事故」は起きた。

 市の担当者は「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と明かすが、両親は「違反車両を認識していたが、そのまま取り締まらずに走らせておいて死亡事故を起こしたようなものだ」と話している。

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 死亡事故にまでつながることは稀ですが、乳幼児の安全を確保出来ない状況が現在進行形で全国に急速に広がっています。子どもの安全が守れないような、子どもが大人を信じなくなるような、心ない保育が政府によって前倒しで、少しずつ確実に広められているのです。それは国家の存続に関わる最重要問題・危機であり現実なのですが、政治家たちは気づこうとしない。気づいていても選挙優先、政権維持優先、経済優先で真面目に向き合おうとしない。国の成立以前からの自然の法や摂理を国が無視しては、国自体の存続が危うくなる。こういう乳幼児の死亡事故は事故ではなく、仕組みの欠陥であって、それは政治家が作ったもの。そのくらいの自覚は持ってほしい。一体何を考えているのだろう。
 乳幼児の安全に責任を持たなければいけない市がすでに「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と言っている。この市だけで19カ所、その状況の下で乳幼児が日常的に繰り返し預けられている。なぜそれが出来るようになったのか、よく考えてほしい。
 こうした、様々な形の小規模保育の状況を市が監督・指導できない状態はもう十年以上放置されている。監督しようとしても罰則規定がないから取り締まれない。(取り締まれば「待機児童対策」が進まないから罰則規定を作らない?)その現実を私も本に書きました。政治家にも機会のあるたびに伝えました。厚労省の局長にも言った。知らないとは言わせない。知らなかったら政治家の資格はない。
 その現実を知りながら、今の内閣は来年始まる子ども・子育て支援新制度で、「すべての子どもたちが、笑顔で成長して いくために」とパンフレットに書き、もう40万人保育園で預かることを目標に掲げて施策を進める。犠牲者が出るような規制緩和で保育の質を下げておいて、まだ歩けないうちから親と離され「すべての子どもたちが笑顔になる」はずがない。たとえ園庭で笑顔になっても、いい保育士に当たって笑顔になっても、それは父母や祖父母と視線を合わせる笑顔とは違う。
 たくさん預かれば女性が子どもをもっと産む、などという政府の考え方は人間性に対する暴言だと思う。日本はそういう国ではなかったはず。幼児の気持ちを優先するのがこの国の伝統文化だったはず。いまでも、幼稚園に子どもを預ける親のほうが保育園に預ける親よりも子どもを多く産む。まだ伝統は生きている。

 新制度では、労働力確保を目的に、保育資格者が半数でいい小規模保育を自治体に奨励し、家庭的保育事業は資格がなくても2週間の研修で誰にでもできるようになる。その研修を誰がするのか、中身をどうするのか、待ったなしの無理な施策を押し付けられた県が右往左往している。4月の実施に合わせ11月には研修を始めなければならない。小規模保育が監督できないのに、より細分化された規制緩和・家庭的保育事業を市町村が監督できるとは思えない。何かあったら誰が責任をとるのか。それさえも曖昧なのだ。
 国は、自治体を使って、今まで以上に保育界を市場原理という無法地帯にしようとしている。一体何人の小さな命が失われればこの動きをやめるのか。
 保育界が追い詰められ、乳幼児の安全がすでに確保出来なくなっていることをマスコミがなぜもっと厳しく書かないのか。待機児童を無くすことばかり報道するマスコミの姿勢は「働く女性のため」のように見えるが、実際は先の見えない経済論に振り回されているだけではないのか。本当に懸命に働いている、保育が必要な親子のための保育が壊されてゆく。
 
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シャクティからの手紙
 南インド、タミルナード州、シャクティ・センターのシスター・チャンドラから手紙が着ました。新しいホームページが出来ました、と書いてある。
 私の作ったドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の映像がうまく使われています。NHKの国際テレビのインタビューもありました。
 冷蔵庫も洗濯機も水道もない村人たちが、より良い生活を求めて娘たちをシャクティセンターに預けます。歴然としたカースト制の続くインドで、女性の地位向上は中々思うように進みません。経済成長の名のもとに貧富の差がますます広がっています。犯罪が増え、センターでも停電になる回数が増えたそうです。
 でも、シスターは一歩一歩、歩いていきます。一人一人、教え、導きます。時々顔をしかめますが、笑顔で日々の努力を続けます。そして、みんなで踊ります。
 そのエネルギーの源は、貧しいけれど,親が子を思い、子が親を思うダリットの村人たちの助け合う姿勢、笑顔なのでしょう。助け合わなければ生きていけない。貧しさと子育てが絆を育てます。それがあれば、人間は自分の欠けている部分、良くない資質を抑制することができるのです。絆の安心感が薄くなると、社会から笑顔が消えます。そして、不可解な犯罪がより一層不安をかき立てるのです。
ドキュメンタリーの中でシスターが言いました。

Unity, Equality, Harmony.
"We all come out of the oneness."
"There should be no divisions, hi caste, low caste, rich, or poor, No. We are one."
-- Sister Chandra
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 毎年会いに行こうと思いながら、今年はまだ行けていません。
 でも、あっちとこっちで、二人で頑張っている感じはしています。今年は二人で還暦になりました。
Dear Loving Kasuzan,
How is yoko san and Ryo san
How is your health. Are you ok kasuzan.
Sorry we could not mail to you for long time.
But we very often talk about you and our friends.
are you very busy
Can you not make a trip to visit us
We are eagerly waiting to see you
Now we have created a new website.www.sakthifolk.org 
The previous one we could not update.so it will not open.
waiting to hear from you.
Love to yoko ,Ryo and all our friends.
Love from all our sakthi dancers.
With much love,
Sr.Chandraand felci


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三歳児神話について。/NHKニュースから・報道の仕方について

 三つ子の魂百まで、ということわざがあります。キリスト教の聖母子像もその一つの象徴ですが、ネイティブアメリカンの民話、インドのラーマヤーナなど、様々な文化や宗教の中で三歳までの親子の関係に人間は特別な価値や意味を見いだしてきた。そして、生きる術として次世代に伝承してきた。その時期の親子の「双方向に向き合い、育て、育てられる関係」は人間性の基盤を育て、その場で育まれる「情」は人間社会のセイフティーネットだったと思う。

 大自然の法則とも言うべき選択肢のない関係と制約が気に入らないのか、「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいました。だから保育園でもっと預かっていい、大丈夫、という論旨で使われたのですが、最近、「三歳児神話は正しいと言う論説はあるのですか?否定的な論説はたくさんあるのですが」とある町の保育行政の方から質問を受けたのです。

 一応、学者のフロイト、分析医のエリクソンとかユネスコの子ども白書、国連と結んだこどもの権利条約、脳科学者の発言などをいくつか例として挙げてはみましたが、この問題は論争自体がおかしいのです。

 神社に向かって「この神社は、神社に過ぎない」と言っているようなもの。それは、そこにあるもので、こういう物が人間の(実存はしない)過去と未来をつないでいるのです。その存在理由を学問が問うなら、なぜほとんどすべての家に人形たちが居て、人間と一緒に住んで居るのか、そこで人形たちは何をしているのか、太古の昔まで振り返って考えてみるといいのです。いまさら「人形は、人形に過ぎない」と言う人はいないのです。世界中にこれだけたくさんの人形たちが、それぞれ長い歴史を持ち、様々な文化の中でほとんどの家に住んでいるということは、過去と意識を共有する道具として、自らの意識を重ね未来に伝える伝達手段として、やはり人間には必要な者たちなのです。人形も0才児も人間が自らいい人間になろうとして作り,生み出してきたもの。俯瞰的に見ればそれ自体が生命体と呼んでいい存在となりうる……。

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 雛祭りは雛祭り、土俵入りは土俵入り、トーテムはトーテム、音楽は音楽にすぎない。しかし、学問が神話と対峙する時、神話とか神社の正しさより、その存在理由を文化人類学的に振り返り、現代社会における役割りのさらなる正当性を調和という次元で問うべきだと思う。

 聖書のノアの箱船の話を嘘だと言っても、ほとんど論争にはならない。(戦争にはなるかもしれない。)

 法華経の序章を、あり得ないこととその真偽を追求する人も居ないでしょう。聖書も法華経も人類の歴史や進化の一部としていまだに未来のために存在する。歴然と存在する。

 最近困るのは、神話は神話に過ぎないと馬鹿なことを言う連中の発言を真に受け、政治家が国の成り立ちであるはずの「子育て」の本質を経済優先で変質させようとしていること。利用しようとしていること。なぜ、そう言う人たちが出たか、その流れと意図を把握した方がいい。これは日本という一つの文明の終わりの始まりなのかも知れないのです。

 神話は本来政治に利用されるべきものではない。それが、三歳児神話においては、否定することで政治的に利用されている。

 神話はいつでも生活の中に生きている。

 音楽におけるメロディーや、砂場で遊ぶ幼児たちの想像力は神話と同次元で、(実存しない)過去と未来を存在させ、それを楽しむ。人間は実存しないそれらのものを共有し体験していればいい。子育ては親が自分の人間性(遺伝子)に感動すること。そのためにも、過去と未来は常に意識されていたほうがいいのです。

 

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 保育園が四つしかない町で三歳児神話の正当性を私に尋ねた保育課の人は、一日保育士体験を始めようとする感性を持った人だった。政府の保育施策を進めながら、何かおかしいと感じるから自分のやっていることに正当性を見出したかったのだと思います。私も、三歳までの親子関係の大切さは言いますが、三歳未満児保育をなくせとは主張していない。保育という制度が、どういう「心持ち」と共になら生き残れるのか、荒れてゆく社会にどう対応出来るか、という話をその町の保育士たちにしたのでした。

 神話とともに生きるのか…?

 別の言い方をすれば、三歳未満児を平均十時間、年に260日、後ろめたさを感じながら預けるのか、そうでないのか。それがいま過去の人間たちの体験が育んだ神話(意識)によって問われているのだと思います。断言できるのは、三歳児神話を多くの親たちが身近に感じていないと、いい保育士がいなくなるということ。そして、本当に預けなければならない人、辛そうに預ける親の子どもたちの保育環境がどんどん悪くなっていくこと。その流れはすぐに学校教育に影響し、すべての子どもたちの環境になってゆくということ。

 こうした一連の流れや連鎖は、いままでは神話の領域で語られ、戒められてきたことですが、自然科学の分野で証明され始める一つの法則/原則でもある。だから、今の時代が大事なのだと思う。日本という、先進国でありながら欧米の文化とは一線を画す不思議な国が役に立つ時だと思う。

 

 ことわざや言い伝え、一般常識も含め、数々の神話的なものを軽んじるようになると、待機児童が2万1千人しかいないのに、一国の首相が経済対策で乳児を保育事業でもう40万人預かれと言い始めるのです。そして、マスコミがそれをほとんど疑問を抱かずに報道する。主張出来ない子どもたちの願いがいつからか聴こえていない。刹那的な競争社会に翻弄され、喋らない乳児の存在理由が見えなくなっている。

 歴史の浅い「学問」や「経済的成功者」の意見に頼り過ぎているからそうなるのだと思います。4才児、という一番幸せそうな人たちの生き方から社会の核になる「幸福論」を学ばなければいけない。その人たちを眺めることによって、人間の心はどう成長し一つになってきたのか、意識を司る思考回路のどの部分がどうセットされるのか。それは間もなく科学によって明らかにされるでしょう。

 学問や経済的成功者の歴史は浅いが、幼児の集団を眺める歴史は古い。

 学問は、しばしば神話を否定することによって成長して来ました。しかし、それではうまくいかなくなってきた。

 何千年にも渡って、母親が知らない人に乳児を手渡すことはなかった。それが保育施策における発想の原点にあってほしい。

 以前、ある経済学者が「0才児は寝たきりなんだから」と私の目の前で言った。小泉政権の経済財政諮問会議の座長をやっていた有名な学者だった。その時、私の隣に座っていた共励保育園の長田先生が拳を握りしめ、もう片方に座っていたなでしこ保育園の門倉先生が肩を震わせた。園で、たくさんの幼児たち、太古からの伝令者たちと毎日過ごしている人たちが、「こんな連中がやっているんだ」と怒りに震えた。

 

 四月から始まる子ども・子育て支援新制度は、8時間保育を短時間11時間保育を標準時間と名付けました。11時間を長時間と名付けるなら、まだわかる。子どもにとって、親から11時間離れることは「標準」ではない。それが標準だったら人類は進化出来なかったはず。それを決めた政府の意向の根拠は心を忘れた保育施策、神話を忘れた経済論でしかない。伝達手段が発達した現代において言葉は注意して使わなければいけない。特に「政府」という、仕組み全体に影響力を持つ「力」が「標準」という言葉を使う時に、遺伝子とか歴史、文化や伝統に照らし合わせなければ、社会からモラルや秩序が消えてゆく。

 11時間が標準、これによって今まで、「子どもを迎えに来てから買い物に行きなさい」と親を叱っていた園長たちの立場が崩れてゆくのです。こうした年長者、園長たちの忠告や進言をパワハラとまで言う親が現れる。http://news.livedoor.com/article/detail/9242868/ 保育士たちの子どもを思う心が萎えてゆく。子どもの最善の利益を優先する、という保育所保育指針が空洞化してくる。

 子どもたちは神話なくしては生きられない。子どもたち自身が神話の源で、子育てから「祈り」が始まるのだから。

 最近「愛国心」という言葉が聴こえてくると思う。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる「調和」だったはず。国の概念が曖昧なまま、愛国心という言葉を愛する人たちが、言葉でまとまってもやがて限界が来る。心は、共通の体験を伴う調和だと、神話が言っている気がする。

 

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NHKニュースから)

 厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で2万1371人で、去年の同じ時期より1370人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、ことし中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。(以上)

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 「四年連続で減って来ている、現在2万1371人の待機児童を解消するために40万人の保育の受け皿を確保する」これはよく考えれば変なのです。それは政府の目論見であって、人々の願いではない。望んでいる社会の姿でもない。それをマスコミはきちんと指摘してほしい。こういう言葉や数字がテレビのニュースで流れてくるのを繰り返し聴いているうちに、「待機児童は解消しなければいけないもの。それはまだ40万人居る」という印象が人々の記憶に刷り込まれていくのです。こうした仕掛けのある刷り込みを誘導する「経済優先の支配者になろうとする想念」は確かに人間性の一部ではあるけれど、それは、常に「絶対的弱者を育てるという利他の土台」が対極にあって抑制されていた人間性なのです。子育ての社会化が進むとこの対極の抑制が効かなくなり、人々は一層競争に駆り立てられる。待機児童を解消することは実は三歳未満児を母親と引き離すことでもある、という記憶が薄れてゆく。

 「受け皿」という言葉も、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」と言わずに「子育ての受け皿」というべき。そう言えば、気づく人はいる。家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、と。

 保育の新制度、実は、待機児童解消が目的ではなく、子育ての本質を曖昧にすることによって女性の労働力を増やすのが目的です。だから保育園を増やしても待機児童は解消されない。40万人を目指しているのだから労働力と待機児童はまだまだ掘り起こされることになる。マスコミは数字を見て深刻な状態と言うのですが、本当に深刻なのは「子どもたちの過ごす時間の質」が下がっていること、「親の心が社会に育つことの大切さ」を政府が考えていないこと。そして、こうした報道の繰り返しで「子どもは仕組みが育ててくれるべきもの」という考え方が少しずつ日本人の心に刷り込まれてゆくこと。それが取り返しのつかない痛手となってこの国に残ってゆく。そういう思いを持った親たちがある一定の数を超えれば仕組み自体が成り立たなくなる。

 「計画通りに保育所の整備が進めば七万4000人の保育士が不足する見通し」。これは現在進行形のとんでもない状況なのです。政府はその意味がよくわかっていない。1万人不足であろうと、5000人不足であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。悪いことを子どもにする保育士を素早く解雇できなくなる。その状態こそが子どもにとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても「深刻」なのです。

 潜在保育士60万人と、これもまた単純に数値で言いますが、相当数が一度も保育を体験したことのない言ってみればペーパードライバーか、実は過去にふるいにかけられた保育士、自らこの仕事に向かないと気づいた保育士たち。このひとたちを掘り起こして採用すれば、園の空気が淀んで来る。保育は、ただ人数を揃えればいいという話ではない。仮に運よくいい保育士を掘り起こすことが出来ても、たぶん今の保育の状況を体験すれば,昔を知る保育士ほどあきれ顔で再び辞めてしまうでしょう。

 十年遅い話ですが待遇改善はもちろん必要です。でもよほど意識を変え、リニア新幹線をやめるとか防衛費を削るとかしないかぎり、現状で四千億円不足しているという試算があり、このままでは焼け石に水です。すでに派遣保育の時給が去年の倍以上に高騰している状況で根本的な改善が出来るのか。どう考えても無理な施策です。

 養成校に来る学生の質、国家資格取得のあり方、小規模保育における規制緩和を加えて考えたら、ちょっとどうしていいかわからない。「一日保育士体験の薦め」でこつこつと、やっていくしかありません。頑張りますけれど。

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 人生は自分を体験すること、しかも、たった一度だけ。それなら、過去の人間たちの意識を重ね合わせることによって、より深く体験できる。

 多くの人間が選択肢無しに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり付き合うこと。それを楽しむこと。それは、人類にとって重要なことだと思う。

 

 

 


 

 

 

 
 

園長からの手紙:厚労省と政治家は心の耳を傾けてほしい。

松居和様

 横浜市にある小学校にて先生の講演を聞かせていただきました。たぶん年寄りは2名しかいませんでしたね。その一人です。

 お久しぶりです・・と言っても先生の記憶にはないものと思いますが、4年前に先生に講演を申し込んだ保育園の園長をしているものです。

 私の保育園は横浜保育室です。園庭もなく、ビルの一階にある保育園ですので、松居先生や長田先生に言わせると、なんていうところだと思われるかもしれません。私はK市で32年間保育士をしていました。30年の流れの中で、子どもが変わった、親が変わった、社会も変わった、休みでも簡単に預けてしまう、自分の生活には立ち入らないでほしいと、都合の悪いことはすぐに市長への手紙が行く時代。

 ゆったりと子育てを楽しむ気持ちが薄らいでいるこの時代、母子関係の希薄さに危機感を覚えました。

 自分の子育てをしながらいろいろな子ども達を見てきました。いじめ、不登校、リストカット、小中学生のいろんな問題を見ればなぜ子ども達が気持ちよく育たないのだろうと、疑問を持つ日々。先生は公立園の園長をよく御存じですが、私のいた市では、園長会で園長たちが滾々と教え込まれてきたマニュアルを、子どもにとってどうかと考える前に保育士にただ受け入れろ、余計なことは言うなという体制をとる方が多かったと思います。

 子育ての大事なことを伝えられなくなっていることに、これではだめだ、もっと親のそばに立ち、一緒に子育てをしながら子どもの声を代弁していかなくては、母子関係が成り立たない、そう思い本当の子育て支援をしたく早期退職し、自分で保育園を作ったのです。私にはこれが精いっぱいの保育園でした。

 見学に来る保護者の方には、この保育園は、いいのいいのと何でもやってあげる保育園ではなく、本当に大事なことを伝えます。時には大変だと思うこともあるかもしれないけれど、この乳児期が一番大切なのだと、丁寧にお話をしています。ここがいいと言って多々ある保育園の中から選んでくださる方も多いです。その中のおひとりが今回の小学校での講演会を企画した一人です。

 この地域には3つの小学校があります。現状として学級崩壊状態のところもあったり、いじめが子供だけでなく保護者同士であったり、その親の偏見が子供のいじめを助長させているところもあるようです。具体的には保育園出身か幼稚園出身かで差別が生まれたり、親の最終学歴を聞いてくる方もいて、それでグループができるなど。これが子供に影響しないわけがありません。

 その状態に心を傷めていた方が先生の講演を聞き、ぜひとも自分の小学校へ呼んで先生のお話を聞かせたいと、発案されたのです。学校始まって以来の保護者会主催の講演会、これを実現させるまでにかなり頑張っていました。私も実現できたことを本当に嬉しく思っています。

 なぜこんな手紙を書いているかと言うと、今の保育情勢に大変危機感を覚え、それを誰にも言えない苦しさから、ぜひ先生に聞いてもらいたいと思ったからです。

 認可保育園もたくさんできました。

 方針は確かに立派なことが書いてあり、素敵ですが、それぞれの企業で、いろいろな教育をうたっております。その教育が問題なのです。

 先日当園で昨年の卒園児と在園児の交流会があり、認可保育園や幼稚園の情報などを教えてもらいました。その中の一人の話を聞いて、私は怒りがこみ上げてきました。

 その保育園ではなんとかと言う横文字の教育、お勉強をさせているということです。3歳児の子どもにプリントをさせる。4月2日生まれのその子は、クラスでも一番小さいでしょう。

 うちの子は何だかついていけてないみたいで、プリントをこんなにいっぱい持って帰ってくるんですと。家でやりなさいと宿題です。でも、なかなかゆっくりも見てやれないし・・と。

 3歳児で「できない」「やらない」「できなくてもいいや」と挫折感を味あわせるのか、無気力、無関心を育てているのか。3歳でそんなことを味あわせてほしくない。やらせるのであれば、分からない子をすくい上げてほしい。小さな子に教育を行うのであれば、その責任は大きい。お勉強の前にもっともっとたくさん満足感、達成感を味あわせてほしいのに。

 認可は役所で申込み、保護者は選べないのです。どんなことをしていても、子どもはいっぱいに埋まる。保育の質も反省も何も関係なく。このような子ども達がどんどん作られているとしたら、今後この国はどうなるのだろうか。乳幼児のうちから挫折感を味わい無気力、無感心な子ども達が小学校へ送られる。上手く育つはずはありません。

 保育園を開園してから5年目を迎えた私。

 地域を作ることから始めなくてはと思いながらどこから始めようか、誰に声をかけたらいいか様子見の2年間。いろいろな場で私の意見を言っているうちに地域プラザの方が、私に声をかけてくださり、地区の子育てを考える会に呼んでくれました。これまで老人に対しての対策に取り組んでいたケアプラザでしたが一段落したのでこれから子育てに力を入れていきたいと、私と、保護司の方と話し合いを持ち、この地で何ができるのか草案を作りました。

 まず、小学生の登校下校時間帯に年寄りたちに町に出てもらおう。最初から難しいことを始めるのではなく、声掛けからと。常に大人の目があることを子供たちに知らせたい。井戸端会議があちこちであるようなところがいいよねと。少しずつですが何かが動き始めたようで、本当に嬉しいです。

 そんな活動をしながらも、子育て新システムとやらが本当に親子にとって良い物なのか。小さいうちは自分で見たいとか、短時間の仕事でいいから少しでも子どもといたいという親心が潰されてしまうのではないか。保育園に入るために育休も取らない、削って0才児から入れてしまう。今まさにそれが始まっています。配偶者控除も取り上げられ、ますます拍車がかかるのではないか。不安、焦り、怒りさえ感じます。でも、これだけのことを話しあえる園長はなかなかいません。

 他園のことをなんだかんだ言うことはできません。

 誰にも言えないけれど、子どもの育ちを考えると、辛くなります。

 横浜保育室、29年には認可にならなくてはなりませんが、空いている土地がなければどうにもなりません。やらなければならないことがいっぱいあるはずなのにこのまま潰されていくかもと言う情けなさと、あまりにひどい現状からもういいか・・と投げ出したくなる気持ちと。

 お金があれば4月に一度に5個も10個も認可を作り上げていく大企業。中身が伴えばいけれど・・。

 自分はやるぞ、と思って立ち上げた保育園ですが、本当にやりたくても小さなところにはその余裕がない。情けないです。

 保護者が、先生、私たちが署名をすれば役所は認可を認めてくれますか?と言いました。

うちの園は今のところでも障害者トイレを作れば認可にはできます。でも園庭がありません。別の場所で作ろうにも土地がありません。広い敷地の園で育つ子は幸せ、でも都会の真ん中で生きていかなければならない子供もいる。その子どもにどれだけのことがしてやれるのか、それも大きな課題なのです。

 なるようにしかならないけれど、最後まで頑張るつもりです。

 先生、お話させていただきちょっとすっきりしました。

 長田先生の本は保護者用貸出しの本の中にしっかりと入れてあります。

 これからも先生のご活躍を遠くから応援しております。長々連ねてしまいましたが読んでいただいてありがとうございました。

 無認可の枠組みに入れられてしまっている横浜保育室ですがこんなところもあるんです。

 保育園ものぞいてみてください。

http://www.yakou-tsubomi-hoikuen.com/

 園長ブログでは子育てについてもいろいろ発信しております。

 大事な子ども、しっかりと育ってほしいと願うばかりです。

私の返信:

ありがとうございます。
とても、よくわかります。
本当に、多面的な問題が一気に出て来ました。その多くが、以前から保育界に内在していた問題には違いないのですが、いくつかの常識や習慣と子どもたちの笑顔の中で、長い間何とか治まっていたのです。それが、いま収拾がつかない形で噴出して来た感じです。
内閣が、根本的なところで視点を修正してくれないと本当に恐いですね。

松居

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 私の師匠たちの中に何人か、既存の保育のやり方に疑問を持ち、認可外から自分で保育所を立ち上げた方がいる。始まりが30年前だと良い流れにのって、いまでは三つの認可保育園を運営し、地域で「鬼と呼ばれている」名物園長もいる。1人の保育士が、これではいけない、と子どもたちのために立ち上がることに変わりはないのだが、いまの時代、子どもを優先に考える園長・設置者は、保育を成長産業、雇用労働施策の一部と考える政府や行政の方針に逆行している無力感、虚しさを感じることになる。もう一度、こういう保育者の心の叫びに政府は耳を傾けて欲しい。

 園長が指摘する保育の中に教育を取り込むことの難しさ。子どもたち、親たちをしっかり見極める力が保育士にないと、その子に合わない無理な「教育」が、大切にしなければいけない芽をあまりにも早い時期に摘み取ることになりかねない。そんな気持ちでひとり1人の子どもを見つめる保育士たちの視線が、目的だけの保育で曇り始めている時に、「保育と教育の両面を併せ持ち」などと暢気な机上の論理を冒頭に書く「子ども・子育て支援新制度」。政府も学者も何もわかってはいない。

「閣議決定」と公正取引委員会の介入/広い園庭(園長は考える)/K市保育連盟からの手紙/

「閣議決定」と公正取引委員会の介入


 最近の政府の動きがわからない。いよいよこの国を根幹から壊すようなことをする。以下、市場原理で保育を考える公正取引委員会の調査報告の冒頭部分ですが、十年前、経済財政諮問会議が「保育園で子どもを預かり女性が働けば、それで得られる税収の方が保育にかかる費用より大きい、お得」とした発想がいまだ続いている。潜在的欧米コンプレックスなのか、欧米並みに女性が働くこと/子育ての社会化が先進国の道と決めた経済学者が政治家に薦めた過去十五年間の保育施策は、実際、少子化対策にも、増税対策にもならなかった。子どもも増えないし、家庭崩壊に起因して福祉全体の予算が増すだけで、増税対策にもならなかった。それを認めず、子ども・子育て支援新制度で、政府はいまだにそれを実現させようとする。今回の公正取引委員会を使うやり方は、いよいよ力ずくのようで恐ろしい。

 保育士不足と資格を取る学生と園長設置者の質の低下で、すでに保育界がこれほど追い込まれ、子どもに寄り添う保育士たちが次々と去り、現場における保育の定義さえ揺らいでいるのに、意地なのか面子なのか、政治家は経済優先で一度決めた道をあきらめようとしない。この調査報告書を読むと、公正取引委員会を使って、保育園が託児所化されてゆく過程がよくわかります。こども園化によって、幼稚園も引き込まれるかもしれない。斜体が報告書からの引用、括弧内は私のコメントです。

 

(平成26625日)保育分野に関する調査報告書について(概要)http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h26/jun/140625.html

平成26625日 公正取引委員会

1 経緯(報告書第11

 我が国の少子化の要因の一つとして,仕事と子育ての両立の難しさが挙げられている。特に都市部では,保育の需要に対して子供を預かる保育施設が不足しており,待機児童の発生が大きな問題となっている。


(仕事と子育ての両立は出来ない。どちらかが犠牲になる。その現実から目を逸らし「両立」を目指しても、社会のあちこちに歪みが生れ、いつかそれが全体の負の遺産として返ってくる。幼児の要求に感謝し、応えることで人間社会は心を一つにしてきた。子育ては目的ではなく、親子がたがいの人間性を体験する「喜び」がその中心だったことを忘れてはいけない。そこに選択肢がないからこそ覚悟が問われる通過儀礼のような人生体験。ほとんどの人間がその道を通ってきた。この常識的な覚悟の所在を曖昧にすることで、秩序を保つために不可欠な連帯感と自制心が先進国社会から消えてゆく。

 「待機児童の発生」という言葉に違和感がある。待機児童は発生するものではない。児童の意志と無関係なところで人為的に作られた名前にすぎない。主張出来ない、でも実は親と一緒にいたい子どもの気持ちを常態的に政府が無視していると、こういう感性に欠ける言い方をする役人が現れる。悪意はないのだろうが、子どもの気持ちという大切な視点が欠落している。)


 保育分野については,平成248月に子ども・子育て関連三法が成立し,平成274月に予定されている同法に基づく子ども・子育て支援新制度(以下「新制度」という。)の施行に向けた準備が国・自治体双方で行われているほか,「待機児童解消加速化プラン」(平成25419日内閣総理大臣公表)に基づき,平成29年度末までに待機児童を解消することを目指して種々の取組が強化されてきている。 また,「日本再興戦略」(平成25614日閣議決定)では,保育分野は,「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」,「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」とされている。さらに,国の成長・発展等への貢献を目的に,「規制改革実施計画」(平成25614日閣議決定)においては,保育の質を確保しつつ,待機児童の解消を目指し,改革に取り組むこととされている。


「日本再興戦略」の「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」,「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」という文言に問題がある。保育の質は、保育士の心。それがわかっていない。質を問うのは子どもたちであって、親たちの利便性が基準ではない。「日本再興戦略」で保育がただの仕事・労働と位置づけされている。これは日本を欧米化させていることであって「再興」させているのではない。いまこの国がその存在意義を守るために一番大切な、保育士や子どもの気持ちを政府が考えない。だからそれに反発するように危機的な保育士不足が起っている。それが、いつまでたっても理解されない。

 新制度が巻き起こしている今の保育界の混乱と疑心暗鬼、そして養成校の学生と授業の質にまで影響を及ぼしている保育士不足、それらが重なりあって進んでいる園長設置者の心の質の低下は、小規模保育の現状を見ればわかるはず。「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」と国のあり方を主導すべき政府が言うことは、あまりにも短絡的で、今までの保育界が担って来た「子育て」という功績に対する暴言と言ってもよい。これが本当に閣議決定されたのなら、内閣は、この国の将来の展望を考えていない。子どもの幸せより現在の市場を優先に施策を考えていることになる。

 保育は日々の「子育て」なのだ。保育施策が、国の将来を決定づける魂のインフラ政策なのだという自覚に、政治家は欠けるような気がする。

 20年間繰り返し伝えているのですが、保育士が「良心」を持っているかぎり、「保育の質を確保しつつ,待機児童の解消を目指すこと」は不可能です。


 保育士の資質は子どもたちの幸せを願うこと。「待機児童の解消」は親子を引き離すという現実を抱えているので、保育士の良心と基本的に相容れないのだ。認可外では半数が資格を持っていればいい、保育士不足から、明らかに現場に居てはいけない保育士を解雇出来ない、という状況が広まり、現場の保育士の質が急激に落ちているいま、良心捨てるか、保育士辞めるか、いい保育士ほど追い込まれている。横浜市でそのことはすでに証明されている。横浜市では、すでに派遣に頼らないと認可外保育が成り立たない。募集しても、園庭も無いような保育所では誰も応募して来ない。突然職員が辞め、派遣で良い保育士をすぐに獲得しようとすれば、たぶん時間2500円派遣会社に払わないと保育士を確保出来ない。市の補助では、運営は無理。国の方も、計算してみたら四千億円不足していた、と言っている。これが国の言う市場原理で、それを公正に、公正取引委員会が仕切るのだとしたら、もうどうしようもない。

 派遣頼りの、職員が毎年換わる職場で、子育てに必要な保育士たちの連帯感が消えてゆく。子どもを無視した市場原理が働くことによって心ある保育士が現在進行形で消えてゆく。)

 

 このように,保育分野は,需要の充足が求められているだけではなく,我が国の成長分野となることが期待されている分野である。 公正取引委員会では,事業者の公正かつ自由な競争を促進し,もって消費者の利益を確保することを目的とする競争政策の観点から,保育分野の現状について調査・検討を行い,競争政策上の考え方を整理することとした。競争政策は,事業者の新規参入や創意工夫の発揮のための環境を整備することにより,事業者間の競争を促進し,これによって,消費者に良質な商品・サービスが提供されることを確保するとともに,消費者がそれを比較・選択することを通して,事業者に商品・サービスの質の更なる改善を促すことを目指すものである。 このような競争政策の観点から保育分野について考え方を整理することは,保育サービスの供給量の増加や質の向上が図られることにつながるとともに,ひいては,同分野を我が国の成長分野とすることにも資すると考えられる。

 公正取引委員会としては,上記のような競争政策の観点から保育分野について検討を行うに当たっては,[1]多様な事業者の新規参入が可能となる環境,[2]事業者が公平な条件の下で競争できる環境,[3]利用者の選択が適切に行われ得る環境,[4]事業者の創意工夫が発揮され得る環境が整っているかといった点が重要であると考えられることから,主にこれらの点について検討を行った。

 

(「消費者に良質な商品・サービスが提供されることを確保するとともに,消費者がそれを比較・選択することを通して,事業者に商品・サービスの質の更なる改善を促すことを目指すものである。」ここまで書かれると、もはや子育てを国の根幹と考える側としては虚しい。市場原理における「公正さ」を基準に、公正取引委員会の指導で保育が商品・サービスと正式に見なされた時に、消費者は「親」であって、子どもたちではない。現在進行形の規制緩和を見る限り、公正取引委員会が管轄する「取り引きに」に、園庭の広さや園長の試行錯誤、保育士の笑顔が加味されていない。最近の親らしさの急激な変化の傾向を見れば、こうしたサービスという考え方が、子育て放棄や児童虐待の増加につながったり、子育てを分かち合わない男女間の信頼関係の欠如がDVや犯罪の増加に繋がっていることは、現場の保育士たちの声を聴けばわかるはず。子育ては誰かがやってくれるもの、という意識が子育てをイライラの原因にする。「子育てしやすい環境」を「保育園を増やすこと」と政府やマスコミがこれだけ言い続ければ、そういう認識が新しい世代に広がっても不思議ではない。その認識が保育を疲弊させる。事故が起っても不思議ではない。

 閣議決定をした内閣が何も知らずに学者や専門家、経済界の言いなりになっている人たちなら仕方ない。ですが、私もこういう主張を始めて25年。内閣の中に5人私が保育の大切さと現状について説明した人たちがいる。一人反対すれば閣議決定は出来ないという。ある大臣は以前「地震で乗っていた新幹線が一晩止まってしまった時、近くに幼児がいたんです。その子がいたおかげでみんなの心が一つになって、楽しかった。ああ、これが松居さんが言っていたことなんだな、と思いました」と言ってくれた人。

 政府という仕組みは一体どうなっているんだろう、と最近戸惑うことが増えました。誰が動かしているのか。立場を賭けて国を愛する人はいないのか。人間ではなく経済という仕組みが動かしているのだとしたら危険です。学問が動かしているのだとしたら、社会から人間性が消えてゆく気がします。)

(今まで社会福祉法人であることを利用して、良くないことをしていた人たちが保育界にもいて、それが市場原理の中で「公正に」競争しているひとたちから見れば「ずるい」と思われても仕方がない、それは事実です。だからこそ、公正取引委員会まで引っ張り出して、競争を公正にしようとしているのでしょう。でも、そういう悪いひとたちをどうにかしようということと、保育界を市場原理にさらすことでは次元が違う。いま保育界に安易に市場原理を持ち込むことは、この国の守るべき良心を市場原理にさらし、この国の「子育てと言ってもよい親身な保育」を失ってゆくことになる。

 公正取引委員会はその役割を果たしているだけで罪はないのだと思います。日本人のほとんどが知らないうちに「閣議決定」された方針に従って「公正」を目指す主旨で判断を下しただけでしょう。そして、この「判断」は「判断例」となって一人歩きを始める。幼児の意志とは無関係のところで。

 以前、民主党が、今回の新制度の元になった「子ども・子育て新システム」を施策とした時、その危うさを子どもの立場から理解する厚労省の役人が、「でも、閣議決定されたら仕方ないでしょう。内閣を選んだのは国民ですよ」と私に言ったのを思いだす。子どもを見つめる目が社会を構成する、という原点が狂い始めている。すると、すべてが狂い始める。

 欧米諸国で3割から6割に達している未婚の母から生まれる確率が、まだこの国は1%台。現状を見るかぎり、子育てを国の成り立ちと見て大事にするという点では、人類の進化に大きな役割りを果たすかも知れない希有の国だと思う。内閣はこの国の本質を競争原理などで変質させてはいけない。経済論で子育てを計るやり方は所詮無理なのだから、あきらめないと、本当に経済が立て直せなくなる。)

  

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広い園庭

 公正取引委員会には見えない次元の話を一つ書きます。いま、こういう人たちが保育の現場から減って行く。政府の施策、役場の指示に自らの感性を封印されて。

 講演に行った先の幼稚園の園長が言いました。

 「最近は、昔から居た少し変わった子、思うようにいかないとパニックを起こす子、自分の個性を押さえられない子に、『障害』の診断をし過ぎるように思います。障害が認定されると、障害児支援センターは指導の過程で、子どもがパニックを起こさないようにします。カードで指示を出したり、とても変なんです」。

 落ち着いた環境を作るのはいいけれど、将来1人で生きていけるわけはない。園でしっかりパニックを起こさせて、まわりがそれに反応し、学び、切り抜けてゆく力をみんなでつけていかなければ駄目だと園長は言うのです。

 障害児支援センターは、子どもの起こすパニックを「その子の問題」として対処しようとしている。しかし、園長先生は長年の経験から、「みんなの問題」として受け入れようとしているのです。大人が子育てを分かち合い、みんなでしっかり見守っていれば、その子がいることで他の子どもたちも社会の一員として育ってゆく、他の子たちがその子を受け入れる柔軟性を持つことが将来この国にとって大切、という視点があるのです。保育園に比べ、幼稚園の方ではまだ気持ちに余裕がある園が多い。その園長の園では、親たちが保育に参加すsる行事を積極的にやっている。親たちを園の重要な一員と考えているのです。

 毎日二時に親が迎えに来る、幼稚園という親子が過ごす時間が比較的確保されているかたちの中で、「家庭」という密な関係を土台に保育をしてきたからそういう考え方になるのでしょう。母子関係という継続的に向き合う基盤があれば社会は常に柔軟に変化成長し、その柔軟性の中で、時々パニックを起こしてしまうその子が本来の役割りを果たせる。言い換えば、みんなが継続的に向き合わなければ「問題」が輝かない、ということです。

 保育園で0才児から8時間以上も母親から切り離すことを政府が奨励する時代です。5歳までの幼児期に、幼稚園も含め、これほど親子が離れ離れになることはかつてなかった。乳幼児期に愛着関係の土台が出来難い、という人類の歴史始まって以来の突然の環境変化に、対応出来ない子どもが増えてきて当たり前なのです。障害児支援センターは、まず、一対一に近い時間を増やし、子どもを安心させることから入るしかありません。しかし、専門家がいくら頑張っても、それはその子の人生にとっては束の間のことでしかない。何年も続く一対一の関係ではない。親子や家族の関係に代わることは出来ません。忘れてはいけないのは、子育ては、学問の領域ではない、祈りの領域だということ。その自覚が社会に生まれるかどうか、が目的なのです。

 薬物で落ち着かせるか、絆で落ち着かせるか、全国で選択を迫られるケースが増えています。

 専門家か神社のお守りか。教育か祈りか。結果か体験か。そんな次元の選択肢があることを忘れないでほしいのです。乳幼児を見ていれば人間たちは次元の違う選択肢を憶い出す。特に0歳、1歳児との言葉を超えた会話が人間社会には必要なのだと思います。

 その子がいることに感謝する人と、感謝する時間を少しでも増やす。それが本来の姿です。

 園長の言葉を、その広い園庭が聴いている。そして、一緒に考えている。

 新しい園舎と広い園庭が出来たら、噛みつきがなくなった、という保育園のことを思い出しました。ゆとりのある景色に、保育士が落ち着き、無愛想だった親たちが毎朝自然に挨拶するようになる。風景が生み出す心のゆとりが、風景の一部なった集団としての人間を支える。言葉でも理屈でもない。まさに0才児の居る風景です。

 親子という選択肢のない関係を受け入れるゆとりが、夫婦や社会の自然な育ちあいを生む。寄り添うことを覚えた集団の行為が、連鎖して地球の向こう側の紛争をなくすのかもしれない。

 

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松居先生

 ご無沙汰をいたしております。お忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。

 その節は長時間にわたって、私どものわがままなお願いを快くお受け頂きまして本当に有難うございました。

 ようやく研修報告が出てまいりまして、事務局も驚くほどの一日保育士体験への期待が大きい感想が多く寄せられ、とてもうれしく思っています。事務局から、間もなく先生の許へもお送りすると思いますが、有難うございました。

 資料にあれだけ様々な地域の実践報告のアドレスが表示されているにも関わらず、会員が個々には動こうとしない様子がうかがえましたので、とりあえず、こどものとも社さんにお願いして、市内の連盟加盟園に私から大修館書店の「一日保育士体験のすすめ」をプレゼントすることにしました。

 保育課の方も、聴講者の反応に満足してくれてさっそく主任会で検討を始めてくれるようです。

 私の自園では毎年、この六月の一週間
保育参加の行事を行って、保護者が見たい活動に参加することをやってまいりましたが、先生の「ひとりずつ八時間乳幼児の中に親を漬け込む」発想には至っておりませんでしたので、保育参加のあと、今年度中をかけてすべての保護者に「一日保育士体験」へと発展させていこうと話し合っております。

 さらに市全体で先生のお話を聞いてもらえるように、市会議員、幼稚園連盟、家庭教育委員等々かかわりのある団体に是非先生をお招きしてくれるようことあるごとに依頼しています。

 ご報告が遅くなりましたが、とりあえずこんな状況でございます。とりあえず、講演会後の経過をご報告させていただきました。私どもの会の折にも感じたのですが、余りにもハードなスケジュールに先生のお体がとても心配です。

次世代を担う子供たちの安心のためにくれぐれも御身お大切になさってくださいませ。

                                    k市保育連盟


 同志からの、元気が出る手紙。一日保育士体験は保育士たちにも面倒くさいことかもしれない。それをして補助が増えるわけでも待遇が良くなるわけでもない。それでも、駆け引きや利益に関係なく、子どもたちの幸せを願って、親たちの幸せを願って、こうして現場で動いてくれるひとたちがいる。こういう方たちが、本当の意味でこの国を守っているのだと思います。

 

松居和、講演依頼、メール

最近chokoko@aol.comのアドレスに送信していただいたたときに稀にですが送信出来ずエラーになることがあります。役場や保育園からの講演依頼のメールに、何件かありました。ご迷惑をおかけしました。こちらからの返信が行かないこともありました。フィルターとかサーバーの相性の関係かもしれません。もし2、3日中に私からの返信がない場合は、こちらのアドレスをお使い下さい。matsuikazu6@gmail.com 

ファックスの場合は03−3331−7782にお願いします。


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「シスター・チャンドラとシャクティーの踊り手たち」上映会の御知らせ

 5月25日(日)四時から、私の制作したドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティーの踊り手たち」の上映会があります。

 「ガンジスの水・アートミーティング」という展覧会で、会場はアート・プラットフォーム:東京都杉並区天沼3−10−4セーヌハイツ102です。無料です。
 上映会のあと松居監督を交えて軽食、飲みもの付きがあって、こちらは会費500円だそうです。インドのこと、シャクティのこと、「集まること」「わかちあうこと」などについて話し合います。小さな会場ですが、ぜひおいで下さい。
 主催は,女性アート作家グループのやまんばプラニングチームです。
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保育士を目指す学生たちに/園長先生からの手紙

 育休を終えて職場復帰する教え子が一人、助言を求めてきました。


 「保育相談支援/保育者がどう親を支援するか」という授業を大学で受け持つことになり何かアドバイスがありますか、と言うのです。

 子ども・子育て新システム、新制度、現在進行形で激変する保育界。自分なら、いま学生に何を一番伝えたいか、改めて考えてみました。私が好きな保育指針の第六章がこの授業のテーマです。そこに書いてある「子どもの最善の利益」とは一体何なのか。

 

 学生の質は大学によってずいぶん違います。その現実がイメージとして最初に浮かびました。しかし、次に見えるのは、子育てという人類にとって大きな一律の伝承の流れです。その流れは「親の質」を問うていない。そうだとすれば、何が伝承されてきたのか。大学や養成校という仕組みの中で,何が伝えられるのか。伝えるべき中心は何なのか。


 二十年以上前、初めて保育科の教壇に立った時のことを憶い出します。何を基準に成績をつければいいのか、成績が何を意味するのか、1人で立ち止まっていたのです。いずれ受け持つ子どもたちのために、人柄で順番をつけたいと思いました

 生来の保育士は、学生であっても、すでに私が教えることのはるか向こう側にいて、乳幼児たちと一緒に生きている。その不思議さを、私は数人の園長たちからその時すでに教わっていました。保育の仕組みと、心の仕組みの間でずいぶん考えました。


 いま、学生たちが働く場所は、それが社会福祉法人なのか認可外かで環境はずいぶん違います。政府が導入している株式会社とか派遣会社は、そもそも仕組みの動機やサービス対象が以前とは違います。公立保育所でも、正規(地方公務員)か非正規かで微妙に立場が違いますし、その市に幼稚園があるかないか、公立と私立の割り合いなど、地域の過去の歴史によって保育に向ける行政や住民の意識が違います。

 養成校を出た有資格者を求めるひとたちの質や意図が、千差万別なのが今の保育界なのですここ数年、雇用労働施策が前面に出て、受け入れ先の目的や仕組みがこれほど変化していったら、授業内容は、毎年教授を入れ替えて対応しなければならないのではないかとさえ思います。


 電話では応えきれず、教え子には、このブログを読んで下さい、と言いました。


 国家試験を受験者を除けば、資格を養成校が認定している現在、福祉を教える大学や専門学校で、学生に、福祉の危険性についてはあまり教えていないことが一番気になります。保育は直接的に親子の人生に関わってきます。ただ、学校の言うことを信じてやっていればいいことではありません。以前は、それを現場の先輩保育士や園長主任が教えてくれました。

 家庭崩壊を招いた、北欧における福祉の失敗は繰り返し翻訳され、出版報告されているのに、授業ではあまり伝えられず、福祉の有効性のみを教えようとする人が多い。有効性と危険性のバランスを考えさせなければ学生に現実を教えたことにはなりません。福祉が人間関係を断ち切ってゆく現象が先進国社会特有の様々な問題の背景にあり、そのことが早く現場の人に理解されないと、日本でも福祉そのものが立ち行かなくなります。


 支援しないことの大切さ。

 支援が必要な人を見分ける能力。

 誰が本当のSOSを発しているのか。

 誰が応えるべきものなのか。誰が応えるのか。


 サイン(兆候)を子どもから、親から、祖父母から、日々感じ取り、仲間と考え、話し合うことが保育の第一歩でしょう。対応すべき原因の多くが家族関係にあって、子育ての周りに親身な相談相手がいるかどうかが社会全体として問われているのです。

 相談相手からいい答えが返ってくるかではない。親身な相談相手がいるかいないか。いれば結果としてそんなに深刻な問題は起ってこない子育ては人間が安心するためにある。それを理解することが保育士としての出発点であってほしい。


 子育てに関する相談相手は、一生関係が続く人がいい。

 基本は夫婦ですが、祖父母、そして部族的な繋がりのある人がいい。子育ての悩みは、絆を深め体験と知恵を伝承するために人類に与えられていて、その役割を保育者がどこまで果たすべきなのか。長い目で見ると、親たちが、自分で相談相手を作れる状況を保育者がつくることの方が大切かも知れない。

 そして、究極の相談相手は、実は幼児であること。特に乳幼児との会話は宇宙との会話、自分との会話、幼児としっかり会話をしていれば、山や川や海、盆栽や人形さえ相談相手になってくれる。その辺りをどう伝えるのか、もう一度考えてみました。


 子育てである保育が学問に取り込まれてゆくと、支援することが、そもそもいいことなのだと学者たちは教えがちです。私も短期大学の保育科で8年間教えたことがあって、そこがとても気になりました。「サービス」という言葉が定義にすでに含まれる今の子育て支援が、長い目で見て親子関係にどう影響を及ぼすのか。初心者でもある親の意識や視点を、これからどの方向に導くのか。経済競争優先のいまの変化に、福祉は人的にも財政的にも対応しきれるのか。伝えたいことはたくさんあるのに、それが核心ではないのです。


 保育者がよりいっそう感性を求められる時代になっています。

 学問が役に立つことが必ずしもいいことではないということを繰り返し学生に教えないと現場が苦労するような気がしてなりません。


 保育に限らず、学問は最近、祈りの世界を離れ、正解のないことにまで正解があるようなことを言い、それを権威で押し切ろうとします。だから権威を身につけようとする。その積み重ねが、子育てを体験としてではなく、方法として捉える空気をつくっている。すると政治家たちは、子どもを、人生や国の未来ではなく、数で考え始める。これ以上専門家を作らないためにも、子育てや保育の専門家がいなかった時代の方が、悩みの数ははるかに少なかったことを、学生にしっかり伝えなければなりません。

 そして、40万人預かりますと首相が言う時、慣らし保育の幼児たちの悲鳴は聴こえていない、ということも。


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 テレビのクイズ番組で、母親が子育てしやすい国ナンバー1がスウェーデンで日本は30位?だという。スウェーデンでは6割の子どもが未婚の母から生まれ、日本は2%。離婚率も考えれば、子どもを実の両親が自ら育てることが少数派の国で、子育てを代わりにしてくれる仕組みがあるからと言って、それがいい国だとは思えない。学者のトリックはたちが悪い。

 (スウェーデンで、女性がレイプされる確率は日本の50倍、強盗が25倍。そういう数字を同時に放送し、子育てしやすい国の順位が何を元に決められているかを検証するといいのだが、クイズ番組ではそうもいかないのだろう。しかし、こんな番組を見て、親たちの不満がたまり、それが保育士に向くことだってあるのだから、元々の順位つけをした学者たちの罪は重い)

 子どもが十歳になった時に実の父親が家庭に居る確率を比較し、犯罪被害者になる確率や若者の麻薬の汚染率を比べてから国の善し悪しを判断してほしい。「母親が子育てしやすい国」と「母親が一人で子育てしやすい国」では明らかに意味が違う。国際比較のアンケートをとっても「父親が」と「実の父親が」ではその意味が違う。





園長先生からの手紙


松居 和様

 

 昨晩は、熱いお話の席にご一緒させて頂き、ありがとうございました。

 帰宅してから、頂いた本を一気に読み進む中、あれ!『げんき』の連載だ!と気付きました。

 私は、2004年、松居先生の『子育てのゆくえ』のご講演をステージの袖で一生懸命聞いていた保育士の一人です。今、親から引き継いだ保育園の園長になって1年、園の舵取りの責任の重さ、園長の心意気次第で、どのようにもなってしまう恐ろしさを、ひしひし感じています。

 世の中がどのような方向に流れて行こうとも、制度がどのように改革されようと、目の前にいる「こども」の肌のぬくもりを感じると、やるしかない!と損得抜きに思います。

 今朝も、第2子を産んだ母親が、子育てピンチに陥り、ヘルプの子育て相談を申し込んできました。1時間じっくりと母親の気持ちを聴き込み、「あなたの苦しみは、こういうことなんですね。お気持ち察します」と、お困りごとのからくりを図式化して解説してみました。

 すると「このゴールデンウィーク中に家庭を、立て直します。子どもが問題ではなく、私のこころ次第ですね」と明るくなって帰って行きました。

 そんな面談が出来たのも昨夜、松居先生の「親心を育てる以外に救いはない!」とパワーを頂いたからです。

 子どもと保護者と毎日向き合う保育士の意識を高め、仕事に誇りややりがいを感じてほしい。

 講演をお願いを致します。


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 園長先生や保育士さんが元気になって欲しいと願い、講演を続けている身には励みになります。

 「熱いお話の席」には、理事長、園長先生たちだけでなく、学者さんや市と県の部長さんも居て、席を設けていただいた小児科のお医者さんと共に、長年にわたる政府の子どもの気持ちを重視しない子育て支援策、五歳までの子どもの発達の不思議さや大切さ、一日保育士体験の広まり、親心の社会における意味など、様々に話し合ったのでした。

 園の舵取りの責任の重さ、園長の心意気次第で、どのようにもなってしまう恐ろしさを、ひしひし感じています。世の中がどのような方向に流れて行こうとも、制度がどのように改革されようと、目の前にいる「こども」の肌のぬくもりを感じると、やるしかない!と損得抜きに思います」

 追い詰められた保育界にあって、振り絞るような決意の宣言です。

 「保育園でもう40万人預かります」と笑顔で言ってのける総理大臣、「三人目は無料にします」と自慢げに約束する市長、保育者養成校に青田買いに行き、「4年勤めたら園長になれます」と学生を誘う株式会社の人たちに聴かせたい。保育は覚悟と境地。だからこそやりがいがあるし、仕組みを安易に考えてもらっては困るのです。大きな曲がり角に立っているこの国を、実はこんな園長先生の日々が支えているのです

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幼児の成長に必要なはずの静寂/保育園の巡回視察。/そして電波組inc.

  家庭を離れ、親たちの目の届かない場所で集団で過ごす子どもたちの一日の質とは、「松居さんは何が一番大切だと思いますか?」と講演後の質疑応答で聴かれたことがあります。

 子どもが育つ状況や環境がますます多様化し、求める側の視点も様々ですが、私のイメージの中で、特に三歳未満児にとっての保育の質は、保育士の優しい目線に囲まれること。そして可愛がられること、だと思います。保育士の人間性が常に問われていなければ、保育ではありません。しかし、最近はもう、

 「無視されない。叩かれない、怒鳴られない、叱られない」

 それだけ一律一日中確保出来ればまあ良いかな、と思うことさえあるのです。

 確かに世界中で、子どもは厳しく辛い環境の中でも、けっこうしっかり生きてゆきます。小さな幸せを確実に見つけ出し、それを悲しいほど体一杯に感じながら。すごい人たちです。だからこそ、大人たちには責任がある。

 いま日本で、保育という特殊な環境の中で、同年齢の子どもを一緒に育てれば、まず事故は避けられません。しかし、信頼関係が希薄になってきたいま、保育士も保護者も疑心暗鬼になっています。噛み付き痕を消す方法が伝授されたり、活き活きしない,話しかけない保育が現れたり、事故から始まる大人たちの人間関係のトラブルを避けることが保育の最大関心事になってきました。

しかし、事故を避けて子どもたちに元気のない活力のない日々を強いるのはやはりおかしい。そこが保育という仕組みの難しいところです。大人たちの利便性のための保育なのか、子どもたちの日々の生活が保育なのか、国や社会が再度自覚しなければいけません。

 子どもたちの将来を国の将来と重ね合わせると、人材不足のうえ、園庭もない園で、元気のない日々を強いられている子どもたちが、将来どうなってゆくのか、とても心配です。現在の少子化の一番の原因でもある「結婚しない男たち」の増加などは、このあたりに根深い原因があるような気がしてなりません。

 

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 もう一つ、音楽もやっている私が、もし自分の子どもを毎日十時間どこかに預けざるを得ないとしたら、どうしても欲しいものが「静寂」です。子どもたちを、これほど頻繁に集団にすることは人類の歴史上かつて無かったこと。昔は、幼児期の子どもの成長を常に囲んでいた静寂が、いま仕組みの中で、忘れられている気がしてなりません。「静寂」を忘れることは,心を忘れること。背後に静寂がなければ、言葉さえも騒音になっていきます。

 静寂と、肌の温もりに抱かれて、熟成して行くのが「人間性」だと思うのです。二つを重ね合わせて毎日身近に感じること、それが昔ながらの子育てだったと思うのです。しかし、今、そこまで望むには仕組みが追いついていない。感性のいい、子どもを可愛がる保育士を揃えるのが、以前に比べとても難しくなっている。なぜそうなのか、を考えずにこれ以上進んではいけないのです。

 保育士の優しい目線を日々そろえるために大切な、親たちの子どもに向かう姿勢が整わなくなってきている。親の保育士を見る目に感謝の気持ちがなければ、子どもが安心して育つ環境は絶対に整いません。

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 最近の保育園での親の笑えない要求。担当保育士の笑顔が足りないから替えて欲しいと園長に言ったそうです。園長は、子どもにはいい保育士なんですと私に言います。その親は、いったい誰に対する笑顔を要求しているのでしょう。この疑問が保育士の顔を険しくし、精神を疲れさせるのです。

 厚労省の言う「福祉はサービス」のサービスという言葉が、こういう感謝しない親を創り出す。ある保育サービスの会社では、職員研修で保育士に「朝と夕方、五分でいいから親に笑顔を見せろ」と言うのだそうです。

 

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 「小規模保育事業への新規参入時業者に対し、各市町村において公立保育所のOB等を活用した巡回支援を行うための経費を助成する」という施策があります。小規模保育の質を保つために、巡回して見張る、というのですが、こういう巡回は今までも名前を変えて様々にありました。

 監査や査察が入った時だけちゃんとやっているように見せる園が現れます。しかも、既存の認可外保育施設の規則違反を見つけても、罰則もなく、役人がほどんど取り締まれないのです。「役人の見回りの度に靴箱のシールを剥がします、それでもいいですか?」と親に訊いて定員を超えて幼児を預かる園が昔からありました。

 認可外で、規則違反があっても、何度回っても是正しようとしない確信犯が増えてきました。待機児童ゼロが第一目標ですから、足元を見られているのです。役人が取り締まれない状況で、保育所OBの巡回支援で何ができると言うのでしょうか。保育施策における最近の政治家たちの対応は、後手後手どころが認識が二十年遅れています。「実現する政治、行動力、改革します」などと政治家のポスターに書いてあると、嫌な感じがします。

 

 巡回した元保育士が「ここには静寂が必要です」と言っても、たぶんそれはほどんど意味を持たないでしょう。そんな社会になってきたのです。

 

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 「管理者向けの人材マネジメントセミナーの開催で潜在保育士の再就職を支援」という施策がありました。保育士の子どもに対する気持ちという「質」を「管理者向けの人材マネジメントセミナー」でマネージまたは確保できると思っているのだとしたら、甘過ぎる。

 共励保育園の長田安司先生のツイートに:東京都の奥村朝子保育人材担当係長も「事業者が選ばれる時代。柔軟な働き方を用意するなど事業者の意識改革も重要」と言う。一日11時間の保育で8時間労働。パート保育士で埋めると、子供の生活と発達の連続性が損なわれる。コンビニのパートと同じ発想で保育士を確保しようというのか?:というのがありました。役人にも政治家にも、現場の空気や気の動き、心のやりとり、成長、というものがまるで理解されていない。視野にも入らない。こういうビジネスコンサルタントが言いそうな、聴こえの良い施策のほとんどが、行政の「やった振り」に過ぎない。事業者が誰に選ばれるのか。誰が当事者で誰が評価するのか。潜在保育士が、なぜ現場に出なかったかわかっていない。資格さえ持っていれば保育が出来ると思ったら大間違い。その認識こそが致命的なのです。

 

 

 派遣事業が、保育界にもうすでにかなり根深く入りこんでしまっている。多くの現場で、派遣会社がなければ、保育が成り立たない状況にまできています。

 保育士が1人欠けたら国基準を下回る可能性の中で運営されている保育園が多い。次の保育士を募集し、吟味し、選んでいる時間も余裕もありません。保育士不足のいま、営利を目的とした派遣会社の意図の不自然さが、保育界に良くない影響を及ぼしています。園の弱みにつけこみ、派遣保育士1人につき契約金五十万円を要求する会社があります。同時に、養成校へ行き、青田買いの対象の学生たちには、「毎年色々な園が体験出来ますよ。海外旅行もつけますよ」とまるで勘違いなことを言って勧誘する。一年ごとに勤め先を変える前提がすでにあるのです。

 その度に派遣料をつり上げ市場原理が動くのに合わせるのかもしれません。または、保育士としては良くないか、手伝いとして使い物にならなくて、園から一年で交代を求められる。それもまた現実なのですが、毎年色々な園が体験出来ることを売り文句にして学生を集めようとするような派遣会社は、一年ごとに先生が居なくなる園に通う子どもたちへの影響など、始めからまったく視野にない、考えていないのです。子どもの過ごす時間より、お金を儲けることに興味がある人たちが、保育界に入ってきている。それを政府が奨励している。

 

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 2、3年の間になんで親たちはこんなに変わったんでしょう」どこへ行っても園長が言う。保育は当然の権利、受けるべきサービスだという態度。たとえそうだとしても、保育士たちは日々「子育て」をしている。親の感謝がなかったらどうなるか。保育は子どもにとって一対一の人生体験。仕組みではない。

 

 ある県の保育施策に書いてあった言葉、「家庭のニーズに合った保育サービス」と「増大する保育ニーズ」この二点が問題です。

 いままで週に16時間働けば40時間子どもを預けることが出来る、というのが国の基準でしたが、それを今回政府は新制度で週12時間にします。県も予算獲得のために対応しようとする。これをニーズと言えるのか。幼稚園でも十分に対応出来るはず。しかも、12時間働いて40時間預ける親に全国で対応していたら、ただでさえ足りない保育士がもっと足りなくなる。それがわかっていて進めるのは、国が短期的な経済を優先性、保育の子どもたちに与える影響を理解していないということです。

 施策に「潜在保育士の再就職を支援する」というのがありました。これも厚労省が進めている施策ですが、現在時間1800円になろうとしている派遣保育士の相場に対応してゆけるのか。何人分対応するのか、将来の相場をいくらに設定しているのか、未定のまま、今あるお金、国が用意している、何年続くかわからない予算(安心子ども基金)を頼りに進めようとしているのです。

 施策には、「安心して、子育てを行う」と書いてあるのですが、「安心して、子育てを他人に任せる」が実態。それは、正直に書くべき。しかも、これだけ保育士がいない状況で、「安心して預けられるだけ保育士を確保出来ない」ことは明らかです。

 「誰もが子どもを生み育てることに喜びを感じられる社会づくり」とあるのです。保育所で平均十時間以上子どもを預かることで、喜びが感じられるようになるとしたら、それはどんな喜びなのか。そういうことが議会で議論されなくなって久しい。

 小規模保育、保育ママの資格基準はどうなるのか。子どもの安全に責任が持てる人材を揃えられると本気で思っているのか。行政がこれを進めようとしている限り、事故が起った場合、賠償責任はどうなるのか。日本も確実に訴訟社会になってゆくでしょう。保険会社でさえ、すでに逃げ腰です。

 「家チカ保育所」「認可保育所並みに質を確保した保育施設」とあるのですが、毎年3、4割の保育士が代わるような派遣保育士頼りの保育チェーン店に任せるような保育は認可保育所並みとは言えない。しかも、認可保育所並みのチェック機能はどう確保するのか、子どもを守る手立ては約束されていないのです。

 「児童虐待防止、児童養護施設の充実」。言葉では並びますが、すべて、後手後手の対策になっていて、子育ての社会化を進めたらどんなに予算をつぎ込んでも歯止めがかからないことは、ここ十年の経緯を見れば明らかなはず。子育てを一緒にすることが夫婦の絆を深め、信頼関係を築く、その信頼関係がモラル・秩序を生みだす、となぜ考えられないのか。0、1、2歳児を積極的に預かること自体に問題があるとなぜ考えられないのか。三歳未満児の保育にかかっている税金の1/3でも親に直接渡し、子育て支援センターを充実させ、父親の子育て体験を条例化することによって、児童虐待の増加や待機児童対策の流れを変えることは出来るはず。

 

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保育士たちの声

 

 保育士の勉強会、研修会で講演する事が多いのですが、研修依頼の文章の書き出しにこう書いてあります。

「保育現場も保護者のニーズが多様化する中、個別の援助が必要な子どもさんの支援、愛着関係が築けない親子の支援、精神的な病を抱える保護者の支援、まは保育士自身が人間関係を築くことが難しくなっている現状で、日々抱えるものは山積みです。保育会でも、健やかな子どもたちの成長を支援できるよう、また保護者の方々の子育てに少しでもお役に立てるよう、皆で職員研修を行っていこうと考えています」

 

 山間部の町でさえ、とても保育士たちの力だけでは対応しきれない状況になっているのです。待機児童などいない市でさえ、親たちのニーズに応えよ、という中央政府からの指示と市長の選挙公約で、実際に子育てをしなければならない保育士たちが追い詰められている。三才児、一対二十で全ての子どもを可愛がることなどできません。子どもたちも少しずつ精神的拠り所を失いはじめ、個別の援助が必要な子どもが増えている。子育ての主体が家庭を離れ社会化することによって愛着関係の築き方がわからない親が増えている。周りに相談相手がいない、夫婦の絆も希薄で、精神的な病を抱える保護者たちが増え始めている。それを一緒に子育てをする者として支えなければならない。そんな毎日の中で、保育士たち自身が精神的にも人間関係の限界を感じ始めているのです。それでも、まだ、「健やかな子どもたちの成長を支援できるよう、また保護者の方々の子育てに少しでもお役に立てるよう」と書いてきてくれる保育士たちに感謝です。元気になるように、と祈り、行って励ますしかありません。政府や行政、マスコミが早く視点を変えてくれたら、と願います。このままでは無理です。いずれ変えざるを得ないのなら、立ち直りが困難になる前に、早く、と思います。

 

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 パシィフィコ横浜で、「東アジア文化都市2014横浜」のオープニングイベントで一緒に演奏したメンバーたちです。私の頭のところでマーシャルのアンプががんがん鳴っていましたが、ストリングスも入り、ガッツのある不思議な音でした。一緒に出た電波組incも、なかなか不思議でした。さながら時空を越えた、踊り念仏のようでもありました。ステージから見た客席の男たちの踊りはちょっと不気味な感じもしましたが、その圧倒的なエネルギーに日本の伝統の深さを感じました。

 

「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」?/解放されるために踊り、歌う。/エプロンで変わる視点/「専業主婦からの自由」

2014年4月

 「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」

 政府の少子化対策会議で小泉改革の時から発言して来た女性の学者が、少子化の問題を扱ったテレビ番組で言っていた。「女性はみんな結婚しても働きたいし、子どもを産んでも働きたい、それなのに6割がやめざるを得ない。そこが問題なのです」と。 出演者や司会者が頷く。

 言っている意味はわかりますし、気持ちの出所も理解できる。でもこの発言に、発言者本人も気づいていないかもしれない危険なトリック、そして罠がある。この言い方はまずい。簡単に頷いてしまうのは、それが常識みたいに広がるとしたらもっと危うい。

 繰り返しこのブログでも書いてきましたが、この発言を支えることが出来る仕組み(保育)を整えることは、私が知る限りもう無理です。欧米の社会状況を見ていると、それがもっとはっきりします。(良い悪いではなく、福祉や教育が普及すると家庭が成立しなくなってくる。すると、福祉や教育が財政的にも人材的にも限界に達する。それでも、選挙を中心にして社会がまわり続ければ、仕組みが人間性(遺伝子?DNA?)と摩擦を起こし、人間性の内に仕組まれた破壊のメカニズムが動き出す。)

 子育ての問題が話し合われるとき、受け入れられ、使われている「専業主婦」という定義さえ最近作られたもの。人類が、不慣れな「豊かさ」の中で、経済競争を介し、新たに日常に広まった机上の「定義」だと思います。通常女性は、結婚しても子どもを産んでも働いてきました。私が時々原点を探しに出かけて行くインドで、農村に居ると見えますが、子を育て、生きることは即ち働くことでした。

 多くの場合、労働、働くことは生きるための共同作業と役割分担、お金によってその対価が払われる種類のものではなかった。独りでは生きられないことの確認作業の意味合いが強かった。その対価は、祈りとか絆、子どもの健康とか笑顔、悲しみ、といった、人間の幸福感に直接関わる次元に属していたのです。

 テレビ番組で女性学者が言う「6割の女性が結婚や出産でやめざるを得ない」種類の労働は、こうした依存関係を下地に日常的に行われてきた労働とは違ってきている。この仕分け、区切りはどこから起ったのか。立ち止まって冷静に考えれば、6割の女性が結婚や出産で働くことをやめたら、人類は成り立たないのです。金銭の授受を伴わない労働を差別する意識は、なぜ生まれたのでしょう。この差別は、なんのために必要だったのか。女性に対する差別意識への反発が、平等をお金で計る習慣を根付かせ、そこで起こる競争を市場原理が利用しようとしているのか。自由や自立という獲得不可能なステータスを、お金で買えると思わせるほど、人間の想念が経済活動に支配されはじめた、ということかもしれません……。

 学者が言う「子育てとは同時に成立し難い」、家庭を(物理的にも、心理的にも)離れた「経済活動」に参加することが「働く」ことの主流で、もし「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」という女性学者の言葉が本当だったら、集団としての人類はどう変化してゆくのか。どう進化してゆくのか。家族の定義を失いつつある欧米のようになるのであれば、犯罪率、幼児虐待率、麻薬の汚染率から考えると、まだ選択肢がある日本は違う道を選んで欲しいと思うのです。

 子育てをしながら学ぶ「利他の道」を捨ててはいけない。その道が調和に必要な遺伝子がオンになってくる道のような気がするのです。特に「乳児に触れている時間」は、母親にも父親にも、周りの人たちにも貴重な、代え難い時間だと思うのです。

 「女性はみんな働きたいと思っている」その言葉を唱えつつ、インドの農村の母親たちをもう一度思い浮かべると、言葉の前後に普通「子どもたちのために」という一句がつく。この一句にリアリティーがなくなったら、たぶん地球のあちこちで社会の基盤となる男女の信頼関係が崩れてゆくのでしょう。それが崩れても保育所があれば大丈夫なのか。それは絶対に違うと思う。金銭を絡めた次元のすり替えが、ある一線を超えようとしています。

 

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俯瞰的に見ると、

 「女性はみんな働きたいと思っている」という「働き」の中には、音楽活動や祈り、絵を描くことが入ってくる。無報酬のものもあるに違いない。そこまで見極めれば、これは実は選択肢の問題で、「子育て」という「人生の選択肢を狭めるもの」に対する反発かも知れない。しかし、この「選択肢を狭めること」(親子関係)に人間は幸せの基盤を置いてきた。命に限りがあることから始まり、大自然から受ける災害、病気や怪我、部族の一員として生きることなど、選択肢がないことが多いから絆や道筋が生まれた。その絆や道筋の深さを知り、次元的に解放されるために、人間は踊ったり、歌ったり、赤ん坊を眺めたりしてきた。

選択肢があるように思える先進国社会でうつ病が多いのは、明らかに人間が自己責任に耐えられないことを意味しています。連帯責任、神の責任、その次元を感じるために、人間は輪になって踊る。

 

伝統的家庭

 日本の伝統的家庭というと男が働きに出て女が家で子育て、と誤解する人が多くて困るのですが、それは本当の日本ではありません。この国の伝統は違う。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)の第十章「子どもの楽園」を読むと、160年前に日本に来た欧米人がみな、日本の男たち(父親たち)が常に子ども(特に幼児)と一体になって楽しそうに暮らしている、と驚きを持って書き残しているのです。日本人は幼児をしからない、ほとんど崇拝している、と書いている。それなのに日本人の子どもは六歳にもなれば、良い子になってしまう、この国の子育ては魔法だ、と言うのです。

 江戸で朝、男たちが十人ほど座っていると、それぞれが幼児を抱え子どもの自慢話をしている。その姿が欧米人がパラダイスと呼んだ国の日常であり原風景です。寸暇を惜しんで幼児と過ごし、それに喜びを見出し、堪能する男たち。それがこの国を支えてきた、穏やかにしていた。それが日本の子育て文化、伝統だったのです。

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 幼児と一体になることで自己を手離し利他に向かう。インドや中国とはひと味違う、日本独特の大乗仏教の核がそこにはある。

 最も理にかなった「易行道」の本質(宇宙と一体になり自分の善性を体験すること)が幼児の横に座ること、です。親になることは損得勘定を捨てること。これほど合理的で、たやすい人生(自分自身)の見つけ方はないのです。

 

エプロンをつけたら

 調布の、一日保育士体験を始めた私立保育園で講演しました。二年前、園長が恐る恐る提案すると、保育士たちがすぐにやりましょうと言ってくれたのだそうです。保育園は、心が一つになっているかどうか、が肝心。幼児を一緒に眺めていると自然にそうなるのです。園長と保育士たちの意欲と願いが説得力になり、親の評判もとても良く、しかも一年目、父親たちの参加の方が多かった、と園長先生が嬉しそうに親たちの感想文を見せてくれました。

 1人の親が「他の親と一緒にした参観日の時は、自分の子どもしか見えず、泣いた時の保育士の対応が遅いのに苛立ったのに、保育士体験で先生と同じエプロンをつけたら、他の子どもたちも見えてきました。泣いても一呼吸置いてから対応するタイミングが、とても参考になりました」と書いていました。

「不思議でしょう? エプロン一枚で」。

 普段家庭では見えなかった種類の自分の子どもが、保育士体験で見えてくる。どの子たちと、どんな遊びをするかで、いままで知らなかったその子が目の前に現れる。一枚のエプロンが人間の視点を変える。選択出来る視点があることを学べば、子育ては楽になります。子どもたちの可能性が嬉しくなるのです。エプロン一枚が人間を変える。

 祈る次元で心を一つにしないと、男女がそれぞれ孤立して自己中心的になる。自立という言葉が邪魔をして、家族という縛り、絆が苦痛になる。そういう時にエプロンが必要になるのかもしれません。エプロンが象徴するものは何か。「一緒に食べること?」「料理をすること?」「働くこと?」たぶん「自分の命は我がものではない、と気づくこと?」

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 福井県教育委員会で始まっている一日保育体験。参加者の63.8%が「大変良かった」、「良かった」も合わせると97.3%という数字が送られて来ました。感想文も沢山あります。幼保と家庭の信頼関係が、「一緒に育てる」という絆につながり学校を支える。どんな形でもいい、大人たちが幼児たちに出会い囲まれる。それを繰り返してゆけば自浄作用が働く。多くの人々が幼児との時間を大切にするようになると、社会の空気が変わってくる。十歳以上の人間たちが一緒に子どもを眺め、自分が失った物差しを確認しあえば、世代を超えた体験がうまく重なり自然治癒力が働く。幼児の笑顔に救われる。そして、待機児童を無くすのではなく、待機児童という言葉が消えてゆくのだと思います。

http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

 

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専業主婦からの自由

 

「専業主婦からの自由」という朝日新聞の1ページを使った特集がありました。

 「『専業主婦』。女性の社会進出を妨げると批判されたり、最近はうらやまれる対象になったり。どこか心に波風を立てがちなこの言葉から、そろそろ自由になってみませんか。」という解説がつき、三人の女性が実体験から思いを語ります。専業主婦という言葉とその意味の危うさについて書いていた時だけに、この言葉が今持っているネガティブな意味合いから自由になろう、という論旨はとてもよくわかります。

 1人はVeryという雑誌の女性編集長。「『仕事は二番』と割り切る」というタイトルです。

 「『家族が一番、仕事は二番』と考える人がどんどん増えてきました。女性たちは職場でのキャリアアップより時短勤務を最優先。子供を持ちながら大企業などでばりばり働くスーパーマザーを、『とてもまねできない』『あくまでリスペクとの対象』と、割り切って見るようになったのです」「特別の条件がなければスーパーマザーは不可能であることが見えてきた結果です」と言う。その通りだと思う。子育ては体験であって結果ではない。家庭を離れた仕事との両立は難しい。

 もう1人は、ハーバード大卒のアメリカ人ジャーナリスト。タイトルは(専業主婦を)「キャリアだと納得したい」。米国で専業主婦が増えている現状を語り(15才以下の子どもがいる母親の専業主婦率が、1994年に20%だったのが2008年には24%に増えている。)、出産休暇が法律で義務化されておらず、多くの企業で有給休暇さえない、社会の仕組みとして育児と仕事の両立が難しい米国の現状を説明。専業主婦というキャリアが追求するに値するものという考え方の広がりを伝えている。

 もう1人は、日本人のシンガー・ソングライター。「部屋とYシャツと私」というヒット曲を書いた人。タイトルは「生きている実感を持つ」

 「かけがいのない存在のために尽くす時、『生きている』という実感がありました」と、病気の娘を育てた時のことを語る。いま若い女性に専業主婦思考が高まっていることの理由に、「家庭以外の働く場所で、生きる実感が持ちにくいせいじゃないでしょうか」と素直な感想を語っている。なんでも経済的理由にしようとする分析よりも、心の動きという、日常的な真実が感じられる。そして「『専業主婦願望は時代遅れ』と批判された昔を知らない彼女たちが思い思いに歌い継いでくれることが、私はうれしいです」と締めくくる。

 『専業主婦願望は時代遅れ』と批判されたのは『昔』なのだ。これには良い意味での驚きがありました。でも、自然な流れだと思います。社会には必ず自浄作用と自然治癒力が働く。それを一番に促すのは「子どもを育てること」。三人の女性の主張(感想)には、体験に基づく無理のない響きがあってとても気持ちがよいのです。イデオロギー優先の論調が多過ぎる最近の新聞紙面の中で際立っていました。ともすれば男尊女卑が見え隠れする間違った伝統主義では社会は決して「子ども優先」には変わっていかない。

 首相の言う、女性の活用、保育園でもう40万人預かれ施策が、現実を見誤った、とても可哀想なものに思えました。