日本は遅れている?

日本は遅れている?

 

「男女平等、日本125位=順位落とす、先進国最下位―国際調査」~政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった~」https://sp.m.jiji.com/article/show/2966296?free=1 という報道がありました。

政治や経済の分野に参加する女性が少ないことを、「遅れ」とし、疑問を抱かせないように報道する。

順位を落としている事実から、日本の女性たちの意志、選択の自由を読み取ろうとはしない。

この手の報道を目にする度に、マスコミや経済学者は、意図的に、「女性らしさ」という個性を、経済競争の活性化・「一億総活躍」のために見下し、失わせようとしているように思えてならないのです。

それに気づき、本当に、それでいいのか、という素朴な疑問が、「順位を落とす」という現象に現れているのではないか。

日本の女性たちは、政府が主導する無謀とも思える保育の量的拡大から、その真意に気づき始めている。「ママがいい!」という言葉を覆い隠すための規制緩和を容認、追認してきた学者や専門家たちの不誠実さを見抜き、不信感を持ち始めているのではないか。

そうであってほしい。

立ち止まる、としたら、今しかない。

 

近頃、欧米を覆う、異常とも云える家庭崩壊と、それに伴う児童虐待、簡単に火がつき暴動にまで発展する「犯罪率」、格差の拡大を考えれば、「遅れていること」は良いこと、と思っていい。 子どもを守るとしたら、自分しかいない、という気構えが、日本の母親たちに戻ってきているのだとしたら、この国は、独特に踏みとどまるかもしれない。

そもそも論ですが、「男女平等、125位」の国が、世界第3位の経済大国なら、それが良かったのでは、と分析する学者や、エビデンスに基づきその視点を報道をする記者が、一人、二人は、いてもいい。

性的役割分担が、この国を経済大国に押し上げたと理解している学者は、たぶんいるはず。しかし、「報道されるか、されないか」で思考の価値、社会の流れが決まってくる時代がしばらく続いたのです。

それが最近、ネット上の新たなコミュニケーション手段によって、変化し始めている。

私の本、「ママがいい!」は、SNS、口コミなど、自発的な情報拡散に支えられています。

タイトルのせいか、マスコミは一切、書評も載せないし、報道もしない。しかし、園長先生たちから、「タイトルを見て涙が出ました」と感謝され、「やっぱり自分の決断は間違っていなかった」と心が揺れていた母親からメールをいただき、一年間で、5刷りまで来ました。図書館で順番待ちになっている、と聞きます。

幼児たちとの時間は、駆け引きのない輝かしい時間で、それに応えることは、人生を形づくる「活躍」なのだ、と、この国は気づき始めている。

 

話を戻します。

世界第3位の経済大国である上に、日本の女性の平均寿命は世界一です。

「夢を持ちましょう(欲を持ちましょう)」という言葉に騙されず、人間が一番幸せになりやすい方法を見極め、「子どもを可愛がる」、「子どもを優先する」という「利他の本筋」を選ぶ女性が先進国の中では奇跡的に多い、それが、精神的にも良かった、と考える文化人類学者がいていい。

この国には、世阿弥や芭蕉が種を蒔き、宮沢賢治や手塚治虫が耕し、宮崎アニメまでつながった「欲に、静かに背を向ける」文化と土壌が確かにまだある。最近、アニメなどを通して、世界の若者たちの憧れにもなって、惹きつけている。

そこまで考えると、「男女平等、125位」、しかも「順位を落としている」という日本の女性の意志と選択が、人類の持続性の鍵を握っているようにさえ思えてくる。

 

政府の、こども未来戦略会議の「こども未来戦略方針」https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf の冒頭に、基本的考え方として、

「急速な少子化・人口減少に歯止めをかけなければ、世界第3位の経済大国という、我が国の立ち位置にも大きな影響を及ぼす」と書いてあるのですが、母性はこういう考え方をしない。「我が国の立ち位置」より、我が子の「はじめの一歩」に驚きと、喜びを見出す。そこに宇宙の動機を感じる。

しかも、この「急速な少子化・人口減少」は、今まで政府がやってきた、現場の保育士たちの人間性さえ追い詰める、利他の幸福論を無視した、母子分離策(少子化対策)が原因なのです。

乳幼児を抱っこする時間の価値が貶められていった結果です。

アインシュタインが、美しさ、と評したこの国の性的役割分担に基づいた「調和」が、実は経済面でも「平等」に勝る道筋だったと主張する経済学者は、いつになったら現れるのか。「こども未来戦略」の中には、その兆候さえ見えません。

学者たちの「欧米コンプレックス」が根本にあるのでしょう。「平等」という言葉に縛られ、思考停止になっているのかもしれない。

ネグレクトの勧めとも言える(慣らし保育なしの)「子どものショートステイ」を、「圧倒的に整備が遅れている」と言う人たちです。保育士が足りなければパートで繋げばいい、と規制緩和をする人たちが、「戦略」(策略)を練っている。

経済競争から「作法」が消えれば、ただの「喧嘩」です。その風景が、世界中に広がっている。

そのことに気づいてほしい。

(「ママがいい!」、それは、子どもたちだけではなく、現場からのメッセージでもあります。その言葉に救われ、人生を見る視点が変わった親たちのことを、本に書きました。ぜひ、友だちに薦めてください。子どもたちの願いを拡散してください。)

 

講演会のお知らせです。(西東京市です)

 「市内在住者、及び市内幼稚園の保護者対象」なのですが、西東京市に住んでいる方は参加可能のようです。また、一般の方が参加できる講演会がありましたら、フェイスブックやブログに載せてお知らせします。
 「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。アインシュタインやスティーブ・ジョブスだけでなく、日本の魅力を理解する人たちはたくさんいます。私たちも、この国の「子どもを可愛がる」個性と伝統を信じて、仕組みを立て直す時なのです。
 子どもの悲しみは、大人の責任、そう自戒し、子どもの成長に人生の生き甲斐を見出すことは、人類の生き方としては、「王道」でした。
 その道を選ぶことに関しては、日本は、先進国の中で最も平等な国です。半数近くが未婚の母から生まれる欧米に比べ、父親がまだ家庭にいる確率が非常に高いのです。背中をちょっと押してあげれば、男たちが、幸せになるチャンスをまだ持っている国なのです。
 政府や行政がやらなくても、現場の保育者一人ひとりの決心で出来ることがたくさんあります。子どもにとって、保育は、常に一対一、守ってくれる人は、目の前の人。
 コロナが明け、幼稚園、保育園での講演が増えました。
 二年以上中止になっていたため、親たちを巻き込む「行事」、親たち自身の伝承で、ビオトープのように回っていた催しを復活させるのは、なかなか大変です。幼稚園や保育園のいいところは、全員がいっぺんに卒園するわけではないところ。やった方かいいいよ、というアドバイスが口伝となって、親の育つ歯車が回り始めることです。
 私の講演をきっかけに、もう一度エンジンをかけ直そう、と呼ばれるのです。録画してもらい、来なかった人たちに回覧してもらい、園のホームページに上げてもらいます。
 園長先生の尽力で、役場の人、助産師さん、近所の学校の校長先生、民生委員の人、理事長の説得で、市長や教育長が来てくれたりします。
 一緒に聞いてくれると、地域に筋が通るような気がします。親心のビオトープの大きさが、ひと回り大きくなるのです。
 講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。小学校のPTAからも依頼が入ります。感想文に、十年前にこの話を聴いていたら、と書かれます。

「安野先生の不思議な学校」

夏季特別展「安野光雅美術館コレクション
安野先生の不思議な学校」特設展示
があります。

明石市立文化博物館

7.22 sat – 8.27 sun
この巡回展において、明石市では、
「松居直 と 松居和 、そして その学校 」という枝分かれした企画展があります。
〜本展は、夏季特別展「安野先生のふしぎな学校」のごあいさつにある 「(安野光雅の)教え子の父であり、福音館書店に勤務していた松居直と の出会いをきっかけに、42歳の遅咲きではありましたが、絵本作家とし てデビューを果たしました」に着目し、教え子である松居和、教え子の父 である松居直、そして出会いの場となった学校について紹介します。 〜
小学校での授業と、家にたくさんあった児童文学、そして、その後のインドの村での生活は、今でも、私の考える原点になっています。安野先生とのお付き合いは、六十年間続きました。

 「ママがいい!」、5刷りになったようです。口コミ、SNSが頼りの拡散ですが、図書館でも順番待ちだそうです。ありがとうございます。まだ、間に合うかもしれない、と思います。よろしくお願いいたします。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。小学校のPTAからも依頼が入ります。感想文に、十年前にこの話を聴いていたら、と書かれます。)

(お知らせ)
 フェイスブックのフォローという仕組みがオンになっていないようです、というご指摘を受け、やっとオンにできました。アドバイス、ありがとうござました。

こども未来戦略

発表された、政府のこども未来戦略会議の「こども未来戦略方針」(令和5年6月13日閣議決定)、https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf  に、こんな文章がありました。

 「今後、インド、インドネシア、ブラジルといった国の経済発展が続き、これらの国に追い抜かれ続ければ、我が国は国際社会における存在感を失うおそれがある」。

そんなことどうでもいい。こういう「動機」を保育施策の冒頭に書く、この会議の無神経さ、馬脚を表すとはこのことです。

「国際社会における存在感」など「架空」の現実。この国の保育、教育の混乱を考えれば戯言(たわごと)に過ぎない。

「それどころではない!」。

幼児たちが、その存在感を失おうとしているのです。

人類規模で見れば、この西洋的な「競争意識」が原因で、家庭に対する弾圧、迫害、人類史上最悪と言われる「一億人を超える難民」の問題が生じているのです。子ども中心のミクロの現実が肌触りを失い、経済や情報中心のマクロの欲と利権に押し潰されようとしている。

「利他」の幸福論が希薄になっていく。

「国際社会における存在感」のために、「ママがいい!」という子どもたちの願いが存在感を失い始めている。

「こども未来戦略」には、子どもたちが可哀想、という人間的な意識がまるでないのです。「可哀想」という言葉が、保育界で禁句になっていったように、経済主導で、社会から「人間性」が失われていく。

母子分離が原因と思わざるを得ない「学級崩壊」で教師たちが病み、職場から去っていく。そんな中、「二人目は無償、そうすれば子どもが輝く」という、意味不明な発言が、都知事の口から飛び出した。母子分離で「子どもが輝く」それが「チルドレンファースト」なのだという。この荒唐無稽な論理の飛躍を、マスコミがそのまま報道する。

「急速な少子化・人口減少に歯止めをかけなければ、世界第3位の経済大国という、我が国の立ち位置にも大きな影響を及ぼす」。(こども未来戦略方針)

経済財政諮問会議がこれを言うのはいい。言わせておけばいい。赤ん坊を抱き、じっとその顔を見つめる時間の価値、深さなど、わからない人たちなのだから。

しかし、現場で最前線に立つ保育士たちに読ませる「こどものための、国の未来戦略」に、これを書けば、何を言ってるんだ、あんたたちの「子育て放棄」につながる「少子化対策」が急速な少子化を生んだのでしょう、あんたたちがこの国の立ち位置を崩したんです、自業自得でしょう、と園長たちは思う。

(「ママがいい!」を読んでみてください。現場と政府との「子どもたちの扱いを巡る」闘いは、30年前から始まっている。政府の子育て支援は、「子育て放棄支援」だと、園長たちは言い続けてきたのです。)

いい保育をしても、週末二日間家庭に返すと、月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる。やっとお尻が綺麗になったのに、真っ赤になって戻ってくる。48時間、オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは、自分たちなのではないか、そのジレンマの中で保育士たちは、30年やってきました。現場の気持ちに対する無知さが、仕組み上の「空白」と「軋轢」を生み出し、巡り巡って、保育士や教師たちのやる気を削いでいったのです。

この「こども未来戦略方針」の中に、「ショートステイは年間約 0.05 日、圧倒的に 整備が遅れている」という文章を見るとき、その「非認知能力の欠如」に愕然とするのです。

厚労省が10年以上広めようとしている、「子どもショートステイ」。慣らし保育もせずに、子どもを養護施設などで預かる宿泊保育制度は、最長七日間、冠婚葬祭、出張、育児疲れでもOKだという。

人間は普通、そういうことをしない。色々事情はあっても、国が、こういうことをしていいんだ、と言うべきではない。私はそこに「一億総活躍」の残像を見るのです。ネグレクトの入り口になりかねない、まるで罠のような仕組みです。〇歳児保育の推進、「生産性革命と人づくり革命」の核心がそこに現れる。彼らにとって保育、「人づくり」は、「労働力人口」づくりに過ぎない。

子育ては、可愛がること、大事にすること、その幸せが社会に根付くこと、という本質が微塵も感じられない。

対象は生後60日~18歳未満、一泊三千円~五千円。「年間約 0.05 日しか利用していない」という日本人の良識にホッとしますが、それを「圧倒的に 整備が遅れている」と結論づけた戦略会議の思惑が、あまりに露骨で、稚拙です。

いま、起こっている、それを受ける側の人材の質の低下を考えれば、子どもたちが未来の時限爆弾になるかもしれない体験、出来事、扱いが、この「仕組み」の中で起こる可能性は十分にある。現場の整備、人材の質の向上など不可能な状況で、「思いつき」を既存の施設に丸投げする。その手口を習慣化したのは、政府の「母子分離に基づく、一億総活躍」政策です。

政府のこういう扱いが、体験として乳幼児の脳にどう刻まれるか、まるで考慮していない。閣議決定した政治家も含め、この「会議」の見識の無さに驚きます。「圧倒的に 整備が遅れている」のは、「圧倒的に現場を知らない」、「ママがいい!」という言葉に耳を貸さない政策集団の質と、感性でしょう。

「戦略」に

「どのような状況でもこどもが健やかに育つという安心感を持てる」ようにする、と書いてある、その手段の一つがこのショートステイなのです。

「どのような状況でもこどもが健やかに育つ仕組みなどあり得ない」、そういう基本的なことを言っても理解しない人たちです。

初めて笑って、初めて歩いて、その姿を周りの人たちが眺めて、一生の絆が生まれていかなければ、健やかに育ったことにはならない。安心感という言葉の意味をわかっていない人たちが、「戦略」を立てている。

国連の子どもの権利条約には、「親(特定の人)を知り、その人と十分な時間を過ごすことの大切さ」が、「権利」として書かれます。ユニセフの『白書』には、三歳までの、親や家族との経験や対話が、のちの学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、とあります。WHO(世界保健機関)は、「人生最初の千日間」がその時期に最も発達する人間の脳にとっていかに大切かを言い続けている。

人権侵害とも思える子どものショートステイを、「圧倒的に整備が遅れている」と言う人たちが、「子どもの育ち」と「親の利便性」をすり替え、「こども誰でも通園制度」を進めているのです。現場が引き受けられないことを政府が約束し、親の責任回避を煽り、子育ての第一義的責任をますます曖昧にする施策を作っている。国中で、そのことに気づいてほしい。(マスコミがやらないので、シェア、リツイート、コピーペースト、お願いします。もう時間がない。)

こういう政府の姿勢、経済主体の「一億総活躍」の流れが、保育現場における虐待、教師による生徒いじめ、介護施設や精神病院による非人間的行いを生んでいる。

「ママがいい!」という言葉を直接受け止め、心を痛めている保育士たちは、「無理なものは無理!」と決起してほしい。11時間、子どもを母親から引き離すのは、可哀想だ、と、もう一度強く思ってほしいのです。保育者たちが人間性を取り戻せるか、そこが、子どもたちの最後の砦となっている。

配置基準を(75年ぶりに)、1歳児は6対1から5対1へ、4・5歳児は 30 対1から 25 対 1 にしても、親たちの意識の変化を考えれば30年遅い、まったく手遅れ。乳児からの母子分離推奨によって、愛着障害と思われる子どもが増えすぎているのです。

もちろん、やった方がいい。でも、その分、保育士が必要になる。少子化で相殺されても、0、1歳の園児数を減らさない限り、実質効果はない。親の責任、という意識が復活してこない限り、保育士たちは納得しないし、健全な保育環境は還ってこない。11時間保育=「標準」に始まり、保育はパートで繋いでもいいなど、ここ数年間に行われた、国の規制緩和は、「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針を読んだ保育士たちに対して、全く説得力がないのです。

保育の質を軽んじる「規制緩和」と、弱者に「ママがいい!」と言う機会さえ与えない異常な母子分離施策、そして保育のサービス産業化が、

「新任教諭の退職、公立校で相次ぐ。精神的な不調、東京では理由の4割」https://www.asahi.com/articles/ASR6N4TFKR5YUTIL00R.html

という現状を生んでいるのです。

経済財政諮問会議の元座長が、「〇歳児は寝たきりなんだから」と私と園長たちの前で、言ったことがあります。この人たちは、保育を飼育くらいにしか考えていない。

「子どもたちの気持ち」を考慮しない「戦略」で、これ以上、学校を追い込むのはやめた方がいい。

 

世界第3位の経済大国だったら、もうそれでいいでしょう。インド、インドネシア、ブラジルが私たちを抜いていったら、良かったね、うまくやるんだよ、と祝ってあげればいい。

上にいるのはアメリカと中国という、絶対に真似してはいけない二つの国。何度も数字をあげてブログに書きましたが、日本は、子どもを大切にする、安心して育つ環境という点では、悪くなってきたとはいえ、先進国の中で一番いい国です。

今年になって、世界第1位の経済大国アメリカで、四人以上が撃たれる乱射事件が、毎日二件以上起こっている。毎年養子となった子どものうちの2万5千人が捨てられている。「捨てられる養子たち」NHK BSドキュメンタリー:https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263 をぜひ、見てください。人間社会は、ここまで行く可能性を持っている。

一位になどならなくていい。

「戦略」を読むとわかりますが、政府は、子どもたちが可哀想、と思う気持ちを社会から消したいのです。

学者や政治家は、母子分離が経済発展に必要だ、と、頑なに思っている。それを「平等」という言葉で覆い隠し、「利権と欲」が操る「一億総活躍」という戦略に、母親を引き込もうとしている。

彼らにとって、子育てをしている母親は、「活躍」していないのです。「労働力人口」の定義にさえ入っていない。(祖父母の気持ちも、「子どもの未来戦略」からは見事に消えている。)

母親たちが、人間社会のバランスを保ち、人生の価値を浮き彫りにしてきたことがわかっていない。慣らし保育で、なぜ、ほぼ全ての子どもが、「ママがいい!」と言うのか、母親を選択するのか、子ども未来戦略会議は理解すべきです。慣らし保育の現場に足を運び、そこで子どもたちの叫びを聴き、自分の人生と、この国が失った幼児との時間を体験的に、感じるべきです。

経済重視に偏りすぎた、子育ての仕組みを、作り直す時です。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。シェア、リツイート、コピー、拡散、よろしくお願いします。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。推薦してください。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。政府や行政が、身勝手な「戦略」を立てても、現場の保育者一人ひとりの決心で出来ることがたくさんあります。子どもにとって、守ってくれる人は、目の前の人。よろしくお願いいたします。)

 

 

保育「業界」のモラルの低下

保育「業界」のモラルの低下

「こども誰でも通園制度」は海外では常識、という専門家の発言がAERAに載っていました。いい加減な発言、嘘です。

家庭、家族という概念が崩れ、未婚の母から生まれる確率が半数近くになっている国々では常識、と言うべきでしょう。母子分離をしないと経済が機能しない、「子ども優先」という本来の「子育て」の姿ではなくなっているのです。

そういう国々が選択した政府による母子分離は、同時に親心の喪失でもありました。その結果が、日本の二十倍から三十倍という犯罪率になって現れている。未婚の母の低年齢化が進み、「家族」という定義が完全に空回りしている。

日本の「今」は、欧米の六十年前の状況でしょうか。だからこそ、欧米を真似してはいけない。

加えて、まだ、保育園という制度を人々がほぼ体験していない「海外」が半数以上ある。この専門家が都合よく使っている「海外」から、州によって状況が全く異なる米国や発展途上国を除外して考えないと、悪質なフェイクニュース(偽情報)になる。

簡単に「海外では常識」と載せてしまうマスコミがいい加減すぎるのです。「意図的」な報道と疑いたくなる。それによって、保育界と学校現場が追い込まれ、壊れていく。

 

選択肢のない、主張できない幼児たちにとって不当な、社会学者や専門家による提言を「進歩」のように報道するマスコミ。「ママがいい!」という、幼児たちの願いは、いよいよ四面楚歌になっています。

「11時間保育を標準」とした閣議決定と、保育はパートで繋いでもいいという規制緩和が加わって、保育の質の低下はすでに直接学級崩壊に連鎖している。保幼小連携などと、机上の空論を学者が言っているうちに、親たちの責任転嫁、園に対する要求はますます激しくなり、教師不足がもう止められない。

水増し受給で、計画的に補助金を不正受給する保育「業者」が後を絶たないのです。

確信犯的な業者の参入で、子どもたちの日々と、税金がその餌食になる。私は、保育園を「業者」と呼びたくはなかった。しかし「保育は成長産業」という閣議決定が、こういう事態を招いてしまった。主導権を握っていると思っていた政府や行政が、補助金に群がる「業者」に手玉に取られている。

そして、イライラすれば預ければいい、という人類未体験の「共通理解」が広まっている。

業者には煩わしかった、「ママがいい!」という言葉が、親たちにとっても、煩わしくなり始めている。

「不正は氷山の一角?職員不足で実地検査回らず」

https://www.tokyo-np.co.jp/article/190872

「国や自治体が運営費を支給する認可保育所は原則、都道府県による年1回以上の実地検査が義務付けられている。だが東京都が実地検査を行ったのは、約3000施設ある認可保育所のうち2019年度で8・0%、コロナ禍の20年度は4・3%にとどまった。担当職員の不足などが原因とされる。区市町村にも実地検査の権限はあるが、今回の不正発覚の端緒になった豊島区でも2年に1回程度という。」

保育界における倫理観の低下は、子どもたちの日常、一家の人生、学校教育の存続に直接影響します。「担当職員不足で実地検査回らず」など、まったく言い訳にならない。保育の重要性を理解していないから、担当職員を増やさなかったのでしょう。国の保育施策、「子育て安心プラン」と同じです。経済優先の「受け皿」の拡大に引きずられ、児童虐待過去最多、不登校児童過去最多、引きこもり過去最多、という事態を引き起こして、今になってこども家庭庁などを作ってオロオロしている。子どもの意見を聞く、などと言っても、出発点にある「ママがいい!」という幼児の叫び、すすり泣き、「意見」を無視しておいて、やったフリでこれ以上誤魔化すな、と言いたい。

大人たちの権利、平等意識に煽られて、子どもたちに逃げ場が無くなっているのです。

1歳2歳で噛みつく子が増え、教師が止められるはずのいじめが小学校で止まらなくなっているのも、保育の質の低下と、親の意識の変化が、その延長線上にある。

こども家庭庁は、不適切保育をなくすためのガイドラインで、 「児童福祉施設の職員は、児童の心身に有害な影響を与 える行為をしてはならない」「子どもに精神的苦痛を与えることがないよう、子どもの人格を尊重するとともに、子どもが権利の主体であるという認識をもって保育に当たらなければならない」と通達を出しました。11時間保育を国が標準と名付け奨励することは、児童の心身に有害な影響を与 える行為であって、子どもの権利と人格を尊重していない、という意識がない。現場に対する説得力がないのです。

それに、異次元の少子化対策の看板施策「こども誰でも通園制度」で拍車がかかる。

保育士不足と保育界の倫理観がこれほど下がっている状況で、なんて馬鹿げたことをやろうとしているのか。「ママがいい!」という言葉を尊重し、母子分離政策を辞めない限り、このままでは、政治家たちの集票施策、選挙対策で、学校という仕組みまで壊されていく。

人間が寂しいときに一番頼りにできる人たち、幼児たちとの時間が市場原理と選挙対策によって奪われていく。

二歳児が隣に居てくれれば、人間は、無敵だったのに。

学校の教育など、私の学びの邪魔にはならない、とマーク・トウェインは言いました。

人間は誰から何を学ぶのか、考えた方がいい。

0、1、2歳児を育てていると、人間は言葉を知らなくても、文字を知らなくても、生きられることに気づく。一人でご飯を食べられなくても、生きられたことに気づく。

母がいてくれれば、それで足りていた。むしろ、幸せだったことに気づく。

この気づきが、土台になければ社会は成り立たない。慣らし保育における「ママがいい!」という叫びと、すすり泣きは、人類への警告なのです。

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。簡単に手に入る相談相手の育て方、絆を作る選択肢が書いてあります。よろしくお願いいたします。)

 

 

一般公開している講演会は少ないのですが、時々あります。上越市の講演会は、午前中に私の作ったインドのドキュメンタリー映画の上映会もあります。多分、演奏付きです。無料です。応募受付け開始が6月23日からです。ご注意ください。

上越市での「講演会と上映会のお知らせ」

「講演会と上映会のお知らせ」です

一般向け、というか、講演の内容は大体同じなんですが、7月29日に、新潟の上越市で上映会と組み合わせた講演会があります。

 

企画・運営は、「自然な出産と母乳育児を考える会」。小さな会ですが、助産師さんを中心に、もう私の講演を主催するのは四回目。こういう人たちが人間社会を守るんだ、という独特な気合いを持った人たちで、今年は、私の作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会を午前中にやって、午後は通常の講演会です。質疑応答の時間もたっぷりとってあります。

上映会は、監督(私)の解説付きです。ひょっとすると演奏付きです。無料です。講演会も。

 

私が自主制作したこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。

見てもらった絵本画家の安野光雅先生から、こんな評をいただきました。(安野先生は、私の小学校の工作の先生で、編集者の父と共に50年以上お付き合いいただきました。)

 

「不要な会話がなかった、ひとことも聞き漏らすまいというふんいきが生まれていた」

「目の中に祈りを感じました」

「挿入された、一見関係のなさそうなシーンは、『詩』のように心に響きました」

 

この「評」は嬉しかった。

ナレーションのないドキュメンタリーで、映像と音楽(私のアルバムから)と字幕で通すのですが、ダリット(不可触民)と女性の人権の為に闘う修道女の話です。

ダリットに対する差別の問題は、論理性を超えた人間の狂気のような部分があって、私が理屈で立ち入れることではないのですが、その、踊る姿が、美しい。そこに、何かに守られた「強さ」がある。

ただ感性を研ぎ澄ませて、そこで観たものを表現するしかありませんでした。

シスターに出会わなかったら、私は「映画」を作ることなど無かったはず。縁は、不思議な道筋を示します。この縁を、生かしておきたい。

ぜひ、いらして、一緒に風景に触れてみてください。

 

児童文学と共に、インドの風景は私の考える基点です。そのあたりのこと。なかなか興味深い話をすると思います。

貧しき者は幸いなれ、という、不思議なメッセージが、インドの村から伝わってきます。

私がシスターに「幸せとは?」と尋ねると、シスターは一瞬間を置いて、「集まること(Coming together)」と答えました。最後のインタビューで、それに「分かち合うこと(to share)」が加わります。

時々、その次元にまで戻らないと、道筋が見えなくなる。

ちなみに、シスターと私は同い年、です。

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「みてきいて考える  いのちを支える絆」

7月29日、上越市市民プラザ、

午前、「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」上映会と松居和監督トーク付き、午後、講演会

参加無料、定員、各40人

受付開始は、6月23日(金)です。

<申込み・問合せ>ウィズじょうえつ

(上越市男女共同参画推進センター)

〒943-0821 上越市土橋 2554

上越市市民プラザ2階

TEL/025-527-3624 FAX/025-522-8240

E-mail/d-sankaku@city.joetsu.lg.jp

受付時間:平日8:30~17:15(土・日・祝・市民プラザ休館日(第3水曜日)を除く)

 

(講演会もですが、この映画の上映会開催に興味がある方、ぜひ、matsuikazu6@gmail.com まで、ご連絡ください。今も、シスターのミッションと繋がっています。よろしくお願いします。)

 

 

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もう一つ、一般に開いた講演会のお知らせです。

もう一つ、一般に開いた講演会のお知らせです。

7/13:王滝村立王滝小学校体育館(長野県)で久しぶりに講演します。とても良い所です。ぜひ、お越しください。

【問合せ・申込先】

長野県生涯学習推進センター(担当)望月

TEL: 0263-53-8822

〒399-0711 塩尻市大字片丘字南唐沢6342-4 FAX:0263-53-8825:

E-mail:shogaigakushu@pref.naganolg.jp

 

 

 

講演、講座のご案内です

私の講演は、保育団体、幼稚園、保育園の主催が多く、一般に開いているものが少ないのですが、時々、あります。よろしければ、ぜひ、お越しください。群馬です。

令和5年度第1回リカレント講座のご案内
日 時  5年7月1日(土)13:30~15:30 (受付 13:00~)
育英大学 •育英短期大学教育研究所
125教室 (定員100名) 対象:保育・教育関係者

申込方法:氏名、所高機関、メールアドレス、相談希望者は相談の簡単な内容を
下記E-nailにてお申込みください。E-mail:kanrika@ikuei-g. ac. jp

申込期限:令和5年6月20日(火)※定員に空きがある場合は当日受付も可能です。

「諦める」こと

前々回、「慣らし保育」における「ママがいい!」という子どものすすり泣きを「可哀想に」と思ってしまう元大学の教師に関して、寄せられた投書と共に、私の意見を書きました。保育を学問として捉えていた人が、現場で、子どものすすり泣きを聴いて、人として目覚める。嬉しい、投書でした。すると、Twitterの側から来た返信にこうありました。

 

これが本当に現実です。保育園で、子どもが一番に覚えるのは『諦める』こと。なかなか諦めることができない子どもは、ずっとずっと泣き続ける。どうしても『可哀想』と思ってしまう。だから保育園を辞めました。

 

(ここから私。)

人生の始まりに、「諦める」ことを覚えさせられる子どもたち。心ある保育者(人間)たちが、その風景に慣れることができず、辞めていく。

今、この国が進もうとしている道筋を象徴する出来事です。

「可哀想に」、という、人間社会を支え、維持してきた言葉を、なぜ、みんな口に出して言わなくなったのか。

この保育士は、それに疑問を持ち、それに慣らされたら、自分の人生を諦めることになる。そう思って辞めて行った。

 

ごく最近のことですが、

「可哀想」という言葉が、預ける側の「後ろめたさ」に重なって、母親が(女性が)そう感じることが「不公平」で「不平等」という論法が通り始め、広がったのです。

その論法が、欧米で、半数近い子どもが未婚の母から産まれる社会をつくり、「社会で子育て」という「偽の約束」が、シングルマザーの異常な増加と、近親相姦や親による虐待につながっていったことは明らかなのに、先進国から来る警告や報告は耳にしても、それが印象に残らないように操作されている。それどころか、欧米を見習え、日本は遅れている、という学者さえいるのです。

「待機児童をなくす」という選挙公約や、保育施策に関するマスコミの報道に、「子どもたちが可哀想」という反論が出来なくなっている。しかし、保育者の善意と、女性らしさに頼って誤魔化すにも、限度がある。

平等が目標になれば、本当の意味での男女共同参画社会は、家庭、子育てという次元から壊されていく、そうはっきり言った方がいい。欧米がたどった、経済優先の、弱者に辛い格差社会への道筋に、この国も引き込まれようとしているのだから。

女性の、パワーゲーム、マネーゲームへの参加率が大きく影響する「国連の幸福度調査」にも、それがよく現れています。

多くの宗教が勧めてきた「欲を捨てることに幸せを見出す」、子育てと重なる幸福論から人間社会を切り離そうとすることが、いまのグローバリズム。その中心に、母子分離政策がある。

(繰り返しますが、政府が進めてきた「少子化対策」は、「子育て支援」という名の母子分離策を中心に置いている。それによって少子化がますます進んだことは一目瞭然で、みな知っているのに、いまだに止めない。少子化対策は、単に選挙対策だからです。与党も野党も、宣伝カーのスピーカーからは、子どもたちは、「ママがいい!」と言っています、「子どもたちが可哀想です」という言葉は絶対に発せられない。そうして、子育てに対する「意識」が麻痺していく。)

四月やゴールデンウィーク明けに日本中に満ちる「ママがいい!」という叫びとすすり泣きが、消えるまで、慣れるまで、親の目から離される仕組みが作られている。性的役割分担の押し付け、「権利」、「平等」などという言葉で、「可哀想」という言葉が、かき消されていく。

小さな子どもたちの無数の「諦め」が、その陰にあって、「利他」の伝承が、途切れていく。

三歳までに発達すると言われる人間の脳にとって、この時期の「諦め」が何を意味するのか、生きていくために大切な歯車が、そこで一つ欠けていくのではないか。発達障害や愛着障害の大半が、この「諦め」が原因ではないのか。0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えているのも、その根底にこの「諦め」があるのではないか、真剣に考えた方がいい。

人類未体験の不自然な連鎖が、「慣らし保育」の名で行われている。

がっかりし、心を痛め、去っていく保育士の後ろ姿に、誰も声を掛けない。

慌てて、次の保育士を探している。その心の動きに、市場原理による「支配」が見える。

政府によって、保育を「サービス」と思い込まされた、要求ばかり主張する身勝手な親たちが増え、仕組みをさらに追い詰める。

先進国社会が、情報や言葉に支配されていくのは、学問が重視され、乳幼児と過ごす体験が欠けてきているからだと思います。

授乳だけでなく、三歳の子どもが生まれたばかりの弟や妹と出会うところからも始まっている特別な体験、祖父母が初孫と対面する時からも、始まる、あまり言葉に頼らない双方向への体験、その価値に気づいてほしいのです。それは、往々にして自分との対話、宇宙との対話であって、そのやり方を、人間は、乳児を可愛がることから学ぶのです。育てられるのは、所詮、自分自身でしかない。

乳幼児たちは、人類にとって一番の相談相手でした。この人たちを生かすことで、生きる動機と道筋を手に入れた。

国の子ども子育て会議が、11時間保育を「標準」と決めたとき、誰も、「可哀想」とは言わなかったのでしょう。

「平等」という架空の「正論」に縛られ、会議自体が人間性を失っていたのです。それを主張できない乳幼児の「願い」が価値を失っていった。弱者の悲しみや、諦めが、人々の視界から消え、「可哀想」という表現さえ封じられた。

幼児の「諦め」(慣らされること)を「自立」(自律)とか、自主性と呼ぶ学者たちさえいる。システムを成立させるための「こじ付け」は、最近限度を超えている。保育士不足という点からも、学級崩壊という結果からも愚策と知りつつ、仕組みは、政府(経済界)の都合通りに作られていった。幼児の側からは存在の喪失に他ならない「標準」が、政府によって設定され、それが、あっという間に行き詰まっている。

人類は、平等の上には成り立たない。

進化は、性的役割分担で成り立ってきたのだし、宇宙は、陰陽の法則で動いている。

子どもたちが、人間であることを諦め始めている。そのことに、気づいてほしい。

全国で、地域の「核」になってきた「幼稚園」が、保育園を周りに建てられ廃園に追い込まれていく。それを目の当たりにして、私は、心底腹を立てているのです。政府には、この国の最後の砦が見えていない。絆を育てる最適な手段を、雇用労働施策の元に壊そうとしている。

「当たり前のこと」を、口にすべき時が来ています。子どもたちは、誰でもいい、とは言っていない。

西洋の「学問」と、東洋の「祭り」(哲学)が対峙しているのだとしたら、この国にはまだチャンスがある。

午睡の時間にしのび泣く乳児クラスの男児に、「頑張れ!」と言うのは人間性を逸脱している。それを知っている国だと思うのです。

「可哀想だ」と感じたら、それを口にし、周りを見回す。

人間「社会」はそこから始まるのです。

この投書が全国紙に載るということは、本当の仕組みが見える人がまだたくさんいる、ということ。

耕し直すことはできる。

「ママがいい!」という言葉を、これ以上聞き流してはいけない。

 

(前々回の私の文章です)

朝日新聞:オピニオン&フォーラムに、「安心して休める 子育て社会を」という投書が載りました。

大学で「子育て支援」などを教えていた人が、保育の現場で園長として働き始め、午睡の時間に、男児の「ママがいい!」というしのび泣きが乳児クラスから聞こえてくる。そして、「頑張れ!」より「可哀想に」を口にしてしまう。

そうですね。これが人間です。

幼児たちのいる風景に私たちは、育てられ、試される。自分の人間性に気付かされる。

慣らし保育で、私たちは、何に慣らされるのか。慣れてはいけないものがあるのではないか。この投書を読んで、私は、救われる思いがしました。

学問を離れて、帰ってこなければならない場所がある。

泣き続けた幼児たちの心に、その時、何が残ったのか。子ども真ん中、というならそこを真剣に、ずっと考えるべき、感じ続けるべきなのです。

いま、進められようとしている異次元の少子化対策、「こども誰でも通園制度」は、この悲しみ、このしのび泣きを、増やすこと。

その先には、すでに学級崩壊や、不登校児童過去最多、教師不足があって、もはや待ったなしのところまで来ている。

「ママがいい!」と言われたら、それはいいママだった、ということ。子どもに、いいママと言われて過ごす人生ほど、確かで幸せな人生はなかったはず。

 

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。幼稚園や保育園を核にし、絆を耕し直す方法が実例を挙げてたくさん書いてあります。予算もほとんどかからない、そのいくつかを仕組みの中で「常識」にするだけで、学校が鎮まってくる。よろしくお願いいたします。)

 

 

いつでも帰っておいで

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コロナが静まり、講演が返ってきました。葛飾柴又の帝釈天、ルンビニー幼稚園で講演しました。もう何度目になるのでしょうか。

「男はつらいよ」が好きで、全作見ている私には聖地です。

寅さんがあれほど支持されるのは、日本人の遍歴放浪に憧れる文化の象徴だからでしょうか。

帰ってくるところがあれば、人生は結構揺るがない。自立なんかしなくていいんだよ、いつでも帰っておいで、という人たちがいれば、大丈夫。

いつまで経っても、「寅ちゃん」と呼んでくれる人、「寅っ」と叱ってくれる人がいれば、それだけでいい。

講演が終わって、参道のうなぎ屋さんで園長先生に(帝釈天のお嬢さんに)、鰻重をご馳走になりました。

 

そして一昨日、群馬県民間保育園・こども園協会の総会で、園長先生たちに話をしました。

群馬も何度も行っています。十五年、二十年前に私がした講演が、園の行事になって根付き、いま大切に花開いていることを何人かの先生たちから聴き、ああ、良かったと、嬉しかった。あの頃、政府の保育に対する姿勢が、もっと子ども寄り、保育士寄りだったら、いま直面している学級崩壊も、保育士不足も、もう少し対応できるものになっていたのに、と忸怩たる思いです。

でも、こうして保育の「形」を守っている人たちがいる。信頼関係が、園の伝統になっていれば、親たちはちゃんとそれを継承していく。子どもたちの前では、人間たちは、笑いながら、ちゃんといい方向に進んでいく。

入学式、卒業式、成人式、には晴れ姿の「あの子」たちが、自慢げな親たちと集まってくる。そこには、その子の「小さい頃」を知っている人たちが待っている。帰ってきたね、と迎えてくれる。

 

懇親会で、思い出話と共に、これからどうするか、どうなるのか、についても話し合いました。一つ一つの園で、着実にできることがあるのだから、それを、まずやっていくしかないのですが、それにしても政府や学者が進める、現場を追い詰める最近の施策には呆れます。

今週から、3週続けて九州に行きます。「ママがいい!」、あちこちで読まれています。ぜひ、ご一読ください。

 

新聞に、妹(小風さち)が出した新刊の書評が載っていました。子豚のピクルスの3冊目です。

先週、妹から、「この黒いブタが、かず兄さんだから」と言って渡されたやつです。

あああ、だから言っているのです。人間は、自己肯定感など、持てるわけがない、って。