「諦める」こと

前々回、「慣らし保育」における「ママがいい!」という子どものすすり泣きを「可哀想に」と思ってしまう元大学の教師に関して、寄せられた投書と共に、私の意見を書きました。保育を学問として捉えていた人が、現場で、子どものすすり泣きを聴いて、人として目覚める。嬉しい、投書でした。すると、Twitterの側から来た返信にこうありました。

 

これが本当に現実です。保育園で、子どもが一番に覚えるのは『諦める』こと。なかなか諦めることができない子どもは、ずっとずっと泣き続ける。どうしても『可哀想』と思ってしまう。だから保育園を辞めました。

 

(ここから私。)

人生の始まりに、「諦める」ことを覚えさせられる子どもたち。心ある保育者(人間)たちが、その風景に慣れることができず、辞めていく。

今、この国が進もうとしている道筋を象徴する出来事です。

「可哀想に」、という、人間社会を支え、維持してきた言葉を、なぜ、みんな口に出して言わなくなったのか。

この保育士は、それに疑問を持ち、それに慣らされたら、自分の人生を諦めることになる。そう思って辞めて行った。

 

ごく最近のことですが、

「可哀想」という言葉が、預ける側の「後ろめたさ」に重なって、母親が(女性が)そう感じることが「不公平」で「不平等」という論法が通り始め、広がったのです。

その論法が、欧米で、半数近い子どもが未婚の母から産まれる社会をつくり、「社会で子育て」という「偽の約束」が、シングルマザーの異常な増加と、近親相姦や親による虐待につながっていったことは明らかなのに、先進国から来る警告や報告は耳にしても、それが印象に残らないように操作されている。それどころか、欧米を見習え、日本は遅れている、という学者さえいるのです。

「待機児童をなくす」という選挙公約や、保育施策に関するマスコミの報道に、「子どもたちが可哀想」という反論が出来なくなっている。しかし、保育者の善意と、女性らしさに頼って誤魔化すにも、限度がある。

平等が目標になれば、本当の意味での男女共同参画社会は、家庭、子育てという次元から壊されていく、そうはっきり言った方がいい。欧米がたどった、経済優先の、弱者に辛い格差社会への道筋に、この国も引き込まれようとしているのだから。

女性の、パワーゲーム、マネーゲームへの参加率が大きく影響する「国連の幸福度調査」にも、それがよく現れています。

多くの宗教が勧めてきた「欲を捨てることに幸せを見出す」、子育てと重なる幸福論から人間社会を切り離そうとすることが、いまのグローバリズム。その中心に、母子分離政策がある。

(繰り返しますが、政府が進めてきた「少子化対策」は、「子育て支援」という名の母子分離策を中心に置いている。それによって少子化がますます進んだことは一目瞭然で、みな知っているのに、いまだに止めない。少子化対策は、単に選挙対策だからです。与党も野党も、宣伝カーのスピーカーからは、子どもたちは、「ママがいい!」と言っています、「子どもたちが可哀想です」という言葉は絶対に発せられない。そうして、子育てに対する「意識」が麻痺していく。)

四月やゴールデンウィーク明けに日本中に満ちる「ママがいい!」という叫びとすすり泣きが、消えるまで、慣れるまで、親の目から離される仕組みが作られている。性的役割分担の押し付け、「権利」、「平等」などという言葉で、「可哀想」という言葉が、かき消されていく。

小さな子どもたちの無数の「諦め」が、その陰にあって、「利他」の伝承が、途切れていく。

三歳までに発達すると言われる人間の脳にとって、この時期の「諦め」が何を意味するのか、生きていくために大切な歯車が、そこで一つ欠けていくのではないか。発達障害や愛着障害の大半が、この「諦め」が原因ではないのか。0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えているのも、その根底にこの「諦め」があるのではないか、真剣に考えた方がいい。

人類未体験の不自然な連鎖が、「慣らし保育」の名で行われている。

がっかりし、心を痛め、去っていく保育士の後ろ姿に、誰も声を掛けない。

慌てて、次の保育士を探している。その心の動きに、市場原理による「支配」が見える。

政府によって、保育を「サービス」と思い込まされた、要求ばかり主張する身勝手な親たちが増え、仕組みをさらに追い詰める。

先進国社会が、情報や言葉に支配されていくのは、学問が重視され、乳幼児と過ごす体験が欠けてきているからだと思います。

授乳だけでなく、三歳の子どもが生まれたばかりの弟や妹と出会うところからも始まっている特別な体験、祖父母が初孫と対面する時からも、始まる、あまり言葉に頼らない双方向への体験、その価値に気づいてほしいのです。それは、往々にして自分との対話、宇宙との対話であって、そのやり方を、人間は、乳児を可愛がることから学ぶのです。育てられるのは、所詮、自分自身でしかない。

乳幼児たちは、人類にとって一番の相談相手でした。この人たちを生かすことで、生きる動機と道筋を手に入れた。

国の子ども子育て会議が、11時間保育を「標準」と決めたとき、誰も、「可哀想」とは言わなかったのでしょう。

「平等」という架空の「正論」に縛られ、会議自体が人間性を失っていたのです。それを主張できない乳幼児の「願い」が価値を失っていった。弱者の悲しみや、諦めが、人々の視界から消え、「可哀想」という表現さえ封じられた。

幼児の「諦め」(慣らされること)を「自立」(自律)とか、自主性と呼ぶ学者たちさえいる。システムを成立させるための「こじ付け」は、最近限度を超えている。保育士不足という点からも、学級崩壊という結果からも愚策と知りつつ、仕組みは、政府(経済界)の都合通りに作られていった。幼児の側からは存在の喪失に他ならない「標準」が、政府によって設定され、それが、あっという間に行き詰まっている。

人類は、平等の上には成り立たない。

進化は、性的役割分担で成り立ってきたのだし、宇宙は、陰陽の法則で動いている。

子どもたちが、人間であることを諦め始めている。そのことに、気づいてほしい。

全国で、地域の「核」になってきた「幼稚園」が、保育園を周りに建てられ廃園に追い込まれていく。それを目の当たりにして、私は、心底腹を立てているのです。政府には、この国の最後の砦が見えていない。絆を育てる最適な手段を、雇用労働施策の元に壊そうとしている。

「当たり前のこと」を、口にすべき時が来ています。子どもたちは、誰でもいい、とは言っていない。

西洋の「学問」と、東洋の「祭り」(哲学)が対峙しているのだとしたら、この国にはまだチャンスがある。

午睡の時間にしのび泣く乳児クラスの男児に、「頑張れ!」と言うのは人間性を逸脱している。それを知っている国だと思うのです。

「可哀想だ」と感じたら、それを口にし、周りを見回す。

人間「社会」はそこから始まるのです。

この投書が全国紙に載るということは、本当の仕組みが見える人がまだたくさんいる、ということ。

耕し直すことはできる。

「ママがいい!」という言葉を、これ以上聞き流してはいけない。

 

(前々回の私の文章です)

朝日新聞:オピニオン&フォーラムに、「安心して休める 子育て社会を」という投書が載りました。

大学で「子育て支援」などを教えていた人が、保育の現場で園長として働き始め、午睡の時間に、男児の「ママがいい!」というしのび泣きが乳児クラスから聞こえてくる。そして、「頑張れ!」より「可哀想に」を口にしてしまう。

そうですね。これが人間です。

幼児たちのいる風景に私たちは、育てられ、試される。自分の人間性に気付かされる。

慣らし保育で、私たちは、何に慣らされるのか。慣れてはいけないものがあるのではないか。この投書を読んで、私は、救われる思いがしました。

学問を離れて、帰ってこなければならない場所がある。

泣き続けた幼児たちの心に、その時、何が残ったのか。子ども真ん中、というならそこを真剣に、ずっと考えるべき、感じ続けるべきなのです。

いま、進められようとしている異次元の少子化対策、「こども誰でも通園制度」は、この悲しみ、このしのび泣きを、増やすこと。

その先には、すでに学級崩壊や、不登校児童過去最多、教師不足があって、もはや待ったなしのところまで来ている。

「ママがいい!」と言われたら、それはいいママだった、ということ。子どもに、いいママと言われて過ごす人生ほど、確かで幸せな人生はなかったはず。

 

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。幼稚園や保育園を核にし、絆を耕し直す方法が実例を挙げてたくさん書いてあります。予算もほとんどかからない、そのいくつかを仕組みの中で「常識」にするだけで、学校が鎮まってくる。よろしくお願いいたします。)