主任さんの教え・保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も・政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。

主任さんの教え

 

ある保育園の主任さんが教えてくれました。その園では、平日であっても、「休みの日はなるべく自分で子どもを見てください」と親たちに言います。そういうアドバイスを嫌がる親にも繰り返し、はっきりと言うのです。それが子どもたちのため、そして親の将来のため、と思うからです。

粘り強く説得し言い続けると、そのうち、その気持ちが通じて、園の意図や方針を少しずつ理解し、できる限り子どもと過ごすように努力する親もでてきます。そういう親たちの子どもは、病気になっても治りが早いのだそうです。欠勤日も減って、結局、親たちにとってもその方がいいのです、と自分も働く母親だった主任さんは言います。

そういう子育てにおける大切な法則、隠された子どもたちの存在意義のようなことを親身に説明してくれる主任さんが、最近とても少なくなりました。森の中から聴こえてくるような言葉を伝える人たちが、沈黙の方に還って行こうとしています。世間の常識が、利便性やサービス、権利といった言葉の方に行ってしまい、「子どもたちの気持ち」や「祈り」から離れてしまっているから、自然を感じ、本当に子どもの気持ちを優先している人たちが、呆れ、あきらめかけているのです。

土や水、木々や草花と接する機会が減って、人間の遺伝子がオンにならなくなってきている。保育という子育ての現場で、保育士と保護者が「一緒に育てている」という感覚が、政府の「保育はサービス、成長産業」という掛け声と施策によって失われていっている。それが、いま保育士と保護者との対立という図式にまで進もうとしているのです。その始まりに、親にアドバイスできなくなった主任さんたちの辛そうな顔が見えるのです。

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学校教育や学問と離れた場所に、生きてゆくための、人間が「社会」を築いてゆくための本当の教えがたくさん散らばっていた。それは時に言葉による教えでもありましたが、幼児のように、その存在感だけで、私たちを育ててきたものもある。それが、忘れられ始めている。

それを伝える人たちの存在が気づかれなくなってきている。

 

 

そういう流れの中で、児童虐待やDVが増えているのです

真実や真理を伝える人たちがそこにいるのに、政府やマスコミに相手にされなくなって、学者なんてものが「専門家」と言われるようになって、政府が乳幼児の願いを新しい保育制度で考慮しないし、優先もしない。だから、社会全体がこういうことになってくるのです。「社会で子育て」「仕組みや制度で子育て」などと宣伝される中で、親身な人たちのネットワークが子どもたちの周りから少しずつ減ってゆく。悩んでいる人たちの周りから親身な相談相手が少しずつ消えてゆく。それが、政府の経済中心の施策で行われるから崩壊の進み方の速度が常識を超えている。

言葉を発しない乳児たちの願いを日々想像しながら、人間社会にモラルや秩序が生まれていた。そのことをもう一度、早く、思い出してほしい。

「児童虐待防止法」など作っても、家庭内の問題はそれが表面化するまでは行政や法律で取り締まれるものではない。そして表面化した時にはすでに遅い。幼児の人生を左右し、社会全体の未来を左右してしまう出来事は起こってしまっている。児童虐待やDVは、幼児と接し、共に幼児を眺める人たちが双方向へ絆を作り、その繰り返しで実感する「人間性」でのみ取り締まれるものなのです。

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「貧困問題」

 

いま、これだけ国が豊かになって、「貧困問題」が起こっている。物質的豊かさで日本の上にいるのは、GDPで比べればアメリカと中国だけ。手法は異なりますが、意識的に作られた極端な格差社会。様々な問題を抱えた、子育てに関しては絶対に真似してはいけない二つの国です。EU諸国だってそうです。経済的にも、家庭崩壊や犯罪率でも日本に比べ、はるかにうまくいっていない国々。私は、日本は世界一豊かで安全な国だと思います。(夜、小学生が外を歩ける。)それなのになぜ、貧困問題、特に子どもの貧困問題が起こるのか。

実は、人類は豊かさに慣れていない。豊かさの中で進化してきていないから、遺伝子が豊かさに慣れていない。聖書や仏の教え、たぶんコーランや儒教にもあるように、貧しくても助け合って、祈って、感謝して、お互いの存在を感じて幸せになることのほうが上手だった。

いまの先進国社会特有の貧困問題は人類未体験の、日常生活の中で親身な助け合いが不必要になり、義務養育の普及に伴い子育てが「仕組み」に移り始め、信頼の絆が切れてゆくことによって生まれている「問題」なのです。だから、不幸と直結してしまう。「親身」という言葉は、親の身、と書く。親心の喪失(幼児の役割の喪失)が先進国社会の貧困問題の核にある。

 

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政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。

そして、それは、保育の実情を正面から見ない、「子育てをすること」の社会における本当の意味に気付かない少数の素人たちの希望的観測でしかない。

「保育の受け皿」「女性が輝く」などという言葉をつかい、親が幼児と離れることをこれだけ政府が薦めるから、「日本、死ね!」などと逆に罵倒される。そして、それが「流行語大賞」の候補になったりする。

政府の思惑とそれに煽られた親たちの不満の狭間で、子どもたちが徐々に行き場を失っている。安心感を失っている。そしてそれが義務教育によって連鎖する。

子育てに対する親たちの意識の変化によって保育界が追い詰められている。その先に、学級崩壊よって追い詰められている学校がある。こういう現実は、すでに明らかで、はっきりしているのです。なぜ、政府はこの無理な流れを止めようとしないのか。

 

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(東京)保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も:http://www.asahi.com/articles/ASJD26HDDJD2UTIL05X.html:

新聞の記事ですが、まったく馬鹿げた話です。誰にでも予測できたこと。保育士不足がすでに解決不可能な状況にあることを、少なくとも私は二人の厚労大臣や安倍首相の側近と思える人たちにも直接伝えました。

杉並区や世田谷区でこれだけ無理をして保育園を作っても、いま、この段階で4月に必要な保育士が集まるか不明なのです。保育園は箱を作ればなんとかなる、というものではないのです。

杉並区では、今年の夏、子どもの気持ちや親の気持ちを無視するようなかなり高圧的なやり方で、区長が子どもに人気の公園を半分潰して保育園を作りました。待機児の来年度の予測が500人と言われているのに2017年4月までに2000人の受け皿を作る、供給は需要を喚起する、となどと言って、人気の公園をつぶさなくても500人分は十分確保できていたし、時間をかければ別の候補地を見つけることができたはずなのに、一気に進めたのです。その拙速なやり方に子どもを持つ親たちが署名運動までして反対したにもかかわらず、強引に進めた。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=556)その結果がこれです。

地下に保育所をつくれるように、東京都の区長会が国に緊急要望を出しています。彼らには、そこで幼児を育てる保育士や、そこに通って育ってゆく子どもたちの気持ちや日常が見えていない。保育士や幼児にとっての「景色」など、選挙や税収に比べればどうでもいいことなのです。人間として、常に思い出してほしいのは、保育における環境は、年に数日とか一日1時間というような次元の話ではないということ。一日平均10時間(政府は11時間を「標準」と名付けた)、年に260日という膨大な時間に関わる話なのです。子どもたちにとって、選択肢のない「日常」なのです。「風景」は、とても大切なのです。生きてゆく「風景」の大切さを知ることは人生を知ること。それがこの国の文化だったはずです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060:

こんなやり方をしておいて、こんな要望を出しておいて、「感性豊かな子どもを育てる」とか、「国を愛し、地域を愛する」子どもを学校教育で育てる、などと言っているのですから、政治家たちは自分の生き方から考え直した方がいいのではないか。政治家たちこそ、まず感性を磨き、真の愛国心を持ってほしいと思います。国を愛することの始まりは、幼児を愛することです。

 

都が居住手当を月に8万円援助し、区が5万円の商品券を用意し、地方の保育士育成校へ出掛けて行って青田買いをして、必死に人数を揃えようとしています。ですが、実は、保育園で何年も過ごす幼児たちのことを考えれば、本当の問題は、4月に保育士資格を持っている人を人数分揃えればいい、ということではまったくない。

保育士資格を持っている人の多くが、現場に出てはいけない人たち、資格を与えてはいけない人たち、保育の意味を理解していない人たちです。それはいまの保育現場に来る実習生や、専門学校や養成校の授業の質、その先に居る幼児たちのことを考えようともしない資格の与え方、一度も現場に出なかった、政府が言うところの「潜在保育士」たちのことを少し調べればわかります。その現実こそが、幼児にとって最重要問題なのです。よほど園長や主任がしっかりしていても、3人募集して6人応募してくるような倍率がないかぎり保育士の質はもう揃えられない。そこまで、国の施策に保育界が追い込まれている。それが、保育園を新設することの恐ろしさです。

公立でも、正規、つまり地方公務員で雇わない限り、もう保育士たちが定着しない時代になってきた。数人まとめて簡単に辞められたら、その時点で保育は国基準を割るのです。園長は、いつ辞められるかビクビクし、悪い保育士に注意もできない。(以前、園児を虐待した保育士に対する警察の取り調べに、辞められるのが怖くて注意できなかった、と言った園長のことをこのブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=465)

最近は、待機児童問題を自園の人気と勘違いし、「嫌なら転園しろ」と親に言う乱暴な保育士や園長さえいる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400

政府が進める保育の市場原理化によって、絶対に入ってきてはいけない業者や素人が、ネット上の誘いに乗って「儲けよう」という意図で保育界に参入してくる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1478 そんな保育指針も読んでいない業者のやっている職場へ就職した「いい保育士」が1、2年でやめていって、二度と戻ってこない。こんな状況を何年続けるのか。「保育は成長産業」という閣議決定だけでもすぐに取り下げてほしい。いままで保育の質を保ってきた、次の世代を育てるべき人たちがどんどん辞めていっているのです。

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一方で、いい保育士がいないから、と、来年は0歳児をやめて、しかも定員を減らします、という良心的な園長もいます。3歳未満児の保育単価の高さを考えると、これは園の経営を危うくする相当重い決断です。それでも、良くない保育士に乳児を保育させるわけにはいかない、と園長は言うのです。能力のない保育士に3歳児20人、4、5歳児30人など任せられない。脳の発達ということから考えると、3歳未満児の保育こそ、きめの細かい心づかいや声がけが大切なのです。

政府の施策によって、一緒に育てる、という信頼関係が保育現場で揺らいでいる。仕組みがすでに限界を超えている。

マスコミや親たちがそこを理解しない限り、幼児にとっての保育士不足の問題は解決しないのです。

 

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長年にわたる政府による保育の質の軽視や長時間保育の薦めの結果と言ってもいいでしょう、企業が戦力にならない労働力に戸惑っています。そして、為替差益というギャブンブル以外に税収が増えないとわかった時、政府はしまったと思うのかもしれません。そのとき、福祉は、すでに「精神的に」成り立たなくなっている。経済界も、「潜在的労働力」の質の低下に呆然とするのです。

なんでもお金で解決出来る、という意識が生んだ負のスパイラルに、この国も急速に引き込まれつつある。

乳児、幼児の役割、存在意義を政府やマスコミが思い出して欲しいと思います。

 

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