

ユーチューブで「松居和チャンネル」第3回「人類にとって餌付けとは:チンパンジーのカニバリズム」を見ることができます。アップしました。アドレスは、https://youtu.be/Um8Swqv0haY です。よろしければ、チャンネル登録、高評価、拡散、お願いします。
毎週火曜日に、新しいのをアップします。
「ママがいい!」という言葉の正面には、必ず一人のママがいる。
それを、忘れてはいけない。
代え難い、たった一人の「私」が、いる。
その「私」は、「いい!」と宣言された。
その宣言された「私」を体験する人生が目の前にある。
「なりたい自分」ではなく、すでに「そうである自分」を体験するために、「子育て」の時間がある。その体験が、人間社会を繰り返し「創造」するのです。
「ママがいい!」は、勲章です。
同士、共励子ども園の長田先生が、Xに、こんな書き込みをしてくれました。
「松居和氏がAbemaTVの「3歳児神話は大切にしなきゃ」に出演した。
0歳児保育は「アリ?ナシ?論」で進めるマスコミ現代風議論に真正面から異議を表明し、問題の本質である政府の保育施策の問題点と保育の現状を伝えていた。
松居氏の辛抱強い説明の結果、反対論者として登壇した小児科医氏も「人間が自立するには、012歳時期に安心感の得られる人に全面的に依存する必要がある。安心して依存できる人が得られないと自立が難しくなる。」と発言。これぞまさに3歳児神話の大切さを示したもの。
パックンが小児科医先生の論を繰り返し、松居氏の主訴と同じである事を指摘した。松居氏も強く同意していた。
アリナシ論で議論を進めると、内容が浅瀬に乗り上げ、本質まで辿り着けない事が多い。
松居氏の辛抱強い説明により、保育子育て問題の本質が、問題を知らないに人々が近づけた番組であった。
YouTubeに掲載された映像は、大切な部分が省略されている。パックンの発言もなかった。
是非、アメバTVで確認してください。」
(ここから私です。)
ありがとうございます。
取材を受けている時は、「ママがいい!」を理解してくれている感じだったのですが、当日、生出演の前に、0歳児を預けるのは、親として失格か、みたいなタイトルになっているのが分かって、結局は、孤軍奮闘するしかなかった。まずは、誰が「失格とか、合格とか決めるのか、神様でも無理。そうやってマスコミが対立を煽ろうとするのが問題、と言いました。生番組でしたし、言えることは言っておかなければ。長田先生が書いた「松居氏の辛抱強い説明により」は、何よりの褒め言葉。
違った趣旨で始まった番組の方向性がずいぶん変わって、いつでも見れるameba TVのアーカイブでは、「3歳児神話は大切にしなきゃ」とあって、ああ、よかった、よかった。息子も、お父さん、結構良かったよ、って言ってくれました。
松居和チャンネルで、言いたいことがいつでも言えるようになったのですから、それで、ずいぶん気持ちが楽です。作りましょうよ、と言ってくれた、音楽プロデューサーでギタリストの中脇さんに、感謝です。
第二回がアップされました。
タイトルは、「日本人の子育ては魔法だった」
チャンネル登録、高評価、情報拡散など、よろしくお願いします。
毎週火曜日にアップします。
「ママがいい!」、またAmazonジャンル別で一位になっています。😀
楽しい時間を過ごせたら、心の底から、みんなで何かに向かって感謝する。
卒園一ヶ月後の謝恩会、九年間の義務教育に比べれば大したことではない。法律で決めてしまえばいい。
いえいえ、法律で決めるより、園長先生が決めてしまうのがずっといい。親たちに気持ちが伝わる。この人(園長先生)は、子どもたちの幸せを願っている、卒園した後も願っている……。
その記憶、そして一ヶ月後の謝恩会を思いついた園長先生の「動機」が社会を耕し直し、その願いが、荒れている社会を鎮める。 http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=3526
(以前書いた、ブログです。)
Amazonでは今年正月ジャンル別ですが、人気ギフトランキング1位、ほしいものランキング3位、ジャンル2位です。誰かに送ろう、と思ってくれたことが嬉しい。
少し、痛みを伴う「報告」です。でも、タイトルの「ママがいい!」は、子どもたちから母親に捧げる「勲章」であって、同時に、社会への警鐘なのです。今、何が起こっているか。知ってほしい。政府も、マスコミも、学者も、「母子分離」の正当化に必死です。子どもたちの警鐘に耳を貸さない。このままでは、学校教育が破綻していく。ぜひ、周りの人に勧めてください。
https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20240126b.html :発達障害の子“通級利用に数か月かかる場合も”都内の4割以上 自治体アンケートからみえた“学びの壁”
ユーチューブで「松居和チャンネル」始まりました。ぜひ、ご視聴の上、出来ましたらチャンネル登録、高評価、拡散など、お願いいたします。https://youtu.be/56cLD5Fh-Gg?si=tDAAG25dqTLBZXfy
ユーチューブで、松居和チャンネル、始まりました。ぜひ、ご視聴の上、出来ましたらチャンネル登録、高評価、そして拡散、お願いいたします。頑張ります。
突然の地震でしたね。石川、新潟、富山、福井は、三十年間、ほんとうに数多く講演してきた地方です。多分併せて100回以上行きました。年配の知り合いも多くて、心配です。
羽咋(はくい)は祖母の故郷で、石川県の保育士の大会で、一泊二日で五時間、講演したところです。
今年も書き続けます。
国の「子育て」に関する政策の意図と、抜き差しならない現場の状況を多くの人々に把握してほしい、知ってほしいのです。
「子ども優先」という、子どもの権利条約や保育指針に書かれている、人間社会の「常識」を日常に取り戻さないと、現場と子どもたちが、ますます追い詰められる。しかし、その常識さえ取り戻せば、方法はいくらでもあるということ。人間が作る「絆」は柔軟かつ多様で、特に「子育てから生まれる絆」は、そのまま自然治癒力となる。社会を「鎮める」効果がある。
0、1、2歳児の「働き」を忘れると、人間が幸せになりたいという気持ちが、空回りして、不幸を生み始めます。欧米先進国における未婚の母の低年齢化の原因に、不幸な家庭に育った少女たちが「温かい家庭」に憧れる、という動機があることを知った時、そう思いました。不幸だからこそ、幸せになりたい。母子家庭も家庭です。子どもを産むことでそれを手に入れようとする。しかし、社会という「仕組み」の最近の歪みは、その心の動きを、新たな危うい現実に導いてしまう。
家庭を持ちたい、という本能は、本来、自然治癒力の一環として働くのですが、子育ては「絆」が支えるものだから、なのです。信頼関係に基づく「絆」をつくることが不得意になってしまった「育ち」が、幼くして母になった少女たちを再び追い詰める。児童虐待の増加に拍車がかかり、一層の家庭崩壊を生んでしまう。
子育ての外注化で生まれた大人たちの心の貧困を、「子どもの貧困」と名づけることも、実は、危うい。母子分離によって、子育てを「社会」の責任にした上で、「社会」の正体を曖昧にし、すでに、あちこちで責任回避が始まっている。いいことをしようとする「いい人たち」の試みが限界に達し、人材と財源が足りなくなってくる。
子どもにとって「社会」の主体は、まず母親です。特に、乳幼児の場合は、そうです。そこを政府が崩そうとすると、補う仕組み同士の辻褄が合わなくなってくる。
「子育て安心プラン」https://www.kantei.go.jp/jp/headline/taikijido/pdf/plan1.pdf(首相官邸ホームページ)に、こうあるのです。
「『M字カーブ』を解消するため、平成30年度から平成34年度末までの5年間で、女性就業率80%に対応できる約32万人分の受け皿整備。(参考)スウェーデンの女性就業率:82.5%(2013)」
子どもを産んだときに生じる女性の就業率の『M字カーブ』を経済にとっての支障と判断し、それを解消するために、いつでも預け先があることを「安心」と名付ける。しかも、政府が「参考」として挙げたスウェーデンでは、三十年以上前から半数以上の子どもが未婚の母から生まれていて、犯罪率は日本の約20倍。参考にすること自体がおかしい。恣意的です。
「女性就業率80%」という目標を掲げる、偽「安心プラン」の背後にいる学者や専門家たち、母子分離で儲けようとする起業家たちは、それによって生じる「子育てに対する親たちの認識の変化」が、いじめや不登校のみならず、犯罪率にまで影響することなど考えもしない。子どもたちの気持ちなど視界に入っていない。こうした政治家に「保育は成長産業」と閣議決定させた学者や起業家の、馬鹿げた欧米コンプレックスが、国の根幹に関わる保育施策を動かしている。
伝統的「家庭観」が消えかける一方で、スウェーデンでは、五年前に徴兵制を「女性も含める形で」復活させています。ロシアの脅威や、自己肯定感の塊のようなプーチンの顔を見ていると、「仕方がないこと」なのかもしれない。でも、国家が徴兵し、女性に銃を持たせることは、人類が、自問自答するための退路を断とうとしていることのように私には思える。それが本当に「平等」なのか。貨幣で計られる「平等」の行き着く先、M字カーブ解消の正体がそこに見える。女性らしさ、が意味を失おうとしている。
幼児たちの「神性」を守っている人たち(母親)をみんなで守って、「社会」の輪郭が定まっていくのです。その輪郭がぼやけ、いま、生涯未婚の男性が三割になろうとしているのです。
男たちが、「生きる動機」を失い始めている。義務教育やマスコミの「性的役割分担」の否定が、じわじわと男たちの「責任意識」を薄れさせ、母子分離の体験が相乗作用となって、本当の意味での「男女共同参画社会」を壊そうとする。引きこもりが増加し、その平均年齢は上昇を続け、三十五歳になるという。
人は、「自分の為」には生きられない。それを体験的に学ぶのが、乳幼児期の母子関係です。5歳くらいまででもいい、しっかり「可愛がって」もらうことが「生きる力」になる。
勤務当初から不適切な保育と思えてしまうことが続いています、というメールが、一人の保育士から届きました。
「虐待」とまでは言えないのかもしれませんが、小さな出来事であるが故に、その文章から、生々しい現実を感じるのです。
成長期の子どもの、「周りを信じようとする」心理を考えると、保育士による、ほんの数分の意地悪や、大人気ないしっぺ返し、当てこすり、それが日常的に繰り返されることによって、幼児の脳の発達にどれだけ深く影響を及ぼすのか。
●家で。特定のヨーグルト(R-1)を食べているらしい?Dちゃん。ヨーグルトがおやつに出る時は必ず。「R-1しか食べないから」と、嫌みから始まる。食べなれていないものは抵抗もあってそれが表情に出ると「そんな顔して!」と、罵られる。食べてみて美味しいとわかると良く食べ、お代わりを欲しがる。すると「食べないんでしょ!そんな顔する人にはあげません!」と言い、隣の席のEくんからのお代わりの要求には「お代わりほしいのー?」と大盛りであげる。それを横目に、お代わりを欲しがると「えっ!?食べるの?!え~!?本当に食べるの?じゃあちょっとだけね。」と、ほんとにわずか。ヨーグルトの度こんな感じ。
●担任たちが、発達障がいだと疑っているEくん。
Eくんは、一日何度も怒鳴られている。園でも散歩先の住宅街でも、大きな声で、「Eは、こんな行動とるし、こんなに大変だし、こういう姿もあって、絶対引っ掛かってると思う。上に言っても、まだ、小さいからと、取り合わない。お母さんもこんなだし、家でどうしてるの。こういうこは家でみてればいいんだよ。」など、日々ずっと話している。声が大きくて住宅地で聞こえてるのではないかと感じてしまう。
からだか良くきき、身軽。担任の行動もキョロキョロとよく把握していてる。一歳児だから、この子に関わらず。まだ、はっきりしゃべれないこもいる。思いが通らず、関係のない友達をつき倒してしまったり、担任が困る行動をとったりする。多動だとみているのか?逃げようと走ると腕で、通せんぼされて、跳ねて後ろに転んだり、背中の服をわしづかみにされて引き留められたり。
担任は引き止めるにはそれしかないという。一番核の担任がいない日に弾けるこどもたちの中で、よりいっそう弾けてしまうE。その大変な行動を園のカメラで動画にとって、翌日核の保育士に見せる。良くやってくれたと称賛。今度からそうしよう。どんなに困ってるか動画をとって上に見せよう!と話していました。
早速、Eが困った行動?をしたら、カメラを手にし、「あー、そんなことしたら、撮っちゃうんだからー(笑)」と、ニヤニヤ嬉しそうに撮影。Eはカメラから逃げることはできず、逃げようと必死で部屋を走り回ったり、カラーボックスの上へ登ろうとしたりする。他の子達は、別の担任に「皆こっちへおいで〰️」部屋の隅に集められる。
「なんでこんな避難訓練みたいになってるんだろ😅」と、核ではない担任が言いながら自分のところへ避難させる。
Eの目は、今まで見たことのないような、精神的に壊れてしまうんじゃないかという表情で、逃げられないカメラの前で困ってたんだと思う。
寄せ集められた子供たちの表情も何ともいえない。
このクラスの子供たちの心が壊れてしまう。エスカレートする保育士の行動。
どうしたものか。どうしたら子どもたちを安心させられるか、どうしたら、守れるのか。
(ここから私です。)
この程度のことは「よくある事」、「小さな出来事」になっている保育園があるとしたら、それこそが、この国の存続に関わる、いま最も重要視されるべきことなのです。ヨーグルトに関する小さな出来事の中に、日常化し、より浸透している「非人間性」を感じる。この国の魂が失われていくのが見える。
その風景を、「子供たちの心が壊れてしまう」と感じる保育士が、いる。その人が、私に訴えかけてくる。私も、とんでもない事態になっている、と肌で感じる。いい保育士が辞めていくことが、制度の致命傷になっていくのがわかる。
以前、障害児の施設で働くのが好きで、そこで子どもたちとかけがえのない時間を過ごし、でも、繰り返される指示語の強さと、それが発せられる風景に耐えられなくなって、ある朝突然、ベッドから起き上がれなくなって辞めていった、感性豊かな人からメールが来ました。
いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた極上の世界を感じるのです。
こんにちは!
春ですね!お元気ですか?
息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。
子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたんだなぁとしみじみしています。
施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。
働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)
寝不足だけどがんばります。
かずさんも講演がんばってください。
「子育ては自由だから」という言葉が、すがすがしく、心に残ります。多分、私はそういうことを言いたいのです。
自分の価値を浮き彫りにする、「本当の自由」がそこにあって、人間は、幼児をしっかりと抱き、その自由を守ってきたんだ、と読み取ります。
いい翻訳者、伝令役にならなければ、と身が引き締まる思いがします。
「ママがいい!」という言葉の正面には、必ず一人のママがいる。
それを、忘れてはいけない。
代え難い「私」が、一人、いる。その「私」は、「いい!」と宣言された。その宣言された「私」を体験する人生が目の前にある。
「なりたい自分」ではなく、すでに「そうである自分」を体験するために、「子育て」の時間がある。それを忘れてはいけないのです。その体験が、人間社会を繰り返し「創造」するのです。
「ママがいい!」という言葉から、顔を背けなければいいだけのこと。
背ける役割りを繰り返していると、その役割りがその人を定義するようになる。本来の自分と矛盾しているから、苦しくなって、それでも無理に自分を肯定しようとすると、ますます自分が、「そう」なっていく。道筋がわからなくなり、原因と思われる物に不満をぶつけるようになる。これが、「自己肯定感」の一番怖いところ。
複数の保育士が、絶対的弱者を相手に、しかも「他人」の子どもを相手に、こういうことをするようになる。それが、国策によって連鎖している。これは、人類未体験の連鎖だと思う。
乳幼児を集団で、知らない人に長時間任せるという仕組みを、極々最近まで、人類は持ったことがなかった。だから、こういう風景も存在しなかった。そこまで認識しないと、実際に何が起きているかが見えてこない。
誤解されるのを覚悟で言いますが、保育という仕組みを「肯定」した瞬間に人類は何を手放すのか。「ママがいい!」という言葉を否定した瞬間に、何を選択したのか。そこを真剣に考えないと、この未体験の連鎖は、未体験の混沌へと、「私」たちを導いていく。
保育士を目指した人たちの人生を、ここまで不自然な行動に導いたのは、人間の日々の営みではないのです。政府と学者と、起業家たちによる、仕組み作りの失敗がそうさせたのです。「保育は成長産業」という閣議決定の「非日常性」が、保育士たちの人間性を傷つけ、子どもたちの心が壊れていく。
(「ママがいい!」と宣言してもらえる女性たちは、まだいい。哺乳類であるが故に、「パパがいい!」とは0、1、2歳児という幸福の鍵を握っている人たちは、あまり言わない。その宿命の中で、それでも自分の子どもに授乳するひとの姿に感動し、母と子の安心を守ることで、「私」を発見してきた男性たちが、今、その役割を失いつつあるのです。
欧米で、未婚の母親から生まれる子どもが半数近くになっている。この数字は人類にとって未体験の、恐ろしい現象です。政府によって行われる母子分離と違い、男たちは、「自ら、その道を選択している」のです。誰にも「いい!」と宣言してもらえない男たちが、拠り所を失い、対立の中で支配欲を強めている。三人に一人が虐待を経験するアメリカで、去年、犠牲者が四人以上という乱射事件が一日平均二件、というニュースが流れてきました。
私が、幼稚園、保育園における親の保育体験を、なるべく父親から、と勧めるのも、幼児による「いい!」という「宣言」が早いうちに父親にされることを願うからです。そして、「ママがいい!」にも書きましたが、小学5、6年生あたりから、義務教育の中で幼児と過ごす体験をさせることで、自分の位置、「役割り」を喜んでほしいのです。いまの義務教育は、男女平等の名の下に、男女の対立、利権争いを煽り過ぎている。市場原理が、教育を媒介に取り返しのつかない分断を生み出そうとしている。)
こども家庭庁は、実際は三歳未満児を対象にしている「こども誰でも通園制度」で、「こどもは保護者だけが育てるのではなく、社会の様々な人が関わり、社会全体で子育てを支えること が望ましい。」などと言う。保育の質が落ちる規制緩和を散々しておいて、よく言うよ、と本当に腹が立ちます。三歳未満児にとって「社会」の八割は「母親」なのです。その母親と離し、「社会の様々な人が関わり」などと机上の空論を保育学者は言いますが、その「社会」の現実は、その日の、その時間の、保育士の当たり外れでしかない。「継続性という質」はもう整わないと彼らは知っている。
「信頼して預ける」という「仕組み上の」前提があるように装っていますが、それは「仕組み上」でしかない。子どもの願いや将来を共有してはいない形だけの「信頼」は、たやすく裏切られる。その時、子どもたちの心に残る傷跡、「信じることを諦める」体験が、些細なことのように思えても、それが積み重なってゆくことを考えると、この、子育ての「現場」で起こる裏切りは、人間が「調和への道筋」を将来に渡って放棄することにつながっている。告発者が書く「エスカレートする保育士の行動」が、この政府が勧める、偽りの「信頼関係」から生まれているのです。
(「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。最前線で頑張っている人たちのためにも、広めてください。心の中にあるモヤモヤや葛藤の原因が、どこにあるか、把握することで視界が開けてくる。道筋が見えてきて、そこに子どもたちが先導役としていれば、保育者の人生も定まってくる。
講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。園長先生の呼びかけで、保護者や保育士だけでなく、行政の人や議員、校長先生が参加してくれることもあります。NPO的な子育て広場や、園の空き保育室を使った「支援センター」など、小さな集まりが増えていくのが一番いい。予算も出ます。
「ママがいい!」という言葉を受け止めればいい。そんなに難しいことではない。
長いお付き合いの、浜松のいぬかい小児科医院の犬飼先生から、親たちに貸し出します、とサイン入り(一言付け加え)の「ママがいい!」30冊の注文が来て、さっそく送りました。全国の小児科医院に、親たちへの貸し出し用に、一冊ずつ置いてください。サイン入り(一言付け加え)とリクエストしていただいて、出版社のグッドブックスの方に注文していただければ、必ず対応いたします。よろしくお願いします。正月、Amazonの「人気ギフトランキング」で「ママがいい!」が一位になりました。
一月二十八日(日曜日、長野県佐久市で、誰でも参加できる講演をします。よろしければ、ぜひ、いらしてください。)14:00から、場所は、佐久平交流センター。申込先は、NPO法人佐久生活文化推進機構/連絡先 090-3343-5850)までどうぞ。先着200名だそうです。いいところです。)
明けまして おめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願い致します。
元旦に、グッドブックスの編集長、良本さんから、嬉しいメールが届きました。
「昨年も、たいへんお世話になりました。ご奮闘に心より感謝いたします。年末年始にもかかわらず、『ママがいい』を求めてくださっている方が大勢おられます。いまAmazonでは、人気ギフトランキング1位、ほしいものランキング3位、ジャンル2位です。
YouTubeを楽しみにしています❣️」
このメッセージで、ああ、頑張らなくては、と元気が出ました。
年末には、ある図書館で、三十人待ち、という噂を聞きました。政府や経済界が何を目的として動いているか。それが、今、保育や学校教育の現場をどれほど追い詰めているか。彼らの言う「子育て支援」のカラクリが限界に近づいていることを知ってほしいのです。
「ママがいい!」という言葉を起点に、どう耕し直すことができるか。保育者や学校の先生、親たちだけでなく、中学生、高校生にも知ってほしいのです。この国は、奇跡的に「いい国」だと気づいてほしい。
幼児たちに信じてもらう、という方法は、人生の指針になること。公平に与えられた人類存続の動機、選択肢であることを、これから親になる人たちに「喜び」として知ってほしい。日本の文化が持つ「その願い」と「期待」が、SNSやインターネットという伝達手段を通して伝わっていくようなのです。
「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。
講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。園長先生の呼びかけで、保護者や保育士だけでなく、行政の人や議員、校長先生も講演を聴きに来てくれることがあります。幼稚園、保育園は、親心のビオトープになり得る。草の根的な、子育て支援センターや子育て広場が、子どもたちを包み込む「絆」の復活の場になる。保護者会で私の講演を聞き、本を読んだ母親たちが、ランチミーティングや勉強会を計画して呼んでくれたりします。
「ママがいい!」という言葉をみんなで感謝して、受け止めればいい。そんなに難しいことではない。(何しろ、Amazonで、人気ギフトランキング1位、ほしいものランキング3位、ジャンル2位なのです。😀)
浜松の「いぬかい小児科医院」の犬飼先生から、親たちに貸し出します、とサイン入り(一言付け加え)の「ママがいい!」30冊の注文が来て、さっそく送りました。字が不得手な私が、30種類、「一言」を考えて書きました。一つは、「パパもいい!」、あとは、どんなことを書いたのか。「可愛がる、そして寄り添う」とか、「子育ては、双方向への体験です」とか、書いたような気がします。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
松居 和
「子育て」は、人間たちを「信頼」の連鎖へ導く道筋で、いい「責任」です。
逃げられない「責任」だから、「自分は不完全なんだ、という自覚」が「社会の持続性」や連帯感につながっていく。「人間性の証明」と言ってもいいですね、利他の「伝承」が続く。一番たやすい「幸せの見つけ方」が平等に示される。なくてはならない、責任です。この「責任」が一人一人の忍耐力を養って、社会の最小単位である夫婦(男女)が互いの資質と欠陥を確認し合う手段となりました。しかも、時間をかけて、ゆっくりと。命の成長を眺めながら。
種の保存に不可欠な役割分担が、社会が鎮まる中心にあったのです。ずっとそうだった。
義務教育という新たな足かせの中で、それを否定してはいけない。性的役割分担が「不平等」と認識されて、それを糾弾する世論が社会に広がっていくと、「責任」の転嫁が始まる。そして、誰かがこの責任から逃れようとすれば、他の人の子育てを苦しめることになる。義務教育が普及した社会では、そうなる。
お互いの子育てが、切っても切れない、永遠に続く関連性の中にあることを思い出さなければ、学校教育は崩れていく。
(「性的役割分担が単純に「不平等」と認識されたり、それを糾弾する情報発信が繰り返され、A.I.(人工知能) にインプットされていけばどうなるのか、と最近よく考えるのです。A.I.特有の「幻覚」ハルシネーション :hallucinationが、知らないうちに社会全体に影響を及ぼすようになるとすれば、恐ろしいことになる。A.I.はすでに、確信犯的にフェイクニュースを作るところまで人間を模倣し始めているのです。
A.I.が、東洋哲学や宗教、ことわざや神話を、年月を経た、貴重な情報として受け入れ、この国が完成させ、当時の西洋人を驚かせた「子ども優先の社会」(http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 )を、目指すべき「良い形」と評価してくれるところまで、早く、できるだけ早く、達することを願うばかりです。
最近、A.I.の開発に関わるGoogleの職員が離職し始めているという。開発速度が遅い、という理由で去る人がいる一方で、早過ぎる、と言う職員がいる。A.I.が、互いに教え合って進化する「ディープラーニング」の方向性と、その理由がわからないことに、社長(CEO)自身が不安を抱いている。:「The AI revolution: Google’s developers on the future of artificial intelligence | 60 Minutes」その不安そうな顔が、ユーチューブで配信されています。番組の半ばあたりです。)
保育園や幼稚園、学校に通うことがほぼ当たり前になった国々では、子どもたちの「環境」は、主に他の子どもたちで、それは他の親たちがどういう親か、ということです。義務教育が「義務」である限り、その足かせからは逃れられない。そこに、保育や教育に依存し始める親たちが増えることの危うさを感じてほしい。
以前、厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言った。そう言われれば、素人よりも専門家がやった方がいい、と思う(思いたい)親たちが増えてもおかしくない。保育学者が言う、主体性も、自己肯定感も、親を含めた「責任と調和」の範囲内で行われないと、成果を求める自己啓発セミナーの幼児版のようになってしまう。平均的保育士に二十人の子ども相手に自立心や「自己肯定感」を高める保育など、できるわけがないのです。全ての親たちと緊密な信頼関係を作ったとしても、2、3年の保育では無理、机上の空論に過ぎない。もっと端的に言えば、短時間勤務や派遣保育士をつないでいく保育が認められた現状で、「子育て」はできない。不適切保育さえ減らせないのが現実です。保育室がバタバタになって、それが学校に連鎖していくだけ。
個性を大切に、という言葉が、「どの個性を?」という質問で簡単に崩れるように、「自己肯定感」も、「自己のどの部分を?」と尋ねられれば、答えは永遠に変化し、見つからない。「そんなもの持ったら、プーチンみたいになっちゃうんじゃないの?」で、お終い。
子どもたちを可愛がり、守る、それが保育の基本です。教育とは一線を画すべきもの。
守った人間が喜びを感じ、守られて育った人間は、社会とまわりの人間を信頼する。信頼することが、やがて自分を守ってくれる。その法則が、親も含めて土台になければ、本来、保育にはならない。幼児が、「ママがいい!」と言ったら、「ママがいい!」のです。これほど純粋で、わかりやすい「指針」はない。
子どもたちに「肯定」してもらって、そこから、人間社会が始まる。
その原点に立ち返らず、母子分離を経済戦略の名で進め続ける政府の姿勢を糾弾せずに、「自主性」とか「自己肯定感」などと言っても、「仕組み」で子育てができると主張したい人たちの誤魔化し、「罠」にしか聞こえない。結果的に、子どもたちの信頼に応えられなくなり、現場の人間が耐えきれず去っていく。それがもうすでに起こっている。
以前、千葉で保育士が園児を虐待し警察に逮捕された時、園長が取り調べに、保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できなかった、と言い、それが全国紙の一面に載ったことがあるのです。保育士個人の資質の問題が、その瞬間、国の保育施策の失敗だと指摘され、宣言されている。それでも政府は0、1、2歳の母子分離施策を「子育て安心プラン」と名付けて進めた。保育学者が「社会で子育て」と言って、それを支持した。
「ママがいい!」と言われなくなることの方が、怖い。慣らし保育で、私たちが何に慣らされているのか、どう踊らされようとしているのか、気づいてほしい。政府の掲げる「子育て安心プラン」で、誰が安心しようとしているのか……。少なくとも、子どもたち、ではない。慣らし保育は、実は、親たちが慣らされる仕掛けです。
子どもたちは、慣れるのではなく「諦める」。その原因をつくった親たちが慣らされることで社会は確実に調和と落ち着きを失っていく。スウェーデンでさえ日本の20倍という欧米先進国の犯罪率、そして、米国における女性の受刑者の「異常な増加」から、学んでほしい。
鮮明に覚えている場面があるのです。
家で、熱にうなされ、担当の保育士の名前を呼ぶ子がいて、園に電話がかかって来た場面に遭遇したのです。保育士と保護者に講演をして、園長先生と、ほっと一息ついてお茶を飲んでいたら、主任さんが伝えに来たのです。
〇〇ちゃんが熱を出して、〇〇先生を呼んでいる、とお母さんから電話があった、どうしましょうか、と言うのです。
園長先生は、保育士たちの電話番号を知りません。主任さんは知っている。今日はデート中だと思いますけど、と主任さん。
「一応、電話してあげてくれる?」と園長先生。
〇〇先生は、きっと、とてもいい保育士なのです。熱を出した子どもに呼ばれることは、保育士にとって勲章かも知れない。でも、その子の人生にとって、それでいいのか。
どんなに頑張っても保育士が関われるのは五歳まで。そして、その間も、担当の交代という組織上の出来事が、どういう風にその子の心に刻まれていくのか。いい保育をするほど心の傷は深くなるのではないのか、そこまで考えなければ、「子育て」の存在意義さえ社会から失われていくのです。
園長先生は、保育士冥利につきるね、と言いながら、でも、これでいいはずがないんだ、と呟きます。園で熱を出し、母親を呼ぶのならいいんです。以前は、そうだった。
いい保育は、もちろん、した方がいい。私を講師に呼ぶくらいですから、いつでも親に見せられる保育をしている、園長のお眼鏡にかなった保育士を揃えている園です。でも、それによって親たちが、子育てを「仕組み」(知らない人)に平気で頼るようになる怖さを、園長先生は知っている。子どもたちが置き去りにされる風景を見ている。
少子化にもかかわらず児童虐待過去最多、不登校児童過去最多、保育士不足に加え、教員不足に歯止めがかからない。
それでも園長先生は、「電話してあげてくれる?」と言いました。そういう人なのです。窓にかかっているカーテンを見ていて、それがわかります。そういう園には、いい保育士が集まるのです。
「行ってくれるそうです!」と報告に来た主任さんの顔が嬉しそうです。
うん、うん、と園長先生も頷きます。
保育は、こうした阿吽の呼吸で成り立つ。そこに、また新鮮なスタートラインが見えました。すると、お母さんが園に電話をしてきたこと自体、なにか、とてもいいことだったように思えてきたのです。
子どもを可愛がる、という単純なことで、みんなが「いたらない自分」を実感し、助けてくれる絆に感謝し、そのきっかけを作ってくれた乳幼児を、さらに愛おしく思う。その循環が社会に満ちていれば、子育てにいい。
子育ては、育てる側が自分の人生をどう表現するか、ということなのです。
タイミング
講演中に、親の手をすり抜けた二歳児が、パタパタと目の前を走りぬけることがあるのです。時々、起こる現象ですが、私が、すかさず「神様は、こんな風に走るんです」と言うと、お母さんたちが瞬時に理解する。
大学の授業では絶対に起きないこと。それが起こったことを母親たちは、理解する。「幻覚」ではない。神話の領域で現れる、「真実」です。
人生は、タイミングです。
次元をつらぬくタイミングを、幼児たちが持ってきて、その瞬間の彼らの足音が、記憶のどこかに残るんですね。
その時の自分の反応と、手応えを、記憶のどこかにしまっておけば、たいていの悲しみは、「たいしたことない」と自分に言い聞かせて乗り越えていける。
情報は知識ではない、体験が知識なのだ、とアインシュタインは言いました。
(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/ です、「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。子育てを通して、自分と付き合う方法が書いてあります。講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。NPOや幼稚園、保育園の空き保育室、さまざまな方法で、親子を引き離さない「子育て支援センター」や「子育てひろば」を増やしていけばいい。連絡会などもありますし、申請すれば、予算も出ます。
目の前にいる人と、子どもを眺める。その日々の積み重ねが環境となり、どこかで私たちを守ってくれる。その中で、親たちの絆が育っていけるように、場づくり、よろしくお願いします。
どうぞ、良いお年をお迎えください。)
八年前、ブログ:シャクティ日記に、「クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)を書きました。 http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=267
警告はすでに、繰り返しされているのです。(以下、引用です。)
クローズアップ現代(NHK)で、〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)という番組が放送されました。発育過程で家庭で主に親と愛着関係が作れなかった子どもたちが増えていて、それが社会問題となりつつある。殺人事件を起こした少女の裁判で、幼少期の愛着関係の不足により「愛着障害」が減刑の理由として認められたという内容です。
さっそく、保育園の園長先生から電話がありました。
「問題はここですね。保育の現場で私たちがずっと以前から気づいていたことです。肌の触れ合いや言葉掛けが減ってきて、一歳から噛みつく子がますます増えています。保育士が補おうとしても限界があります。手も足りません」。保育士たちが日々保育室で目の当たりにしている光景、いわば愛着障害予備軍の幼児たちなのです。
行政の方からも電話。「この番組を見て、政府は4月から始める『子ども・子育て支援新制度』をすぐにストップしてもいいくらいだと思います。幼児期の大切さをまるでわかっていない」。
役場の子育て支援課長がここまではっきり言うのも、今回の新制度は、首相の「もう40万人保育園で預かります。子育てしやすい国をつくります」という二つの矛盾した考えから始まっているからです。
3、4、5歳に待機児童はほとんど居ません。幼稚園と保育園でほぼカバー出来ている。首相の言う40万人は自ら発言出来ない、三歳未満児が中心で、番組で言われていた愛着関係の濃淡に最も影響を受けやすい、脳科学的にも人間性の基礎が形成されると言われている一番大切な発育期にある子どもたちなのです。
政府が経済最優先で進めている改革の中身は、認可保育園での三歳未満児保育を増やす、認定こども園、小規模保育、家庭的保育事業と、市場原理を利用しながら「乳幼児たちと母親を引き離すこと」なのです。
そして、すでに小学三年生までの保育でアップアップの学童保育を四月から一気に六年生まで引き上げろと言うのです。
指定管理制度の中で抵抗出来ず、行政から言われる通りにやるしかない非正規雇用中心の指導員に、様々なレベルの愛着障害の子どもたちに対応するだけの余力は残っていない。一週間程度の座学で誰でも資格をとれる「子育て支援員」で誤摩化せるはずもありません。
以下、放送された内容です。
(ブログのリンク。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=267 をご覧ください。)
繰り返しますが、警告は繰り返し発せられている。
政府の思惑を、ネット上で広めていただきたいのです。コピーペースト、シェア、リポスト、口コミ、どんな方法でも構いません。
このままでは、保育も教育も、学童も児童養護施設も、一斉に倒れていくことを理解してもらいたいのです。よろしくお願いいたします。
(講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。「ママがいい!」を読んでの勉強会であれば、ボランティアでも行きます。幼稚園や保育園で、出来ることがたくさんあります。子どもにとって、親を信じることは、人生の流れを決めていく指針です。「愛されている、そう思う子どもに育ってほしい」。親たちの、その願いが、社会を整えます。)
(「ママがいい!」より、引用)
以下は、東京西部で代々保育園を営む理事長の言葉である。
「本年度の入園説明会が終了した。0歳児保育を希望する人が三十四名もいた。そこで、0歳から六歳までの発達の特徴と、〇、一、二歳児における母子関係の大切さを説明した。世の中には0歳児から預けようとする風潮が広がっているけれど、それは間違いですと伝え、なぜ育休を取らないのか? と訴えた。説明会終了時、拍手が起きたのには驚いた。夫婦が寄ってきて『説明会を聞いて本当に良かった!』と感謝された。その目には、自分で育てようとする意思がはっきりと見て取れた」(共励保育園・こども園の長田安司理事長のツイートから)
きちんと説明すれば、親は理解する。この国の素晴らしさであり、土壌だと思う。
「保育所に入りたい待機乳児」はいない。〇、一、二歳児は、母親と一緒にいたい。その願いにすべて応えることはできないのだが、政府が意図的にその意に反する政策を進めていけばどうなるのか。すでにその答えは出ている。大人たちの都合で仕組みや制度の整備が進めば、弱者の存在感は薄れ、保育の先にある様々な仕組みが順番に破綻し始める。その結果、貧困に追いやられ、孤立する弱者が増えていく。
(引用ここまで)
多くの人が知らされていない。
説明すれば、拍手が起きる大事なことを知らされていないのです。しかし、知らせようとする保育園の理事長もまだいる。
「なんとなく、流れで」と、政府や経済界がつくった誘導にしたがって0歳から預けてしまう人たちがいる限り、「ママがいい!」と言えない乳児たちのために説明しなければいけない。
なぜ、それを義務教育でやらないのか、とつくづく思うのです。中学校の家庭科の授業が、市場原理に呑み込まれている。性的役割分担を否定するようなことを教える。
「女性の活躍」という言葉、「一億総活躍」もそうでした。その裏に、母親の役割を「活躍」から外そうとする意図がある。母子分離で経済競争を促す。人類史上最も愚かな試みです。
「平等」など、実は、誰も信じていない。真剣に平等を言うなら、子どもたちの「願い」が優先されるはず。
本当に保育が必要な時間だけ預かっているのであれば、保育士は足りています。不平や不満を広めて、競争原理に駆り立てようとする、「欲の資本主義」の企てが、保育、そして学校という仕組みを追い詰めています。いい加減にしないと、戻れなくなる。
三十年前、私を鍛えた園長たちは、祖母の心で保育をしていました。
「病気の時くらいは、側にいてあげなさい」、「そんなに長く預けたら可哀想でしょう」そうはっきりと言った。
そうした親身な人が傍にいてくれることが、母親たちを救ったのです。自分を頼り、信じている子どもの姿が親たちに気づかせたのです。いつでも許し、愛してくれる小さな人たちがいることが、一番幸せなのだと。
「保育は成長産業」という閣議決定で、政府は母性という、この国の文化の心髄を家庭からも保育からも失わせようとしています。子育てを「負担」と宣伝する政府の「罠」に親たちが気づくように、「ママがいい!」ぜひ、読んで、広めてほしいのです。図書館で順番待ちになっているそうです。この国には、利他の心で社会を創る、運命としての道がある。
(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/ に、タイトルをつけて、原稿を載せてあります。いま、意識が変わり始めている。
講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。「ママがいい!」を読んでの小さな勉強会であれば、ボランティアでも行きます。
幼稚園や保育園で、出来ることがたくさんあります。子どもにとって、親を信じることは、人生の流れを決めていく指針なのです。「愛されている、そう思う子どもに育ってほしい」。親たちの、その願いが、社会を整えます。)