日本人のボランティア精神・一億総活躍・-園長先生からのメール

チャリティー精神、ボランティア精神

熊本地震の報道を見ていて、この国はまだまだ、とてもとてもいい国だ、と思うのです。

いつ誰が言い出したのか、日本人は西洋人に比べて「チャリティー精神、ボランティア精神に欠ける」と言われます。私も講演でこんな質問を受けます。

「アメリカ社会の家庭崩壊の現状はわかりました。犯罪率も確かに日本に比べれば異常に高い。でも、アメリカ人はチャリティー精神に溢れ、ボランティア活動も社会に根付いているといいます。その辺の事も是非聴かせて下さい」。

もちろんアメリカ人にもいい人はいっぱいいます。私も30年間住んで、友達がたくさんいます。比較論としては「嘘も方便」ですからこういう噂は野放しにしておいても良いのです。日本が良い国であり続ければいいのです。より良い国になるために、「絵に描いた餅」でもいい餅は目指していいのです。しかし、欧米コンプレックスは時に日本の欧米化につながるので一応説明したくなるのです。

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公の場で行われるチャリティーコンサートやボランティア活動だけが「慈善、奉仕」ではありません。醤油の貸し借りから、交通費くらいしか出ない民生委員や保護士の活動、いろいろ問題はありますが町内会の会費、公園の草取り、ゴミ収拾所の清掃当番まで、居住地の定まった日本人の生活には社会的労働奉仕や慈善活動が深く関わっているのです。(最近は、急速に弱まって来たとはいえ、です。それは、心がこもっていない、批判する人もいるのですが、日本人は「形」から入るのです。)

 

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以前、日本の学校を視察に来たアメリカの校長先生が私に言いました。小学校で、掃除当番を見たのです。「日本人はさすがです。子どもを使って教育予算を切りつめているのですね。でも、あれをアメリカでやったら、親達から人権問題で訴えられますよ」。日本人は金銭感覚に長けていて、人権意識が遅れていると言いたいのです。子育てや教育に関する視点が根本から違う。この視点の差がある限り、お互いの持っている慈善、奉仕の概念は理解出来ないと思います。国を超えて「幸福度」を比べるなど、数字で幸福を測ろうとする西洋の学者が始めたこと。愚の骨頂です。アメリカ人の「慈善、奉仕」は確かに公に見えやすい。神に自分の心と行いを見てもらうキリスト教のミッションの歴史と、家庭中心ではなくなった社会がそうさせるのかもしれません。

社会における基本は「他人の心配をするより、まず自分の子ども、家族の心配をする」ことだと思います。家庭崩壊が進んだ欧米で、あかの他人に「慈善、奉仕」をしても、自分の家族と親身な交流がなければ、どこか本末転倒な感じがします。チャリティーの多くが、孤独な金持ちの免罪符か、企業のタックスシェルター(税金対策)ではないのか、と少し疑ってしまいます。(アメリカの税法は良くできていて、寄付行為によって、寄付した方も、寄付された方も、寄付する品物を売った方も、三者三様に利益が出るようになっています。)

私は神戸の地震と、その時のアメリカでのテレビ報道を思い出すのです。あの時アメリカ人が何に一番驚いていたか。それは「略奪」がまったくと言っていいほどなかったこと。地震やハリケーンなどの災害が大都市で起こった場合、アメリカ人がまず心配しなければならないのが「略奪」です。災害直後、州警察や軍隊によって治安が確保されるまでの間、普段から武器を持っているひ人々は拳銃やライフルを持って、壊れかけた家の屋根に登り、自分の財産を守ろうとします。(銃社会ですから、三軒に一軒は銃を持っています。気づいたのですが、韓国系移民の人たちは母国に徴兵制があって訓練を受けた人が多くて、銃の構え方が本格的でした。)

大きなハリケーンのあとのテレビニュースで言っていました。一般に、災害によるストレスよりも、略奪の心配をしなければならないストレスの方が後遺症が大きい。悲劇に見舞われている人を平気で襲おうとする人間の浅ましさが、より人々の心に大きなトラウマ(傷痕)を残すのだそうです。自然相手の天災より、人間同士の人災の方が、人間により激しい絶望感や怒りを覚えさせると言うのです。わかる気がします。家庭という信頼関係の基盤が失われていくと、より一層災害時の孤独感は耐え難いものになっていくのです。

「ボランティア精神」が美しいのは、それが利益のためではなく、他人を思いやる心から生まれているからでしょう。助け合い、に人間は「社会の成り立ち」を感じる。そして、その第一は、「災害時に略奪をしない」ことです。略奪をせず整然とボランティア活動が行われた神戸の状況を、なんと美しい光景だろう、と全米にニュースが繰り返し報道していたのを思い出します。

震災後の熊本の風景を報道で見ていると、いろいろ問題はありますが、この国はまだまだ底力を持っていると思えてくるのです。私は熊本の保育園の園長先生たちに知り合いが多いのですが、フェイスブックから伝わってくる他県の園長先生たちから数日うちに自家用車で届く支援物資の画像を見ていると、幼児をいつも眺めている人たちの結束の強さに、嬉しくなります。

「保育園落ちた、日本死ね!」などとは絶対に言ってほしくないのです。保育園が、政治家によって壊されそうになっているこの国を立て直す、鍵を握っているのです。

 

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一億総活躍、雇用117万人創出 諮問会議が具体案 

(2016/4/26付・日本経済新聞 朝刊)

「政府は25日の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)で、名目国内総生産(GDP)600兆円の実現に向けた具体案をまとめた。非正規労働者の賃上げなど働きやすい環境を整え、雇用を2020年度までに117万人増やす。賃金増による約14兆円の消費支出効果も見込むが、税や保険料を抑え可処分所得を増やす改革は具体策を欠いている。」

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結局これなんです。50万人3歳未満字を預かろうという「子ども・子育て支援新制度」は、この一億総活躍施策の一つの柱なのです。わかっていたことなのですが、雇用労働施策です。

10数年前に、経済財政諮問会議の座長が0歳児は寝たきりなんだから、と馬鹿なこと言って、雇用労働施策に保育を取り込み、それが現在の0歳児の事故の増加につながっているのです。 保育は子守り、誰がやっても同じ、みたいな感覚が未だに抜けないのがいまの政府の「子ども・子育て支援新制度」。小規模保育などは資格者半数でいい、と言うのです。小規模保育は3歳未満児を預かる施設です。こういう所こそ、規制緩和してはいけなかった。

「女性が輝く」も「活躍」も表面上つくろっているまやかしで、幼児の気持ちを無視するどころではない、国の施策で積極的に、幼児を母親から引き離すなどというのは、もう人間の人間性を無視している。こんなことを堂々と言われて、黙っているわけにはいかない。もちろん民主党の時も同じことを言っていたのです。共産党もだいたい同じようなことを言っているのです。ほとんどの政治家がこの国の魂とか、個性とか、伝統とかを考えずに、欧米式の平等論や、市場原理的、数合わせのような「ただ働く人間が増えればいい」という薄っぺらな経済論を鵜呑みにしているだけ。こんなやり方で、税収が増えるわけがない。過去10年間、保育所を増やし、保育時間を増やし、少子化の流れは変わりましたか? 働く女性は増えましたか?

(50代、60代の働く女性は確かに増えました。孫が保育所に行ってしまえば、そうなるのかもしれません。)

 

——-園長先生からのメール(本当に活躍している人)———–

 

松居先生

すっかりご無沙汰してしまい申し訳ございません。
新年度は、支援児以外で多動なお子さんがあり、目が離せませず、先生とのご連絡も役所の事務方に任せっぱなしで申し訳ございません。
私どもは、近くに「母子の家」がある関係上今年度も父親のDVで避難してきている園児や、一方母親の不安定で(母親の虐待でこれまで、何度も問題が起きました)、このGWの間、母親と二人きりの時間が多くなったであろうことを思いますと、明日いつも通り登園してきてくれるか心配な園児もいたりして居ます。問題の、父親、母親にしてもきっと幼いころからの積み重ねが、こうした行為となって表れてきていることを考えますと、周りの大人から、一人一人の子どものこの世への誕生が、祝福されたものであったら、わが子への虐待などには、つながらなかったであろうことを思いますと、卒園して15年もすれば成人の仲間入りとなる、目の前のこの子らの輝きを曇らせることの無い様、ますます保育担当者として身の引き締まる思いです。
ご講演をお願いしましてから、ご著書をいろいろ読ませていただきまして、このご講演後、保育現場にどう根付かせていくかが、大きな課題として迫ってまいりました。「いいお話を伺いました.良かったです」で終わりにならないよう引き続きご指導よろしくお願いいたします。
とりあえず、ご無沙汰のお詫びです。どうぞよろしくお願いいたします。

通常人間は、乳児にイライラしない・保育は元々選ばれた人たちがやるもの

通常人間は、乳児にイライラしない

絶対に一人では生きられない0歳児にイライラしたら、人類は成り立たない、とっくに滅んでいる。少し想像力を働かせればそれは誰でもわかる。哺乳類は成り立たない、と言ってもいい。動物たちの子育てを見ていれば感じること。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)の第10章「子どもの楽園」を読むと、150年前にこの国に来た欧米人が私たちに大切なメッセージを送ってくる。一人ではない、みんな送ってくる。日本人は5、6歳までの子どもを叱らない。イライラしない。子どもを社会で一番偉い人のように扱っている。崇拝している。そして、子どもは6歳くらいまで父親の肩車を降りないようだ。

男たちと幼児がこれほど一体の国はなかった、と欧米人が私たちに向かって証言してくれる。

インドの田舎で、人々の日常の生活を観察しているとわかります。本来、人類は乳幼児にイライラしない。あの人たちが何もできないことを当然のように受け入れる。それを受け入れることが、何万年にもわたって、人類存続の大前提になっていたのがよくわかる。しかもそれが、人々の幸せに直結していた。自分の存在(善性)が幼児の存在によって浮き彫りになる。

いま、これほど毎日テレビのニュースが映像で、人類の良くない部分をたくさん伝えてくるから、なお一層、先進国社会の人間たちは「自分のいい人間性」を体験する機会を増やさなければならないのだと思うのです。

首相が、40万人0〜2歳児を母親から毎日10時間引き離すことを「女性が輝く」と国会で言ってしまうことの危険性に気づかなければいけない。それを政治家やマスコミたちがまったく批判しないことに、人類の存続に関わる危険性をみなければ、この国の存在意味がなくなってしまう。

 

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保育は元々選ばれた人たちがやるもの

保育士の待遇改善が必要なのはわかります。しかし、いまの保育士不足の本当の原因は、そこにはない。親たちの、国の、マスコミの「子育て」に対する意識の変化が、保育士不足につながっている。つまり「子どもを優先にしていないじゃないですか」という保育士たちの気持ちが、いい保育士たちを保育から遠ざけているのです。

平等や権利のために「闘って当たり前」と思っている人たちが、「なぜ保育士たちはいままで待遇改善を要求してこなかったのか、保育士たちにも原因がある」と言うのです。日教組が時給2700円を非常勤に勝ち取っていたころ、保育士は時給850円くらいだったのですから、確かにひどすぎる話です。私も、「ストライキをやったらいい。幼稚園教諭がストライキしてもあまり影響はないかもしれませんが、保育士がやったら、国が震え上がりますよ」と講演で、少し冗談っぽく言ったこともあるのです。

でも、保育は元々選ばれた人たちがやるものなのです。学者や政治家や起業を目指すような人たちにはとても務まらない、任せられない、感性で響き合う仕事なのだと思うのです。学校の先生にもちょっと無理かもしれない。特に3歳未満児や障害児を一日相手にする保育はそうだと思います。それが上手な人たちは、とても選ばれた人たちで、きっと待遇改善の闘いに向かなかった。だからこそ、保育は気をつけて守ってあげるべき仕事で、保育士たちに対する特別な感謝の気持ちを親たちも持っていた。それがいま、政治家が保育を守ろうとしない、親たちが保育士に感謝しない。

この保育士たちの資質、多くの場合天性の資質を、競争社会に向かないからと否定することは、乳幼児を育てることに特別な幸せを感じる人たちの感性を否定することになる。その人たちが、喋れない、歩けない人たちと過ごす時間の価値を否定することになる。経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と言った言葉を受け入れることになる。これは人間性の否定です。

経済学者なんかにわかりはしない、乳幼児との大切な時間を、この国は忘れてはいけない。この不思議な大切な時間が、世の中の幸福論を育て、生きる力を育んできたことを、この国は忘れてはいけない。

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知覧での講演・日本の伝統的家庭観・パラダイス

鹿児島県の知覧で講演しました

今回は行けませんでしたが、知覧には特攻平和記念館があります。私には、身の引き締まる思いで、若者たちの「思い」と向き合う、自分の人生を振り返る場所です。記念館の説明にこうあります。

「私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。

特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。」

遺書、遺品の展示の中に、一本の尺八があって、なぜかまだ若い尺八で、それがいつも語りかけてくるような気がするのです。

私も、この不思議な楽器を持って20歳の時にインドへ出ました。そして、いままでずっと一緒に旅してきました。

この若さで尺八を吹く人、というだけで、何かが私たちを引き寄せる気がします。

遺品として寄贈されたのかもしれません。でも、私は考えるのです。ここまで一緒に持ってきたんだ、と。故郷には置いてこれなかったんだ、と。そして、逝く前に毎晩、静かな音で吹いていたはず。

すると、みんながそれに耳を傾けて、月を見たり、目を閉じたりして・・・、とそこまで考えると胸がつまってくるのです。

そして、その人はこの一本の竹の笛をこの地に置いて、飛び立った。

何を守ってほしかったのか。

親、兄弟姉妹。息子、娘。この国の音色、この国の気配。

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伝統的家庭、この国の風景

伝統的家庭というと男が働きに出て女が家で子育て、と誤解する人が多いのですが、日本は違います。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)第十章「子どもの楽園」を読むと、160年前、江戸の末期から明治の初期にかけて日本に来た欧米人がそれぞれ様々な文献に、日本の男たち(父親たち)が常に子ども(特に幼児)と一体になって暮らしている姿を、驚きをもって書き残しています。

日本人は幼児をしからない、崇拝する、と欧米人が書き残しています。それなのに、何で10歳にもなるとあんなにいい子に育ってしまうのか。幼児のいる風景が、日本の風景であって、それがよほど印象に残るのでしょう。日本が嫌いな西洋人でも、日本の子どもは好きになる、と書いています。江戸で朝、男たちが十人ほど座っている。それぞれ幼児を抱え子どもの自慢話をしている。日本の子どもは、5歳まで父親の肩車を降りないようだ。男たちが寸暇を惜しんで幼児と過ごすのが、欧米人がパラダイスと呼んだ国の日常の風景だった。幼児と過ごす喜びを堪能する男たちがこの国を支え、穏やかにしていた。

幼児を知るものは天国を知る、とイエスは言った。だから、欧米人たちはこの国を「パラダイス」と呼んだのでしょう。それが、この国の風景だった。

それを、少しずつでも取り戻していかないと、日本も「ただの先進国」になってしまう。それではあまりにも申し訳ない。

日本の男たちを、それこそ小学5年生くらいから、おじいちゃんまで、早く幼児たちの元に返してやらないと、と思います。それには保育園や幼稚園を使うしかない。幼児と人間を出会わせる場に「保育」がなっていけば、きっと自然治癒力が働く。

福祉に性的役割分担の代わりはできません・欧米社会における原点回帰・日本教育再生機構への寄稿・あるべき「保育」にむけて

2016年5月

福祉には男女間の性的役割分担の代わりはできません

先日、一人の可愛い女児(園児)をずっと抱き続ける男性保育士の話を聴きました。若手ばかりの小規模保育では、それを注意できる保育士がいない。どう説明してやめさせたらいいのかわからないというのです。解雇したら明日から困る、という現実。自主的に辞められても同様に困るでしょう。そして、もし解雇したとしても、資格を持った良くない男性保育士は、派遣会社に登録すればまたすぐ別の保育所で保育士になれる。(養成校が資格を簡単に与えすぎている。)

資格の価値が以前に比べ下がった状況の中で、男女平等というパワーゲームとマネーゲームの裏返しのような競争を助長する概念を、保育界という家庭の役割を果たさなければならない所に持ち込んではならなかった。

男性の実習生にはオムツ替えはさせない、という園長がいます。男の子相手ならいいのでは、という園長もいますが、年配のその園長はダメです、と言いきる。そして、自分の園に、男性保育士は採用しない。(この問題については、前にも、このブログに書きました。いい男性保育士にはとてもとても失礼なのですが、そういうものなのです、という園長の判断を私は支持します。すみません。)

それほど福祉の現場における性の問題は根が深く、そこに居る人たちの信頼関係と意思の疎通がないと、あってはならない風景が日常になってゆく。人材不足による質の低下がそれに拍車をかける。介護施設が犯罪者の隠れ蓑になっている、とまでいわれる米国における福祉に関わる人材確保の経緯を知ればわかるのですが、老人介護から始まり最終的には保育まで、「性」の問題は、福祉の広まり、子育てや介護の外注化と並行して必ず起こってくる。福祉という新たな仕組みに、男女間の性的役割分担の代わりはできません。障害児デイや学童も危ない状況になっています。

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なぜ、いまアメリカで専業主婦が十年間に10%も増えているのか。政府はもう一度考えてみる必要があると思います。性的役割分担が薄まると「家族」という定義が弱まってゆく。アメリカという市場原理の国で、それがわかってきた人たちが原点回帰を始めているのです。いま日本の政府が追いかけているのは40年ほどの前の欧米社会。社会学者が自分の研究と人生を肯定するためにしがみついている「平等論」は、欧米では家庭崩壊と並行し、すでに形骸化し崩れかかっている。現在のアメリカの大統領選や、ベルギーやデンマークで起こっている排他主義の復活を見ているとわかるのだが、状況はすでに一周し、未体験の分断が始まっている。

男女共同参画社会の本来の姿は、役割分担であって、東洋的陰陽の法則ではないか。手遅れだとは思いますが、欧米がそれに気づき始めている。

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日本教育再生機構への寄稿

以前、このブログにも載せたのですが、日本教育再生機構という安倍首相も創設に関わった機構の機関紙「教育再生」に二年前に原稿を依頼され、「育てること、育つこと」という文章を書きました。(八木先生には、感謝です。)ここに、もう一度載せさせていただきます。日本の「教育再生」には、先進国社会に共通した「家庭崩壊の進行」をどう食い止めるかが一番重要な鍵だと思っています。機関紙の性格上、政治家や厚労省や文科省の方々もきっと読んでくれるのではないか、と思って書いた文章なのですが、保育士不足、保育の質の低下の流れはいまだに止まりません。

(この中に、保育園保護者連絡協議会会長が公立保育園の民営化に伴う選定で株式会社系2園、社福系2園の視察に行く話が出てきます。その時の手紙に、この寄稿では字数の都合で書かなかったのですが、やはり男性保育士による良くない場面を視察現場で見た、という生々しい記述があり、会長がとても心配しておられました。選定に手を上げ、視察を受け入れている園でさえ、そうなのです。)

 

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日本教育再生機構用原稿 機関誌「教育再生」2014年、11月号

「育てること、育つこと」

元埼玉県教育長 松居 和

来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。NHKで次のような報道がされていました。

厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で二万一三七一人で、去年の同じ時期より一三七〇人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、今年中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。

4年連続で減っている「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」。この数字の裏に何があるのか。このような言葉や数字が繰り返されているうちに、「待機児童は問題」で「解消しなければいけない」という印象が人々の記憶に刷り込まれていく。それは本当に私たちの願いであり、望んでいる社会の姿なのでしょうか。

「受け皿」という言葉は、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」ではなく「子育ての受け皿」というべきでしょう。そうすれば、家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、毎年入れ替わる派遣や非正規雇用の保育士でいいのか、「待機児童」解消は実は3歳未満児を母親から引き離すということではないか、と気づく人が出てくるはずです。

二つの問題があります。

一つは、待機児童を解消することが主目的となり、社会が健全であるために、子供はどのように過ごし、親はどのように子育てに関わるのがいいのか、その時期に親らしさや夫婦・家族の絆がどう育ってゆくのが自然か、ということが二の次になっていること。保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。

もう一つ、「計画通りに保育所の整備が進めば七万四千人の保育士が不足する」とある。一万人であろうと五千人であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。他人の三才児を二十人、一人で八時間育てられる人間はそう多くはいません。一日平均十時間子育てを保育という仕組みに任せるのであれば、この選べない状態こそが子供にとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても一番深刻なのです。保育の質が低下し、親の意識が育たないと学校教育がもたない。

保育士の質

今年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたこと。この状況が、程度の差こそあれ全国の7、8割の保育園で起っている。悪い保育士を解雇できない。その風景に耐えられず、いい保育士が辞めてゆく。致命的な負の連鎖が始まっています。

地域の保育園保護者連絡協議会会長から手紙をもらいました。公立保育園の民営化、保育への市場原理導入が進む中、民間委託を希望する法人園に、行政と一緒に行った視察先での話です。

民営化の選定で都内の園を計4園視察しました。2社が株式会社、2社が社会福祉法人です。株式会社は酷い有り様でした。建物は広めの一戸建てという造り。床面積を稼ぐためか、収納は全て吊戸棚。保育士が主導権を握って、子供の気持ちに関係無く時間配分で変えていました。0歳児クラスでは、離乳食の時、スプーンに入れたおかゆを上あごにこすりつけて食べさせていました。食べづらいだろうに……と涙が出そうになりました。別の子は泣いてコットに寝かされていましたが、保育士は全く見ず、手だけ後ろに回してバスケットボールのドリブルのようにコットをボヨンボヨンとバウンスさせてあやしていました。見ていられず、別クラスへ移動しました。その10分後に覗いてもまだ同じことをしていて、胸が痛みました。

 給食の試食では、会社のマネージャーが自慢げに「うちの園の給食ははっきりいって美味しくないです。親がマズイと思うのが狙いなんです」と言っていました。ごはんも堅すぎで、私でも食べるのに苦労したぐらいです。あんな給食を毎日食べさせられて本当にかわいそうでした。

子供の気持ちを考えず自分の都合で〝あやす〟保育士。心のこもらない保育が日常になってきています。子どもが活き活きしたら事故が起きるから三歳未満児には話しかけない、抱っこしない、と指示する園長まで現れています。こうした一日一日が、この国の将来を決めてゆく。

全国的にみれば、公立園でさえ保育士の6割が非正規雇用化され、民間でも資格を持たないパートや派遣保育士を雇わなくては成り立たない状況が起っています。これ以上「待機児童の解消」を至上命題として、「受け皿」の(掘り起こせば現場が迷惑する)「潜在保育士」を掘り起こし、規制緩和で性急に「保育士」を作り出せばどうなるのか。

私は講演で毎年全国を回っていますが、今年ほど保育界が混乱し、次の世代を育てるべき中堅保育者たちが定年を前に辞めてゆく年はないと思います。家庭保育室という名で百人規模の認可外保育園があります。役場の保育課長が諦め顔で「概ねで始まり、望ましいで終わるような規則で、乳幼児は守れません」と私に言います。子どもの安全を犠牲にした規制緩和に行政が対応しきれなくなっている。

実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

なぜこんなことになってしまったのか。十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。

志をもって一生懸命に取り組んでいる保育士の方々もたくさんいます。しかし、そうした保育士さんたちとお話をすると、「悪い保育士を良くするにはどうしたらいいでしょうか」という質問を受けます。保育士のイライラから起る「問題」や、本来はすぐに逮捕されるべき「犯罪」が日常化しているというのです。厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

大人の「教育」としての保育

そして一つ目の問題につながっていきます。

「子育てしやすい国づくり」が「待機児童の解消」=「保育園を増やすこと」とする考え方に、日本人が違和感を覚えなくなっている。「子育てしやすい」という言葉を使って、親が「子育て」よりも「仕事」を優先できるように、国が望んでいるのです。長い目で見て、本当にそれが経済対策になるのでしょうか。愛着関係の土台を築けなかった子どもたちが、将来戦力になるのでしょうか。

「子育て」は時々大変です。しかし、0、1歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。

子供を、自分で育てられない事態に遭遇した親たちは、過去にもいた。これからもいる。人類は困難を乗り越え「絆」を手に入れて来た。しかし、積極的に子供を人に預け、それがあたかも普通の「子育て」と見なす社会はありませんでした。「子育て」は、子供を「育てる」という側面だけではなく、大人が親とし「育つ」機会でもあったからです。

私が、「3歳未満児はなるべく親が育てた方がいい」と言う時に、土台にあったのは「幼児たちの人間社会における特殊な役割を忘れてはいけない、幼児たちが社会に人間性を満たし、心を一つにする」という考え方でした。「子育て」を通して育つのは、他でもない大人の「親としての心」です。幼児を眺め、一緒に育てることが人間にとって最大の「教育」なのです。人間の心は、子を産み育てることで(産まなくても幼児に代表される弱者に関わることで)、忍耐力や優しさを身につけ、人間らしくなっていた。

幼稚園や保育園で幼児を眺めながら思うのです。頼りきって、信じきって、幸せそうな幼児たちの姿こそ、宗教の求める人間の姿ではなかったか。遊んでいる幼児たちから、人間は心のものさし次第で自分はいつでも幸せになれることを教わってきた。特に、この日本という国はそうだった。だから状況が欧米に比べ奇跡的にいいのです。利他の心が伝統的に生きているのです。

あるべき「保育」にむけて

最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

人生は自分自身を体験すること、しかも、たった一度だけ。だからこそ、過去の人たちの意識を重ねあわせることによって、より深く体験することができる。多くの人間が選択肢なしに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり向き合うこと、そしてそれを楽しむこと。これが人類にとって何よりも重要なことではないでしょうか。

 

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幼児の姿・聖書から、そして仏教も・政府によって作られた保育新時代の悩み・就労支援か子育て支援か・一ヶ月遅れの謝恩会

講演依頼は matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。数日以内に必ずご返事します。
返信メールが来ない場合、お手数ですが、確認のためファックスで再度お願いいたします。FAX:03ー3331ー7782です。

 

幼児と聖書、そして仏教も(人間は幼児をどう見るのか)

「幼な児(おさなご)のような心にならねば。天国には入れません」

「幼な児(おさなご)を受け入れることは、神を受け入れることです」

そして、「裕福なものが天国に入るのは、とても難しい」

どれもイエスの言葉だと言われています。

一つ目の言葉を、私は、子どものころに聖書カルタで覚えました。子ども用のカルタになるくらいですから、キリストの教えの中でも、重要なフレーズなのだと思います。

二つ目は、もっと率直に「幼児の存在意義」を表しています。この思いと認識で、人間社会は成り立つはず。そして人類は存続し、進化してきた。三つ目は「貧しきものは幸いなれ」という言葉でも表されます。

聖書に書かれているこうした言葉を2000年以上、人々は生きる指針にしてきた。今や世界中にくさんいる、経済競争への参加を薦め、豊かになることを目標とする種類の経済学者たちは、きっと「聖書は神話に過ぎない」と言うのかもしれない。三歳児神話は神話に過ぎないと、以前誰かが言ったみたいに。

しかし、神話であっても、ことわざであっても、そこに幸せになるための、人間たちが世代を越えて絆をつないで行ける「鍵」が存在するから、多くの人たちが、そうした言葉を生きるよりどころにしてきたのだと思います。

生きる指針が不透明になってきているこういう時代だからこそ、神話にこそ真実があるのではないか、と考え始めてほしい。

仏教の方は、もっと端的に教えの中で「欲を捨てること」を薦めます。そうすることで人間は執着から解放され、宇宙と一体になるというのです。「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」がシリーズになるくらいですから、日本という国は伝統的にこのやり方を愛し、信じてきた。そして、それが親心と重なっていた。親になることは、損得勘定を捨てること。そこに生きがいを感じること。「愛国心」を言う政治家たちは、まずそのことを思い出してほしい。この国の伝統文化や宗教的幸福論にもう一度丁寧に、慎重に耳を傾けてほしい。人類にとって、とても大切な「何か」がそこにあると思うのです。

お経を勉強するよりも子どもと遊ぶ時を大切にした良寛さま。幼児の中に仏性を見たのでしょう。人間が求める、生き生きとした美しい人間の姿が一番に顕れるのが幼児たちの遊ぶ姿なのです。

人は何のために生きるのか、それを考えさせ、幸せでいるために生きる、と教え続けるのが無心に遊んでいる幼児たちの姿なのでしょう。

 

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子どもと一緒にいるとイライラする、と言う親が時々います。(マスコミなどは、そう決めつけるような報道の仕方をします。)イライラしなければいいでしょう、と言うしかない。それが成長で、人間としての修行です。幸福を得るために自分を変えていけばいいのですが、こういう簡単なことを教えてもらっていない。修行が苦手ならば絆をつくればいいのです。自立なんて目指すよりよほど簡単で自然です。子育ては育てる人間たちの信頼と絆を生むためにある。子育てという最善の機会を与えられながら友達や相談相手をつくることをサボっていると、自分に嫌気がさし、イライラしてくる。子どもにイライラしているのではなく、自分にイライラしているのです。

そして、子どもがイライラしている、と親が私に言うのです。親のイライラが移ったのでしょう。まず、親側が落ち着いて、心を鎮めて、「イライラしちゃいけないよ」と言えばいいのです。言うことを聞いてもらえなければ、何か肝心なところが伝わっていないのですから、抱きしめて、可愛がって、甘やかせばいいのです。一緒に遊んでやればいい。話をすればいい。何でもかんでも要求を聞いてやればいいのです。一週間もそれをすれば何かが伝わります。時間がない、などと言っては、とても大切な機会を失うことになる。時間はあるのです。大切なものを伝える方法はいくらでもあります。その方法を考えることが人生の目的かもしれない。誰かが解決してくれると思うと、不平不満になって、それこそイライラの原因になる。社会制度や福祉などという仕組みで解決できることではない。それに頼っていると、いつか仕組みが壊れた時に自浄作用が働かなくなっている。子どもは、親がいれば大丈夫、それだけ思っていればいい。

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私は、キリスト教徒の家に生まれましたが、親鸞上人が好きです。祖母は毎日念仏を唱えていましたから、ご先祖様まで入れれば、真宗の家なのかもしれません。

幼児たちの「信じきって、頼り切って、幸せそう」、その姿に他力本願そのもの、目指すべき「安心」があると思うのです。人間の完成形、理想の姿が幼児、4歳児くらいにあると考えます。だから、常に幼児を眺めていないと人間はしくじるのだと思うのです。「社会で子育て」などと言って保育園を増やそうとする人たちは、なぜか忘れている。「子育て」が「社会」をつくってきたということを。

幼な児(おさなご)をたたえ、幼な児に信じてもらって、人間は自分に納得する。宗教はだいたいそんなことを言ってきたのです。

いま、「幼児を40万人保育園であずかれば、女性が輝く。みんなが活躍できる」と指導的立場にある総理大臣が国会で言うことに、もう少し、真面目に宗教者は異論を唱えないといけない。この国に、信仰を持つ政治家はいないのでしょうか。少しは、いるはずです。こういう時に声を上げないで、いつ発言するのでしょうか。

40万人の3歳未満児を親から引き離そうとする。そして、それをあたかも幸福論と結びつけようとする。こんなことは人類の歴史の中でありえなかったやりかたです。みんなで声を上げる時がきています。

 

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政府によって作られた保育界、新時代の悩み

私立の保育園は、保育士が一人辞めたり病気になったら、最近では、派遣会社に電話するしかない。そういう状況になってきました。すると派遣会社に「フルタイムの人はあまりお薦めできるひとがいないのですが、6時間、午後2時までのひとならいいひとがいます」と言われたりする。「子どもが学校へ行っている間なら」とか、「どうせ時給なのだから、疲れない程度に」とか、理由は様々ですが、短時間ならいいという人の中に「いい保育士」が意外といる。子どもを親から離して6時間以上預かると、預かっている方も幸せにはなれない、という種類の人類の法則が動いているのかもしれません。

6時間でいいから『いい保育士』にお願いするか、フルタイムで『お薦めでない』人にするか、こんな悩みは保育界にとってはまったく新しいものなのです。よく考えれば、様々な要素を含む、難しい決断です。それについて一冊の本とは言いませんが、本の一章、論文が一本が書けるかもしれない。

「いい保育士」の定義は非常に曖昧で、千差万別。その園の保育の仕方によっても、保育室の雰囲気によっても、保育士の組み合わせによっても基準は違ってくる。ある園で「いい保育士」が、他の園では「やりにくい保育士」だったりする時代です。だから最近、保育士たちが職場を転々として、「自分に合った」園を探そうとするのです。自然な動きに見えますが、一方で、選択肢があると迷いが生じ、育つべきものが育たなくなる。保育が伝承である限り、やがてこの「選択肢があること」が保育を異質なものに変えてゆく。

(親子という関係には元々選択肢がなかった。そこで人間社会の基本になる絆が子育てを通して作られた。)

そして、0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えた時に、先進国社会で、保育士は生きる指針を失い、学校教育が崩れてゆく。

(いまほど、保育の仕組みが多様化し、同時に保育(子育て)の定義が揺らぎ、園の方針に違いが出てきてしまったことはない。それが「保育士の当たり外れ」が余計頻繁に起こる原因になり、保育士不足の一因にもなっている。)

 

いい保育士とは

「しっかりしている」「任せられる」「子どもと居て、活き活きしている」「やさしい」「あたたかい」「きびしい」「他の保育士とうまくやれる」、色々ありますが、いい保育士の定義は実は子どもとの相性によっても変わる。

そこを辞めてきた人に聞いたのですが、サービス産業を自認する保育園では、「接客態度」「要領がいい」みたいな項目さえ「いい保育士」の条件として入れているようです。(この場合、「接客態度」の「客」は親たちです。これは非常に問題で、いい保育士というよりいい従業員というべきでしょう。)

6時間のいい保育士がいいのか、8時間のお薦めでない保育士がいいのか考える時、最低でも8時間、最長では国が標準と名付けて目標にしている11時間以上保育園で過ごす子どもたちにとって、担当の保育士が途中で替わる頻度が、どの程度心の安定や発達に影響を及ぼすのか、ということをまず考えてしまいます。

(最近では13時間開所が当たり前になっていますが、十数年前まで保育園は8時間開所だったのです。それを厚労省が長時間保育といい、白書で子どもに良くない、と言っていた。そして、朝、預かった人が夕方親に子どもを返していた。保育所、この場所に預けるというより、この人に預ける、という感覚が親側にもあったのです。)

早番、遅番、正規、パート、今では一日三人に担当される場合も少なくない。保育士の当たり外れだけではなく、交代する人との引き継ぎ、保育士同士のコミュニケーションの問題も重要になっている。引き継ぐ人が毎日替わる状況もある。保育園における「引き継ぎ」は、すでに子どもの一日をつなげない状況になってきている。そういう状況の中で、保育士が「いい保育」をあきらめている。親身になることをあきらめ始めている。そこが一番あぶない。

保育という仕組みを「子どもが育ってゆく環境」と考えれば悩みは尽きません。子育てと同じで、それが保育です。悩みが尽きなくて当たり前、それが親心というもの。だからこそ、「親身さ」だけは保てるような仕組みでなければいけない。

こういう今までありえなかった奇妙な悩みを、園長先生たちに与えないようにするのが、国が施策を考える時に最優先されるべきだと思うのですが、いま政府の進める新制度は、保育の根元に関わる解決しようのない「悩み」をどんどん増やしている。

「仕事」と割り切ることが絶対にできないのが、保育なのです。

大手の株式会社保育園の離職率を見れば、それがわかります。保育士やめるか、良心捨てるか、保育士は追い込まれている。

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就労支援か子育て支援か

病み上がりの子どもを連れてきた親に、もう少し一緒に居てあげてくださいと園長が言う。保育指針に「子どもの最善の利益を優先する。親を指導する」とあるのですから当然のことなのです。加えて、病気の時にこそ親子の関係は普段よりもっと深まる、と園長は思っているのです。自分が楽しようなどとは、絶対に思っていません。

すると、親が役場に文句を言いに行ったのです。そして、役場の保育担当が園長に「保育園は就労支援なのだから、そういうことを言ってもらっては困る」と言うのです。保育担当の役人が、保育所のあり方を法律で規定した保育指針を読んでいないということです。

埼玉県は、園と保護者の信頼関係を築くために「一日保育士体験」を奨励しているのですが、ある市でそれを進めようとした保育園が役場から「保育は就労支援なのだから、こういうことはしないでくれ」と言われた。保育所保育指針という法律に「保育参加」という言葉が入り、一日保育士体験が厚労省の解説DVDに入っていて、県がそれを奨励しているにもかかわらず、「就労支援」という言葉の方が役人の意識の中では勝っている。

保育は子育てであって、就労支援が第一義ではない、という意識を取り戻さないかぎり、いまの混乱は治らない。

 

一ヶ月後の謝恩会

最近、若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。

卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する、と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくる。なるほど。いい指摘です。(学校と保育園はその趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。もちろん子育ての方がはるかに深く、面白い。)

卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている、相談相手がまだいない。

そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付き合う。お互いに相談し始める。お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。

 

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国会での討論。

25歳から44歳の働く女性の数の推移は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばい。25歳から44歳の働く女性の数は2014年から15年にかけて減っている。女性の就業者数は待機児童の増減とは原因と結果の関係にならない。

この国会での質問に、首相がすぐに答えられないことが一番問題だと思うのです。就労支援、少子化対策と待機児童の問題は政治家や学者のイメージの中で進められた施策で、現実はそのように動いていない。現在の急激な待機児童の増加は、就労していなくても預けられるという規制緩和が主な原因だと思います。11時間保育を標準とし、就労証明なしで土曜日も預けられるようにしたり、三人目は保育料無料としたり。子育てに対する意識の変化が待機児童という現象に現れている。そして、それによる保育士不足が止まらない。

政治家が、保育士が去ってゆく姿から、幼児たちの主張を読み取らなければ、これからますます世の中が荒れてゆく。

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ツイッター(@kazu_matsui)の会話から

「保育園で親子遠足にいくと、お父さんの参加が多くなってきた。クラスの3割以上が参加してくれる。会社も「遠足か!」「行ってこい!」と休みをくれるようになった。」(園長)

「父親の保育参加、鍵ですね。調布の私立保育園で一日保育士体験を始めた一年目、父親の方が多かったと言われました。男たちも気づいている。競争社会よりも保育園の方がよほど自分のいい人間性を体験できる。それを体験しないと幸せになれない。」(私)

「所沢での1日保育士体験でも、だいぶん父親の参加が増えてきたように思います。少なくとも私の子供の通っている園では。他もそうだと期待したい。」(父親)

「嬉しいです。各地で園長たちが、父親の参加が増えたと言います。入園式や卒園式も含め、父親の行事参加が増えたのは10年くらい前からでしょうか。幼児期に実の父親が家庭に居ない率が3割を超えた欧米に比べ、日本の父親たちは何か気づいている。」(私)

(解説)所沢市では、すべて公立幼稚園・保育園で「一日保育者体験」が始まっています。市長さんから保育園に預ける家庭に、こういうのをやります、という手紙が行ったそうです。板橋区などもそうですが、市がバックアップしてくれると現場もとてもやりやすい。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1360914331329/index.html …

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index04004012.html …

福井県:http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

高知県:http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/files/2014033100475/2014033100475_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_113264.pdf …

(ツイッターから)

ブログhttp://kazu-matsui.jp/diary2/ に『保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について』を書きました。やはりここが分岐点になる。保育は就労支援なのか子育て支援なのか。サービスなのか一緒に子育てなのか。子ども優先、と保育指針には書いてある。そこが保育の質そのもの。

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「幼子が来るのを止めてはいけません。天国はこのようなものたちのためにある」

保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について

保育の質を保つために

:保育園・幼稚園における「一日保育者体験」

 

八年前、保育園の園長先生たちと「親心を育む会」という勉強会を始めました。その頃、すでに保育界は様々な問題を抱えていました。保育サービスということが言われるようになり、長時間保育が義務付けられ、保育士不足、財源不足などが加わって、いままでの保育の定義が揺らいでいました。
保育の質を保つにはどうしたらいいのか。

そこで提案 されたのが「一日保育者体験」です。年に一日、保育園の場合は八時間、親が一人ずつ、園児に囲まれ過ごす。 三つの園でやってみました。その結果は、会のメンバーを驚かせました。普段から親たちとの信頼関係が育っていたのでしょうか。親がほぼ全員参加した。そして、文句がほとんど出なかった。感想文に、判で押したように、保育園への感謝の気持ちが書かれていました。この、感謝の気持ちが保育士を育てます。そして、学校教育を支えます。
(「親心を育む会」 のホームページ http://www.ac.auone-net.jp/~oya_hug/ に感想文が千以上積み上げられています。園長先生たちが作ったマニュアルも ダウンロードできます。)


始めは、半数の親が嫌がります。会社を休んで8時間(幼稚園なら5時間)。しかも一日ひ とり、または一部屋にひとり、結構大変そうに思えます。でも、半数の親たちが、何月何日私が来ます、とスケジュール表に書き込んでくれました。つられて残りの3割が書き込みます。最後の2割は、もう他の親たちの保育者体験が始まっていますから、子どもたちが「お母さんは、いつ来るの、お父さん、来るの?」と聞いてくれます。


保育者は、「子どもたちが喜びますよ」「子どもたちが喜びますよ」と、繰り返し薦めます。信念を持って説得すればいいのです。園は親子の幸せを願って取り組んでいるのです。園に対する信頼があれば、一年かければほぼ全員参加します。説得できないなら、まだ信頼関係がないのだ、と思い、親たちと心を一つにする努力する。その努力が保育者の姿だと保育者自身 が思い出すかもしれません。そして、子どもたちを可愛がり、「子どもが喜びますよ」を、心を込めて言い続ける。それでも駄目なら仕方ない。そういう親はたぶん室町時代にもいたでし ょう。気にすることはありません。人類の進化には、そんな人ももちろん必要です。


一日保育者体験は、父親母親ほぼ全員が参加した時、園と親たちの信頼関係ができた、ということなのですが、一組でも参加し、その一家の人生が変わるなら、それだけでも実は素晴らしいこと。全員は無理でも、全員を目指す。その決意に意味があるのです。
お母さんがやったら、お父さんも、お父さんがやったら、お母さんも。夫婦が、別々の日に、卒園までに3回か4回、これで一家の人生がそうとう変わります。参加した親の感想文を園だよりに載せたり、玄関のところに写真を張り出したり、参加人数が少なかったら、参加した人、やって良かったと思った親に、祖父母もいかがですか、もう一度どうですか、と薦めます。幼児と居て楽しそうな人を一人ずつ増やしていけば良いのです。(特に父親。男性は大人になっても結構子どもなので、素直になると幼児と波長が合います。)


埼玉県では、三年以内にすべての幼稚園保育園で、を目指すことになりました。当時の厚生労働副大臣に頼んで、新しい保育指針の解説DVDに、保育参加の例として「保育士体験」を入れてもらいました。保育参観ではなく、参加を、これは、保育所保育指針に書かれ、法律として決ま った保育園の役割です。そのことは、堂々と親に言っていいのです。法的裏付けもあるので す。
でも、やはり親を説得する言葉は、「子どもがよろこびますよ」が良いのです。

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保育は就労支援なのか、子育て支援なのか。一日保育士体験は保育園はただ預かる所ではなく、保育士と親が一緒に子育てする所ですという宣言です。しかも、いつでも親に見せられる保育をしている、という宣言でもあるのです。保育界が混沌としてきた今、ここが、これから分岐点になってきます。
幸い広がっています。砂場で遊ぶ幼児を眺めて、人間は自分はいつでも自分次第で、砂でさえ幸せになれることを思い出します。

(保育者体験の勧め、など、講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com 松居までどうぞ。市長さんが聴いてくれると、保育に関する市の姿勢がずいぶん変わったりします。)

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親全員が参加する保育園のページです。http://www.hanazono-fukushikai.com 特に父親の保育参加に力を入れています。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/…/cont…/1360914331329/index.html

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_cate…/index04004012.html

福井県の一日保育士体験:http://www.pref.fukui.jp/…/…/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf

高知県の一日保育士体験:http://www.pref.kochi.lg.jp/…/2014033100475_www_pref_kochi_…

その他、各地で始まっています。「一日保育士体験」で検索するとたくさん出てきます。

 

幼児たちが私たちを育て、支える一番確かな存在です。彼らの役割を果たさせてあげれば、必ず社会に自然治癒力と浄化作用が働きます。
どうぞよろしくお願いします。

 

 

「村人が通るだけで」・「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」・『先進国社会で「子育て」を奪われた人間たちが孤立している』・嬉しいメール「子育ては自由だから」

2016年4月

 

「村人が通るだけで」

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更生施設の所長が懇親会で話してくれました。以前、学校が荒れ、校内暴力が蔓延していたころ、まったく荒れていない中学校があったそうです。その中学校は、村人の通り道になっていて、日常的に村人が校内を通り抜けていたのです。それだけのことで、校内暴力がまったくない学校が維持されていた。

こういう実話や、そこから何かを感じた人たちの伝聞に先進国社会の子育てに関わる様々な問題の解決策がそっと埋まっています。人間が一見無意識に作り出す風景の中から、何かを学び、美しさ感じ取っていれば、そうそう間違わない。伝達メディアの発達とコミュニケーションツールの進歩で、「風景が人間を育てる機会」が減ってしまったのだと思います。

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 人間は、日々の風景、特に「調和」を感じる風景によって、その感性を身につける。
 そして、「育つ」ということは「安心する」ということだった、と気づくのだと思う。
 
 日々の風景が環境となって、人間の心に何かをコツコツと刻み込む。安心の仕掛け、遺伝子の働き、それらが、人々が作り出す風景として現れ、脳裏に刻まれ、人間は本来の自分をより深く体験する。その内側を知る体験が幸福だったから、人類はここまで来たのだと思うのです。
 
 一人の良くない保育士の、手のかかる子に対する扱いが保育室の風景になることを忘れてはならないのです。それを見て、心を痛め辞めてゆく保育士の陰に、その風景を毎日見続ける幼児たちがいることを決して忘れてはいけない。それが保育という仕組みの恐いところだと思ってほしい。

 

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政府が施策として、三歳未満児をあと40万人保育園に預けることを「女性が輝く」「一億総活躍」と言って奨励するのであれば、その子育てを代行する保育士たちが「子どもに親身なる権利」は絶対に守られなければいけなかった。しかし、そこが「保育は成長産業」という閣議決定で崩れていく。日々子育てをしている保育士が輝く権利、活躍する権利が、親たちの「預ける権利」によって奪われようとしている。

子育てをしている人たちが輝かなければ、子育てはその本質を失う。親身になることで輝く人たちが、この国を支えてきた伝統文化そのものだった。

保育士が子どものために親に苦言を呈することが出来る権利、権利というより空気、または常識、人が生きる術といってもいい、それだけは守らなければいけなかった。

それがあったから、保育はかろうじて、ぎりぎり「家庭」の役割を代行することができた。「保育はサービス」という言葉でそれが消えてゆく。

「親身になる権利」と「預ける権利」は存在する次元が違うのです。「遺伝子の法則」と「近頃、人間が作った法律」ほどの違いがある。「宇宙の法則」と「個人情報保護法」くらい深さが違う。混同してはいけない。ぶつかりようがないのだから。「利権(りけん)」になりやすいほうが偽物。いま、そっちが優先されている。

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人間にとって、国にとって、子どもたちの幼児期の過ごし方がどれほど大切なことか理解していないいくつかの閣議決定が、三歳未満児を保育園で預かることを雇用労働施策として掲げるから、そして県の説明会で「財源はあるのですか?」という園長の質問に厚労省が「努力しています」としか答えられないから、市町村の保育課長たちと現場の保育士たちの溝がますます広がってゆくのです。

二年前、「人材はどうするのですか?」という質問に、「掘り起こせばいいのです」と大臣が答え、「70万人潜在保育士がいるのです」と社会学者が言った。ところが実際に県や都が主催しても、「掘り起こし大会」にはパラパラとしか潜在保育士はやって来ない。人材を探す保育園の数の方が多いくらいの不可思議な光景だった。その光景が、今の国の施策を暗示している。国も専門家も現実を知らない。

潜在保育士の多くは専門学校や大学で保育実習を体験し、資格を取ったとしても自分には無理、と自らを埋めてくれた人たち。「掘り起こさないでほしい。できることなら、一生埋めといてほしい」と現場が願っている人たちです。保育は資格さえあれば誰にでもできる仕事ではない。そういう実態を国や学者はわかっていない。保育士不足で、仕方なく「三年前、やっと埋めた保育士を掘り起こさなければならない」という市役所の保育課長さんの嘆きを理解できる人が、施策を考える人たちの中にいない。いまの保育崩壊は学者や政治家の勉強不足の結果だと思う。

(資格者を募集すれば倍率が出る、正規、地方公務員として面接し雇っても、ハズレが出る場合はあるのです。この場合「埋める」ということは、現場から外す、少なくとも幼児と接する仕事から異動させる、ということ。)

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「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」

 制度を市場原理化すると、保険料と訴訟がその仕組みの危険度のバロメーターになる。危ない事業には保険会社が手を出さない。渋々手を出しても、補償の額を極端に下げるか、保険料を極端に上げてくる。

 日本経済新聞に以前「小規模保育」に関して記事が載っていました。この記事は、小規模保育も保険に入れるから大丈夫、と言っているように見えたのですが、支払われる補償額の低さと、日本も訴訟社会になり補償が長く続いてゆくことを考えると、危うい感じがしたのです。

 

 アメリカの大都市で保険料が払えなくなって産婦人科医が次々と撤退していった頃のことを憶い出します。30年くらい前のこと。訴訟大国で訴訟対象になりやすい職種が保険会社のリスク算定によって採算がとれなくなってくるのです。

 「子育ての社会化」に関わる仕組みが、市場原理で広まり、やがて「保険」という別次元の市場原理によって排斥され淘汰されてゆく。これは信頼関係がまだ土台にある日本という国が未体験の、弱者切り捨ての市場原理です。いま政府が保育園で預かる子どもの数を雇用施策の一環として増やしても、数年後、その仕組みの質が保てなくなり、保険制度という市場原理の中で存続出来なくなってきた時に、「家庭」という、何十万年にもわたって培ったきた遺伝子に適う仕組みを取り戻すのは非常に難しくなっている。

 規制緩和を進める政府は、遺伝子に沿っていた常識や伝統を一気に壊そうとしているのだ、ということを理解していないのではないか。

 経済論が幸福論の主体になりうるのであれば、いままで主だった宗教の言っていたことは何だったのか、と思います。(来日したムヒカ元大統領も言っていましたが)幼児を産み育てることは、自由を失うことに幸せを感じる、利他の心持ちでモラルと秩序を保つ、人間社会に必須の自己発見の道筋ではなかったのか。

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先進国社会で、「子育て」を奪われた人間たちが孤立しています。

 奪われたというより、子育ての意味を伝承されないまま自ら放棄した、という方が正しいのかも知れません。ほとんどの場合、そこに別の選択肢はあったのですから。

 孤独ほど人間たちにとって辛いものはありません。人間は一人では生きていけない。一人では生きていけないことを自覚することに「幸せ」を見いだすように出来ている。幼児を眺めることで自然にそれを学んできたのだと思うのです。

 いま、日本で一人きり家庭が三割になるという。若者も老人も、いる。一人で生きていけることは、人類未体験の「豊かさ」の弊害なのです。保育の問題と同じで、実現が可能になることで「心」の問題が後回しになった。

 若者も老人も、政府の三歳未満児を保育所でもう40万人預かれという意図に現れる経済論と、子どもたちを集団にして長時間家庭から離す仕掛けによって、集まる意味、絆の中心を失い、ますます孤独になってゆくのが見えるのです。(福祉が進んだと言われた北欧の老人たちのインタビューを見たことがありますが、老後、弱者になった時の孤立感は苦しい。)寂しさの中で生きようとするもがきが犯罪の低年齢化や自死につながる。

 子どもたち、特に男の子たちの弱さ、いじめや不登校も、社会から分かち合うこと、集うことが欠如していることから生まれる現象だと思います。これ以上人間たちから「子育て」を奪わないでほしい。しゃべれない乳幼児を眺めていないと、人間たちは想像力を失ってゆくのです。乳幼児を育てるということは、日々、言葉では教えてくれない人たちから、「理解しようとすること」の重要性を学ぶこと。「理解すること」ではなく、「理解しようとすること」が人間を調和に導いた。乳児との会話は、想像力の中で、自分を体験することだった。

 

 「社会で子育て」と言いながら、社会の原点である家庭を壊してゆく人たちの意図がわからない。しかもそれで経済が上向くと思っているのだとしたら、人間の本質を理解しない、浅い経済論でしかない。孤立すると人間は必死に生きてゆくために、最後の力を振り絞って競争する。それはわかりまます。(アダムスミスが言った資本主義社会のエネルギー。不安と不満。)しかし、それは同時に男女という社会の最小単位が信頼関係を失うことでもある。(欧米先進国では、すでに3割から6割の子どもが未婚の母から生まれている。)家庭が吸引力を失い分裂すれば、一つでよかった炊飯器が二つに、冷蔵庫も二つに、冷暖房も二つになり、しばらく企業は儲かるかもしれませんが、地球温暖化や異常気象も、家庭崩壊が大きな原因になっている。

 助け合う絆がないと、すべての人間の持つそれぞれの欠陥、それぞれの発達障害と呼んでもいい、パズルを組むために必要な不完全さに、自分1人では対応できなくなって、自己責任に耐えられなくなった人間たちは精神的なバランスを失ってゆく。

 

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ママ、あんなところに行きたくない!?子どもを蝕む「ブラック保育所」急増の裏側

ジャーナリスト・小林美希「ルポ保育崩壊」の著者

http://diamond.jp/articles/-/74296?page=5

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「嬉しいメール」

(障害者の施設で働くのが好きで、そこで子供たちとかけがえのない時間を過ごして、でも、繰り返される指示語の風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな女性からメールが来ました。いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた広い世界を感じます。)

こんにちは!
春ですね!お元気ですか?
息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。
子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたたんだなぁとしみじみしています。
施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)
寝不足だけどがんばります。
かずさんも講演がんばってください。

「小学校には待機児童がいないでしょ」・政府の緊急対策・保育士不足がどのように保育の質を低下させるか、公立と私立ではずいぶん違う・地域限定保育士制度・介護業の倒産過去最悪という記事

「小学校には待機児童がいないでしょ」

「保育園落ちた日本死ね」ブログ以来テレビのニュースやワイドショーでも関連した報道が続きます。新聞報道の方は、それなりに核心に近づいていますが、テレビはその内容が、まだまだ表面的で雑な感じがします。保育の専門家みたいな人が先日も待機児童問題で、「小学校には待機児童がいないでしょ。お金さえかければ保育でも出来ること」と言っていて、唖然としました。

ふむふむ、そうだそうだ、税金を払っているのにお金をかけない政府がいけないんだ、と思ってしまう人が居てもおかしくない。

誰かが「小学校は11時間預からないでしょう」とか、「6歳でも当初は半日です」「学童は待機児童いる」、「三歳未満児と小学生は違うでしょう」。

「喋れない乳幼児だから余計に気をつけて、大切にしなければいけない」

「0、1歳児は抱っこでしょう」と言えば、ほとんどの人が、「それはそうだ」と再び頷くコメントを言う人もいない、テレビ局はそういう当たり前の意見を放送しない。テレビ局が、幼児を保育園に入れることはいいことだ、と大雑把に決めている感じがする。小学校に待機児童はいない、なんていう馬鹿げたコメントをニュースでは放送しない、という判断さえできない。

もっと進んで、「5歳までの家庭での愛着関係が精神的安定の土台として育っていなければ、そもそも学校教育がなりたたないでしょう」という発言が、ほんのちょっとした本当の専門家、学校の先生でも保育士でもいいですが、合わせて放送されれば、今の保育施策や政府の方針が、保育が、同時に「子育て」でもあること、本来1歳児6人に育てる人1人では無理なことを知らない「専門家」たちの意見で進められていることが理解されるはずです。

待機児童対策においてサービス産業化が、すべての鍵、という学者がまだいるのです。これだけ保育士不足が進んでも、保育は双方向に心の成長の問題なのだ、と理解しない。

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社会福祉法人の役割(1人の若手園長からこんなメールが着ました。安易に社会福祉法人を待機児対策が進まない原因と批判する経済学者に対する、保育者としての憤りがそこにあります。)
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最近のメディアの状況・・・

まだ時が来ませんね。

わかりもしないで、ここまで書けるってすごいなと感心します。

http://diamond.jp/articles/-/89044

ダイアモンド社

こちらもTV出るので有名ですが、知ったかぶりですね。

http://diamond.jp/articles/-/88846

同じくダイアモンド社

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 この園長先生が指摘したいのは、自分たちの保育に対する思いは、こんな風に単純に批判されるものではない、ということ。

私も30年間、全国の保育園で多くの園長先生たちに出会った経験から、色々問題のある社会福祉法人もたしかにありますが、全体的に、その通りだと思うのです。

「小学校には待機児童がいないでしょ」とテレビで言っていた人もそうですが、補助を増やして、たくさんの子どもを預かれば、もっと産業として成長出来る。その妨げになっているのが社会福祉法人で、それを「既得権益にしてしがみついている人たちがいる。」「今までの社会福祉法人中心の保育の仕組み変えることが、待機児童対策だ」と見ている。しかし、この既得権益は、一部を除いては権益の拡大が押さえられている、いわば「欲」が抑制されている既得権益であって、その抑制が、保育の質を保つ大切な要素だった。簡単に言えば、親をしかれる、場合によっては強くアドバイス出来る仕組み、親へのサービスより、子どものことを優先する場面がしばしば起こりうる仕組みだったのです。人類の長い歴史から考えれば、見えにくいかもしれませんが、「祖父母の役割」に似た仕掛けがそこにあった。

そうした本質を考えずに、競争原理、市場原理に持って行けば、サービス産業として回り出す、というのはあまりにも学者らしい考え方だと思いますが、これでは「子どもの幸せを優先する」という、子育ての仕組みが機能しなくなる。

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政府の緊急対策

いま、政府が待機児童対策として緊急に進めようとしている保育士配置の国基準の規制緩和、1才児は保育士1人で6人という国基準があるのだから、条例で1:5(埼玉県は1:4)にしている自治体はもう1人受け入れろ、そうすれば数千人待機児童が減る、ということなのですが、この「1人くらい」という数字しか見ない安易な考え方が、今回の保育士不足騒動の根幹にあることが厚労省も厚労大臣もわかっていない。1:6でもひなたぼっこ保育ならできるかもしれません。ただ見ているだけなら1:10だって出来るのです。でも、この時期の子どもたちは、人類に向かって「抱っこ」を求めているのです

1:6では、抱っこされない子が必ず出てくる。それが一日二日ではない。年に260日だということ。そして、この時期特有の発達はほぼ一対一の愛着関係を要求しているということを理解していないと、知らないうちに取り返しがつかないことになる。いい保育士に当たればまだしも、いい保育士に当たる確率を政府が待機児童対策で下げている。

最近の噛みつく子の増え方や、小学校の学級崩壊の現状を見て、今まで1:6だった国基準を1:3にするというのならまだわかる。いまの一歳児は30年前の一歳児とは違う、政治家たちはそれさえわかっていない。保育士たちが繰り返し言う。親の意識が変化している、子どもに向ける目線が違う。子どもに向ける笑顔の質が違う、という主任さんさえいる。

 

現場に無理を強いて待機児童解消をしても、今のやり方ではますます待機児童は増えてゆく。いまだにそれに気づかない。気づかないのか、次の選挙だけを考えて生きているのか、よくわからない。

子育ての責任は、自分ではなく「社会」にあると考える親が増え、同時に、いまの施策は子どもの幸せにつながらない、と感じる保育士が辞めてゆくのだから、いくら少子化が進んでも追いつかない。いつか追いつくかも知れませんが、このまま進めば数年間は混乱する。そして、その混乱を一番身近に体験した子どもたちは、やがて学校に行き、数十年生きる。だれもそのことには責任を取ろうとしない。

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 保育士不足が危機的状況を迎えているのに、何か、論点が完全にずれてしまっている。

 待機児童対策に一兆円をかけたとしても、それは一兆円かけてより多くの幼児たちの願いを私たちの日常生活から切り捨て、彼らの私たちへの絶対的信頼を裏切ることでしかない。それに気づかないから、論争の間に、保育の質の低下は急加速していくのです。

 

国は、待機児童対策で、小規模保育の定員を増やし規制緩和するという。小規模保育は、保育指針も守れない、子ども優先なんて最初から視野にない仕組みです。数年前まで「認可外」と呼ばれ、補助さえ限られていた。それを認可にした上に更に規制緩和している。0〜2歳は保育所ではなく託児所でいいということ。

閣議決定された「サービス産業化」では、保育士は絶対に問題のある親に注意できないのです。それがわかっていながら、小規模保育は、資格者半数でいいことに目をつけた政府の付け焼き刃の待機児童対策でしかない。

保育園は長年、児童相談所的、養護施設的役割を果たしてきました。0〜2歳児の親にはアドバイスが必要だった。ここで適切なアドバイスをしていれば、その一家の一生が変わった。それがほとんどできなくなってしまった。そしていま児童虐待の増加が止まらない。5年前、11時間預けるのは児童虐待と私に言った園長がいた。それをいま政府が標準と名付けている。これでは児童虐待もDVも止まらない。

「保育園落ちた、日本死ね」のブログをきっかけに、保育士の待遇改善が叫ばれています。給料を月五万円上げる、十万円上げる。保育界をここまで追い込み保育士不足を一気に進めた両党の政治家たちが、やってる振り論争を国会で繰り広げる。もう40万人園児を増やし、保育士の給料を月五万円上げるとして、毎年一兆円恒久財源を確保できるのか。本当に、本気なのか。消費税上げても四千億円足りないと言っていたのに、上げずに新制度を始めてしまったのが去年のこと。幼児のこととなると、政治家たちはいい加減過ぎる。

 

働いていない時間は基本的に親が育てる、その方向へ向かうしか方法はない。それでないと保育士が納得しない。

しかし、いまそれをやると票が減るという怖れが、幼児の安心・安全より優先するから、政治家は誰も言わない。三人目無料、などという幼児の気持ちを無視した非人間的な施策を進めたのがつい去年なのですから、論争が幼児優先にまったくなってこない。乳児も含めて、幼児は生きている、呼吸している、反応している。そのことにまず気づくべきです。

保育士不足はもう待った無しです。昨日も県の保育士会の会長まで務めた園長から、もう駄目です、辞めます、という電話があった。根性のある、行政を叱り、保育士を鍛える人だっただけに涙が出そうになる。

保育界の魂のインフラが崩れてゆく。

 

保育士不足がどのように保育の質を低下させるか、公立と私立ではずいぶん違うのです。

公立でも正規、非正規の割り合いが1対9か9対1かでまったく違う。私立でも園長が(政府の方針に従って)サービス産業化しようとしているか、(保育所保育指針に従って、または良心に従って)幼児の最善の利益を優先しているかで、まったく違う。

待機児童がいる地域か、過疎化が進んでいる地域か、でも違う。処方箋が異なる。だから、市の役人にアドバイスをする時は、こうした基本的な状況をまず訊ね、それから話をします。基本は保育士たちの精神的健康を第一に考え、保育士を守ること。それなくしてこの状況は乗り切れない。保育が集団制になる三歳未満児の部屋に、1人でも良くない保育士を入れると、良い保育士が去ってゆくからです。

全国で、幼稚園がない自治体が2割あるのです。そして同時に、幼稚園を選ぶ親が7割という県もある。それほど地域によって人々の気質や習慣が違うし、仕組みが違う。

幼稚園と保育園の違いは単純に保育の内容だけではありません。様々な側面で生じてきた役割り、対立、均衡を理解せずいきなり手を突っ込んでかき回したのが今回の新制度。何度も無理だと忠告したのに、経済優先で進めてしまった。

まだ引き返せるのですが、政治家と学者が非を認めず、ますます子どもの人生が犠牲になってゆく。この国のゆく末を、選挙よりもっと本気で考える政治家が現れてほしい。

 

地域限定保育士制度

地域限定保育士制度、国家試験の他に県で試験をし、地域限定の保育資格を与える。その県で三年働けば全国で通用する資格になるという。http://www.e-hoikushi.net/column/17/、これでは保育士養成校は存在意義無し。保育という学問の否定。ここまでないがしろにされた学者たちが「社会で子育て」などと、保育=子育ての現場をまったくわかっていないことを言って、三歳未満児を親から引き離すことを国に薦めたのだから自業自得かもしれません。保育園が増えれば自分たちのやっている保育士養成校が繁盛するとでも思ったのでしょう。しかし、そんな思惑を飛び越えて、保育士は辞めてゆくし、国はなりふり構わず規制緩和に走ったのです。

 

入れればいい、という親が激増している。入ってからの方が本当の問題なのです。ただ眺めているだけの保育士に4、5人の子どもを一日十時間、年に260日預ければ、その子たちの一生に何らかのかたちで「愛着障害」という負の影響を及ぼすことは、厚労省も、国連も、ユネスコも繰り返し過去に言ったこと。それがはっきり見えないからといって、見えるようになってからではもう遅い。だから北欧では、子どもと親が一緒に過ごす時間を取り戻す方向へと施策が進められている。(手遅れだと思いますが。)。

以前、経済財政諮問会議の座長の経済学者が、0才児は寝たきりなんだから、と言ったことを憶い出します。人間たちをいい人にしてくれる三歳未満児の存在意義を理解していない。幼児を蔑ろにして、この国の将来は輝かない。

 

介護業の倒産過去最悪という記事

介護保険で老人福祉に競争原理を導入し、家庭崩壊が加速、人手不足の直撃を受け経営に行き詰まる業者が増えています。

心のこもらない福祉から人材が去ってゆくのです。経営が下手な場合もあるでしょう。しかし倒産に至るまでの過程で施設に居た弱者の人生に何があったのか。そこが一番問題です。最近になって「抜き打ち立入り調査」を実施します、などと政府は言っていますが、これをやったら介護施設不足は一気に進んでしまうから、実は手をつけられないのが現状です。抜き打ち立入り調査をして問題が発覚しても、それを止められない。

保育は成長産業と位置づけた閣議決定の先に、介護と同じことが起これば、その影響は半世紀に渡って人と国に影響を及ぼします。

民営化、市場原理、競争原理で福祉の予算を減らせるという、保育を知らない保育の専門家と学者や経営者の「子どもを優先しない」論理に内閣が簡単に乗った。それが「子ども・子育て支援新制度」。介護崩壊が保育崩壊を暗示していることは仕組みを見れば明かだと思います。保育資格を持っている者が全員保育出来るのではない。保育は保育士の心。学校教育とは違う。そこを考えずに数字の上で「保育の義務教育化」などと社会学者が言う。社会は仕組みではない。心のジグゾーパズル。幼児を眺めていないと組めないパズルです。

家庭という人間関係を、一部の人間が儲けようとする利己的な経済論で壊しておいて、「一億総活躍」「女性が輝く」と言っても、保育士たちの目線は冷ややかです。保育の現状から見ると現実離れした絵空事でしかない。国の根幹を揺るがす保育崩壊が始まっている。保育は心。子育ては信頼関係。国がそれを壊している。

非正規の方がいいです

地方で、公務員(正規雇用)で保育士をやるより、非正規の方がいいです、という保育士が出始めている。これが何を意味するのか。児童数の現象と財政削減のため、これから教員の数を減らしていこうとしている国はよく考えた方がいい。保育や教育に「子育て」の肩代わりをさせればさせるほど、保育や教育の定義が揺らぎ、質を保つのが増々困難になってゆく。

去年から今年にかけて、都市部では第一希望の保育園を見学に行かない親が急に増えています。地方でも入園の説明会の案内に「会社を休んで行かなければいけないんですか」と気色ばむ親が行政を怯えさせている。こんなことを続けていていいんだろうか。去ってゆく年輩の保育士を止める気さえなくなります、と課長補佐が寂しそうに言うのです。

保育士の待遇問題を言う人たちが多い。確かにそうなのですが、保育士不足の本質はそこにはない。法律でも決まっていた「子どもの最善の利益を優先する」という保育の根幹が国の施策で揺らいでいること、親の意識が変わり始めていること、それが保育士を精神的に追い詰めている。それを現場で伝えていた年輩の保育士があきらめ始めている。

(「地域限定保育士」は、試験を受けた都府県内のみで保育士として仕事に就けるものとして新しく創設される予定の資格です。最初は就職する地域の制限がありますが、3年間「地域限定保育士」として活躍したのちは全国で働けるとされています。 )

子育て支援員

子育て支援員、支援員研修で儲けようとしている企業との出来ゲームのような気がします。第三者評価が行政の天下り先になっていた仕組みと似ているのです。子育てを損な役割、これをしていては女性が輝けない、というイメージ付けをしておいて、学童、乳児院、小規模保育、家庭的保育事業、事業所内保育事業、すべての資格を数日の座学でとれるような規制緩和が行われる。保育(子育て)とはそんなものだったのか。「子育て支援員」が、無資格者を雇う時の方便になっている。ちゃんと厳選すれば、資格を持っていない人でもいい保育士はいるのですが、これほど資格を蔑ろにすれば、保育科に来る学生の質はますます下がってゆく。

司法試験合格者「1500人」に半減。/政府の目標の半分

素晴らしいことだと思う。日本人は闘うのが好きではないという宣言だと思う。司法制度というパワーゲームの道具を拒否しないと、日本が一気に西洋化して、荒れてしまう。

諏訪の御柱祭/茅野市のこと/三年前に予測出来たこと

諏訪の御柱祭

 

 諏訪の御柱祭を茅野で見ました。

 涙をこらえながら見ました。女性の木遣り歌に、子どもたちの木遣り歌がかぶさって、男たちに気合いを入れる。この辺りでは、歌うと言わずに、泣く(鳴く?)と言うそうです。

 男たちが、丸太(御柱)にまたがって、おんべを振りながら、女たちと子どもたちに見守られて、合図と共に斜面を落ちてゆく。

 神々の前で、男たちは時々、自分の中に4歳だったころの自分が居ることを確認しなければならない。砂場の砂で幸せになれたことを憶い出し、幸せは自分の心持ち次第、と憶い出す。

?女と子どもに見つめられ、丸太に乗って落ちてゆくだけで、幸せになれることを確認する。

 人間は、こういうことをしなければいけない、と思いました。

 

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 茅野市とは長いお付き合いで、7年に一度の御柱祭も、元行政アドバイザーという肩書きで招待していただきました。

 時々思い出すのは、一日保育士体験を市の全ての保育園で始めて二年目のこと。園長・主任先生たちと、市役所の会議室で年に一度の報告と質疑応答をしていた時のことです。

 1人の主任さんが「保育士も、一日保育士体験するんですか?」と私に訊いたのです。幼稚園が一つしかない市ですから、保育士も預け合っています。しばしば親の立場でもあるのです。

 すると間髪を入れず、1人の園長先生が「それはそうでしょう。子どもが喜ぶんですから」とおっしゃったのです。

 通じている、と思いました。嬉しかった。みんなで、ひとつ何かを越えたのです。

 子どもがよろこぶことをする、それがすべての始まりなのです。

 

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茅野市のこと、そして保育士不足

(ふと思いついて、「茅野」で自分のブログを検索すると、色んな思い出が出て来ました。三年前のブログからです。今の保育界の状況はすでに予測できたのです。((2013224) http://kazu-matsui.jp/diary/2013/02/post-190.html

 

 講演の前後に園長、役人と必ず話すこの国の一番危険な状況。

 「保育士居ないですよね」

 「はい、困っています」。

 「悪い保育士、辞めさせられないですよね」園長先生の顔が一瞬顔が強ばり、ゆっくり深く頷く。認めてはいけない、しかし認めざるを得ない。子どもたちの顔が目に浮かびます。実は横にいる役所の人も知っています。園長が何度も頼んだからです。「あの保育士は現場に居てはいけない」と。でも、待機児童を増やすわけにはいきません。

 「その風景を見て、いい保育士が辞めていきますよね」じっと私を見つめる目が必死に訴えます。もう無理ですよね。

 

 一日保育士体験は、親に見せられる保育をする、という保育士たちの宣言です。品川の公立園長が「こういうのを待ってました」と言ってくれた時は嬉しかった。いま全国で、派遣でつなぐ保育が増え、資格だけ持っていて心のない保育士を雇わざるをえない状況に現場が追い込まれています。役場から定員超えの要求がありほとんどの園で一割増の園児数。

 そして親たちの心ない批判。(理にかなった批判ももちろんあります。)

 あちこちで、親に見せられない保育に現場が追い込まれ始めている時、品川の園長たち、茅野の園長たちの言葉は嬉しかった。親心の喪失に歯止めをかける方向に動くことが出来れば、まだ保育士たちを「生き甲斐」でつなぎ止めることはできます。。

 

 茅野の園長主任と2年目に入った一日保育士体験について話合った。嬉しい報告を全員からもらいました。父親参加が3割を越え、信頼関係が出来る、モンスターが止まる。時にはこの時とばかり粗捜しをする親もいます。「そういう親は室町時代でもいたですよ」と言うと大笑い。

 「子どもが喜びますよ!」そう繰り返すことで、子どものための保育園だと親たちも気づけば、保育士たちの元気が還ってきます。

 

 これだけ現場を追い込む施策が続くと、一日保育士体験で生まれる親の感謝の気持ちで保育の質を保つしかない。

 子育ては技術ではない。人間が心を一つにすること。

 やがてそれが学校教育を支えることを信じ、子どもたちの、「親を育てる,人間を育てる」力を信じ、一人の園長が決心すれば出来ること。保育指針という法律に、保育参加と書いてある。でも、「子どもが喜びますよ」を繰り返す。

 

 午前中に茅野市長と懇談し、午後所沢の保育園で講演。市長が聴いてくれて、そのあと夕食。保育士がいない現状を話す。市長が、保育が親心を軸に老人介護までつながっていることを理解してくれるとありがたい。

 乳児が屋根の下にいるだけで、家の気配が変わる。幼児が横に座っているだけで人類はいい人類になる。それを市長が理解してくれれば、なんとかなるはず。

ゾウがサイを殺すとき/園が道祖神を生む/チンパンジーとバナナ/犬にはちゃんと法律が出来たのに


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 以前このブログに書いた4つの話です。

 生体人類学的に考えたとき:

 11時間保育を標準と名付けた政府の無感覚、無責任が問われないことの異常さ、そして0、1、2歳児を親から引き離そうとする経済論とそれを問題にしない社会学者たちの存在が問われるべきです。「社会」の定義が崩れている。オンになるべき遺伝子がオンなってこない、何かがとても奇妙で不自然なことが始まっている。

 

ゾウがサイを殺すとき

 サイを殺し始めたゾウのドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。ただ、殺す。

 ゾウがサイを殺しても警察や裁判で止めることはできない。ゾウに質問することもできません。カウンセリングをしたり、道徳を教えることもできない。人間は、懸命にその理由を考え、想像するしかない。

 環境の異変がゾウの遺伝子情報と摩擦を起こしているのではないか……。そしてある日、サイを殺し始めたゾウが人間によって移住させられた若いゾウばかりであることに気づきます。

 ゾウのサイ殺しは、巨大なゾウを移送する手段がなかった時代には、起こりえない現象だったのです。麻酔をかけて眠らせることはできても、巨大なトラックがなければゾウは運べない。それが可能になり、その手段を手に入れ、人間の都合で、その方がいいとなんとなく思って若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。すると、ゾウがサイ殺しを始めた。

 考えたすえ、試しに、年老いた一頭のゾウをトラックで移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しがピタリと止まったというのです。

 年老いたゾウは、きっと道祖神ゾウに違いない。

(私は、道祖神園長が座っているだけで、親たちを鎮める話を以前書いた事があります。)

 ゾウの遺伝子がどれだけ人間と重なっているのかは知りませんが、哺乳類で目も二つ鼻も一つ、共通点はたくさんあります。脊髄があって脳もあって、コミュニケーション手段を持っているわけですから、こういう本能と伝承にかかわる動物の行動は参考になる気がします。言葉が通じないときに、人間は深く考える。幼児を眺める行為と似ています。

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園が道祖神を生む話

  数年前、熊本で二代目、三代目の若手保育園長、理事長先生の研究会で講演したときのことです。初代が女性でも、なぜか継ぐのは男性が多く、男性中心の会でした。懇親会で少しお酒が入って、若い園長先生がマイクを握って言いました。

 「松居先生。親御さんは、僕の母、先代園長の言うことはよく聞いたのに、なんで僕の言うことは聞いてくれないんでしょう」

 保育の核心にせまる質問です。私は嬉しくなって考えました。

 そして、「先代は、お元気ですか?」と尋ねました。元気です、という返事に、「まさか、先代を引退させてしまったんではないでしょうね」

 保育園もあちこちで「代替わり」を迎えています。ビジネスの世界の真似をし、後進に道をゆずる、時代に即した経営などと、保育のことなど何も知らない(保育指針を読んだこともない)ビジネスコンサルタントが助言します。少子化のおり、そういう人たちを大会に呼んで分科会などを持たせる(男性)幹部たちが保育団体にもいるのです。日本各地で、創設者である園長理事長が引退する現象が起こっています。

 しかし、忘れてはならないのが、保育園という特殊な「子育て」の仕組みが「代替わり」を迎えるのは、人類の歴史始まって以来のことだということ。保育園や幼稚園は「子育て」という太古からつづく伝承の流れに関わっていながら、ごく最近作られた新しい仕組みで、和菓子やパソコンを売るのとはわけが違う。その仕組みを善循環を中心に創り上げるには細心の注意が必要なのです。経営を譲るのはいい。でも、園という不思議な空間を単純に二代目に任せていいわけがない。

 「四〇年以上勤めた保育士に『引退』はありません」と私は若手園長に言いました。

 「保育士を二〇年、一人の人間が幼児の集団に二〇年も囲まれれば、『地べたの番人』という称号を得ます。四〇年勤めれば、『道祖神』という格づけになっているのです」

 そのときたまたま「道祖神」という言葉が浮かんだのですが、眺めるだけで古(いにしえ)の真実を感じるものならば、なんでもいいのです。

 「まさか、道祖神を引退させたんじゃないでしょうね」

 笑いながら話すと、若手園長はすぐにピンときたようで、理解し、苦笑いし、すみません、という顔になりました。

 「道祖神はいるだけでいいんです」と私はつづけました。

 「園の中を歩いているだけでいい。車いすに乗って子どもたちを眺めているのもいい。ひなたぼっこをしているのもいい。門のところで毎朝親子を迎えるだけで、園の『気』が整ってくる。園の形が、すーっと治まってくるんです。母親の心が落ち着きます。その瞬間、あなたは道祖神の息子です」

 子どもたちが育ってゆく風景の中で、私は園長という名の道祖神たちを見てきました。直接教わったこともたくさんあります。道祖神のいる風景から、私は考え、保育における視点を学んだように思います。園は、子どもが育ち、親が育ち、道祖神が現れ、親心が磨かれてきた場所。

 そういう場所には利他の絆が育ちます。言葉では説明のつかないコミュニケーションの枠組みが、大自然に近い秩序を生む。日本人はそういうことに敏感だった。大木を切ることにさえ躊躇してきた民でした。

 

 もう一人の若手園長が、酔った勢いで口を開きました。「うちの道祖神は、もう亡くなってしまったんです」

 私は、ちょっと考えてから、「老人福祉をしている所に行って、一つ拾ってくればいいんです」

 ちょっとお借りしてくる、という言い方が正しかったと思います。

 人間は毎日幼児に囲まれなくても、一〇人に一人くらいは、ある年齢に達したとき、道祖神の領域に入ります。平和で幸福そうな顔ができあがっている。もうすぐ宇宙へ還る人たち。欲から離れた人たちだからこその落ち着きです。

 そのあと、私は宴席で密かに思い出していました。数日前、NHKの特集番組で見た「インカ帝国のミイラ信仰」を……

 文化人類学的にです、あくまでも。

 ご先祖のミイラが村に一つあって、それに向かって村人の心が鎮まっている風景です。心が一つになっている。村が治まる。それに比べれば、園の道祖神たちはまだ歩いている。

 人間が遺伝子の中に持った太古の流れを、時々意識しないと本来の目的を見失います。それどころか、幸せに生きるための秩序を失います。私の想像力は、また一歩飛躍します。厚労省がこんな告知をしたら、すばらしい決断と言えるでしょう。

 「保育園で道祖神を引退させると法律で罰せられます」

 厚労省が、いつかこういう視点を持つことができるだろうか?

 いまのところ、答えは否、でした。情報に頼りすぎる思考の進み方にも問題はあるのですが、一番の問題は現場の風景を知らない、知っていてもそこから「感じることができない」人たちが仕組みを作っていることです。

 次元が幾重にも交錯する人間の「気」の交流現場に気づくのが下手な人たちがシステムを考えていることに、現代社会の欠陥があります。官僚と呼ばれる人も、学者も、家へ帰れば子どもの運動会に一喜一憂し、保育参観日に行き、ふと我に返るはずなのです。実は細胞は死んではいない。生きる機会と場所を失っているだけです。

 アンデスの山を思いながら、「道祖神は、ちょっと惚けてきたら、なおいいのかもしれない」と思いました。惚ける人間の存在にも必ず意味がある。生まれて一年目に、ほんの少し笑うだけで周りを幸せにして親心と絆を育てた人間は、歳月を経て、いつか歩いているだけで周りの気を鎮める、神のような存在になりたいのだと思います。

 

 道祖神を見る人間の目や心の動きを教育の現場に復活させる方法はあります。教育委員会の人たちが「保育士体験」に参加して幼児の集団をたった一日じっと見つめるだけで、地球に変化はある、と思います。いまの常識にとらわれることなく、幼児を意識した視点で様ざまな絆が生まれる環境を、子どもたちが育つ仕組みに取り入れていかないと、親の潜在的不安は治まらないでしょう。もっと預けたくなるでしょう。

 意識的に太古の視点を復活させなければ、学校という歴史の浅い巨大なシステムが、はるかに古い魂を持つ「家庭」や「部族」という絆を崩壊させるのが、私には見えます。

 家庭が崩壊しては困ります。家庭が幼児を守り、幼児こそが、道祖神を生み出しているのですから。

 

 私は、質問をしてくれた園長先生のお寺で、引退した先代にお会いしました。みごとなお顔でした。

 「四〇年以上園児に囲まれた保育士に引退はないのですよ」とお話しすると、先代はとても喜んでおられました。

 「園に行きたい、とこのごろ思っていたんですよ」とおっしゃった道祖神と二代目のお嫁さんの姿を、私は携帯電話のカメラで撮影しました。それは、私の道祖神コレクションの一枚になりました。

 

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「これでいいんだ」

 

 人間50歳も越えると、二十代三十代では見えなかったものが見えてくる。

 60歳も越えて、そろそろ宇宙に帰ろうか、という時期に、「早くいい人間にならなければ」と思います。人生は自分自身を体験する事でしかない。自分がいい人間だ、と思えれば嬉しい。思えなければ、仕事に成功しても、お金を貯めても虚しい。

 いい人間に成りたいと強く願っている人間の前に、人間をいい人にするひとたちが現れる。それが幼児。孫です。祖父母と孫の関係は、特別いいのです。いい人に成りたいと思っている人からいい人になるのが順番。(実は、いい人間になりたい、と思った瞬間、その人はいい人なのです。)

 幼児という、ついこの前まで宇宙の一部だった弱者と、老人というもうすぐ宇宙へ還ってゆく弱者が、欲を持たずに、楽しそうに役割を果たしているのを見て、人々は安心する。私もたしかにこうだった。そして、私もこうなる。

 幼児と老人が出会うと、「これでいいんだ」という笑顔の交歓が行われます。その交歓を風景として見つめるのが、これからの人間社会に一番必要なのだと思います。

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チンパンジーとバナナ

 

 私の好きな人類学者にジェーン・グドールという人がいます。龍村監督のガイアシンフォニーにも出演しています。アフリカのタンザニアでチンパンジーの研究をしていた人で、初めてレクチャーを聞いたのが四十年前、カリフォルニア大学(UCLA)での特別講演でした。

 ジェーンは、チンパンジーがシロアリを釣り上げる道具を使うことを観察発表し、道具を使う動物は人間だけと言われていた定説をくつがえしました。野生のチンパンジーの群れと過ごし、その日常を観察した研究は、人工的な研究所での観察が主体だった学会に、その後大きな影響を及ぼしました。

 彼女が第二のセンセーションを学会にもたらしたのがチンパンジーのカニバリズム(共食い)でした。仲間同士の殺しあいや、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ちが、映像とともに発表されました。それは人間たちに恐怖心を起こさせるほど、人間的な情景でした。チンパンジーの遺伝子は動物の中で一番人間に近いのです。

 あとになって、より多くのフィールドワークが行われ、このしばしば残酷で時には共食いさえするチンパンジーが、ジェーンの研究していた群れに限られるのではないか、ということが言われるようになりました。皆無ではありませんが、ほかの群れでは仲間内のこうした残虐な行為がほとんど行われないというのです。

 ジェーンの群れとほかの群れの違いは、ジェーンの群れが餌づけをされていたことでした。野生の群れに接近するため、ジェーンは当初から群れにバナナを与えたのです。それも、なるべく一匹一匹に「平等に」行き渡る工夫をしました。いまでこそ、野生動物は本来の生態を損なわずに観察することが常識になっていますが、当時、まだ草創期のフィールドワークでは、そこまでルールが確立されていませんでした。

 この報告を真摯に受け入れたジェーンがインタビューで、「いま私が持っている知識があれば、餌づけはしなかった」と、悲しそうに答えていたのが印象的です。

 このバナナに当たるものが、私たち人間にとって何なのか。

 チンパンジーの残虐さは、序列を取り戻そうという行為の一つではないのか。序列によって保たれていた秩序が、バナナが平等に与えられたことによって崩れ、生きてゆくための遺伝子の何かがはたらいて、殺しあいやカニバリズムにまで群れを駆り立てたのではないのか。しかも、集団を駆り立てたのです。

 進化の過程で、ジェンダー、つなり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは「死」を手にした。それまでは、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのかもしれない。

 しかしいま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっている。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴です。

 ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、男は狩りに出て、女が子どもを見るという労働の役割分担ができたとき、人類は「家族」という定義を発見したといいます。性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という意識を少しずつ失うのでしょう。いい悪いの議論は置くとして、これが現在先進国社会で起こっている流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい孤独な現実を生んでいる。(男が結婚しない、これが少子化の一番の原因です。)

 何十万年も積み上げてきた遺伝子が、豊かさに耐えられなくなって、眠っていた遺伝子を起こし始める。同性愛者が増えるのは、人間の進化の中で一つの防御作用でしょうか。しかし、ジェンダー以前、つまり単細胞に戻るには滅亡しかない。

 男らしさ女らしさがあってこそ、「親らしさ」が存在する。親になることは、男らしさ女らしさの結果です。そして、子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ「親らしさ」に移行するために必要なのが「子育て」なのだと思います。

 パワーゲームに組み込まれた「子育ての社会化」が、親らしさという視点で心を一つにするという古代の幸福感を揺るがしている。

 ジェーンの群れのチンパンジーが残虐になった理由の一つは、自分の子孫を残したいという雄の本能でしょう。雌の発情を促すために、その雌の子を殺す。ライオンなどによく知られている行動です。

 死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は異なります。死への恐怖は競争社会を生みます。死への理解は人間を謙虚にします。

 人間の営む現代社会においてバナナにあたるものは何か。九八%遺伝子が同じとはいえ、人間とチンパンジーではちがいます。単純ではないと思いますが、思いつくままに、バナナ、餌付けかもしれない言葉を並べれば、

 自由、平等、学問……、

 学校、教育、保育……、

 福祉、人権……

 資本主義、 共産主義、 民主主義、 宗教……。

 移動手段、 携帯電話、インターネット、 スマフォ……。

 もちらん、これらを否定しているのではないのです。バナナを手に入れたあと、殺しあいにならない方法を考えればいいのです。例えば、意識的に、意図的に幼児と接する機会を作り、信頼の本質を学ぶとか、一緒に彼らを眺めることによって、絆の心地よさを感じるとか。

 (まずバナナが存在することを意識し、気をつけることです。)

 

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犬にはちゃんと法律が出来たのに

 

 新聞にこんな記事が載っていました。

 「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」

 ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。

 環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。

 

 56日目の子犬はもうちょこちょこ歩いていますし、乳離れもしていますから、人間の2才半くらいかもしれません。

 人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。

 霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なものだ、とチンパンジーの幼児虐待の研究で知られるジェーン・グドールも言っています。ちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為は始まる。ジェーンの場合は「餌付け」でした。野生のチンパンジーに餌付けをしたことで小猿殺しや共食いが始まったらしいのです。

 簡単に比較するわけにはいかないのですが、親から早く引き離すことによって、子犬に、「かみ癖や、ほえ癖」がつくなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない。

 最近、保育園で一歳児の噛みつきが不自然に増えています。ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」がつくのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。

 一歳で噛みつく子の増加に、「一人の保育士が一日10時間一週間一対一で接すると噛みつかなくなる、4才5才になってからでは遅い」と言う園長先生もおられます。親子の愛着関係の不足は学校教育を成り立たせなくする気がしてなりません。最近、学校の先生や保護者会の役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質がここ五年くらい変わってきている。普通ではない気がすると、何人もの方が言います。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。以前より暴力的になったというよりも、子どもたちの表情に、冷たさ、魂の粗さを感じるのです。

 なぜ、子犬に関する法律が現場の意見を反映し与野党一致で法律として通り、人間の乳幼児の愛着関係を守る法律はなかなか提出されないのか。その気配さえない。

 たぶん、違いは「親」です。

 人間の親は、生きてゆくために必要な本能を、豊かさの中で失おうとしている。そして選挙権があるかないかでしょうか。

 民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられている。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、イメージする想像力が欠けてくると、この制度は人類の存在を揺るがす負の連鎖を生み、社会における絆の崩壊を招く。

 

 人間は、時々、動物や大自然を観察し、自分たちの進化する方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を見極めないと、自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。

  この新聞の記事から、インドの野良犬たちのことを思いだしました。(私の思考は、時々イメージの中で不可思議な飛び方をします。)

 インドでは、都会でも田舎でも、飼い犬はほとんど見かけません。犬を売り買いするひとたちは、まず、いません。犬たちは人間社会と自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっているか、ときどき身の回りに以前からある人間たちの社会と必要に応じて交流するかして暮らしています。

 夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回り縄張り争いをしたり、満月の晩は遠吠えをしたりする。馬鹿馬鹿しいように思うかもしれませんが、ふと思うのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。

 親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。

 そのあたりまで想像力を働かせないと見えてこないのでは、と「動物会議」という児童文学で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。

 国会で定数削減、消費税、そんな問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要です。それを、この国の政治家やマスコミはいつになった理解するのでしょうか。