私たちは、決断しなければならない

ここ数十年、幼児たちの本当の「価値」が徐々に忘れられ、「ママがいい!」という叫びに無関心になるよう、政府やマスコミが、経済優先の誘導を続けてきました。

豊かになり、選択肢が増えたのかもしれませんが、結果的に児童虐待と、不登校が過去最多になっている。保育士や教師を有資格者で確保することが、不可能になっている。

「ママがいい!」という子どもたちの叫びに真剣に耳を傾けるのか、「保育園落ちた、日本死ね!」と言う親たちの要求を優先するか、「選挙や、利権争いの枠を越えて」、私たちは、決断しなければならない。それが、この国の、道筋を決める。

いまこそ、「誰もが幸せになれる方法」を思い出すべきなのです。

 

選択肢があることが、いいこと、という概念のもとに、義務教育は普及しました。

しかし、選択肢がない、親は子どもを選べない、子どもは親を選べない、という条件が「親を」育てないと、義務教育は成り立たない。

そこに、先進国社会に共通した落とし穴がありました。

欧米で、急速に家庭崩壊が広がった「原因」と、その「結果」が、すでに義務教育の「仕掛け」自体にあった。

「自分は、一人では生きてはいない」という自覚の中で、人間は、会話をする。そして、宇宙の、ルールを体感する。

宇宙の中には、必ず、012歳児がいて、山や、川や、海、大自然が景色としてある。

その中に、「子守唄」という、不思議な役割を果たすものさえ、ある。

西伊豆で。

ありがとう。

「選択肢」がないことの幸せ

さて、チャンネル第72回は、テーマが、「選択肢」がないことの幸せ。

副題は、『育休をとった人の「同僚に報奨金!」👍』

最初に、こんな質問を、紹介しました。

「息子の時と、孫(まご)育ての時の違いは、責任の差でしょうか」。

(私の答え)

歳をとると、責任の受け取り方が、より自然に、相手の気持ちを優先するようになる。

自分が弱者になるということが、いい。

抗えない、自然の流れを理解するようになる。

子どもに対しても、結果を求めるというより、「無心に可愛がる」という方向に向かう。

「その時、その瞬間」を大切にする、境地に近づく。

自分が「いい人だ」と実感することが、一番の幸せ、だと気づく。

このまま、政府が母子分離政策を続ければ、来年、学校教育が危ない。そんな時に、子どもたちを包み込むのは、祖父母心であってほしい。

一番、いい避難場所のような気がします。

若い頃は、「選択肢」がある、ということが、悩みを増やす原因になる。

豊かさ、ゆえの「選択肢」ですが、0歳児は一人では生きられない、でも、0歳児が生きないと、人類が続かない、という、選択肢のない「仕掛け」、その「素晴らしい仕掛け」が、逆に、重荷になっている。そう、仕向けるかのように、「無償化」、「待機児童解消」、「子育ての社会化」、などという、子育てを重荷と捉えた「軽減策」が、政府やマスコミによって、語られ続けてきた。これでは、日本も欧米と同じように、行き詰まる。

そうなってはいけない。

Saya(さや)さんが、参議院選挙に出馬

ご報告です。チャンネルで司会、対談をしていただいている、(友人曰く)私の「いいところ」を引き出していただいているSaya(さや)さんが、参議院選挙に出馬します。

参政党については、よく知らないので、少し心配ですが、受かって欲しいと思っています。人の言葉に耳を傾ける姿勢が純粋で、信頼できる人です。このチャンネルで話し合ったことを、ぜひ、国政に生かしてほしいと願っています。😀

「無償化」の罠

松居和チャンネル 第71回、(テーマは)「無償化」の罠、で

副題は、『人間は、相手の「心持ち」と、会話する』、です。

・「現代の保育の無償化、授業料無償化…等々、それを子育て支援と言っている政策が、少子化に歯止めをかけることに繋がるのでしょうか」という質問が来たのです。

私の答えは、

「つながりません。それはみんな知っているんです。特殊出生率が、突然、2.5になっても、分母になる母親の人口が減り続け、男性の生涯未婚率が三割では、どうしようもない。今の子育て支援策は、それを知っていて、少子化による労働人口の減少を、三歳未満児を持つ母親を働かせ補おう、とする政策です。弱者を「人間」と見る姿勢、思いやりがない。

ただ、それでは、ますます保育や教育の質は落ちていく。落ちていくというより、人材不足の問題が、一線を越え、決定的になる」。

同時に、「生きる力」や「意欲」を社会全体が、失っていく。それが今、起こっていること。

自分が豊かになりたい、という「意欲」より、子どもの「幸せ」を願うことの方が、人類を強くしてきたのです。だから、家族という形が成り立ってきた。

次世代を育てること、が「生きる」こと、そのものだった。

「無償化」は、次世代に対する「責任」の所在を曖昧にし、結果的に、幼児たちの「存在意義」が不明瞭になっていく。特に、経済学者たちは、生産性がないように見える「幼児」たちを、重荷と位置付け、「子育てを楽にしてやれば、子どもをもっと産むだろう」という、愚策に走る。

その稚拙な「理屈」を維持するために、保育学者が「子育て」を誤魔化し続けたから、大学の保育科や専門学校が、一斉に定員割れし、潰れていった。

保育士や教師がいなくなる流れを作っておきながら、三歳未満児の母子分離を辞めようとしないのですから、学者の考えることは、どう考えても理論が破綻しているのです。

「無償化の罠」や、「女性の社会進出」という、数分考えれば、「??」と思う言葉で「洗脳」を許しているのは、「学問に対する信仰」でしょう。

以前、経済財政諮問会議の座長をしていた有名な経済学者が、「0歳児は寝たきりなんだから」と、私に言ったことがある。そこに、人間性が欠如した「学問」を感じ、寒々とした気分になりました。彼らは、日常的に幼児を体験していない。体験に基づかない「言葉」を喋っている。

子育ては「親の責任」という本来の道筋に返すこと、それに、予算を使えばいいのです。使い方は、「ママがいい!」に書きました。自民党の厚労部会でも、少子化対策委員会や党大会でも、講演しました。

 

今の、無償化は、親心を「損得勘定」に引き入れようという、政治家のやったフリ。税金を使った「選挙対策」に過ぎない。そして、子育てで儲けようとする連中の、市場原理崇拝の「罠」だと思う。

東京都では、すでに、あちこちで0歳児保育が定員割れを起こし、待機児童はほぼいない。それなのに、学校教育で教師不足が一気に進み、来年は、全国の小学校で、担任のいないクラスが現れるはず。

予期しないスピードで、コミュニケーションの「質」が落ちている。子どもたちの「心」が満たされない。親たちの「利他の心」が育たない。これでは学校教育は成立しない。

一緒に育てているのに、人間関係を「利便性」や、「利権」で計る道筋が、「無償化」です。

昔、親たちは、園長の「人柄」と会話していた。

その不自然な日常が、「いじめ」や「不登校」という形で、義務教育を通し連鎖していく。

人間は、常に、相手の「心持ち」と、会話をする。

言葉の向こうにあるものと会話する。そのことを、乳幼児期の「子育て」から学んでいたのです。

(Amazonの「ママがいい!」に対するレビューから)

「エレベーターのボタンを自分で押せただけで、嬉しそうで、満たされた顔の我が子が尊く、光のようでした。なぜ、そう感じさせるのか、言葉に表せない幸せがこの本に書かれています。」

講演し、討論し、私も元気をもらいます。

鹿児島の真光こども園で、午前は保護者に講演し、午後は保育士たちと勉強会。白熱し、危うく帰りの飛行機に乗り遅れるところでした。行きは、火山の噴火で、引き返してもご了承ください、とアナウンスがありました。みなさん、よろしくお願いします。頑張る姿に、私も元気をもらいます。

鹿児島の次の日、

大田区で、ランチ勉強会。ママ友、昔のママ友、いま子育て広場の主催者、それに若い区議も加わって、2時のお迎えに間に合うように、暖かな、しかし、現在進行形の集まりでした。話の内容を、そのまま松居和チャンネルに載せたいような、背後に子どもの存在を感じながらの激論、討論でした。

その次の日、

小石川白山教会礼拝堂で、愛星幼稚園の保護者たちに午前講演し、保育者たちと午後勉強会をしました。

午前は、一般公開だったので、遠くからも足を運んでくれる方たちがいました。どこへでも、呼んでください。今、種を蒔き続ければ、きっと良いことがある、そう信じて頑張りましょう。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.com までどうぞ。

 

『抱っこは、する側と、される側の「共同作業」』

松居和チャンネル 第70回、の(テーマは)『抱っこは、する側と、される側の「共同作業」』

です。

福祉を考える時、その手段や、「仕組み」には予期しない反作用がある。

だからこそ、人間たちの「心の動き」の中に、常に、「幼児たちの願い」が存在していなければいけない。

 

抱っこされるのが、下手な赤ん坊が増えているのです。抱っこは、する側と、される側の「共同作業」。抱きやすい子は、上手に、しがみつく。子猿が、四つ足で歩く母猿につかまる名残りが、人間にもある。

ちょっと、不思議な話ですが、抱っこされることに慣れている赤ん坊は、抱っこされにくい形をして、抵抗する。抱っこされてきたから、出来る、将来、必要な「技(わざ)」。

抱っこしても、ぐにゃーとする赤ん坊が増えている。抱っこされてなかったから、協力しない。本能的な「共存」を学んでいない。若い保育士は、気づかない。そんなものかと思ってしまう。でも、ベテランの保育士や園長たちは、気づくのです。これでは、保育士が疲れてしまう。

可愛がられることに、慣れていない。

それが、小学生の学級崩壊、不登校の増加に、つながっているのではないか。男の三割が「一生に一度も結婚しない」、ところまで影響している気がする。

ぐにゃーとする0歳児、1歳児が増えることが、将来、人間社会における「絆」の成り立ち、福祉や義務教育、社会という仕組みの存続に、どう影響するのか。私は、考えてしまうのです。

「ママがいい!」という言葉は、母親にとっての「勲章」です。

0歳、1歳の時の肌を合わせた体験が生み出す、「人類を、祝福する」言葉。

それを言わない子ども、抱っこの体験が足りていない子どもが増えている。

「保育園落ちた、日本死ね」という言葉が、もっと預かれ、という社会的論争に使われたことがある。まるで、正論のように。母子を引き離す仕組みが、充分でないことが、国会で、「良くないこと」のように見られていた。

これが、すでに怖いことなのです。

幼児は、「保育園落ちた、万歳」と、心の中で言っていたかもしれないのに、誰もそれを考えなかった。

政府の進める母子分離政策は、そこまで浸透していた。

 

保育園では、肌を合わせる機会が、1対3(三分の一)、1対6(六分の一)、1対20(二十分の一)。その仕組みが、「子育て支援」という名で呼ばれる。異常な論理が罷り通っている。

幼児期の不自然な体験が、そのまま小学校へ入学し、そこで、五歳までのその子の「成長」を知らない「担任」に委ねられる。双方向への体験に欠ける「子育て」が、「教育」にすり替わっていく。

そして、児童虐待過去最多、不登校も過去最多、一生に一度も結婚しない男が、三割、という数字になって現れる。

こんな、メールが来たのです。

 「保育士さんの相談に乗りますが、その相談の中でも子どもを抱かないで。と言われる事への辛さを言われる方がいます。

 一人の保育士が抱くと他の保育士も抱っこしないといけなくなるから、と言う理由だそうです。驚きました。

 愛着形成のこの時期に、そんな事を言うなんて。

 それが何件もあるので、子どもの育ちに胸を痛めます」

 

一人のベテラン保育士が、「子どもの育ちに胸を痛め」ている。そのことに、親たちが、気づいていない。保育学者が言う「専門性」の実態が、そこにある。

一緒に育てている人たちの、「思い」が重ならない「仕組み」が、子どもたちの「日常」になってしまった。母子分離を進める政治家たちも、経済を優先し、「欲の市場原理」に振り回されている「学者」や「評論家」たちも、それを知らないのだろうか。

保育学者たちは、もちろん、知っている。

実習に行った学生たちの報告には、必ず、これに似たことが、書かれている。彼女たちの持つ「動機」は、子どもたちの幸せを優先しているから。

彼女たちが現場で目の当たりにする「母子分離」に対する率直な「違和感」を、「教授」たちが無視し、「学問」から、「感性」や「人間性」が消えていった。

(学生が答案に、「子どもはなるべく親が育てるべきだ」と書いたのを、不合格とし、「もっと勉強するように」と書いた有名大学の教授がいた。いい学生の心を、学問が踏み躙るから、全国で「保育科」が定員割れし、潰れていく。)

この時期、1週間抱っこされなかったり、話しかけられなかったら、それはもう虐待です。

それを数値目標を上げ奨励する「子育て安心プラン」や、発達にいいから「安心して三歳未満児を預けろ」と言う東北大学の研究発表などは、政治や学問による、虐待です。

 

輝かない幼児たちの願いが、届かない

30年も前から、毎年春に、日本国中に「「ママがいい!」という叫びは、満ちていたのです。それを保育学者が「専門性」などという言葉で誤魔化し、マスコミが「女性の社会進出」などという、経済競争しか「社会」と見なさない狭い了見で押し殺し、政府は、幼児の気持ちを無視することで、選挙に勝とうとした。

現場の保育士たちだけが、心を痛めてきた。そんなことが長続きするわけがない。

 

 

想像力が無ければ輝かない、輝かない幼児たちの願いが、届かない。

012歳児とゆっくり過ごす時間が、無駄だと言う、損失だと言う学者たちの作る罠みたいな仕掛けで、人間を育てる小さな人たちが、諦めてしまう。「ママがいい!」という叫びが、その価値を失っていく。

いい加減に、この人たちの価値に気づいてほしい。

 

 

保育界の限界は、すぐに小学校の限界となって、それが、福祉の限界、司法の限界となっていく。

スエーデンの犯罪率が日本の20倍、という現象を、人類に起こっている人間性の崩壊と捉えれば、私たちは違う道筋を選ぶべきなのです。この国には、チャンスがあるのです。

世界の情勢と、父親像、母親像

松居和チャンネル 第69回のテーマは、

「世界の情勢と、父親像、母親像」

副題が。「自己肯定感なんて、海に捨てちゃえ!」です。

世界を眺めると、自分を肯定しようとする乱暴者、いじめっ子(Bully)が、「市場原理」に便乗し、人間社会を支配しようとしている。人間性が問われる前に、支配する「能力」で評価される社会的風潮が、弱者を苦しめている。

その波に、日本は、呑み込まれてはいけない。

多くの人が、子育てを「優先」するから、モラルや秩序は保たれる。

自己を肯定する前に、子どもを優先する。その古(いにしえ)のルールが生きている国なのです。

先進国で唯一、子どもが生まれた時に、ほとんどの家庭に「実の父親」が存在する国。男たちが「幼児」によって育てられる「機会と可能性」を持っている「国」。

家庭に、父親が含まれている、この究極の「インクルーシブ」、「常識」は、欧米社会が望んでも、もう手に入れることのできない、再生不能な「安心、安全」でもあるのです。

人生を損得で測ってはいけない。数年間、幼児を育てながら、人間は、「利他」の幸福観を身につけていく。欧米人が憧れる、日本の「空気感」が、幼児を眺める「静けさ」の中に、ある。だから、辛うじて、学校も、まだその体(てい)を成している。

家庭での「読み聞かせ」と、園での「保育者体験」。この二つだけでいい。それで、この国を守れる。

(一般公開の講演会です。ぜひ、ご参加ください)

「ママがいい!」、ぜひ、ご一読ください。

素晴らしい、仕掛けです

人間は、一人では生きられない。

これほど、見事な「足かせ」はない。

素晴らしい、仕掛けです。

自然に、嬉しそうに、その仕掛けの一部になれば良い。

言葉を超えて、「心持ち」を感じる力を養い、助け合う。

その種類のコミュニケーションの、「入り口」にいるのが、0歳、1歳、2歳児たちです。

この人たちとの会話が、人間を、導いてきた。やがて、海や、山や、川とだって、話ができるようになる。