小野省子さんの詩「愛し続けていること」朗読し続けています。

『愛し続けていること』 詩/小野省子

いつかあなたも
母親にいえないことを
考えたり、したりするでしょう

その時は思い出してください
あなたの母親も
子供にはいえないことを
ずいぶんしました

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて
何も分からないあなたの細い腕を
思わず叩いたこともありました
あなたは驚いた目で私を見つめ
小さな手を不安そうにもぞもぞさせていました

夜中、泣き止まないあなたを
布団の上にほったらかして
ため息をつきながらながめていたこともありました
あなたは温もりを求め
いつまでも涙を流していました

わたしは母親として
自分を恥ずかしいと思いました
だけど苦しみにつぶされることはなかった
それは小さなあなたが
私を愛し続けてくれたからです

だからもしいつか 
あなたが母親にいえないことを
考えたり、したりして
つらい思いをすることがあったら
思い出してください

あなたに愛され続けて救われた私が
いつまでもあなたを
愛し続けていることを

http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

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 出会うことの不思議は、人それぞれが自立出来ないといことを証明しているようです。三年間、私の講演を聴いた一人の母親が、手紙と詩を送ってくれました。

 「話が進むに従って、私の中で不思議に思っていた問題が少しずつ解かれていきました」と書いてありました。

 自分が子育てをしながら書いた詩の解説に、私の講演がなったのです。私は、講演で小野さんの書いた詩を朗読し、詩集を配ります。(衆議院特別委員会で公述人をした時も最後に読みました。)短い詩が、私の2時間の講演の全てを説明してくれます。詩という芸術の素晴らしさを実感します。

 余韻、余白、で表現する、これは、言葉の喋れない0才児が私たちから「人間性」を引き出そうとする人間の進化の仕組みに似ています。

 感性の世界で全体的につながることを要求する。詩人の感性は、子どもの感性とよく響きあう。この余韻、余白から生まれる時空を超えた感性の絆が、人間社会には大切なのだと思います。人が育てあうことの背景には「信頼」が存在する。信頼を確認するために人は永遠に育てあう。

 人間が育てあい、支えあう行為が、人間対システムになってはいけないと思います。人間対自然であればいいけれど、システムは人間の思考から出来上がっていることが多いので、偏りが出て来てしまう。社会全体で子育て、と政治家は言うけれど、それでは、社会から本来の人間性が失われてしまう。システムが人間を支配するようになってしまう。

 幼児は信頼することで私たちに人間であることの幸せを教え、ときどき許し、絆を育てる。それが初めにある。それが社会。そして私たちは、詩人がそう言うように、幼児によって「救われる」。そうやって人間性は回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。
 講演でこの詩を声に出して朗読すると、時々、最後のところで泣きそうになってしまいます。


(小野さんの子育て詩集「おかあさんどこ」がhttp://kazumatsui.com/genkou.htmlからダウンロードできます。)

日経新聞/株式会社はノーか(保育園が足りない)

 日経新聞が「保育園が足りない」という連載をしていて、その日の夕刊は(「株式会社はノー」か、自治体及び腰、整備進まず)という記事でした。小見出しには「破綻リスク懸念」「保育士が不足」という保育界が陥っている現状を伝える部分もありますが、全体的には、株式会社の参入を進めないから待機児童が減らない、という論調です。保育施策は元々が雇用労働施策なのだ、という政府の考え方に似ています。日本経済新聞というくらいですから、経済が中心の物の見方になって当たり前なのですが、根幹にあるのは、女性が欧米並みに働かないと税収が増えず、年金も維持出来ない、女性の社会進出のためには保育園が絶対に必要、というのが考え方です。保育が子育てであり、利用者は子ども、ということは理解していないか、考慮に入れる優先順位が低い。

 記事の中に、株式会社参入を自治体や養成校が妨げている、という部分があります。「株式会社は利益至上主義でしょ」とか、「大事な学生を株式会社には出しません」と専門学校や養成校の先生から言われる。その度に、株式会社の採用担当の社員は、「株式会社でも保育の仕事は変わりません」と説得する。そして、「新設園の立ち上げにはベテランが必ず配置される。5年目のAさんは貴重な戦力」と言うのだが、その立ち上げに携わるのは二回目のベテランAさんが24歳。

 いままでの常識では、保育界で24歳をベテランとは言わない。新店舗の立ち上げではない。保育をサービス業としか思っていない。株式会社も新聞も、ひょっとして政治家も厚労省も。株式会社や派遣会社が、4、5月に養成校に青田買いに入り、「4年経ったら園長になれます」と言って学生を誘う。

 そういう採用姿勢と、早々に退職した卒業生(教え子)から保育の内容や会社の姿勢を聴くから、養成校の先生が「大事な学生を株式会社には出しません」と言うようになったのだ。

 (注:ただし、私は平均的社会福祉法人の認可園より、ちゃんとした保育をやっている株式会社を知っていますし、儲けしか考えない株式会社よりも、よくない保育をやっている認可保育所も知っています。

 それほど昔から格差はあった。それが今、認可、認可外A.B、認証保育所、認定こども園、こども園、家庭保育室、ママさん保育、スマート保育、横浜保育室、小規模保育、行政の人間さえわけのわからない仕組みになってくると、議論をするのが非常に難しくなってきます。)


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 軽度の発達障害児を担当している一年目の保育士に、どう保育していいか迷っている、確信がないという悩みを聴いた園長先生が言いました。

 「先生が困っていることと、その子が困っていることとは違うんですよ。そこのところをいつも考えていて下さい」そうだな、と思う。

 厚労省に聴かせたい。総理大臣に聴かせたい。

 横で聴いていた主任先生が、続けて、「でも、一年目に担当した子どもたちは本当に可愛いでしょう。思い入れが違います。私もそうでした。一生覚えています。一年目の保育士に当たった子どもは運がいいんですよ。だから、私の子どもが小学校で一年目の先生に当たった時は、良かったぁ、と思いましたよ」

 主任が続けます。「でも、一年目の保育士は一生懸命だから、オロオロしたり考えてばかりいて、誉めることを忘れることがあります。タイミングを逃さないように。誉める機会を探しながら子どもと過ごして、誉めた出来事を母親に伝えれば、それでいい保育が出来ますよ」

 一年目の保育士、少し涙ぐんでいました。


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 保育士が居ないのに国は「子ども・子育て支援新制度の施行(27年度予定)を待たずに、『緊急集中取組期間』(2526年度)で約20万人分、潜在ニーズを含め、保育ニーズのピークを迎える29年度末までに合わせて約40万人分の保育の受け皿を確保し、待機児童の解消を目指す」という。これが既定の方針であって、子ども・子育て会議は、それを無理にでも実行しようとしているだけ。

 この動きは、日本が20年前に批准した「子どもの権利条約」にある、子どもの最善の利益を守る、に違反している。国際的に批准した条約は、国内法より権限を持つ。これをベースに保育士たちが、子どもたちのために訴訟を起こすといいのかもしれない。

共励保育園、運動会4:4:2の法則/騎馬戦:運動会で社会が変わる

運動会四:四:二の法則

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 八王子の共励保育園の長田安司先生が編み出した「運動会四:四:二の法則」には感動しました。一緒に講演を聞いていた埼玉県庁福祉課の小峰さんも感心していました。保育展における先生の講演は、ビデオやスライドを使って、保育の実践とともに運動会の映像が出てきます。それを見せながら、「うちの園では、親たちがやる競技が四割、子どもたちがやる競技や演技が四割、親子が一緒にやるのが二割ですから」と、サラリと言ってのけたのです。エッと思って、私は小峰さんの方を見ました。オッという感じで、小峰さんも私を見返します。そして、二人でニコッと笑ってしまいました。何か、とても具体的に人類を救済する発言がなされたように思えたのです。。

 ビデオに出てくる親たちを見ていると、「子どもたちの運動会」という既成概念を飛び越え、「園長と保育士と親と子どもの運動会」です。家族のような、部族的信頼関係が育っていくことが運動会の意味なのです。参加する親の真剣な顔、真剣さの中にこぼれる笑顔を、子どもたちが観客席から眺める。応援する。もちろん、子どもたちの一喜一憂、自慢げな表情を、親も嬉しそうに眺めます。そして、また一緒にがんばる競技がある。

 親同士の絆は運動会の準備段階から強まっています。四割は自分たちが出る種目です。運動会に行こうと思ったら、参加しないわけにはいかない。子どもの成長を見に行く、なんていう教育っぽい絵空事ではない。親の心が成長するために行くのが「運動会」です。

 親が真剣に、楽しそうに「保育園の運動会」に参加してくれることが子どもには嬉しい。子どもたちは「自分たちの運動会」だと思っています。そこへ親がきて真剣に遊んでいるのです。嬉しいに決まっています。親だって真剣に遊べるのです。

 子どもが嬉しそうだと親はもっと嬉しくなる。幸せの歯車が廻りだす瞬間です。

 「役所に、日曜日にやってはだめだと言われました」と長田先生は怒ります。月曜日を代休にするのは法律上困る、と言うんです。そんなとき、子どもと一緒に有給休暇をとって休むか、誰に預かってもらうか悩んだり、奔走するのが親にいい。そんなことくらい対処できないようでは親として失格です。行政が福祉や権利といって親を甘やかすから、親がおかしくなるんです。いつかまた、日曜日にできるように、私は闘います」

 「がんばりすぎて、怪我する人が出ませんか?」

 「保険は三千円しか掛けてないから、それ以上は自己責任、と父母には最初から言ってあります。要は信頼関係ですよ。親たちと園との」



 

運動会は真剣です

 

 共励保育園へ運動会を見に行きました。

 前の晩から天気が心配です。時々カーテンを開けて夜空を見ました。こんなことは久しぶり。運動会はもう始まっているのです。空を見上げ、思うようにならない何か、を意識するときです。人間の位置を感じ、世界を感じ、みんなで祈る。心を一つにする助走が始まっています。晴れるといいな、と思いました。

 その晩、もっと真剣に全国で、小さな手が祈りながら、てるてる坊主を作っていたはず。だって、ずっと練習してきたんですから。予行演習だってやったんです。文化人類学的に分析すれば、てるてる坊主の数だけ神との対話がある。深夜二時ごろ激しい雨が降っていましたが、明け方にはやみました。なんとか持ちこたえて運動会が行われました。

 河川敷にある広場を借りて行われた運動会は、村の運動会という感じ。子どもが意外と目立ちません。おむすびの中のごま塩みたい。一人の子どもに二、三人の大人がついてきている計算です。園児はまだ小さいのです。運動会に占める体積が少ないから、どうしても大人の陰に隠れてしまうのです。競技だって、子どもだけでやる種目は全体の四割しかないのです。長田先生を探しました。やっと見つけた理事長は、四人一組で板の下駄を履いて走る競技の真っ最中。もう転んだのか、短パンに泥がついています。必死の形相で事務組の先頭をつとめています。

 父母四人と担任が出場するこの競技は、五人一組の障害物競走になっていて、午前中に予選、午後に決勝戦があり、運動会のメーンイベント。昼休みに、決勝に残ったどの組が優勝するか、投票があります。本部席の前に箱が設置してあり、お弁当を食べ終わるころ、三々五々、子どもも大人も投票にやってきます。馬券の予想屋のように理事長がマイクで今年の本命などを解説し、票が偏らないようにしています。当てた人の中から抽選で、米一〇キロが賞品として贈呈されます。運動会を盛り上げるのは、真剣な競いあいと、真剣な応援。真剣だから心底笑い、一喜一憂するのです。そうして、心が一つになってゆく。

 「真剣に応援するには、やっぱり馬券と賞品です」先生が笑いながら私に説明します。

 障害物競走の途中に棒登りがあって、五本のうち一本が太くて登りにくくなっています。二位できた組がその棒を登ります。その組は「運」が悪いのです。「競争には運が必要ですから」と、先生がニヤニヤしながら説明します。「人生とはそういうものなんだから」

 そういう不公平を、園長の独断としてみなが受け入れています。

 昼休みが終わると卒園児の徒競走。

 一〇〇人は参加しています。歳の若い順に六人ずつ徒競走をするのですが、最前列は一年生、最後列はどう見ても二〇歳を過ぎています。でも、みんな卒園児です。

 司会が差し出すワイアレスマイクに向かって、走る前に、一人ひとりが自分の名前を大きな声で言って「ヨーイ、ドン」。

 ああ、あの子だ、大きくなったね、あの子は変わらないね、などと保育士から懐かしそうな歓声が上がります。保育士が自分の仕事の結果に幸せを感じる瞬間です。こういう瞬間が保育士の明日のエネルギーになります。卒園児の走る姿を見て、「いま」の保育にいっそう心がこもるのです。保育園は、卒園したらそれで終わりの生産工場ではありません。その先に長い道のりがあるのです。その長い道のりを立派に幸せに歩んでいってほしいという祈りが、保育なのです。

 保育園の運動会はまっすぐで本気です。ふだん駆け引きや裏表の世界で生きなければならない親の精神には、とくにいいのです。必死に走って、転んだり、泣いたり、悔しがったり、そうやって久しぶりに血の通った人間社会らしい一日が過ぎます。幼稚園や保育園の運動会は親の精神の浄化と絆の確認のためにあります。日本独特の魂の行事です。

 一人並ぶのが遅れてしまった小学一年生が、最後に大人と一緒に走ることになってしまいました。大人だって卒園児です。容赦しません。みんな必死に走りますから、一年生は二〇メートルも離されて最下位です。悔しくて、悲しくて大泣きです。それでもいいのです。みんな笑顔で同情し、拍手します。泣いて笑って悔しがって、成長し、思い出ができて、絆が育まれるのです。

 ハーモニカ合奏のとき、「ビデオを撮りやすい場所を本部の横にもうけました」とアナウンスがあります。二度と見ないビデオだっていい。せっかく芸を仕込んでもらったのです。撮っておかないと損です。撮ってもらうだけで、子どもは嬉しいのです。いい場所を確保し、ファインダーを覗くことで、また親心が育ってゆくのです。高価なカメラを買った言いわけにもなります。ちなみに運動会の準備を手伝った親には、朝、場所取り優先権が与えられています。親を「場所取り権」という餌で釣って、保育園も準備段階から助かるし、親も納得するのです。どんな理由でもいい。親を少しでも長く保育園にいさせることが親心の耕しになるのです。



 

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騎馬戦

 

 普段は出会わない職種の父親たち(母親も幾人か、一人祖母もいました)が出会って三人で騎馬を作ります。先頭になった親の子どもを一人乗せます。親三人で一騎組みです。子どもは一人ずつ順番に乗るので、都合三回騎馬を組み戦わなければなりません。

 長田先生が言います。「見ててください。先頭に立つ親によって戦い方が違うんです。親心が出るんですねー」

 簡単に説明します。頭にねじり鉢巻をした肉体労働者風ランニングシャツの父親と、一見ひ弱なサラリーマン風の父親、ちょっとニヒルな大学教授風の父親が一緒に騎馬を組んだところを想像してみてください。自分の子どもを乗せるとき、その子の父親が先頭に立ちます。子どもは、まさしく父親の背中に乗っています。肉体派の父親は、敵の騎馬隊を目指して勇猛果敢に突っ込んで行きます。それが性分ですから。相手の子どもが頭につけているかぶりものを取りあうのが目的です。その父親の背後に二人の父親が足となってついています。

 次は、ひ弱な優しそうな父親が自分の子どもを乗せて先頭になります。こんどは、はじめから逃げ回ります。かぶりものを取られなければいいわけです。年長組の父親には三度目四度目の運動会。騎馬戦の闘い方を知っています。ここで面白いのは、肉体派の父親が後ろで支え、げらげら笑いながら一緒に逃げ回る姿です。つまりいろんな奴がいて、いろんな親がいて、いろんな子育てがあって、でもみんな育てているんだよ、という風景がそこにあるのです。「みんなで育てる」などという政府のキャンペーン的な言葉は、この場には似合いません。「みんなが育てている」、それでいいのです。

 肉体派父親も、たまには逃げ回る経験をするといいのです。他人の子どもを乗せて逃げ回るのは、もっといいのです。

 こういう風景を生み出す仕組みは、名君といわれた大名が思いつくタイプのものでしょう。長田先生の頭の上にちょんまげが見えたような気がしました。

 

 誘われて反省会に出席しました。役員の親二〇名くらいと保育士二〇名くらいが向かいあって、給食室で作った夕食を食べながら飲みます。だれも反省などしません。楽しかったこと、嬉しかったこと、感動したことが、親たちから順番に語られます。おもわず涙を流す親がいます。もらい泣きする保育士がいます。泣き笑いです。日本人以外の親もいます。日本の運動会に感激しています。

 園児を子どもとして持つ保育士が一人いました。母親に違いないんだから一言述べよ、ということになりました。

 いきなり、「うちの子、ほんとにかわいいんです」と自慢です。「いつも受け持ちの子たちにそう言っているんで、今日はうちの子を応援するように頼んでおいたんです。一所懸命応援してくれたんです。それが、嬉しかったんです」

 みんな、その話をニコニコして聞いています。

 ほかの親の前で、保育士がこういうことを自然に言える絆。それが人間社会だと思います。システムにだって心が入れば、こうした風景が生まれる。保育士は自分の子どもはほかの保育園に入れる、という慣例を作っている人にこういう風景を見せてやりたい、人間を信じなさい、と言ってあげたい。「子育て」を「親心が育ってゆく過程」と見れば、こうした人間関係の絆、信頼が生まれることこそが、子育ての目的なのです。それをもう一歩進めて「部族の信頼」=「保育の目的」としたところに長田先生の運動会の神髄があるのです。

 システムの中で皆が摩擦をさけることが、人間社会から絆を失わせているのです。

 

 長田先生は成人式のときに、保育園に二〇歳になった卒園児を呼んでお泊まり保育のときのビデオを見せるそうです。みんなで、自分が五歳だったときのことを思い出す。一人では生きられなかったことを思い出す。大人を信頼し、頼りきって生きている自分がいかに幸せそうだったか思い出す。「自立」なんて概念はインチキで、本当はみんなで頼りあって生きていくのが幸せなんだと気づくのです。そうして、家族、家庭を大切にするようになるのです。

 そのあと理事長が駅まで園バスで送るそうです。小さな座席に座った成人たちがとても嬉しそうなのだそうです

 こんなことを日本中の保育園がやってくれたら、と願います。成人式を幼稚園や保育園でやることで、日本が変わると思います。


(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」国書刊行会より)


運動会の映像が見れます。http://www.kyorei.ed.jp/Hoiku/Event/Undokai.html

「げんき」美術展のお知らせ/コンサートのお知らせ

私が連載を書いている保育雑誌「げんき」(エイデル研究所)の表紙を飾ってきた子どもたちの絵の展覧会のお知らせです。)

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いのちかがやく子ども美術展
0〜6歳の子どもが生み出す絵と造形
http://www.eidell.co.jp/kodomobijutsuten.pdf
会期:11/27〜12/8
場所:新宿区四谷「ランプ坂ギャラリー」
※最終日にシンポジウムもあり
※入場無料
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子どもの遊び、子どもの絵に興味のある方は、是非足を運んでください。

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演奏します!

ディジュリドゥー奏者のノブ君と、ピアノの塩入さんと、パーカッション+ボイスの楯さんのグループIAMの公演にゲストとして参加します。11月1日金曜日19時30分から、大田区池上の實相寺です。
http://idea-music-design.p2.weblife.me/index.html/

春に六本木のスイートベージルで演奏したときの曲、「漆黒」の映像が以下のアドレスで公開されています。
http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246



一月に講演をした市の園長先生から/保育士体験を始めて(+首相の発言)

2013年10月

(一月に講演をした市の園長先生からの嬉しいメールが着ました。一園一園の積み重ねが、いつか実るような気がします。)

 その節は大変お世話になりました。今年度4月より、当園では「1日保育士体験」を始めました。

 「仕事休んでも体験してほしい、それだけの意義はある! 子どもがどれほど喜ぶか、参観ではなく、1日体験することによってわかる」など、かなり強気でしましたら、いきなり市役所へ保護者から苦情が〜。

 でも、市の担当者へこの取り組みを知らせるいい機会になりました。先生ほどの迫力はないにしても、「力説」いたしました。もちろん初年度から100%の参加や理解は無理でも、保護者の毎年のお楽しみになるよう、定着させたいと思っています。体験後のアンケートから気づかされることも多々有り、保育の見直しにもつながっております。

 10月30日に県民人権講座で来県されると聞き、早速申し込みをいたしました。保育士2名と共に参加させていただき。またたくさんの刺激をいただきたいと思っております。当日会場でお会いするのを楽しみにしております。

 

 (私の返信)

 ありがとうございます。感謝です。

 市の担当者が理解してくれることは大切です。また、理解しなければならないことです。(保育指針という法律でも、こういうことを園がやる決まりなのですから。)

 法律なんですよ、と言ったら、市の担当は驚くかもしれませんが、「子どもが、本当に喜ぶんですよ」という言葉で説得できれば、それが一番いいですね。

  先日、千葉でも「最初は保育士からも文句が出ましたが、やってみたら、親にも保育士にもとても良かった。親が自然に協力的になりました」というお話しを聴きました。

 茅野市のホームページに、保育士たちのとてもリアルな感想文も載っています。母親100%、父親80%体験、という公立保育園もあります。祖父母の保育士体験も始めています。

 たとえ100%が無理でも、それを目指すこと、親との信頼関係を作ろうとすることが、子どもの幸せを願うことだと思います。よろしくお願いいたします。お会いできるのを楽しみにしています。 親(祖父母)に直接話す機会をつくっていただければ、いつでも参ります。

 

松居

 

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 国連での演説に向かう首相が、歴史認識で色々言われているが、日本もこれからは女性を重視し、女性が最前線で活躍する国になりつつあることをアピールするのだ、と言っていた。

 女性が活躍するための条件整備、数値目標が「もう40万人保育園で預かれ」ということなのだ、それを世界に宣言するという。消費税からは三千億円しか回さないようだし、それも待機児童対策に使われるという。保育界はますます追い込まれている。

 同じ頃、社会学者の水無田気流さんという人が朝日新聞に書いていた。「国は女性を活用する気はあっても、幸せにする気はない。」

 わかる人にはわかる。安倍さんの言う女性重視は、あくまで市場原理、経済競争社会でのこと。積極的にそれを進めれば、やがて家庭が崩壊に向かい、学校教育が成り立たなくなり、犯罪が増える。それを体現し続ける国アメリカのニューヨークで、世界に向かって日本もそれをやると宣言するのだから、子育てを押し付けられた保育界としてはやり切れない思いだろう。

 国際化(欧米化)という安易な論理で、子ども重視であり続けて来たこの国の魂と絆が壊れてゆく。経済活動における最前線がそんなに居心地のいいものでないことは、日本の女性はすでに知っている。子育ては大切だ、専業主婦になりたいという女性が米国でも増えているという。子育ては絶対に魅力的だ。遺伝子がそう語っている。

 「子育ての最前線」で、人間は夫婦で時を超え、物言わぬ者を理解しようとすることで心穏やかになり、一緒に祈ることを知った。それが得意だった国の歴史と文化を、首相には理解してほしかった。

 

(昨日、首相が国会の施政方針演説で、明治人に出来たことが私たち出来ないわけがない、意思の力で強い日本を作ろう、と言っていた。このトンチンカンは何だろう。江戸の末期、日本に来た欧米人が書いている。「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない」。それが日本人の本質だった。子どもを拝む力で心を合わせる姿を具現できたら、日本は人類に貢献できる。http://kazu-matsui.jp/diary/2013/02/post-191.html

子育てと保育、すれ違いと誤解の話/でもいい話

 長い間幼稚園や保育園を回って話をしたり、体験談を聴いたりして、時々自分は伝令役なのだと思います。以前書いたのですが、もう一度書きます。視覚障害の子を引き受けた理事長先生から聴いた悲しいけれどなぜか美しい話です。保育の難しさ、子育てを共有しながら、部族社会(運命共同体)にはなり得ない、三年間だけの宿命を象徴する話です。

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 私立の幼稚園の理事長先生の体験談です。男性ですが、子どもが大好きで熱血漢、県会議員もやっておられる年輩の方です。

 ある年、視覚障害をもっている子どもを引き受けたそうです。経験がなかったので躊躇したのですが、どうしても、と言われ、決心し、自ら勉強会や講習会に通い、出来る限りの準備をしたのだそうです。

 その子が入園して間もなくのころ、砂場でその子が一人で遊んでいて、自分の頭に砂をかけたそうです。その「感じ」がよかったのか、そっと、繰り返しかけたのだそうです。理事長先生は、注意することなしに「遊び」「体験」として見ていました。幾人かの子どもが集まってきて、その子にそっと砂をかけ始めました。それを理事長先生は、「育ちあい」として見ていました。長年保育をしてきた先生の経験からくる確かな判断がありました。その子のお母さんが見ていたことも、先生は知っていました。

 無事に3年が過ぎ、卒園が近づいてきました。そして、その子の母親が「あの日」のことを卒園の文集に書いたのです。砂をかけられ幼稚園でいじめられている我が子の姿がどれほど不憫だったか。それを先生たちは笑って見ていた、と。

 理事長先生は、あれほどびっくりしたことはなかった、悲しかったことはなかった、障がい児を預かるのはもうやめようかと思った、と話します。子どもに対する思い、保育にかける情熱に自信がありましたから、その気持ちが母親に伝わっていなかったことにびっくりしたのです。

 3年間そういう思いで過ごしてきた母親の気持ちを思うと、私はやりきれない思いにかられます。しかし、これは、いい理事長先生といい母親のエピソードです。

 その子は3年間、この二人に守られていたのです。


保育の深さ/選択肢のない幼児のために(けやの森学園)

 来週講演に行く、けやの森幼稚舎・保育園から「自然の教室」というカリキュラムが送られて来ました(ひとなる書房)。感動。

 保育はここまで出来る。
 保育=子育てを通して信頼がどう作られるか、という視点で私は発言してきたのですが、共励保育園の積み上げとごっこ遊びも凄いですが、けやの森学園の保育もまた別の観点で感動しました。大自然との関係が凄いです。

 けやの森学園のホームページを見ると、園が、いま私たちが一番必要としている小宇宙でもあるかのように、もしこれが全国の園の標準だったら、とかなわない夢にドキドキします。父の会から学童まで、「幼児と自然」という昔なら当たり前の風景が一つの柱としてあるからこそ、これほどまとまって来るのでしょうか。
 自然の中で得る感動を園長先生が信じています。直面する様々な問題に、幼い頃の自分の感動体験を重ねて考えているのでしょうか。カリキュラムの写真を見ていると園長の信心の中で、子どもたちが神のように遊んでいる感じです。

 年に一度の共励保育園の保育展に行ったり、けやの森のカリキュラムを読んでいて、保育はここまで深い、出来る、やっている園長がいる、とつくづく思います。
 平行して存在する東京都のスマート保育、家庭保育室。この格差、意図の差は異常です。おかしい。幼児たちに選択肢がないだけに、国がもっと真剣に保育の大切さを考え、国の土台、魂のインフラ施策として認識してほしいと思います。

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演奏します。11月1日池上の實相寺でIAMの公演に客演します。

今年になって四度目の公演になります。
ディジュリドゥー奏者のノブ君と、ピアノの塩入さんと、パーカッション+ボイスの楯さんのグループIAMの公演にゲストとして参加します。11月1日金曜日19時30分から、大田区池上の實相寺です。
春に六本木のスイートベージルで演奏したときの曲、「漆黒」の映像が以下のアドレスで公開されています。

http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246

この曲は私の担当の曲ですが、基本的に即興演奏です。
前々日にノブ君からメールで、「今回の和さんの担当する曲はタイトルが漆黒で、方角は北です」という不思議な伝言があり、「了解です」と返事をうちました。
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捧げ物の感覚。

つい最近まで何万年にもわたって、自分のために作られた玩具で遊び、自分のために狩られた獲物や収穫物を食べて育てられてきた遺伝子が構築していた社会が、どの次元で、どのようにつながっていたか。墓や人形、昔話を創り、意識のレベルで交流していた次元がどんな方法で支えられてきたか、それを探るような時間を持ちたい。


幼児期の、その子が神様仏様だった時代をしっかり見た人たちに囲まれて育ち、子どもは生き方を覚えていく。

一度信じきったその人たちに見守られ、人生の半分くらいを過ごすことが、許し許され、分ちあう社会を築いていたような気がする。


幼児期を知る人たちの重なりあいが人間社会をつくっていた。



古い友人から「祈りや音楽は、人間の根源にある潜在意識に目標を刻み込む作業です」というメールが着ました。主語を「幼児の存在は」と変えるととてもしっくりする。遺伝子がオンになるという表現でもいいですが、人間の体験がこのあたりで縦横に繋がっている。幼児との対話から子守唄が生れ、そこから祈りと音楽が分かれ、人間社会を作った。



ツイッター@kazu_matsuiから/主に保育・人間のこと、その7

 保育界に市場原理が持ち込まれ始め心配です。

 市場原理は、次世代を育てる「子育て」とは反対側の動機から出発しています。

 大雑把に言うと個の欲と利他ということでしょうか。会社を実力制にすると先輩が後輩を育てなくなるのと似ています。次世代育成の意欲は、利他の幸福観をベースにしています。同僚がライバルになると、一時的に業績が伸びることもありますが、やがて集団として、運命共同体としての幸福感が薄れ生産性も失われる。そして、生産性よりも、信頼関係や絆が希薄になることの方が社会全体にとってはもっと損失。欧米化が進み、自身を守るために多くが家庭という概念を捨てざるを得なくなる。すると、強者の論理が一気に加速し始める。 学校という仕組みの中で「こんどのお父さんは、こんどのお母さんは」という会話が日常会話になってゆく。30年前に欧米で起こったこの変化が、いま日本にも来ようとしている。親子を早いうちに引き離そうとしようとする経済優先の流れの中で。

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 子育てを社会化し、子育ての段階から一対一の関係を希薄にし、子どもからの信頼を失ったうえに、しかも経済活動の活性化のために強者の論理を持とうとすれば、格差社会を作り徐々に家庭を崩壊させてゆくしかない。

 これから人類を覆う殺伐とした市場原理の中で、遅れて来た発展途上国の親子関係に依存して、しばらくやってゆくのでしょうが、これさえも、ITの普及ですぐに限界に来る。このスピードに人類は対応出来るのでしょうか。出来ないことを前提に、この国は準備期に入るべきではないでしょうか。

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 子守唄を歌うことは、人間が自分がどういう存在で居たいかを宣言することです。

 または、自分がどういう存在であるかを相対的に体験することです。

 先進国ではすっかり歌われなくなりました。なぜでしょうか。音楽や踊りではなく、言葉が感性の主導権を握ったからでしょうか。人が、自分の子どもだけではなく、他人の乳幼児と過ごす時間が絶対的に減ったのが一番の原因だと思います。幼児が主張する古(いにしえ)の法を、いまの時代に翻訳し伝えるのが保育士の役割かもしれません。文字が書かれる前から刻まれている古代の法。ナルニア国物語やトールキンの指輪物語は、この存在について繰り返し言います。ピーターパンやトトロが時代を超え社会に影響を与え続けるのもこの法の実証でしょう。それは歌い継がれるもの、踊り継がれるもの。

 最近は、「子どもを預けて仕事して、母親も輝かなければいけない」という言葉まで出て来るのです。「行政が保育園を拡充しないから輝けない。子どもがいるから輝けない」という方向にこの国の意識が進んでいる。

 実は、輝ける仕事なんて滅多にないですから、結局ほとんど誰も輝かない。信じきって、頼りきって、確実に人間を輝かせることが出来るのが幼児たちなのに。「安心して子どもが預けられる環境づくり」という言葉を誰かが言うほどに、それは遠のく。なぜ解らないのでしょうか。その環境づくりが、結局親心の喪失、子育て回避につながり、将来子どもにとって良くない、と預かる方(保育者たち)が気づいている。

i mages-7.jpegのサムネール画像

 「心配してくれる人」を周りにつくり育てながら、子どもは成長してゆく。安心してではなく、「気楽に子どもが預けられる環境」がそれを忘れさせる。育てていれば解りますが、子どもは、ハラハラ、ドキドキ、オロオロしながら育てるもの。安心して子育てしている親はたぶん居ない。だから政府の「安心して子どもが預けられる環境づくり」という言葉は実はとても恐い。自分には出来ない事を専門家ならやってくれるのかも、と人間は希望的推測をしたがる。安心するために。幼児が私たちに特別な体験をさせてくれる時期はアッと言う間に過ぎてしまいます。

 中学や高校のPTAで講演すると、何となく保育園に入れてしまった、という親が結構います。決意と決断で決めた人はいい。世の風潮や社会の流れでするともう取り戻せない。三才児神話を否定した厚労省は猛省してほしいと思います。神話が存在する意味をよく考えてほしいと思います。

演奏します。8月2日、夜、池上の實相寺です。

今年二回スイートベージルでの公演に参加したIAMのお寺公演にゲストで参加演奏します。私は初めてのお寺ですが、いい所みたいです。
8月2日(金)開場19:00  開演19:30  終演予定21:00
会場 池上實相寺
http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246