変わらないものへの憧れ

高校生、中学生、小学生に、夏休みを利用して三日間の保育士体験をさせていた園長先生の話です。
保育園は夏休みもやっていますし、〇歳児からいるから都合がいい。変わらないものへの憧れが、風景と共に、自分の中ではっきりとしてくる。
一昔前になりますが、ふだんはコンビニの前でしゃがんでタバコを吸っている茶髪の悪そうな高校生が、園にくると園児に人気が出て、生き返るというのです。
心が園児と近いと生きにくい世の中になったのかもしれません。だからこそ一人でしゃがんでいたのかもしれません。

駆け引きをしない人に人気が出るということは、本物の人気。高校生も、本能的にそれを知っていて、自分が宇宙から認められた気分になる。それでいいんだ、と宇宙から言われ、不良高校生たちの人生が変わる。自分が自分であるだけでいい、という実感が「生きる力」になる。

それまで、信じることのできない相手からいろいろと言われてきて反発していたのに、そのままでいい、と一番信じられそうな人に言われ、命に対する見方が変わるのです。そして、自分もこうだった、ということに遺伝子のレベルで気づく。幼児を世話し、遊んでやって、遊んでもらって、弱いものを守る幸せが新鮮なことに思えるのでしょう。駆け引きのない人間関係の楽しさ、嬉しさに感動するのですね。
どんなにひねくれた高校生でも、どんなに苦しそうで危機に陥っている人でも、一歳児に微笑みかけられると嬉しくなる。微笑み返します。幼児とのやりとりは、人間に、自分は本質的に善だ、ということを憶い出させてくれる。
赤ん坊と母親が家庭科の時間に学校にきたり、中学生が保育園に出向いたり。親の1日保育者体験もそうですが、こうした幼児たちとの直接的体験の積み重ねが、いつか社会に生きてくる。

ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、保育園に来て、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意して上がらなかったズボンが、三才児が注意すると三秒で上がる。
三才児は無心に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。
高校生は、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が必要なのです。

風景が生み出す「心のゆとり」

「ママがいい!」からの抜粋です。この部分が一番好きですとメールをくださった方が居て、嬉しかったのです。

風景が生み出す「心のゆとり」が集団としての人間を支えていたのだ。言葉でも理屈でもない。幼児の居る風景が整ってゆくと、幼児のいる風景が人間社会を整えていく。

その風景が人間たちの安心を支えるのだ。窓から雨をながめ、一緒にしゃがんで花をながめ、カタツムリをながめ、倒されてしまった積み木をながめ、ある日静けさの中で、無言で心を重ねてくれる人が身近にいるかどうか……。その有無で幼児期の体験はその価値が決まってくる。いい保育士は、それを生まれながらに理解している。その静かな心の重なり合いが少ないと、数年後に始まる学校生活での人間関係の質が粗くなってくる。

(「ママがいい!」からの抜粋です。)

 

時間どろぼうの罠

人類は、母親無しでは生きられず、その制約は数年間続く。その条件を克服することが、進化の過程で脳の発達をうながし、他の種に比べ、格段に高度な社会性を築いたのだと言う。わかる気がする。

他人には任せられない。でも、一人では育てられない。

生まれて数年、絶対に「自立」できないこと、その先も、子孫を残すためには家族だけではなく、「部族」が必要であることが、大自然の一部でありながら、超自然ともいえる「優位性」を人類に与えたのです。逆算すれば、絶対的弱者たちを「育てる」、「可愛がる」という体験をしなければ、高度に発達した社会を維持するための「人間性」が獲得できないということ。だから、国連やユネスコ、WHOも、人生最初の千日間は、できる限り「親と引き離さないように」と、それを、子どもたちの「権利」として説く。

子どもたちが、親たち(人類)を育てる「権利」と言ってもいいでしょう。:人類の存続は、子どもたちの「承認」を前提とする

欧米先進国で、「家族の形」がこれほどまでに崩れ、責任の所在が曖昧になり、実の「父母」と言う言葉が、いつの間にか避けられるようになってさえいる。「特定の人との持続的な関係」などと言い代えられたりする。これは、優位性を武器に「豊かさ」に溺れた、意図的な「退化」です。

仕組みが、人間の思考を支配し始めている。地球温暖化の原因になった「驕り」(おごり)に似ています。「個人の夢」(主体制)によって、「絆」という持続性が後回しにされ、社会全体が集団としての方向性を見失い、破壊に向かおうとしている。(アメリカは子どもの権利条約に署名していますが、批准はしていない。批准できる環境では既にない。)

先進国という言葉に騙されてはいけない。「多様性」とか「平等」いう言葉で越えてはいけない一線がある。

人間が哺乳類である限り、原点、出発点は「ママがいい!」です。

「第一義的責任」

発達心理学者の草分けエリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある、と指摘し、それは世界中どこへ行っても、ことわざや言い伝えを通して、誰でも知っていたこと。それが最近、日本でも言い難くなっている。

学問も、政治も、マスコミも「市場原理」に操られ、強者の「権利」(利権)が優先され、「子育て」が、「可愛がること」から、「戦力をつくること」にシフトして行った。「体験」であるべきものが、「手法」になろうとしている。保育とか福祉、教育という仕組みで代替できると思い始めていることに、それが現れる。

以前、幼稚園の保育園化を進める政府の「幼保一体化ワーキングチーム」の座長を務めていた発達心理学者が、『保育の友』という雑誌のインタビューに答え、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせない時に社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言ったのです。これには驚いた。一人の学者が、こういうことを言うのは仕方ない。でも、このポジションにいる学者が言うと、仕組みが動く。三歳未満児を長時間預らないと民間の保育が生き残れないように、補助事業の仕組みが巧妙に変えられていったのです。

幼保一体化は、「女性の就業率80%」という数値を目標にしています。そこに至る論理性が、これほど稚拙で、非現実的でも構わない、という政府の姿勢が驚きだったのです。

五歳までしか関われない保育士に、第一義的責任は負えない。毎年担当が変わり、一歳児は一対六、三歳児は一対二十、五歳児は一対三十という条件で、どの保育士がどの子の第一義的責任を負うというのか。

この座長は、ただの(たわいも無い)学問、思いつきで発言している。「第一義的責任」の理解が浅いばかりか、「子どもの権利条約」違反でしょう。こういう学者の軽々しい発言が、言葉から質量を奪い、報道によって、人間の会話から、深みが抜け落ちて行く。法令とか条例を作ることで、社会全体が薄っぺらいものになっていく。

この発言に誰も異を唱えなかった。

報道は、「待機児童」という言葉を使い、むしろ母子分離施策を「権利」として支持した。

一つの園、ひとクラスでも実行できるはずのない空論を「保育の友」で語った学者も、それに異論を挟まなかったマスコミも、政治家も、豊かさの中でポピュリズムと言う「市場」に反応している。親たちが何を聴きたがっているか、嗅ぎ分けている。

子どもたちだけが、正直に、「ママがいい!」と、叫び続けた。

子どもを保育所に置いて行く時に、「いってきます」も「じゃあね」、も言わない親が現れ保育士を悩ませている。荷物を置いていくように、子どもを置いていく。それを叱れない。

親身なコミュニケーションを奪われた「仕組み」の中で、保育士は「子育て」をさせられている。そして、「親身さ」を捨て始めている。

その風景が、日本の教育現場の崩壊を暗示している。

一人では生きられなかった、という「気づき」と、それでも、(母がいれば)生きられた、という「意識」の「相対性」の中に「子育て」(愛)は存在する。

 

講演に行き、幼稚園・保育園での「親の一日保育者体験」をお願いしています。

園で、幼児の集団に一人ずつ親をつけ込むと、遺伝子の動きが活発になって、「親心」が覚醒する。親たちの感想文から、それがわかるのです。希望者のみ、では駄目。実際には無理でも、「全員を目指します」とハッキリ言ってほしいのです。子育てに選択肢はない、という意思表示をしてほしい。選択肢がないから、より深く、内側に、自分自身を発見し、体験する仕掛けだった。そこに、「いい人間」はちゃんといる。宇宙は、私たち人間に、自信を持って0歳児を与えている。

しつこく、当たり前のように、淡々と、「子どもが喜びますよ~」と園長先生が言い続ければ、ほとんどの親がやりますね。特に、父親は、子どもたちに囲まれ喜ばれると人生が変わる。

(やり方は、「ママがいい!」に書きました。中学生たちの感想文と一緒に。)

 

「こども未来戦略がいう『安心感』」

配置基準を変え、待遇を良くしても、政府の意図と宣伝で、乳幼児を躊躇なく預ける親が増え続ければ意味がない。仕組みを良くする以上に、悪くする動きが「子育て支援」「安心プラン」の名の下に進められているから、学校教育への「負債の先送り」が止まらない。

異次元の少子化対策を進めている「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「どのような状況でもこどもが健やかに育つという安心感を持てる」戦略、と書いてある。

しかし、よく読むと、これは、「こどもが健やかに育つという安心感」ではなく、「いつでも誰かに子どもを預けることができる安心感」であって、母子分離が根底にある。知らない人に自分の子どもを預けることを「安心」と結びつける。こんな馬鹿げた論法が、閣議決定で、いつまで通るのか。

戦略の中に頻繁に出てくる「両立」という言葉は、子どもの側からは成り立っていないのです。そればかりか、この十年間、様々な規制緩和で、「保育の質」は著しく下がってきている。

義務教育が「義務」であることが、諸刃の剣となっていく。親の「責任感」が弱まれば、特別支援学級を増やすしかない。それによって教員不足はさらに進む。0、1歳児保育を国策で増やし、それによる保育士不足を規制緩和で誤魔化し、保育界から良心を奪っていった同じ過ちを、国は再び繰り返している。体験に基づかない「戦略」で、「こどもが健やかに育つ」環境は、さらに遠のいていく。

(これまでの経緯については、「ママがいい!」を、ぜひ、読んでみてください。心ある保育士たちは、三十年間、必死に子どもたちを守りながら、政府の母子分離策に抵抗してきた。)

 

 「子育て安心プラン」https://www.kantei.go.jp/jp/headline/taikijido/pdf/plan1.pdf(首相官邸ホームページ)に、こう書いてあります。

「『M字カーブ』を解消するため、平成30年度から平成34年度末までの5年間で、女性就業率80%に対応できる約32万人分の受け皿整備。(参考)スウェーデンの女性就業率:82.5%(2013)」

これが「子育て安心プラン」の正体。

「子育て安心」=「いつでも預けられる」。誰が、どこから、こんな論法を持って来たのか。学者や専門家のお粗末な欧米コンプレックスが原因だとしたら、あまりに情けない。しかし、この論法がいまだに政府の保育施策の中心にある。それでも〇、一、二歳児を手離そうとしない日本の六割の母親に対する苛立ちか、作り過ぎた保育施設と、増設した養成校の延命、生き残りのためか、「誰でも通園制度」(異次元の少子化対策)で、国は、預ける親を増やすことに、いまだに躍起になっている。

(『M字カーブ』解消の「参考」に国が挙げたスウェーデンでは、三十年以上前から半数以上の子どもが未婚の母から生まれている。伝統的「家庭観」が消える一方で、五年前に徴兵制を「女性も含める形で」復活させた。徴兵し、女性に銃を持たせることが本当に「平等」なのか。貨幣で計られる「平等」の行き着く先、M字カーブ解消の正体がそこに見える。

「女性らしさ」が応えようとする「子どもたちの願い」が、いつの間にか価値基準から外されているのです。

外務省、海外安全ホームページの勧告:「犯罪統計によると、スウェーデン国内では、2020年に約157万件の犯罪が報告されています。2020年の日本の犯罪件数は約92万件(犯罪白書)であり、人口規模(日本:約1億2000万人、スウェーデン:約1000万人)で比較すると、スウェーデンでは非常に多くの犯罪が発生しています」。

犯罪率が、日本の二十倍。50年前、「福祉」という概念で家庭崩壊を進めた社会の、これが「結果」です。親子の絆という「安心感」が、教育や保育、学問を過信することで失われていくと、大体こうなる。)

「母子分離との戦い」

「欲の市場原理」に基づいた母子分離を「進歩」とすることで家庭崩壊が加速し、モラルや秩序が失われていく。欧米がたどった道筋について考えると、その向こうに、家族から引き離され、読み書きや、算数や、「所有」の概念を寄宿学校で教え込まれようとしたアメリカインディアンの子どもたちが見えてくる。カナダ政府とアメリカ政府は、ネイティブアメリカンの子どもたちを家族から引き離し、人類普遍の「伝承」を「学校」という仕組みで断ち切ろうとした。(過去、現在、日本も含め、様々な権力によって繰り返された手法です。)

伝承の世界で幸せだった子どもたちに、競うこと、欲をもつことを教え、アダム・スミスが言う資本主義のエネルギー「不平や不満の概念」を植え付けようとした。しかし、親から離された多くのインディアンの子どもたちが戦力にならず、一部は虐待され、学校内で殺されていった。

(カナダでは、1881年から1996年までに15万人の先住民の子どもが政府によって親から引き離され、「同化」を目的にカトリック教会が運営する寄宿学校に送られた。:ロイター)

去年、そのことでローマ教皇がカナダまで謝りに行ったのです。

「カナダを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、かつて先住民の同化政策にカトリック教会が関与し虐待が行われた問題で、先住民らに謝罪しました。」

【ローマ教皇】カナダ先住民への虐待謝罪 「謹んで許しを請いたい」

https://news.ntv.co.jp/category/international/584e91f97f9743f6a4b6592af5597a5e#

 遺体は「1000以上」、暴行、レイプ、……先住民の子どもを大規模虐待、~カナダ寄宿学校の闇

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/109871?display=1

宗教と国策からみの母子分離と、子どもの「遺体は1000以上」という大規模虐待は、それほど昔のことではない。虐待された子どもたちは、まだ生きている。「家族と、暮らしたかった!」と叫び、踊り狂っている。

教皇は、どんな気持ちで飛行機に乗っていたのだろうか、と考えるのです。

カソリック信者にとって、教皇は特別な位置にいる。その人が謝りに行けば、もう、言い訳はできない。しかし、ネイティブアメリカンにとって、「教皇」という地位は意味を持たない。

信仰は、一人一人と神との問題であって、それだからこそ美しいし、尊ばれなければいけない。それを忘れ、宗派とか教会という仕組みの単位で考えると、心の中に領域(テリトリー)が生まれ、必ずと言っていいほど、紛争や争いごとになってしまう。

「ママがいい!」(神がいい!)という声が遠のいていく。

国家や民族という単位、国境線という縛りもまた、人類が、高度な社会性を身につける過程で作られたもの。いつか、乗り越えなければならない縛り。

「Imagine all the people, Living for today」(ジョン・レノン)

だから、と再び思う。強者たちによる「母子分離をベースにした労働力確保」、そこに「教育」が介在する手法は、現在進行形のものであり、危険だということに気づいてほしい。「ママがいい!」という叫びは、どこの国、どんな時代でも、人間が人間であるために尊重されなけばいけない。それが、「古(いにしえ)」のルールだ、ということを忘れないでほしい。

ネイティブアメリカンの子どもたちには、白人の政府が掲げた「基本的人権」は適用されなかった。そればかりか、最近になって、子どもたちの遺体が次々に発見されるまで、その事実が隠蔽されていた。理念としての「自由と平等」を「教育」で押し付けられ、子どもたちは必死に叫んだのです。「ママがいい!」と。

その主張は、大地からの警告でした。

彼らの声が、慣らし保育で日本の子どもたちが言う「ママがいい!」と重なるのです。人類を導く者たち(子どもたち)の「健気さ」、神話を形づくる響きが、その中にはある。母親が、その言葉で輝き、女性たちの「その輝き」を守るのが「社会」(部族)であるべき、その原点が思い出されないかぎり、いまの混沌は収まらない。

人間本来の、「可哀想」という感覚を、強者の自己肯定感(自己中心)で無視しようとする動きを、「異次元の少子化対策」「こども未来戦略」から感じとって欲しい。こんな「戦略」に騙されてはいけない。

この時間が、親子にとって、二度と返ってこない、選択できない「時間」であることだけは確かでしょう。政府の「戦略」で、それが大量に奪われようとしている。「伝承の時間」が盗まれていく。

1980年代に世界中で出版され、映画にもなった、ミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」を思い出します。あの物語りがあれほど支持されたのは、「幼児という存在」を見つめる意味を、誰もがすでに知っているからです。自分自身がエビデンスであることを知る道筋が遺伝子の中には既にある。

(トールキンの指輪物語が二十世紀に最も読まれた文学作品の一つ、と言われ、その遺志、内的欲求は、「トトロ」や「千と千尋」に継承され、支持されている。この巨大な共感が、エビデンスであり、真実だからです。あとは、政府の「戦略」に気づき、みんなで排除していけばいいだけ。)

「伝承」が「神話に過ぎない」と言われても、ああ、そうですか、と言えばいい。本来、神話の世界で人間はコミュニケーションをするのです。人類をその次元に導くために、0、1、2歳との会話があるのです。

親たちが、この時間を守るのです。子どもたちは、親たちを「守る人」に育てることはできますが、「私の人生」が、「私たちの人生」になる、その選択をするのは親たちです。その権利を与えられただけでも、充分に「生き甲斐」になる。

二歳児と二人で歩いていると、すべてが完璧に思える。それは錯覚だ、と誰かが言っても、その錯覚は、確かに二人だけのものだった。

政府の言う「子育て安心」が、「時間どろぼう」が仕掛けた罠だということを理解してほしい。慣らし保育で、子どもたちがそれに慣れても、原因をつくった親たちが、慣れてはいけない。社会全体がそれに慣れてはいけない。

自分が、人間性のビオトープの一員と考えられる仕組み。子どもたちを母親から引き離すのは「可哀想」という気持ちが、ふつうに言葉になり道筋を決める。そんな場所と時間を取り戻さないと、様々な仕組みが、明らかに限界に近づいているのです。

幼稚園、保育園が、幼児たちの存在意義が宣言される場所、親心を耕すビオトープになって欲しい。政府や学者が、自分たちの失敗を覆い隠すために言う「現実」とは別の現実が確かに存在すること、そこで「古」(いにしえ)のルールが働いていることを、遊んでいる幼児たちから学んでほしい。砂場の「砂」で幸せになれる者たち、頼り切って、信じ切って、幸せそうな人たちが、人生の「目的」を大人たちに教えることができる場所を増やしていってほしい。

よろしくお願い致します。

(この文章を、友人であり、笛の仲間でもある、Douglas Spotted Eagle=スポッツに捧げる。)

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」を、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。「武器や道具にされたくない」「時間を盗まれたくない」という願いが、伝わり始めているのかもしれない。

親の1日保育士体験をやっている公立園の園長先生が嬉しそうに報告してくれました。一人の女の子が、「お誕生日プレゼントいらないから、来て」と母親にお願いしたそうです。自分もお母さんを自慢したい。園長先生にとってその言葉は、自分たちが「いい保育」をしている、という証しでもありました。部族の勲章です。

国という時間どろぼうに奪われた「時間」を取り戻す方法はあります。エンデさんの書いた「モモ」を読んで、時間どろぼうたちの存在に気づき、幸せそうに生きる若者たちが増えてくれれば、と思います。みんなが、「時間」を自分のものにするために、モモは、いつも身の回りにいる。

私の家の居間には、エンデさんが座ったソファーがあります。

ちょっと自慢です。)

 

『生命尊重ニュース』への寄稿

「生命尊重ニュース」8月号、に原稿を依頼され書いたのですが、嬉しいメールをいただきました。ブログにも載せます。コピーペースト、拡散などしていただければ幸いです。。

松居 和先生

先生のお原稿はお蔭様にて大変好評を頂き、「『生命尊重ニュース』を10部送って下さい、保育士仲間に送ります」とか、「先生の『ママがいい!』の御著書を10冊購入して配らせて貰いました」等々、たくさんの反響を頂きました上、先生の掲載号は在庫がなくなってしまうほどでした。

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。    『生命尊重ニュース』編集長

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「生命尊重ニュース」8月号

ママがいい!

―宇宙は、なぜ0歳児を与えるのか

音楽家・作家・元埼玉県教育委員長 松居 和

 

私が30年住んだアメリカでは、3人に1人が未婚の母から生まれ、20人に1人が一生に1回刑務所に入ります。少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者と言われています。

25年前、タレント・フェアクロス法案という法案が連邦議会で審議されました。二十一歳以下の未婚の母には補助金を出さず、その予算で孤児院を作り、そこで子どもを育てようという法案でした。まだ起きていない犯罪を裁くこと。これほどの人権侵害はない、と思いました。

孤児院で育てば犯罪者になる確率、虐待される確率も少ない。否決されましたが、当時の下院議長が、「24時間の保育所と考えればいい」と言ったのを忘れません。「福祉」はそこまでいく可能性を持っている。

子育ては親が親らしく、人間が人間らしくなっていく道筋です。そのことを忘れては人間社会は成り立たない。

0歳・1歳・2歳児の存在意義

結婚しない、子どもつくらない若者が増えています。「結婚」は自ら進んで不自由になること。子どもを産むことは、それに輪をかけて不自由になること。そこに幸せがなければ人類は滅んでいる。

なぜ宇宙は我々に0歳児を与えるのか。立ち止まって、考えてほしい。「不自由になれよ」「幸せになれよ」と言って与えるのです。私たちが生きているのは、私たちの親たちが、私たちに自由を奪われることに幸せを感じたから。自由を捧げることに喜びを感じてくれたからです。

生まれて初めて赤ん坊が笑う。それを喜ぶ自分を体験し、人間は、自らの人間性を知ります。その笑顔を分かち合って、社会の土台ができるのです。

赤ん坊が泣く。私は、ある時、1分以内に泣きやむ方法があるはず、と色々試したのです。泣きやんでほしいと思うと、泣きやまない。そこで、赤ん坊を抱きながら1つの風景に集中してみました。アフリカの大草原に、マサイ族が1人立っている。この風景に私が集中すると、1分以内に泣きやむのです。

その話をしたら一人の園長先生が、そのくらいの赤ん坊は、認知症のおばあちゃんが抱くと泣き止みますよ、と教えてくれました。認知症のおばあちゃんと赤ん坊が二人ひと組になって、何かを伝えようとしている。人間のコミュニケーションの次元を深くするのは、一人では生きられない人たちとする体験なのです。

言葉を話せなくても、生きられる。ご飯を食べることができなくても、お母さんがいれば、生きられる。そこに人間としての道が現れます。社会にその風景が満ちていること、それを繰り返し目にすることの大切さを思い出してほしいのです。

 

子どもは誰が育てるのか

「待機児童」という言葉があります。が、実は待機している児童などいない。待機させられているだけ。0、1、2歳は哺乳類。お母さんといたいのです。

去年、「ママがいい!」という本を書きました。

アマゾンのジャンル別で一位になっているのですが、このタイトルを見て涙が出ました、と言う保育園の園長先生がいました。これは「慣らし保育」の時の子どもたちの叫び、ひと月も続くすすり泣きです。母親にとっては勲章なのです。それなのに、私たちを信じようとする幼児たちの願いから、みんなが目を背け、耳を塞ごうとする。保育学者が「社会で子育て」と言い、政府の母子分離策を支える。自己肯定感、自主性、などと訳のわからないことを言って、子育てをわかりにくくする。園長先生はそれに手を貸しているのが嫌になっていたのです。

慣れてはいけないことがある。

「ママがいい!」と主張することを、子どもが諦め、黙った時、私たちは大切なものを失っていく。ひとを信じる心、利他の心、助け合う絆が、営みから抜け落ちていく。少子化であるにも関わらず幼児虐待過去最多、不登校児童過去最多、という現象にそれが現れます。そして、無理難題を押し付けられた、いい保育士、いい教師たちが辞めていく。

これ以上規制緩和しても、仕組みは復活しません。子育てを親に返していくしかないのです。

幼児たちは、誰でもいい、とは言っていない。古(いにしえ)のルールを忘れてはいけない。

七年前、千葉で保育士が園児を虐待し、逮捕された。その時、園長が警察の取り調べに「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言い、新聞記事になった。保育士の資質の問題が、政府の施策の問題に変化している。園長が悪い保育士を注意できないなら、0、1、2歳を預かってはいけない。3歳以上なら「先生に殴られた」と親に言える。乳幼児は言えないから、みんなで心を一つに、大切にする。それが人間社会の出発点でしょう。

国が、11時間保育を「標準」と名付けたのは、子どもの権利条約違反。それを保育学者は指摘しない。そればかりか、「可哀想」と誰も言わない、言えない雰囲気になっている。平等とか、権利だとか、経済だとか、両立だとか、大人の都合ばかり優先され、社会全体が感性を失っていく。

スウェーデンで50%の子どもが未婚の母から生まれるのは福祉が進んでいるから、と良いことのように言った専門家がいました。福祉が進めば家庭は崩壊する。幼児虐待、女性虐待が爆発的に増える。それは欧米の数字を見れば明らかなのに。日本のマスコミや学者は未だに日本は遅れているなどと言い、厚労省がエンゼルプラン、文科省が預かり保育、もっと預かれと保育者たちに言い続けたのです。雇用労働施策で、社会のモラル・秩序が崩れていきました。

保育の無償化は“子育ての社会化”です。これだけ保育士が不足し養成校が定員割れを起こしている状況で、できるわけがない。国の制度と位置付けるには、保育士の当たり外れが酷すぎる。それを知っていて言わない学者たちは、資格ビジネスの維持に必死なのです。

全国で保育者が悲鳴を上げています。これ以上預かったら親が親でなくなる。二十年前、子育て支援は子育て「放棄」支援、と保育士たちは言っていたのです。しかし、マスコミは子どもたちの側には付かなかった。

五日間せっかくいい保育をしても、月曜日また噛みつくようになって戻ってくる。せっかくお尻がきれいになっても、月曜日真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親を作り出しているのは自分たちではないか、このジレンマの中で日本の保育士は30年やってきたのです。今、異次元の少子化対策で、国は就労規定さえ外そうとしています。もう限界です。心ある保育士たちが去っていきます。国の少子化対策(雇用労働施策)で少子化は一気に進んだことを、マスコミを含めみんな知っているのに、保育の質、子どもたちの願いは、後回しにされ、今、学校教育の崩壊という逃げられない「現実」が突きつけられている。

 

幸せのものさし

親が子どもに殺される確率はアメリカの50分の1、犯罪率は欧米の20~60分の1。

この国には、子どもを可愛がる「伝統」がある。欧米に比べ状況は奇跡的にいい。「ママがいい!」ぜひ、読んでみてください。これからどうすべきか具体的に書きました。

0歳児を預けることに躊躇しない親が増え、学級崩壊が手に負えなくなって気づき始めましたが、子育てを自分の責任、生きる動機、喜び、と感じる親が急速に減っているのです。人生の始まりに、「ママがいい!」と叫ぶのを「諦めた」子どもたちが、親になり、教師になり、保育士になっている。

子育てはイライラの原因、預かります、と選挙対策で政府が言えば、結婚しない、子どもを産まない若者は増えるのです。でも、少子化は困る、と言う。滅茶苦茶です。こども家庭庁が、「子ども真ん中」とか言って、小学生、中学生の意見を聴く、と「やったフリ」をしますが、子どもの意見を聴くなら、「ママがいい!」と泣く幼児たちの声をまず聴くべき。人間性を支えるその言葉を無視し、社会から「利他の気持ち」を根こそぎ奪う一層の母子分離を政治家たちは進めている。二人目は保育料無償にする、「子どもが輝く」と最近都知事が言いました。

私が提唱してきた幼稚園や保育園における「1日保育者体験」、一人ずつ親を園児に漬け込むことで、親たちに「感謝」の気持ちが芽生えます。県で取り組むところが四県、自治体や、園単位でも広がっています。父親たちを幼児に混ぜることで家庭内暴力が止まったりします。

アメリカで高卒の2割が読み書きができず、26%が高校を卒業しない。4割の子どもが未婚の母から生まれる。親の半数が子どもに無関心という現実がすでに可能性としてあるのです。子どもたちが「親を育てる」という役割を果たせない。

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と言われた。内村鑑三は、教育で専門家は育つが、人は育たない、と言い、アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識だ、と言いました。

 

父親をウサギにする権利

日本は、“祈ること”を背景にした非論理的な国。『男はつらいよ』という映画は、欲を捨てた時に幸せになれるという仏教の教えが土壌にある。キリスト教も「貧しき者は幸いなり」と言います。親になる事は、損得勘定を捨てること。その利他の道筋が意図的に市場原理によって壊されようとしている。

11時間保育を国が「標準」と名付け8時間勤務の保育士に押し付けた時、朝、預ける保育士と帰りに返して貰う保育士が別人になりました。親身になるな、と言われたようなもの。親たちも、この人に預ける、から、この場所に預ける、という感覚になった。育てる側の心が一つにならない人類未体験の状況が、この時始まったのです。

0歳から園に来ると、保育士は、子どもが初めて歩けるようになる瞬間に出会うのです。そんな時、園長は「親に言っちゃいけないよ。『もうすぐ歩けますね』と言うんだよ」と教えた。「親が見ていないことを許したら、私たちの仕事が親子の不幸に手を貸すことになるんだからね」。これが本当の保育士心。そうやって親たちを導いてきた園長たちが、「保育は成長産業」とした閣議決定でサービス産業化させられ、消えていった。

ある時、保育園で父母に講演したあと、「はい、お父さんたち、ウサギになってくださーい」と、園長先生がウサギのかぶり物を渡しました。1人も断れないのです。驚きでした。園長は、父親をウサギにする権利を持っている。幼児という神様・仏様、精霊の前では、人間は正しい方向に進むしかない。強張っていた父親もかぶって3分もしたらウサギです。父親も、実はウサギになりたかった。(「逝きし世の面影」(渡辺京二著)という本を読むと、150年前、日本の父親たちがいかに幼児と一心同体だったか、欧米人が驚きを持って書き残しています。)

昔、男たちは年に2、3回、祭りの場でウサギに還っていた。自分の中に四歳だった頃の、砂場の砂で幸せになれた自分はいる。それに気づけば、「自分次第なのだ」と確認できる。父親をウサギにして一番喜んでいたのが母親たち。日本の、全ての幼稚園・保育園で、月に1回父親をウサギにすれば、世界平和もあるのではないか、とふと思いました。予算はほとんどいらない。

 

お母さん、どこ

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」/「ここにいるじゃない」/「それはコウちゃんのお母さんでしょ」。弟を抱いた私に、娘は言った。長いまつげの小さな目は、悲しげにも見えたし、何かをためしているようにも見えた。

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」/「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」。娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ。

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」玄関でくつをはこうとする娘の小さな背中を見ていたら、私は夕闇の中で、大切な人に置き去りにされたように、心細くてたまらなくなった。同時になぜか、動揺している自分がくやしくもあるのだった。

娘はふり返って、私が泣いているのを見て、

「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、やっぱりここにいた」と、無邪気な風に言うのだった

 

私の講演を聞いた母親が送ってくれた「詩」です。

三歳の娘に「お母さん、どこ」と聞かれたら答えようがない。でも、このお母さんは、泣く、という、魂に寄り添うやり方を知っていた。教えたのはヒカリちゃんです。

生きる力は、信頼の連鎖に身を置くこと。それを幼児が体現している。

人間は、自分を「いい人間」にしてくれる者たちを自ら産み出すのです。頼り切り、信じ切って、幸せそうにしているその人たちがいれば、私たちは大丈夫なのです。

保育は、他人の子どもを複数、油断なく、心を込めて可愛がること。遠くを見ながら、幸せを願うこと……。生きる動機、天性の資質が問われる役割です。そういう人は、自然界における「伝承」であり「現象」。社会全体に、子どもを可愛がる雰囲気が満ちていないと成立しない。

先進国の中で奇跡的に家庭崩壊が進んでいない日本なら、間に合うかもしれない。

幼稚園や保育園、自主的な集まりでもいい、幼児を使って「親心のビオトープ」を増やして行くのです。親や生徒たちを園児に浸す、家庭での読み聞かせを習慣として広め、耕す。同窓会を繰り返して、みんなで祝えば、園が心の故郷となる。

お互いの子どもの小さい頃を知っている人たちに囲まれ、子どもは育っていくのです。いくつか行事を組み合わせれば、学校が成り立つ絆を復活させることは可能です。

社会を鎮めるために、幼児と過ごす時間を増やすのです。

宇宙は、我々を信じて、0歳児を与えている。伝令役たちを大切に守らなければいけません。

 

PROFILE

まつい・かず

1954年東京生まれ。慶應義塾大学哲学科からカリフォルニア大学民族芸術科に編入、卒業。尺八奏者としてジョージ・ルーカスやスピルバーグ監督などの多数のアメリカ映画に参加。1988年アメリカにおける学校崩壊、家庭崩壊の現状を報告したビデオ 「今、アメリカで」を制作。1990~98年東洋英和女学院短大保育科講師。家庭崩壊や幼児教育のあり方に関する講演を行い、欧米の後を追う日本の状況に警鐘を鳴らしている。2006年より埼玉県教育委員、2009~2010年同委員長。著書に『なぜ、わたしたちは0歳児を授かるのか』(国書刊行会)『ママがいい!』(グッドブックス)他がある。ブログ「シャクティ日記」に連載執筆中。

 

11月10日、渋谷のJZ-Bratで演奏します。

 

11月10日(金)19:30、渋谷のJZ-Bratで演奏します。ピアノの塩入さん、ディジュリドゥーのKnob君、パーカッションの菅原さん、いつものメンバーで即興主体にやります。

(この日は、午前中に大田区私立幼稚園連合会主催の「子育て講演会」で、保護者の方たちに十時から別のところで、話します。区長も来るようです。)

音楽と子育て、両方とも、見えないけれど確実に存在する次元での、不思議な交流です。0、1、2歳児との会話が、人間を「祈り」に導き、そこでは音楽と沈黙が調和している。

それを即興演奏で表現できたら、嬉しいです。

「園長も喜びますよ~」:日保協の石川県支部、青年部主催の研修会で、今週、講演します。

日保協の石川県支部、青年部主催の研修会で、今週、講演します。(10/6(金)15:00~16:30  金沢市文化ホール二階 大集会室 )

県内外の保育関係者であれば、参加できるようです。申し込みフォーム:https://forms.gle/txkW8xYQwnraeYgG7)

金沢は、去年逝ったお袋の故郷。祖父が、小さな本屋さん「福音館書店」を始めた街。そのお袋が、京都の同志社大学で親父と出会わなければ、「ぐりとぐら」も「ぐるんぱ」も、この世に生まれなかったかもしれない。私もこういう話を始めなかったし、「ママがいい!」と言う本も書かなかった。人生は物語ですね。

日保協の青年部が主催してくれることが、嬉しくもあり、心強い。チラシに「ママがいい!」を載せてくれています。子どもを優先する、という保育指針の精神を、もう一度、取り戻そうとしているのだと思います。

懇親会を楽しみにしています、という連絡も入りました。二代目、三代目の園長、後継者たちに、彼らの御母堂たち(私の師匠たち)から教わった、保育の筋道を伝えるチャンスです。

可愛がり、寄りそう、「保育は、祖母の心持ちでやるものです」という神話の伝承をしなければ。

私は、時空を超えた、伝令役なのです。

保育を成長産業と位置付けた国の施策は、行き詰まっています。人間性を無視するから、こういうことになる。

子どもの願いに興味のない、「家庭」の成り立ちを理解していない「こども家庭庁」は迷走状態で、「ママがいい!」という叫びに耳を貸さないばかりか、子ども未来戦略(令和5年6月13日閣議決定)で、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ように、とまで言っている。

親が「夢を追いかける」には、乳幼児が障害物だと言う。それは、そうかもしれない。でも、「こども家庭庁」がそれを言ったらお終いでしょう、と腹が立ってきます。同時に、ネグレクトの奨励とも思える(慣らし保育なしの)「子どものショートステイ」を、「圧倒的に整備が遅れている」と言うのですから、稚拙で、強引な「洗脳」の危険性が見えてくる。

「今後、インド、インドネシア、ブラジルといった国の経済発展が続き、これらの国に追い抜かれ続ければ、我が国は国際社会における存在感を失うおそれがある」と書く。

冒頭に、そんな杞憂を掲げ、預ける先の「質」が二の次、三の次になっているのですから、この「戦略」は思慮の浅い経済施策、「子ども真ん中」を掲げるこども家庭庁が出す施策としては、明らかに本末転倒なのです。

「国際社会における存在感」など、どうでもいい。慣らし保育における、幼児たちの「ママがいい!」という叫びを真剣に聴く姿勢こそが、この国の国際社会における存在感でなければいけない。

国の「戦略」通りに進めれば、少子化がさらに進むでしょう。いじめや不登校がもっと増えるに違いない。その程度の想像は、みな付くようになっている。「子ども真ん中」などいう言葉では、騙せなくなっている。

私は、幼稚園、保育園を「親心のビオトープ」に、とお願いします。そうやって、子どもたちの「願い」を優先すれば、道筋はついていく、と園長たちを説得します。

金沢行きの新幹線の中で、窓際の席に座って、講演を聴きに来た人のいく人かが、園で一日保育士体験を始めてくれたら、と考えるのでしょう。それに、一日一冊、読み聞かせの習慣を定着させることができたら、それだけで、この国は立ち直る。

親たちから文句が出たら、「ここは私の園です。私が楽しく園長をできなければ、子どもたちは良い感じに育ちません。ですから、私のやり方に従ってもらいます」と言えばいい。

福祉はサービスだ、当然の権利だと思っていた親は、目を白黒させるかもしれませんが、小さい子どもを育てている親たちは、たいてい理解しますね。最終的に、園長の人気も高まります。親たちは、親身な人を、本能的に探しているからです。

子育てをしている親たちの「財産」は、周りに親身な人がいるかいないか、なのです。

親を一人ひとり、順番に、「楽しそうな」子どもたちに漬け込む。世界を信じようとしている人たちに、委ねる。子どもたちが親を育てる力を信じる時が来ています。

全員を目指してください、とお願いします。

目指す目標が「全員」だと、それが、一つの意味を持つ。子育ては、希望者だけやればいい、というものではないのです。そこに選択肢はない、という常識が、利他の心を育ててきた。

親は子どもを選べない、子どもは親を選べない。選択肢がないことが、人類を支えてきた。

それがわかるための「一日保育者体験」です。

夫婦が、それぞれ別々の日に、がいい。

「子どもが喜びますよ~」と、笑顔で、言い続ける。それだけのことです、とお願いします。子どもたちが、我々の味方ですから、だいじょうぶ、と次の世代の園長たちに言うのです。そして、小さな声で、「園長も喜びますよ~」と付け加えれば、もっといい。

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。)

一昔前なら、「禁じ手」

 

幼稚園、保育園で保育者、保護者たちに講演する機会が戻ってきました。

保育士の勉強会や幼稚園教諭の研修会、各園から役員の保護者が集まってくる県大会もあって、園長先生たちと毎週のように意見交換します。

四十年前に私の講演を聴き、ずっと親の保育士体験やってます、という高齢の園長先生に会ったりすると、時間と空間が、子どもたちを通してつながっているようで、嬉しくなります。

講演前後の会食や、前泊しての懇親会に期待している先生たちもいて、その場でさらに突っ込んだ意見と情報分析を求められます。

幼稚園、保育園、こども園、こども園の場合は1号と3号の割合、施設補助をどの程度受けたか、正規職員と非常勤の割合、など、二十年前ならあり得なかった様々な要素が絡み合います。そこにぶら下がりの小規模保育や企業型保育も加わる。

幼稚園の七割がこども園になっている地域もあれば、一つもなっていない市もあります。幼稚園が一つもない自治体もありますし、ほとんどの子どもたちが、公立幼稚園を卒園する市もある。(公立幼稚園は、全国的に見れば絶滅危惧種。親にサービスをしないことによって、親たちの強い絆が育つ。私の好きな形です。無償化で、一気に消えて行きましたが。)

そこへ、いま「保育バブルの崩壊」と言われる状況が起こっている。少子化や、園児の奪い合いによる撤退、損得を賭けた買収、M&Aが起こっている。市場に見切りをつけた廃園も相次ぎ、子ども優先という人間社会の「柱」が置き去りにされ、揺らいでいる。

事情の異なる地域で、現場の状況を考慮せず変更されていく「制度」と、「親たちの意識の変化」、その両方に直面し、方向性を見失っている園長先生、「生き残り」と「いい保育」の板挟みになり、それでもパズルを一生懸命解こうとしている理事長先生たちがいます。

昼食会で女性の園長先生たち、懇親会では主に男性の園長・設置者たち、みたいになることがあって、保育に対する姿勢の違いにちょっと笑ってしまいます。ざっくり言えば、子どもを主体に考えるか、経営者的立場が先に立つか、子育てをテーマに、女性らしさ、男性らしさが現れます。どちらが正しいということではないのです。私はとにかく、園で、親心をどう育むか、ということ、「園を親心のビオトープにしてください」と、お願いする。

子どもと一生付き合っていくのは親たち、その人たちの「子育て」に対する関心が薄れるのが一番怖い。義務教育は、受けきれない。仕組みの中で、密かに、確実に、親たちに「子育て」を返していくこと。幼稚園・保育園でしかできないこと、その大切な役割りについて話します。(「ママがいい!」にそのやり方が書いてあります。園で貸し出したりして、親が理解すると、難しいことではない。)

保育に関わる人たちは、幼児に日々囲まれている人たちで、根っこはいい人たち。混沌から抜け出すには、まず、納得できる目標と、やり甲斐が必要なのです。私は、時空を越えた伝令役となり、情報収集をするのですが、生き残るために保育が「親サービス」になっていくこと、それだけは止めなければいけません。

国は、「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ようにする、と書く。

子どもを預けないと、夢が追いかけられない、人生の幅も狭まる、確かにそうかもしれない。しかし、そんな趣旨を、わざわざ書いて閣議決定すれば、子どもが邪魔者のように思えてくる。そこで政府の思惑通りに母子分離が広まれば、次世代に「夢を託す」という、人間社会に不可欠な「利他」の動機が社会から消えていく。

六割の女性たちが、0、1、2歳を預けようとしないことに、政府も経済学者も苛立っている。だから、こういう失礼な閣議決定をするのです。

しかし、実は、この辺りの誘導、安い労働力を確保するための閣議決定で促される社会全体の意識の変化が、保育の質、小中学校での教員の質を下げていく。

今年、「二人目は無償、そうすれば子どもが輝く」という、意味不明な発言が、都知事の口から飛び出しました。それが、「チルドレンファースト」だという。以前、首相が国会で言った、保育園でもっと預かれば女性が輝く、までは、欲の資本主義の範疇かもしれない。しかし、母子分離で、「子どもが輝く」「チルドレンファースト」と言われると、唖然とするしかない。

この荒唐無稽な論理の飛躍を、マスコミが反問することなく報道してしまうから、「ママがいい!」という子どもたちの必死の願いに日々対峙する保育士たちは、たまらない。

 

公立保育園を抱え、現場と政府の「戦略」の間で板挟みになっている行政の課長や係長が講演会に来ます。先日講演会を主催してくれた園長先生から、メールをいただきました。

「保育課の職員も講演後私のところに来て『素晴らしかったです!時々胸にグサッ!ときましたけど大変勉強になりました』と感想を述べておりました」。

現場と行政が一緒に聞いてくれるとありがたい。そこが心を一つにできないと、いつまで経っても問題は解決しない。

単体の保育園や幼稚園でも、市議や市長を「この講演だけは聴いてほしい」と引っ張ってきてくれる園長先生がいます。園長先生たちは、保護者や卒園児の親たちという票を持っている(感じがする)ので、選挙が近いと政治家は結構来ます。市長が来ると、一緒に教育長や福祉部長が来たりします。

親たち、保育者、行政、議員、市長、みんなで一緒に聴いて、その地域で「子どもたちのために」心を一つにして欲しいのです。

大きな大会では、知事や市長と控え室で話す機会があります。

そんな時は、義務教育の将来が、「今、保育施策で何をするかに掛かっています」と危機感を伝えます。園長先生たちが前もって「ママがいい!」を渡してくれていたり、レクチャーしていて、私の講演会に顔を出す首長は、すでに保育の重要性に気づいています。

 

「保育バブルの崩壊」は、不動産バブルや介護保険の時と違い学級崩壊につながります。児童虐待や、児童養護施設、学童、特別支援学級の混迷と混沌にも直結する。だからこそ、保育界に必要なのは、何より、その安定性だった。それが、政府の思惑や、母子分離によって生じる利権争いを絡め、失われている。

その中心に、

「保育分野は、『制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野』」(「日本再興戦略」:平成二十五年六月十四日閣議決定)という閣議決定があった。

都市部では0歳児に、すでに欠員が出て、地方では、幼稚園はもとより、保育園でも定員割れが起こり、(政府の母子分離政策が主導している)少子化は、止まる気配を見せない。募集すれば園児が集まる園でも、いい保育士が揃わないという理由で定員を減らしたり、精神的に持たない、と廃園を模索する園が出始めている。

良くない保育士を一人雇うことが致命傷になることがある。保育とはそういうもの。信頼関係や、ゆとりを失ったら「いい保育」はできないのです。

人員不足は、学校でも切迫した問題になっていて、役場も事情は理解する。「いい保育士が見つかりません」と言えば、受け入れるしかない。

人生における様々な「物差し」が交錯し、混乱している様子を見ていると、ミヒャエル・エンデの書いた「モモ」がふと頭に浮かびます。「時間どろぼう」が暗躍している。

 

「禁じ手」

コロナで講演ができなかった間に、国の母子分離策は進み、保育園はパートで繋いでいい、と規制緩和がされました。常勤の保育士を確保できなくなってきたのです。それを「短時間勤務の保育士の活躍促進」(新子育て安心プラン)と名付けた国のネーミングには呆れます。

一昔前なら、「禁じ手」だった。

幼児期、特に長時間預けられた三歳未満児は、誰と愛着関係を結ぶのがいいのか、保育士でいいのか、そうだとしても「一対三の担当制がいいか、三対九の複数担任制がいいか」、不完全な仕組みが宿命として抱えた、子どもたちの将来に影響する永遠の課題だったのです。そうした親身な悩み、心遣いを、国は「短時間勤務保育士の活躍促進」と言って、簡単に踏みにじる。一億総活躍もそうですが、この人たちは「活躍」という言葉で誤魔化す。矛盾だらけの「安い労働力確保のための政策」を押し通す。専門家会議に出ているはずの保育学者たちは、一体何をやっているんだ、と腹が立ちます。

一方で、長く、多く、預かる街が「子育てしやすい街」という図式が受け入れられていく。子ども好きの保育士からすれば、「子育て放棄しやすい街」に見える。その矛盾が学級崩壊やいじめ、教師の質の低下に連鎖し、すでに限界を超えているのに、気づかないのか、気づこうとしないのか。

首長の選挙対策と、正義を装い、親の利便性を守ろうとしてきた報道を介して、母子分離という形の「福祉」が利権として定着していった。

「ママがいい!」という、幼児たちの願いを根こそぎ、無視しておいて、「子ども真ん中」と言うのは、もう辞めてほしい。

 

(『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました、と、出版社グッドブックスの良本編集長から、Facebookに報告がありました。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4793

じわじわと読まれている。口コミとSNSが頼りです。今、なるべく多くの人に読んでもらいたい。気づいてほしい。拡散、どうぞ、よろしくお願いいたします。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。(#ママがいい)

『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました。

出版してくれたグッドブックスの良本編集長から、Facebookに投稿がありました。じわじわと読まれている。口コミとSNSが頼りです。今、なるべく多くの人に読んでもらいたい。どうぞ、よろしくお願いします。

 

(良本さんのメール)

松居和著『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました。

2位の『親といるとなぜか苦しい』は世界で売れている本で、高い壁になっていましたが、ついに抜きました!!(一時的かもしれませんが)。

『親といるとなぜか苦しい』はずっと注目してきた岡田尊司さんが監訳されていて、もちろん買いましたが、タイトルだけを見ると『ママがいい!』と相反する内容のようで、じつは相関関係にある本です。

愛着形成がうまくなされなかった親子に生じた悲劇をうたった本は最近多く見られるようになってきましたが、『ママがいい!』はその根っこの部分が壊されようとしていることを問題提起しています。

『親がいるとなぜか苦しい』は翻訳物なので、日本の現状と合わない部分もあり、まだ日本はそこまで壊れていないと感じるのですが、このままいけば、欧米に追随してしまうと思います。

今日もどなたかが『ママがいい!』を手にしてくださっていることを想像すると、本当にありがたいことです。

 

 

アフリカ経由、縄文時代から日本へ

「この動画、見て下さい。

日本人がいかに素晴らしかったのか。取り戻していきたい事、保育に繋がる事がみえてきます。 https://youtu.be/k1zx_VpUfcQ縄文時代の日本の文化がアフリカの奥地に伝わっていた!

というメールをフェイスブックにいただきました。保育関係者は、乳幼児と関わっている人が多いので、この種類の伝言、伝承に敏感です。

真実のメッセージに溢れている。お薦めです。

日本の青年がアフリカに行って、ブンジュ村で部族のシャーマンから「日本はすごい国だ。たくさんのことを学んだ」と感謝される話なのですが、シャーマンが言う日本が、縄文時代の日本なんですね。こういう時空を越えた人間のコミュニケーション能力って、すごいですね。感動します。ほとんど、「だいくとおにろく」とか「わにわに」、「モモ」の世界です。

文化人類学者なら、たぶん驚かない。(原ひろこさんなら驚かない。)普通の学者だったら、エビデンスがあるのか、とか、絶対馬鹿げたことを言って反論すると思いますね。学問、学者、大学、資格、というものは、ブンジュ村の真実から遠ざかっていくようで、本当に厄介です。

このアフリカに行った、ペンキで絵を描く青年は、大学の保育科で教えることはないはず。しかし、アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識だ、と言ったんです。こういう人ほど、全国すべての保育科で教えてほしいと思います。

有名大学で保育科の教授が、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いた学生に、勉強不足と言い、不合格にする時代になっている。この国が立ち直るきっかけを、学者が潰している。

なんで、こんなことになってしまったのか。大学という仕組みが市場原理に取り込まれたためか、利害関係が複雑なのか、様々な次元の損得勘定が働いて、本当のことが見えなくなっているのです。「ママがいい!」と言う幼児の願いが、動機としては一番純粋で、利他の心で社会を満たすもの、と気づけばいいだけのこと、なのですが。

動画は、アフリカのブンジュ村のシャーマン、そこへ出掛けて行ったペンキで絵を描く日本の青年、この動画のことを私に教えてくれた保育者経由で伝わってきた、縄文時代の日本人からの「伝言」です。

 

「諦める、ということは、いまから真の休息が来るということ」

「日没になって、真っ暗になったら、全ての仕事を諦めなければならないから」

「この世には、諦める時間が来ることの幸せがある」

「諦めることを知らない親に育てられた子どもは、諦められなくなる」

 

いいなあ、こういう伝言。

村長、すごい。縄文時代の日本人に習った、と言って感謝しているところが、真実味があっていい。

虫と会話ができる民族は、日本人とポリネシア人だけだそうです。この辺りの話も、尺八奏者でもある私にはとてもよくわかるんですね。

(十一月十日、渋谷のライブハウスJzBratで、塩入さん、ノブくん、菅原さんと、また演奏します。ぜひ、予定帖に書き込んでおいてください。大田区私立幼稚園連合会の皆様、保護者の皆様、ご心配なさらずに、演奏の方は、夜です。)

早速、いく人かの友人に知らせたら、子育て関係者、絶賛です。幼児たちと毎日会話を重ねている人たち、幼児の時間を大切にしている人たちは、こういう真実を、直感的に理解するんですね。「エビデンス」なんて言葉に縛りつけられて、身動きができなくなっていない。(「自然治癒力」は、あちこちに形を変えて存在している http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4381 )

児童養護施設で、最前線で頑張っている友人から、こんなメッセージがきました。

ありがとうございます。

日々の忙しさのなかで、見失いかけていたものに気付きました。

笑顔を忘れた職員と

笑顔が消えた子どもたち

魂がすり減っていく音が聞こえてきます。

でも、明日も歩き続けます。

そこに子どもたちがいる限り。

タンザニアの村のお話しを寝る前にしてあげようと思います。

 

 

思い出すこと。日本の記憶

 思い出すこと

 

希枝ちゃんのお通夜には数百人の人たちが集まってきたのです。家族が知り得なかった、希枝ちゃんの人生がそこに現れた。

希枝ちゃんは私の教え子で、授業の後、暗くなるまで残って食い下がってくる学生の一人でした。卒業してからも時々会いました。保育士を辞めて病気になってしまって、私は、山から汲んできた力のあると言わる水を届けました。でも、彼女は逝ってしまった。

家族に頼まれ、告別式で一曲手向けました。彼女は、私の演奏が好きだったから。

いつまでも続く、葬儀屋さんが慌てるほどの長い静かな行列になりました。仕事から駆けつけた人、子どもの手をひく母親。子どもたちの中には、制服姿の子もいました。

あの、優しいけど、頼りになる笑顔で、希枝ちゃんはすごいことをしたんだな、と思いました。

子育ては、オロオロしながらやるもの。みんなでオロオロすれば、社会が出来上がる。そんな流れの中で、希枝ちゃんは、いつも変わらず、みんなを園に迎え入れていたにちがいない。

自然な、静かだけど強い、その姿が、みんなを安心させたのでしょう。この人は、いつでも親身になってくれる。

あの人が、あそこに、ああして立っているんだから、私たちは、だいじょうぶ。

私も、時々、思い出して、会いたいなぁ、と思うのです。

 

日本の記憶

日本の保育は、「逝きし世の面影」(渡辺京二著)http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 に描かれる、子どもを泣かせないこの国の伝統と土壌から生まれた、世界で唯一無二のもの。

この国の良心、文化や伝統に根付いた「生きる動機」が、最もいい形で発揮された領域。そこに私の教え子が一人立っています。

欧米先進国とは「子育て」に対する視点が元々違うのです。

百五十年前に日本に来た欧米人が書き残した文章を、「逝きし世の面影」を介して読むと、欧米は、子育てを、かなりな部分、教育と重ね合わせ、将来の「戦力」を育てる意識で見ているような気がする。それに対し、日本人は、子どもを崇拝する、歓ぶ。インドや中国をすでに見た欧米人が、そのやり方、子どもの「扱い方」に衝撃を受け、「パラダイス」と呼ぶのです。

第十章だけでも読んでほしい。そして、欧米的な教育論、学問によって私たちが何を失おうとしているか、考えてほしいのです。

「逝きし世の面影」:第十章「子どもの楽園」から」

 

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838~1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている…(バード)』

 

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

 

『十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる(ヴェルナー)』

『私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない(ムンツィンガー)』

『「日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである。(チェンバレン)』

『日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ』。

『日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも十六世紀以来のことであったらしい。十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである。』

『ワーグナー著の「日本のユーモア」でも「子供たちの主たる運動場は街上である。・・・子供は交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。彼らは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担った運搬夫が、独楽(こま)を踏んだり、羽根突き遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、少しのまわり路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や駆者を絶望させうるような落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する。」ブスケもこう書いている。「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧を揚げており、馬がそれを怖がるので馬の乗り手には大変迷惑である。親たちは子供が自由に飛び回るのにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が乳母の足下で子供を両腕で抱き上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」こういう情景は明治二十年代になっても普通であったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ。』

(ここから私です。)

子どもの扱い方で、その国の性質、本当の姿が見えてくるのだと思います。ここに挙げた「記録」は、私たちの中に文化的「記憶」として残っている。それゆえに価値がある。これだけ一律に欧米人が驚きを持って、それを(私たちに)伝えようとしています。

日本人の子どもの可愛がり方は、尋常ではない、それが「事実」であり、ある国で、人類がたどり着いた極上の「調和」だった。

その伝統が、まだ残っているから、私は、人類の宝ともいえる「そのやり方」を、政府が母子分離施策で根こそぎ刈り取っていくのを見ているのに耐えられないのです。一言でも「愛国心」を言う政治家は、まずこの国の本質と役割を愛することから始めてほしい。

「逝きし世の面影」の中に、日本人の男、夏と冬という絵があって、夏の男はふんどし姿で子どもを抱き、冬の男は着物姿で子どもを抱いている。政治家たちも、頻繁に子どもを抱っこしてほしい。そうすることで、本当の日本の男になってほしい。

それからでしょう、「愛国心」について語るのは。

 

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。子どもたちは、可愛がってもらいたいのに、繰り返し裏切られて、大人を信じなくなっている。児童養護施設の荒れ方を知ると、最後の堰が切れようとしているのがわかる。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。)