









40年前、インドで一年間暮らしたときは、様ざまなことを学びました。
インドには巨大なゴキブリがいて、日本から持って行った私の浴衣を食べました。近所のお茶屋さんに相談に行きました。ゴキブリ退治の道具を買いに行ったつもりでした。
そのお茶屋さんが、「ゴキブリに餌をやっているかい?」と私に聞きました。「パンの端っくれでも置いておけば、着物はたべないよ」と言うのです。
こういう答えは新鮮でした。ものさしを変えれば答えは一つではない、そのときどのものさしを選ぶかが人間の生き方なのです。

そのお茶屋さんに三人の息子がいました。五歳、七歳、一〇歳、くらいだったと思います。上の二人はいつも父親を手伝って働いていました。でも、一番下の子は不思議な子で、いつもランプの光をじっと眺めて布にくるまって座っていました。ある日、主人が私に相談したのです。この一番下の息子は変わっている、みんなで相談して「学校」に行かせてみようかと思う、少し支援してくれないか、と言うのです。
学校は変人が行くところ、と気づいたのははじめてでした。私の中で、学校に対するイメージが変わりました。何かが見え始めたのです。とても大事なことを教えてもらった気がして、奨学金を寄付しました。
こういう人間と学校の関係にかかわる話は、昔、学校が普及し始めたころ、どこにでもあったようです。
ローラ・インガルス・ワイルダー(一八六七~一九五七)の書いた『農場の少年』という本があります。ワイルダーは「大草原の小さな家」シリーズで有名です。『農場の少年』もこのシリーズ中の一作ですが、労働と子育ての関係、という視点で読むと勉強になります。「大草原の小さな家」シリーズは、ローラが若くして教師になったこともあり、義務教育が普及し始めた当時の家庭と学校の関係を知るのに参考になる本です。
『農場の少年』の中に、村に新しい先生が赴任してくる話があります。教会を借りた教室で、一人の先生が年齢の異なる子どもたちを教えている開拓時代の学校です。新しい先生が赴任してくると、その先生を年長の子どもたちが殴ったり蹴ったりして追い出そうとする、それを親が奨励する、と書いてあるのです。これは乱暴な話だな、と読み進めると、前にいた先生も殴ったり蹴ったりして追い出され、それが元で死んだ、と書いてあります。児童文学には、時として生々しい現実が顔を出します。いい児童文学は子どもを子ども扱いしませんし、子どもだましでもありません。
私はこの話に、学校教育の普及と家庭崩壊の関係を本能的に見抜いていた人たちを感じます。学校は子どもたちに主に役に立たないことを教え、家庭から労働力を奪う。親の知らないことを教える。抵抗する理由はそこにあります。家族がお互いを必要として生きている形を壊すのです。これに似た話は、日本の『橋のない川』(住井すゑ、一九〇二~一九九七)という小説にも出てきます。
いま、アメリカで、三人に一人の子どもが未婚の母から生まれる。女性の負担は異常に大きくなり、幼児と接する機会を持たない父親に親心(父性)が育たない。優しさと忍耐力が社会から消えていきます。親子関係が柱になって保たれていたモラルと秩序が消え始めると、教育や、警察力や司法の力ではどうにもなりません。子どもが十八歳になるまでに四〇%の親が離婚するのですから、未婚の母から生まれた子どもを足せば、血のつながっている実の両親に育てられる子どもの方が少数なのです。
以前、父親を尊敬しない日本の子ども、という学者によって発表された自虐的な統計があって、アメリカの子どもは日本の子どもより父親を尊敬している、という数字が出ていたのです。これはたぶん「父親のいる子」に質問した結果なのです。対象を父親のいない子まで広げれば比較するべき実態が見えてきます。質問に「実の父親を尊敬しているか」という条件を加え、無作為に選ばれたアメリカの子どもたちに質問すれば、数字はまったく違ってくるのです。「一緒に住んでいる実の父親」とさらに条件を加えれば欧米の数字は惨憺たるものになります。「一緒に住んでいる」ことの大切さを考慮せずに「父親に対する尊敬」を比べ合うのであれば、それこそ問題です。
親心だけでなく「祖父母心」も確実に存在感を失い、家族という定義が一つの大切な次元を失い色あせています。3割から6割の子どもが未婚の母から生まれるということは、自分の孫の存在を知らない、一度も会ったことのない祖父母が相当数いるということなのです。自分の祖父母が亡くなったことを知らない孫たちがたくさんいるということなのです。アメリカで生まれる子どもの二〇人に一人が一生に一度は刑務所・留置所に入るといいます。検挙率が三割に満たないのですから、全員捕まえていたら、たぶん七人に一人は入る。五人に一人の少女、七人に一人の少年が近親相姦の犠牲者といいます。親心という常識が消えると、本来幸せにつながるはずだった人間の愛が、歪んだ形で子どもたちを襲います。
「夢を追うためには仕方がない」ということでしょうか。「アメリカンドリーム」が、夢を持つことではなく欲を持つことであることは想像がつきました。教育の中で、夢を(欲を)抱くことがいかに危険であるかを語る人はいませんでした。やがて、闘いの中で絆を信じることができなくなった男女が、それぞれの夢(欲)を追って経済的安心を求め、自立を目指す。自立は孤立を生みます。社会に蔓延する疑心暗鬼が人生に対する疑いにつながります。子育てが負担となり、自立したい女性を苦しめ、福祉で補おうとするほど親心の喪失が加速します。
ベトナム戦争の終結とともに、児童虐待、女性虐待が一気に増えていきました。徴兵という仕組みを体験し、それに裏切られた時にすでにあった分断や亀裂が深まったのです。それに加えて、子育てが親の手からシステムの手に移ると、社会に優しさと忍耐力がなくなってゆくのです。それが加速してゆく。三〇年前、私が最初の本を書いた当時、毎年六〇万人の子どもが親による虐待で重傷を負い病院に担ぎ込まれていました。それでも経済大国を維持するために、政府は「アメリカンドリーム」を教育の柱に据え競争を煽ったのです。
インドとアメリカ、二〇代に体験し深層を見たこの二つの国の真ん中に、私が見ている現在の日本があります。人類にとって大切な選択肢を考えぬくときです。
一通のメールがカナダから来ました。30年くらい前に作った私のアルバムを繰り返し聞いている、でもどうしても詩でわからない箇所があって教えてほしい、というものでした。
Jeff Day という友人が私のアルバムのために書き下ろした曲でした。背景にうっすらと転生がテーマに聴こえる優しく深い詩でした。ずっと以前作ったものが、まだ音楽という形で生きているのを感じるのは、懐かしく嬉しいものです。過去と現在と未来が、つながっている感じがします。
SEE YOU THERE
SEE YOU THERE
WHEN THE NORTH WIND SARTS TO BLOWIN
I WILL SEE YOU THERE
SEE YOU THERE
WHERE THE COOL SPRINGS KEEP ON FLOWIN
I WILL SEE YOU THERE
BREATHE THE AIR
OF A PEACEFUL SUN-DRIED LAND
THAT RAINCLOUDS FILLED WITH CARE
WARM AND FAIR
YOU WILL LIGHT THE HOLLOW
DARKNESS IN ME
AND AS WE LAY FIGHT AT THE BREAK OF DAY
AND FACE THE RISING SUN
WELL LET IT PASS, AND LET OUR BODIES CAST
TWO SHADOWS FORMING ONE-ONE
SEE YOU THERE, ABOVE ALL HURT
AND SORROW
AND ALL LIFE’S DESPAIR
SEE YOU THERE, SO HIGH YOU’LL LEARN TO FLY
AND ALL THE SKY
WE’LL SHARE
AND AS WE STAND, AND LOOK ACROSS THE LAND
AND FACE THE DYING SUN
WE’LL TAKE OUR VOWS AND ALL THAT TIME ALLOWS
AND LIVE OUR LIVES AS ONE
PLEASE BE THERE, THERE’S A SOLAR LIGHT TO GUIDE YOU
I WILL NEED YOU THERE, I’D BE SO LOST WITHOUT YOU
WANNA SEE YOU THERE
WHEN THE HEAVENS CALM THE WIND
I WILL SEE YOU THERE AGAIN I KNOW
LIKE A SHIP OUT ON THE BLUE
I’LL BE COMING BACK TO YOU I KNOW
AS I CROSS THE LONELY SEA
YOU’LL BE WAITING PATIENTLY I KNOW
5、6年前に保育雑誌「げんき」の連載に書いた文章です。
役場に頼まれ、老舗の幼稚園を認定子ども園に移行させた園長先生と隣の小学校の教頭先生と三人で、新しい、未満児用の保育室で話をしていたのです。園長先生は、長年幼稚園で先生をやっていた保育士資格を持っている主任さんに乳幼児保育を任せたのですが、素晴らしい人だというので、呼んでもらったのです。
主任さんの涙
私は、その日、目の前にいる主任さんに尋ねました。「学生時代、何園に実習に行きましたか?」
「二〇年前になりますが、六園行きました」
「そのうち何園で保育士による園児の虐待を見ましたか?」
一緒にいた園長先生と教頭先生が驚いて私を見ました。
しばらく黙っていた主任さんの目に涙があふれました。私を見つめ、はっきりと言いました。「六園です……」
沈黙が流れました。
「二〇年間、誰にも言いませんでした」
主任さんは私の目を見つづけます。「あの実習で、私は保育士になるのをやめたんです。本当は保育園で働きたかったんです。私は保育園の先生になりたかったんです。でも、免状を取り直して幼稚園の先生になったんです」
二〇年間、苦しかったろうな、と思いました。
このしっかり者の母性豊かなやさしい心の主任さんは、長い間ずーっと、どこかであの風景が毎日続いていることを知っていた。
「実習のレポートに少し書いたんです。園長先生から、こういうことは書かないでほしい、と言われて、消したんです」
主任さんの声は、幼児たちの叫びでもありました。それを知らなかった親の悲しみでもありました。
「あのとき、私は、自分の子どもは絶対に保育園には預けない、と決めたんです」保母さんの目の中で何かが燃えました。
二十三年間、私の同志の多くは保育者と園長先生でした。この話題になると同志の顔が暗くなるのを私は知っています。私がこの問題に関して調べ、質問した大学や専門学校の保育科の学生の半数が、実習先の現場で「親に見せられない光景」を目にする。
これは、保育園に通う日本の子どもたちの半数が、そういう光景を目にする、ということでもあります。
子どもたちに与える心理的影響を考えると、恐ろしくなります。幼児期に、脳裏に大人に対する不信が植えつけられる可能性は十分にあるのです。
卒業生からの伝達で、「あの園に実習に行くと、保育士になる気がしなくなるよ」という園があります(同様の話を介護施設に実習に行った福祉科の学生からも聞きます)。
「ほかの実習生が、一週間の実習で同じことを始めるんです」と涙ぐむ学生もいました。「卒業すれば資格がもらえるんではだめです。国家試験にしてください」そう訴える学生がいました。
私はそれを幼児たちからのメッセージとして受け止めました。
〇、一、二歳の乳幼児を、親が知らない人に違和感なく預けられるようになったとき、人間は大切な一線を越えてしまったのかもしれない、と時々不安になります。絆の始まりは、親が絶対的弱者である自分の子どもを命がけで守ることだったのではないのか……。
「親に見せられない光景」を園からなくすためにも、一日保育士体験を早く進めなければなりません。保育士を見張るのではなく、親と保育士の信頼関係が子どもを守るのだということを信じて。
保育の現場に親身さや優しさがなくなって、保育=子育てという図式が、保育=仕事という方向へ動き、大学や専門学校の保育科を志望する学生が減っています。待機児童をなくせ、というかけ声のもと、政府が積極的に保育科を増やそうとしていた矢先、幼稚園・保育園に通っていたころ、保育園の先生になりたいと夢や憧れを抱いていた子どもたちが、その夢を捨て始めているのです。
短大の保育科で八年教えたことがあります。保育科にくる学生は選ばれた人たちでした。お金持ちになりたいという人はまずいません。高校時代に人生を見つめ、子どもたちと過ごす日々の中に、自分を幸せにしてくれる何かがあるに違いないと考えた人です。親心の幸福論に直感的に気づいた人です。その選ばれた人たちが、幸せになる夢を捨て始めています。
保育科の乱立から、教える内容と教師の質も落ちています。保育科が専門学校化してくると、就職先のニーズに応えようとします。そしてそのニーズがばらばらなのです。
保育士の資質は、子どもの幸せをいかに強く願うか。そして、保育士は経験から、子どもたちの幸せは親子関係にある、と知っています。この二点が保育の柱です。
この柱を社会全体でぐらぐらと揺らしているのです。
子どもの幸せを第一に考えるのなら、保育園を閉め、抗議しなければいけない時期が近づいています。
三年前、2014年3月20日、このブログに『ベビーシッター死体遺棄事件/「保育制度が時代に追いつかない」?』 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=245 を書きました。「ネットで見つけた知らない人に、仕事のためとはいえ2泊3日で乳幼児を二人預ける」。事件は全国に報道されました。しかし、これほどの事件が、ほとんどブレーキになっていないのです。保育の市場原理化によって、むしろ広がっている。
この事件に関して、当時、「保育制度が時代に追いつかない」という見出しの新聞報道がありました。ひどい話です。騙されてはいけない。マスコミが、こういう浅い視点で見ているから、保育の現場から、その後、いい保育士たちが離れていったのではないでしょうか。政府が進める保育制度と同じで、子ども側からの視点がない。幼児期の子どもたちの過ごし方が、この国の未来を支えるという意識が欠けている。
制度の問題ではない。姿勢の問題。
日本という国で、保育の問題を、福祉における仕組みの問題ではなく、「子育て」に対する意識の変化の問題として捉えたら、それをいま真剣に考えることは、人類の進化に関わることのようにさえ思えるのです。
親らしさ、という人間の進化と存続に絶対に必要な要素が先進国社会で急速に変質し始めている。その流れに「制度の問題」として対応するほどに壊れてゆく何かがある。欧米型の、経済優先の新しい常識が本来の「人間性」と摩擦を起こし始めている。
そうなると、人間性を土台に作られた「民主主義」「義務教育」「福祉」が機能しなくなってくる。
「保育士の待遇改善を」 首相官邸前でデモ(TBS) https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170316-00000092-jnn-soci …
『保育士全員の賃金を月額6000円増やすほか、経験年数に応じた上乗せが行われますが、「格差の解消には程遠い」と批判の声が』
賃金「格差の解消には程遠い」確かにそうなのです。しかし、もう一歩進んで「子育てに対する意識の格差」の広がりが、実は問題の本質なのだと気づいてほしい。
保護者の間に広がる「子育てに対する意識の」格差、保育士と保護者の間に広がる「保育に対する意識の」格差。何より決定的なのは、国と保育者の間に広がる「保育に対する意識の」格差です。片や「雇用労働施策」として保育をとらえ、片や「子育て」と見ていないとやっていけない。国は閣議決定で「保育は成長産業」と位置づけました。一方、保育士が尊重すべき保育所保育指針、過去に保育士たちが守ってきた精神の中心には、保育は「子どもの最善の利益を優先して」と書いてあった。
こうした格差の広がりを、「義務教育」という仕組みは受け切れない。
いまこの国の土台を崩そうとしている「子育て」における意識の変化、仕組みの混乱は、その中心に「幼児たちの思い」が見えていないところに原因があります。発言しない人たちの気持ちを優先的に考えて、心を一つにする、そこが欠けているのです。
保育士ストライキを保護者が応援する、という記事がありました。そうでなくてはいけません。一番いい形です。幼児はそこにいるだけで、育てる側の心を一つにする、それが人間が社会を形成する基本、大自然の法則です。いま、この混乱の中で、一緒に子育てをしている、という意識が親と保育士の間に戻り、それが広がることが最終的な目標になってほしい。園児たちはそう願っている。
そして、思うのですが、ストライキをやってもらえるのはまだいいのです。その陰に、静かに辞めていく「心ある」保育士がいることの方が怖い。
その人たちの幼児を思う良心が、「保育士を辞めるという形になって」、いままで心ある保育をしてきた園長たちを直撃する。いい保育士を雇えないという現実が、いい園長たちを精神的に追い込んでいく。倒れそうになっている園長先生たちがあちこちにいる。
ネットでビジネスコンサルの「いま保育で儲けよう」という宣伝を見ていると、保育を知らない人の参入が、「保育は成長産業」という閣議決定で進められている実態が見える。だからそういう保育には、保育の本質を知っている保育者は近づかない。「児童発達支援と放課後等デイサービス」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269 という文章をブログに書いたことがあります。「保育=子育て」における境界線が、「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、度重なる規制緩和によって見えなくなり、すべてが市場原理に取り込まれつつある。
全国で、3歳未満児の入所希望が増え、特に役場の采配で配置が決まっていく公立保育園で、いままで3、4、5歳児につけていた加配保育士を0、1、2歳に(安易に)(必要に迫られて)回している。その無理が小一プロブレムに直結し、その第一波が4月に学校に上がる。(第二波は4年後に来ます。)
税金を使って3歳未満児保育の「受け皿」を作り、子育ては「社会」がやってくれるものという意識を広げ、その数倍の税金を使って今度は小学校の教師加配をせざるを得なくなってきている。(臨時採用の教師の時給は、非正規の保育士の3倍です。)
「社会で子育て」などという、保育園や幼稚園、学校に子育てを押し付ける、出来もしない机上の論理を振り回しているうちに、あっという間に、人材だけではなく、財源が底をつき始めているのです。福祉や教育という仕組みに子育てを依存しすぎた結果が、すでに修復不可能な状況に保育界、教育界を追い込んでいる。
「子育て」は技術や学問、仕組みでできることではない。育てる側がどう育っていくか、育てる側がどう心を一つにするか、という大自然の仕組みだということをもう一度理解しないといけません。
(以前、こんな天才保育士のことをブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=257)
塩・味噌・醤油
ある園長先生が話してくれました。
養成校の教授に信頼されているその園長は、保育士を育てるのに定評があります。ある年、保育士に欠員が出たため四人の卒業生を推薦してほしいと教授にお願いしました。
四人を選んでくれた教授が園長に笑いながら言いました。「二人は、将来現場でリーダーとなってゆく優秀な学生たちです。もう二人は、学業には向かないけれど天才的な保育士です……」
園長は一応形式的に筆記試験をしました。栄養の三要素は何ですかという問いに、天才保育士の1人が「塩、味噌、醤油」と書いたのだそうです。
園長はそこで大笑いをし涙ぐみながら私に言うのです。「この塩、味噌、醤油が、本当に、本当に保育の天才でした」
私が公園に一人で座っていたら、変なおじさん。でも、2歳児と座っていたら、いいおじさん。
横にいる幼児を眺め、その仕組みに感謝することは、自分を(宇宙の働きを)見ること。人間は幼児との関係を理解し、必要な相対性はすでに存在していると知る。優先順位の共有が、そっと歯車をまわす。

「親に向いてない人?」
こんなツイートが保育士さんからありました。
「保育士の転職サイトで『保育士の仕事は親の代わりに子育てをすること!親に向いてない人はいないから、保育士に向いてない人もいない!』という文章をみつけて衝撃を受けている。
私は親代りのつもりは全くないし、保育士に向いている人はわからないけど、向いていない人はいると思っている。」
最近の保育士不足から起こっている現場の状況や、「保育園落ちた、日本死ね」という流行語に代表される、保育に対する意識の変化を考えれば、こういう、転職サイトの無責任な宣伝文句自体が衝撃です。資格を持っていればいい、という問題ではない。よくわかります。保育をサービス産業、成長産業と位置付けた政府の経済優先施策、その狭間で儲けようとする転職サイトや派遣業者が「親の代わりに子育てをする」保育界の質を一気に下げ、壊してゆくことへの憤りさえ感じます。
もともと実習を体験した保育科の学生の半数以上が、自分には無理、と判断して保育士にはならなかった。それが保育界の常識だった。資格を持っているから保育士になれるのではない、と理解した学生たちの、仕事に就く前に「自分を埋める」という賢明な判断が保育界の質を支えていたのです。大自然の法則にも似た彼女たちの行動を、政府が無責任に、現場に出ていない資格者が80万人いるのだから、「掘り起こせ」と言い、保育界で儲けたい人たちが、人を選ぶ前に、「三年経ったら園長にしてあげる」「派遣会社は毎年違う園が体験できますよ」などと学生に呼びかけるのです。そして、馬鹿な首長が、「子育てしやすい街にします」「待機児童をなくします」「三人目は無料です」と言って親子を引き離す施策を選挙公約に掲げ、現場の状況を知っているがために板挟みになって苦しむ課長の意見には耳を傾けずに、いつの間にか「子育て、放棄しやすい街」をつくる。財源のある東京都のある区長は、5万円の商品券、月八万円の居住費を餌に、地方から保育士を青田買いしようとするのです。地方のことなどまるで考えていない。幼児たちも区民であって、親と一緒にいたいと思っているかもしれないということさえ想像しない。
実は、誰にも親の代わりはできない。ベテラン保育士たちはそてを身に染みて知っているのです。しかも、自分たちがいくら頑張っても5歳まで。毎年担当は代わる。自分たちが頑張ることで、親たちが親らしさを失うのであれば、本末転倒。指針にもある「子どもの幸せを優先」したことにはならない。
最近の保育士さんの離職原因の第一が同僚との問題と言われます。特に3歳未満児保育は、以上児と違って複数担任の場合が多く、「向いていない人」「そこにいてはいけない人」が同じ部屋にいるだけで、感性のある人が辞めていく。そういうケース(ケースと言うことがすでにおかしいのですが)、奇妙な出会いが、日々幼児の視線(神様の目線)にさらされているのです。保育は、だれでもできる仕事ではない。保育士という職業につける人間はそうそういない。たぶん20人に一人くらいしかいない。
(この宣伝文句を眺めてふと思いました。保育士が基本的に出産を経験していて、30年くらい続ける職業で、親身に育ててくれる先輩数人に囲まれ、担当する子どもが年齢を問わず三人ずつくらいまでで、必ずそこに親たちからの感謝と信頼の目線があり、訴訟がない社会なら、「保育士に向いてない人もいない」と宣伝して、それから数年かけて一人前の保育士を育ててもいいかもしれない。でも、まったく、そういう仕組みではありません。)
「親に向いていない人はいない」ではなく、「子育てに向いていない社会はない」ということなら言えるかもしれない。一人ではできないのが子育てで、集団の意識や、異なる資質や、様々な体験の重なりあいと、相互の育ちあいがなければ不可能なもの。もっと進めて、一人一人の人間の違いを生かし、相談しあい、育ちあい、人類が必要とする絆を深めるために「子育て」があるのだと理解するといいのです。
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福祉の仕事に憧れ、それを自分の天職と思い、資格をとり、養護施設や障害児の支援団体、介護施設と経験し、その度に「人間の在り方」と「仕組みの働き」の狭間で悩んで、立ち上がれなくなって辞めていった友人から、メールが来ました。結婚して、子育て真っ最中の人です。
「私は福祉でやりたかったことは、今の子育てのようなことで、仕事ではなかったなぁと最近思います。こどもを産まなかったらずっと仕事で悩んでいた気がします。でも子育てで自分のやりたかったことが満たされていて、そのまんまでいれるからうれしいです。
細々した悩みは当然ありますが、全体的には小さいこどもといる時間はいつもきもちがわくわくしています。あたらしいことが一緒に発見できて私もまたこどもみたいにいれるからかなと思ったりします。
きっとあとから考えたら今の時間がかけがえのないものになるのだろうという予感がものすごいです。
講演、近くにくることがあればまた聞かせてください!」
こうした不思議な人たちの、繊細な感性が、静かに人間社会を守ってきたのだと思います。言葉にはできない幼児たちの主張や波長が、この人と同調している。それが人間社会を鎮めていたのだと思います。
「子育て」というのは、「そんな仕掛けではないかな」と思っていたことを言葉にしてもらって、思わずメールに感謝です。メッセージに、ありがたいな、と思います。

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「甘えられる、信頼される幸せ」
「主婦なんて夫に頭を撫でられて、喜んでいるペットじゃないの!自立しなきゃダメじゃないの!」田嶋陽子先生が、鼻で笑っていた主婦が産んだ子供が、先生の老後を支えているのです。そのことを忘れてはいけませんよ。」
というツイートを読みました。
「依存すること、甘えること」を「悪いこと」と思い始める最近の先進国における意識の変化、その「怖さ」を感じます。仕組みを作ってそれに依存し、慣れた人間たちが、実はたくさんの命に支えられていることを忘れ、その命の気づかず、つながりを実感しなくなっている。自立していると勘違いしている。
価値観の多様化、などといういい加減な言葉では片付けられない、仕組みに依存し、やがて支配される、「危うさ」を感じます。
学問や教育や情報に支配され、「自立」という奇妙で不自然な言葉が、いつしか力を持ち始めると、人間の生きる力が弱くなってゆく。すると競争や闘いに流れてゆく。幼児が遠のいてゆく。やがて、その存在意義さえ否定することになってゆく。
人には、依存され、甘えられることで育つ何かがある。依存し、甘えることで確認する何かがある。その確認こそが、生きる力。
お互いを必要とし、求めあう関係に反応してオンになってくる魂の働き(遺伝子?)が幸福感と呼ばれるもの。それは過去の長い時間と重なっていて、絶対に否定できない、すでに起こったことで、私たちの一部になっている。
親子関係に象徴される、異なる成長過程にある人間たちの遺伝子が相互に関係することが社会には大切で、ひょっとすると人間の進化の根本的な働きだと、乳幼児を眺めながら思い出さなければならない時が来ています。
甘えてもらえる、信頼してもらえる幸せが人間社会の絆の原点になっている。
依存される(そして、依存する)幸福感が、こうした学者(強者)の言葉で否定され、マスコミで流されると、社会全体の幸福の幅が狭まっていきます。言葉を使わない幼児(弱者)の沈黙のコミュニケーション能力が発揮されなくなってくる。それを福祉や教育制度といった最近の仕組みで補おうとしても、人間はますます生きる指針を失い始める。人生を導いてくれる幸福感に気付かなくなってくる。
幼児に依存され、頼られ、その状況に反応することが人生の出発点にあり、人生そのものだということに気づけば、ぞれぞれの生きる力が復活してくるのだと思います。
アメリカ、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれる。その状況の中で起こっている価値観の分裂を見ればわかると思うのです。教育ではどうにもならない次元の分裂が起こっている。
日本は、別の道を進んでみる、それが役割だと思うのです。この国の伝統文化、存在意義でもある、沈黙のコミュニケーション能力が問われています。

201701271718000
「家庭で乳児の子育てをする人への給付金」、同様の制度を始めようとしている市の行政の方から、
『今日のニュースで鳥取県が県レベルで家庭保育への給付金を創設するというニュースがありました。』という知らせがありました。
http://www.sankei.com/west/news/170118/wst1701180086-n1.html …
鳥取県は18日、0歳児を保育所などに預けていない「在宅育児世帯」を対象に、現金給付を含めた支援制度を平成29年度から開始する意向を各市町村に示した。県によると、1億~2億円を予算案に計上する。都道府県レベルでこうした制度を導入するのは初めて。
県が作成した制度案では、事業主体は市町村とし、児童1人当たり月に3万円程度の給付を想定。県は1万5千円を上限に助成する。現金給付の他に一時預かりサービスの利用補助や子育て用品などの現物給付も選択可能とし、所得制限を導入するかどうかも含めて各市町村に判断を委ねる。
子育ての経済的負担から出産をためらうケースを減らす狙いもある。各市町村長らが出席した行政懇談会で、平井伸治知事は「子育て支援に厚みを出し、ぜひ多くの子育て世帯を応援したい」と理解を求めた。
市町村長らからは「家庭での子育てを促す」「保育士不足対策としても効果がある」など肯定的な意見が多数を占めた。
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この方法が、全国に広がることを期待しています。0歳だけでなく、2歳児くらいまで広がってほしい。保育界を追い詰めている保育士不足と、市場原理がもたらした急速な保育環境の質の低下に対応するには、なるべく親が育てる、この方向しかないと思います。
全国的に見ても、3歳未満児を育てる親に月額5万円の直接給付をしても、いま未満児保育に使っている税の総額より安く済むかもしれない。保育料を払っている親たちの多くが、自分で仕組みを支えていると思っているようなのですが、東京都などでは0歳児の保育に月額50万円近い税金が使われている。そして現状は、どんなにお金があっても保育士が足りない。もっと深刻なのは、いい保育士がいない、育っていない。子育ては究極お金でその良し悪しが決まるものではないのです。
家庭に子育てを返してゆこうという鳥取県の施策は、保育士不足という緊急事態と、いま3歳未満児保育を増やすと市町村も恒久財源が必要になることへの危機感、先を見通した具体策かもしれませんが、同時に、幼児の願いに沿っている。幼児という弱者の願いを優先すると、福祉の質の低下に歯止めがかかるだけでなく、学校も含めて、社会全体にいい循環が生まれてきます。全国に少しずつ広がってきている「一日保育者体験」から生まれる感想文を見ても思うのですが、弱者の幸福を優先すると、社会に人間性が蘇ってきて、自然治癒力、自浄作用が働き始めるのです。

経済施策と子育ての施策を混同してはいけない
少子化の先にある税収減を見越して、財政諮問会議が小泉政権の時に始めた、女性の労働力を掘り起こすという「雇用労働施策」が、いまの「50万人幼児を保育園で預かれば女性が輝く」という施策の本質です。保育の質が後回しにされている。それが後回しにされていることによって、保育界に様々な悪循環が生まれている。
未満児を預かる保育所、小規模保育、家庭保育室、そして子ども園を、ここまで意図的に増やしてしまうと、親に子育てを返そうとした時に、既存の保育施設の生き残りという問題が出てきます。生き残ろうとする過程で、一層子どもたちの存在感が薄れてくる。保育施設を増やしても、基本的に流れは「少子化」です。出生率が上がっても、分母になる母親の数が減り続け、結婚しない男性が増えている状況で少子化は止まらないのです。
しかしここで忘れてはならないのは、いまの保育の仕組みは、人工的に作られた仕組みであって、絶対的なものではないということ。(0歳児を預からないと、私立の保育園の経営が成り立ちにくい、という現在の仕組みは、母親を乳児から引き離そうと、政府によって意図的に作られたものです。政府の考え方が変われば、どうにでもなる。政治家が、国の在り方を長期的に考え、幼児たちを大切にすることで起こるいい循環が、将来この国のモラルや秩序、学校教育の質にとてもいい影響を与えると思い直せば、方法はいくらでもあるのです。)
園児減少を心配する私立保育園・幼稚園には、子育て支援センターとしての機能を持たせて、経営の心配をしなくていいように、しっかり補助を出せばいいだけのことです。
少子化を背景に、保育園と幼稚園を競わせ節税しようとするいまの施策は、幼児の生活の質を蔑ろにした姑息な手法です。これでは、保育のサービス産業化を招くだけ。その向こうに、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定が見え隠れしています。親へのサービスを優先するといい保育士が去って行く。保育士という道を選んだ人たちの心の仕組みを、政府も経済学者も理解していない。ここが一番怖いのです。
保育士たちが「子育て」をしている限り、幼児たちは保育士の良心を育てます。すると、子どもたちの声、願いがよりはっきりと聞こえてくる。いい保育士は、自分たちが政府から押し付けられた「仕事」(役割)と子どもたちの願いの間に矛盾があることに気づいてしまう。程度の差こそあれ、保育士やめるか、良心捨てるか、ということになる。
母子手帳や乳児検診の延長線上に、乳幼児の母親たちが集まる場所を、例えば年配保育者やベテラン園長が常に居る幼稚園や保育園に併設して作る。すでにそうしている園もあって、園庭に小さな小屋とキッチンもあって、そこで簡易料理教室が自主的に開かれたり、ママ友の会が開かれたりしています。一緒に子どもを育てているという環境が、人間社会に絆が生まれる基本ですから、相談相手が自然にできてくる。本当は、ビルの一室などではなく、心が落ち着く森の中や、見渡すといい景色が見える静かな所などがいいのです。子育てに大切なのは風景、親たちの心の落ち着きですから。
(鳥取の取り組みついてツイートすると、こんなツイートが返ってきました。)
「私も同じように思います。一時保育や家庭保育の親向けの支援事業など、園児がいなくても地域が園に求めている必要な子育て支援事業はたくさんあると思います。家庭で保育したいけど経済的にできない家庭が待機児童って、子育て支援の方向として本末転倒のような気がしました。」
同感です。「家庭で保育したいけど経済的にできない」という状況は、最近、意図的に作られた意識、環境です。
子どもたち、特に乳幼児が家庭の中心に居て、その状況が成り立つようにサポートすることで「人間社会」が存在してきた。そうした進化にとって当たり前のこと、(遺伝子の)「働き」が、薄っぺらい経済論で覆い隠され、みながいつしか競争に追い込まれ、騙されている。
みんなで、当たり前のことをできるようにすればいいだけなのです。それだけの税金はもちろんある。それを国や自治体が馬鹿げた施策に使って無駄にするのであれば、幼児を眺めて話し合えばいい。幼児に視線が集まっていれば、本来「その絆」でなんとかできる。様々な状況でそうしてきた。そういう真実を学校でも教えてほしいと思います。貧しくても、幼児の幸せを優先に考えていれば、絆が生まれ、育てる側も幸せになれること。そして、この国は、そういうやり方が得意だったこと。それがこの国の美しさだったこと。

松居 和 様
遅ればせながら、新年おめでとうございます。
また、旧年中は2度もご講演を頂き本当に世話になりました。
さて、当町では平成29年度から、生後7ヶ月から1歳11ヶ月まで(17ヶ月間)の子どもを保育園等に預けず家庭で子育てする保護者(祖父母でも可)に月額3万円を給付する「家庭保育支援給付金事業」を創設することが決まりました。
実は、この施策は数年前から密かに温めていたものなのですが、制度設計をする段階で鳥取県の自治体(伯耆町、大山町、湯梨浜町)で既に似たような施策が実施されていることが分かり驚いた次第です。(世の中には同じことを考える人がいるんだなぁ〜と素朴に思いました(笑)
とはいえ、全国的には珍しい施策であることと、それなりに予算がかかるこの施策提案が執行部に通ったのも、松居先生のご講演のおかげだと感じています。
国の経済政策や子育て支援政策が迷走するなか、子育てを取り巻く環境はますます厳しい状況ですが、当町の子育て支援のポリシーを示す施策として定着させていきたいと考えています。
先生には、今後ともご支援を賜りますようお願いいたします。また、今後のご活躍を心からお祈りいたします。
時節柄、くれぐれもご自愛ください。
主任さんの教え
ある保育園の主任さんが教えてくれました。その園では、平日であっても、「休みの日はなるべく自分で子どもを見てください」と親たちに言います。そういうアドバイスを嫌がる親にも繰り返し、はっきりと言うのです。それが子どもたちのため、そして親の将来のため、と思うからです。
粘り強く説得し言い続けると、そのうち、その気持ちが通じて、園の意図や方針を少しずつ理解し、できる限り子どもと過ごすように努力する親もでてきます。そういう親たちの子どもは、病気になっても治りが早いのだそうです。欠勤日も減って、結局、親たちにとってもその方がいいのです、と自分も働く母親だった主任さんは言います。
そういう子育てにおける大切な法則、隠された子どもたちの存在意義のようなことを親身に説明してくれる主任さんが、最近とても少なくなりました。森の中から聴こえてくるような言葉を伝える人たちが、沈黙の方に還って行こうとしています。世間の常識が、利便性やサービス、権利といった言葉の方に行ってしまい、「子どもたちの気持ち」や「祈り」から離れてしまっているから、自然を感じ、本当に子どもの気持ちを優先している人たちが、呆れ、あきらめかけているのです。
土や水、木々や草花と接する機会が減って、人間の遺伝子がオンにならなくなってきている。保育という子育ての現場で、保育士と保護者が「一緒に育てている」という感覚が、政府の「保育はサービス、成長産業」という掛け声と施策によって失われていっている。それが、いま保育士と保護者との対立という図式にまで進もうとしているのです。その始まりに、親にアドバイスできなくなった主任さんたちの辛そうな顔が見えるのです。

学校教育や学問と離れた場所に、生きてゆくための、人間が「社会」を築いてゆくための本当の教えがたくさん散らばっていた。それは時に言葉による教えでもありましたが、幼児のように、その存在感だけで、私たちを育ててきたものもある。それが、忘れられ始めている。
それを伝える人たちの存在が気づかれなくなってきている。
そういう流れの中で、児童虐待やDVが増えているのです
真実や真理を伝える人たちがそこにいるのに、政府やマスコミに相手にされなくなって、学者なんてものが「専門家」と言われるようになって、政府が乳幼児の願いを新しい保育制度で考慮しないし、優先もしない。だから、社会全体がこういうことになってくるのです。「社会で子育て」「仕組みや制度で子育て」などと宣伝される中で、親身な人たちのネットワークが子どもたちの周りから少しずつ減ってゆく。悩んでいる人たちの周りから親身な相談相手が少しずつ消えてゆく。それが、政府の経済中心の施策で行われるから崩壊の進み方の速度が常識を超えている。
言葉を発しない乳児たちの願いを日々想像しながら、人間社会にモラルや秩序が生まれていた。そのことをもう一度、早く、思い出してほしい。
「児童虐待防止法」など作っても、家庭内の問題はそれが表面化するまでは行政や法律で取り締まれるものではない。そして表面化した時にはすでに遅い。幼児の人生を左右し、社会全体の未来を左右してしまう出来事は起こってしまっている。児童虐待やDVは、幼児と接し、共に幼児を眺める人たちが双方向へ絆を作り、その繰り返しで実感する「人間性」でのみ取り締まれるものなのです。

「貧困問題」
いま、これだけ国が豊かになって、「貧困問題」が起こっている。物質的豊かさで日本の上にいるのは、GDPで比べればアメリカと中国だけ。手法は異なりますが、意識的に作られた極端な格差社会。様々な問題を抱えた、子育てに関しては絶対に真似してはいけない二つの国です。EU諸国だってそうです。経済的にも、家庭崩壊や犯罪率でも日本に比べ、はるかにうまくいっていない国々。私は、日本は世界一豊かで安全な国だと思います。(夜、小学生が外を歩ける。)それなのになぜ、貧困問題、特に子どもの貧困問題が起こるのか。
実は、人類は豊かさに慣れていない。豊かさの中で進化してきていないから、遺伝子が豊かさに慣れていない。聖書や仏の教え、たぶんコーランや儒教にもあるように、貧しくても助け合って、祈って、感謝して、お互いの存在を感じて幸せになることのほうが上手だった。
いまの先進国社会特有の貧困問題は人類未体験の、日常生活の中で親身な助け合いが不必要になり、義務養育の普及に伴い子育てが「仕組み」に移り始め、信頼の絆が切れてゆくことによって生まれている「問題」なのです。だから、不幸と直結してしまう。「親身」という言葉は、親の身、と書く。親心の喪失(幼児の役割の喪失)が先進国社会の貧困問題の核にある。

政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。
そして、それは、保育の実情を正面から見ない、「子育てをすること」の社会における本当の意味に気付かない少数の素人たちの希望的観測でしかない。
「保育の受け皿」「女性が輝く」などという言葉をつかい、親が幼児と離れることをこれだけ政府が薦めるから、「日本、死ね!」などと逆に罵倒される。そして、それが「流行語大賞」の候補になったりする。
政府の思惑とそれに煽られた親たちの不満の狭間で、子どもたちが徐々に行き場を失っている。安心感を失っている。そしてそれが義務教育によって連鎖する。
子育てに対する親たちの意識の変化によって保育界が追い詰められている。その先に、学級崩壊よって追い詰められている学校がある。こういう現実は、すでに明らかで、はっきりしているのです。なぜ、政府はこの無理な流れを止めようとしないのか。
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(東京)保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も:http://www.asahi.com/articles/ASJD26HDDJD2UTIL05X.html:
新聞の記事ですが、まったく馬鹿げた話です。誰にでも予測できたこと。保育士不足がすでに解決不可能な状況にあることを、少なくとも私は二人の厚労大臣や安倍首相の側近と思える人たちにも直接伝えました。
杉並区や世田谷区でこれだけ無理をして保育園を作っても、いま、この段階で4月に必要な保育士が集まるか不明なのです。保育園は箱を作ればなんとかなる、というものではないのです。
杉並区では、今年の夏、子どもの気持ちや親の気持ちを無視するようなかなり高圧的なやり方で、区長が子どもに人気の公園を半分潰して保育園を作りました。待機児の来年度の予測が500人と言われているのに2017年4月までに2000人の受け皿を作る、供給は需要を喚起する、となどと言って、人気の公園をつぶさなくても500人分は十分確保できていたし、時間をかければ別の候補地を見つけることができたはずなのに、一気に進めたのです。その拙速なやり方に子どもを持つ親たちが署名運動までして反対したにもかかわらず、強引に進めた。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=556)その結果がこれです。
地下に保育所をつくれるように、東京都の区長会が国に緊急要望を出しています。彼らには、そこで幼児を育てる保育士や、そこに通って育ってゆく子どもたちの気持ちや日常が見えていない。保育士や幼児にとっての「景色」など、選挙や税収に比べればどうでもいいことなのです。人間として、常に思い出してほしいのは、保育における環境は、年に数日とか一日1時間というような次元の話ではないということ。一日平均10時間(政府は11時間を「標準」と名付けた)、年に260日という膨大な時間に関わる話なのです。子どもたちにとって、選択肢のない「日常」なのです。「風景」は、とても大切なのです。生きてゆく「風景」の大切さを知ることは人生を知ること。それがこの国の文化だったはずです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060:
こんなやり方をしておいて、こんな要望を出しておいて、「感性豊かな子どもを育てる」とか、「国を愛し、地域を愛する」子どもを学校教育で育てる、などと言っているのですから、政治家たちは自分の生き方から考え直した方がいいのではないか。政治家たちこそ、まず感性を磨き、真の愛国心を持ってほしいと思います。国を愛することの始まりは、幼児を愛することです。
都が居住手当を月に8万円援助し、区が5万円の商品券を用意し、地方の保育士育成校へ出掛けて行って青田買いをして、必死に人数を揃えようとしています。ですが、実は、保育園で何年も過ごす幼児たちのことを考えれば、本当の問題は、4月に保育士資格を持っている人を人数分揃えればいい、ということではまったくない。
保育士資格を持っている人の多くが、現場に出てはいけない人たち、資格を与えてはいけない人たち、保育の意味を理解していない人たちです。それはいまの保育現場に来る実習生や、専門学校や養成校の授業の質、その先に居る幼児たちのことを考えようともしない資格の与え方、一度も現場に出なかった、政府が言うところの「潜在保育士」たちのことを少し調べればわかります。その現実こそが、幼児にとって最重要問題なのです。よほど園長や主任がしっかりしていても、3人募集して6人応募してくるような倍率がないかぎり保育士の質はもう揃えられない。そこまで、国の施策に保育界が追い込まれている。それが、保育園を新設することの恐ろしさです。
公立でも、正規、つまり地方公務員で雇わない限り、もう保育士たちが定着しない時代になってきた。数人まとめて簡単に辞められたら、その時点で保育は国基準を割るのです。園長は、いつ辞められるかビクビクし、悪い保育士に注意もできない。(以前、園児を虐待した保育士に対する警察の取り調べに、辞められるのが怖くて注意できなかった、と言った園長のことをこのブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=465)
最近は、待機児童問題を自園の人気と勘違いし、「嫌なら転園しろ」と親に言う乱暴な保育士や園長さえいる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400
政府が進める保育の市場原理化によって、絶対に入ってきてはいけない業者や素人が、ネット上の誘いに乗って「儲けよう」という意図で保育界に参入してくる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1478 そんな保育指針も読んでいない業者のやっている職場へ就職した「いい保育士」が1、2年でやめていって、二度と戻ってこない。こんな状況を何年続けるのか。「保育は成長産業」という閣議決定だけでもすぐに取り下げてほしい。いままで保育の質を保ってきた、次の世代を育てるべき人たちがどんどん辞めていっているのです。

一方で、いい保育士がいないから、と、来年は0歳児をやめて、しかも定員を減らします、という良心的な園長もいます。3歳未満児の保育単価の高さを考えると、これは園の経営を危うくする相当重い決断です。それでも、良くない保育士に乳児を保育させるわけにはいかない、と園長は言うのです。能力のない保育士に3歳児20人、4、5歳児30人など任せられない。脳の発達ということから考えると、3歳未満児の保育こそ、きめの細かい心づかいや声がけが大切なのです。
政府の施策によって、一緒に育てる、という信頼関係が保育現場で揺らいでいる。仕組みがすでに限界を超えている。
マスコミや親たちがそこを理解しない限り、幼児にとっての保育士不足の問題は解決しないのです。

長年にわたる政府による保育の質の軽視や長時間保育の薦めの結果と言ってもいいでしょう、企業が戦力にならない労働力に戸惑っています。そして、為替差益というギャブンブル以外に税収が増えないとわかった時、政府はしまったと思うのかもしれません。そのとき、福祉は、すでに「精神的に」成り立たなくなっている。経済界も、「潜在的労働力」の質の低下に呆然とするのです。
なんでもお金で解決出来る、という意識が生んだ負のスパイラルに、この国も急速に引き込まれつつある。
乳児、幼児の役割、存在意義を政府やマスコミが思い出して欲しいと思います。
