通常人間は、乳児にイライラしない・保育は元々選ばれた人たちがやるもの

通常人間は、乳児にイライラしない

絶対に一人では生きられない0歳児にイライラしたら、人類は成り立たない、とっくに滅んでいる。少し想像力を働かせればそれは誰でもわかる。哺乳類は成り立たない、と言ってもいい。動物たちの子育てを見ていれば感じること。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)の第10章「子どもの楽園」を読むと、150年前にこの国に来た欧米人が私たちに大切なメッセージを送ってくる。一人ではない、みんな送ってくる。日本人は5、6歳までの子どもを叱らない。イライラしない。子どもを社会で一番偉い人のように扱っている。崇拝している。そして、子どもは6歳くらいまで父親の肩車を降りないようだ。

男たちと幼児がこれほど一体の国はなかった、と欧米人が私たちに向かって証言してくれる。

インドの田舎で、人々の日常の生活を観察しているとわかります。本来、人類は乳幼児にイライラしない。あの人たちが何もできないことを当然のように受け入れる。それを受け入れることが、何万年にもわたって、人類存続の大前提になっていたのがよくわかる。しかもそれが、人々の幸せに直結していた。自分の存在(善性)が幼児の存在によって浮き彫りになる。

いま、これほど毎日テレビのニュースが映像で、人類の良くない部分をたくさん伝えてくるから、なお一層、先進国社会の人間たちは「自分のいい人間性」を体験する機会を増やさなければならないのだと思うのです。

首相が、40万人0〜2歳児を母親から毎日10時間引き離すことを「女性が輝く」と国会で言ってしまうことの危険性に気づかなければいけない。それを政治家やマスコミたちがまったく批判しないことに、人類の存続に関わる危険性をみなければ、この国の存在意味がなくなってしまう。

 

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保育は元々選ばれた人たちがやるもの

保育士の待遇改善が必要なのはわかります。しかし、いまの保育士不足の本当の原因は、そこにはない。親たちの、国の、マスコミの「子育て」に対する意識の変化が、保育士不足につながっている。つまり「子どもを優先にしていないじゃないですか」という保育士たちの気持ちが、いい保育士たちを保育から遠ざけているのです。

平等や権利のために「闘って当たり前」と思っている人たちが、「なぜ保育士たちはいままで待遇改善を要求してこなかったのか、保育士たちにも原因がある」と言うのです。日教組が時給2700円を非常勤に勝ち取っていたころ、保育士は時給850円くらいだったのですから、確かにひどすぎる話です。私も、「ストライキをやったらいい。幼稚園教諭がストライキしてもあまり影響はないかもしれませんが、保育士がやったら、国が震え上がりますよ」と講演で、少し冗談っぽく言ったこともあるのです。

でも、保育は元々選ばれた人たちがやるものなのです。学者や政治家や起業を目指すような人たちにはとても務まらない、任せられない、感性で響き合う仕事なのだと思うのです。学校の先生にもちょっと無理かもしれない。特に3歳未満児や障害児を一日相手にする保育はそうだと思います。それが上手な人たちは、とても選ばれた人たちで、きっと待遇改善の闘いに向かなかった。だからこそ、保育は気をつけて守ってあげるべき仕事で、保育士たちに対する特別な感謝の気持ちを親たちも持っていた。それがいま、政治家が保育を守ろうとしない、親たちが保育士に感謝しない。

この保育士たちの資質、多くの場合天性の資質を、競争社会に向かないからと否定することは、乳幼児を育てることに特別な幸せを感じる人たちの感性を否定することになる。その人たちが、喋れない、歩けない人たちと過ごす時間の価値を否定することになる。経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と言った言葉を受け入れることになる。これは人間性の否定です。

経済学者なんかにわかりはしない、乳幼児との大切な時間を、この国は忘れてはいけない。この不思議な大切な時間が、世の中の幸福論を育て、生きる力を育んできたことを、この国は忘れてはいけない。

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