児童発達支援と放課後等デイサービスを始めた人からの相談

2015年2月19日

 身体的障害、知的障害、発達障害と、ひとり一人違う障害児(またはすべての乳幼児)とつきあうことは、仏教的に言えば、生きている仏性をすべての中に見るための一番身近な道。その子たちの役割り、必然性に深く気づかなければ社会の成り立ちは理解できない。だからこそ「訓練」という言葉とはほど遠い「営み」が試されるのです。

 

児童発達支援と放課後等デイサービス を始めた人からの相談がありました。)

Q

 雇った音楽療法士(経験なし24) 、子どもに対して言葉かけが最悪です。虐待に匹敵でした。日頃から見え隠れしていたのですが、まさかあそこまでとは思っていなくて……。急に手が足りなくなって、半日子どもを見ていてもらったのですが、30分の音楽療法ではハッキリしなかったことが、すべてわかりました。人間性の問題です。すぐに解雇したほうがいいですね。

A

 保育士や教師でも同じことなのですが資格と人間性は無関係、それが明らかになる時代です。音楽療法士は国家資格でもない。定義さえ曖昧なほぼだれでも取れる非常にゆるい資格です。通常人間性のチェックは行われないし、すでに市場原理の中に組込まれています。発達障害児や乳幼児は世話をする人の「人間性」に反応するのが役割ですから、現在政府が進めようとしている子育ての「仕組み」とは相容れない動機を持っている。

 

 「仕組み」が資格を要求するのですが、その「資格」が人間を錯覚させる。

 でも幼児の要求は誤摩化しが効かないし、彼らが生まれてくる限り人類はその要求から逃げようがないから、仕組みを成り立たせようとすると、意識的に感性を失うという、後戻りしにくい負のスパイラルが始まってしまうのです。

 いまの保育者養成校や、安易に資格を出して商売している団体の意図を知れば、資格者に人間性を要求するのはもう無理な時代だと思います。当たればラッキー、くらいに考える方がいいでしょう。今の「保育(子育て)は成長産業」と位置づけた閣議決定がこの国を土台から崩してゆくのを止めるには、親たちに、子どもとの関係が双方向に相対的なものだということを知ってもらうしかない。つまり、子どもを育てることが最終目的ではなく、親子が双方向におたがいを体験しあうことが目的だということをまず知識、意識として知ってもらうしかないと思うのです。

 子育ては体験だということを政府や行政、学者やマスコミの多くの人たち忘れていることが、今の仕組みを作り出しているわけです。皮肉なことですが、「子育てに関わる仕組み」が、存続をかけて、そのことを親たちに思い出させることが最優先だと思います。

Q:

 でも、このまえ母親に、子どもに規則正しい生活をさせて下さい、と言ったら激怒されて、役場に通報されてしまったんです。そんなことを言われる筋合いはない、と。

A:

 法律でもある保育所保育指針などには、子どもの最善の利益を考慮し親を導くことが保育の役割りの一つ、とハッキリ書いてあるのですが、これをすることは往々にして、(親への)サービス産業としての「仕組みの存在」を否定する場合がある。それを役場が理解せずに、ただの産業促進の観点でデイサービスを見てしまうと、子どもたちを囲む環境がどんどん悪くなっていく。やはり親を導くことが子どもたちの願いですから、大きな目標を「親子が生かしあうこと」に置いて、指導員は、その主旨を理解してくれる人を探すか育てるしかない。それが本来の姿ですが、これだけ人材が不足していると、長年保育をやっていて、保育士が育て育ちあう関係が出来上がっている施設でもないかぎり難しいですよね。

 親側の愛が強くて周りが見えない、それでモンスターペアレンツになっているのであれば、長い目で見て大丈夫ですが、規制緩和で生まれているいい加減な施設で子どもがどういう日常を送っているか知らない、知ろうとしない親が増えているのはとても危ない。誰しも不安からは逃れたい、目を背けたいもの。専門家に任せておけば大丈夫、という親の不自然な安心感が、親の身勝手、無関心に移行してゆくことが増えています。でもやがて、それはより大きな不安となって親自身に還ってくると思う。「社会で子育て」(仕組みで子育て)と、出来もしないことを言っている人たちの将来にわたる罪は大きいと思います。

 その療法士との関係の意味を考えてみること。その人の幼児期をイメージすることもいいかもしれません。その療法士もいまの仕組みの中で、育つことを阻まれた人なのですから。

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 (児童発達支援と放課後等デイサービスについて大阪で)

 「自分で育てるつもりないよ」と平気で言って、週末1000円で子どもを置いて遊びに行っていってしまう母親がいて、こんなところでは働けない、と障害児デイサービスを辞めた指導員の話を一昨日大阪の教育者たちの集まりで聴きました。障害児手帳を持っていなくてもほとんど審査無しで入れるし、障害者自立支援法で親側は十分の一負担、月額の上限が4600円。すでに飽和状態になりつつある自治体では顧客獲得競争が起っていて、業者側は、保育園より安いですよ、と親を勧誘する。

 「乳幼児は見方によってはみんな発達障害に見えるし、便利だからと言ってデイを利用する母親の子は愛着障害も重なっていることが多いから、簡単に入れるんですよ。でも指導員に専門家を雇えるところなんかほぼ皆無ですし、訓練施設ですから、どうしていいかわからない指導員が虐待まがいの訓練を強いる。子どもが怯えているんです」と憤る。

 先月、熊本県の保育園の園長先生たちが言っていた話と重なる。発達支援でデイでの訓練を終えて園に戻ってきた子どもが暴れる、キレる。どんな訓練をしているのか問い合わせても教えてくれない。その上、親に、「『専門家』(デイの指導員のこと?)のところではおとなしく出来ているのよ、だから素人(保育園)は駄目なのよ」と言われ本当に頭に来た、と話してくれた。

 その子を長い間保育して来た苦労が、こうした親たちの心ない言葉と、専門家のフリをしているにわか訓練士の普及によって、虚しい思いに変わってゆく。親、デイの指導員、保育士、子どもを一緒に育てているはずの三者の心が利害関係の経済論の中で、ますますバラバラになってゆく。心が一つにならない。その狭間で、親との愛着障害どころではない、人間に対する不信感が子どもの人格を形成してゆくのです。こうした状況で育てられた日々の体験は、それがたった一日のことであっても、時に刻印として子どもの心に残り、周りの人々の人生に影響を及ぼし続ける。これが閣議決定された「子育て支援は成長産業」「市場原理」で生まれる不信に満ちた社会の出発点なのです。最近の理解し難い、残酷な事件の傾向を見れば、その背後にこうした「子育て」の状況があることはもう明白でしょう。それでも政府は親子を引き離すことをやめようとしない。

 (愛着障害と犯罪の関係については、NHKクローズアップ現代の報道を踏まえて前々回のブログにすでに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary/2015/02/nhkde.html)

 もちろん、部族的な絆が希薄な現代社会で、こういう仕組みを本当に必要としている親子もいる。この仕組みがあったために救われた一家もある。指導員といい関係を作って、人生にゆとりが生まれ、成長できた家族も知っています。発達障害児を育てた親たちが、自分たちの経験を生かし指導員になって和気あいあいと家族のようにやっているところもある。しかし、いまの市場原理にのみ込まれ儲けを主眼にした保育施策は、本当に必要な人たちの福祉さえ踏みにじってしまう方向に動いているのが現実です。

 もう何年も前からこうした発達障害児専門の塾をしている女性が、最近の安易に作られる「訓練所」に対する憤りを語ってくれました。どこへでも証人として出ます、と言っていた。3年前に彼女の塾に見学に行った時に教えてくれたことを思い出します。いわゆる発達障害といわれるこどもを指導する時に、まず親の挨拶の仕方から入るのだ、ということ。親が子どもを連れて来た時に、きちんと挨拶ができるようなると、それだけで子どもが落ち着くというのです。

 一日保育士体験で親が変わると、保育園に対する苦情や文句が一気に減り、子どもたちが落ち着く、という現場を見た私にはよくわかるのです。親の礼儀作法が子どもの成長に不可欠な心の安定に意外と大切なのです。一日保育士体験では、特に父親が「幼児たちと一緒にいる幸せ」に気づくと、子どもたちはみるみる明るくなる。父親が、自分は他の子たちにも責任があるのではないか、という部族的な感覚に少し目覚めるだけで、集団としての子どもたちが輝いてくる。子どもたちの世界は大人が気づいている以上にリンクしている。家庭という基盤が一定の秩序を保っていないと、それは他の子どもたちにも確実に影響してゆくのです。

 すべての人生はリンクしていて幼児たちはその最も大切な、大事にしなければいけない要素なのだということに政府が気づかない限り、いま急速に起り始めている負の連鎖は止まらない。

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放課後等デイサービスは、主に小学生以上から高校生までの学校に通っている障害児が学校の帰りや土曜日、日曜日、祭日などの学校休業日や夏休み、冬休みなどの長期休暇に利用する通所訓練施設児童発達支援は、障害を持つ未就学児を対象にした通所訓練施設。療育や機能訓練に特化した施設、もしくは、幼稚園や保育園の代わりに、ほぼ毎日通う施設として、児童発達支援のサービスを利用するケースがある。平成244月の障害者自立支援法、児童福祉法の改正により、多くの民間企業や一般社団法人が、障害児通所支援事業である放課後等デイサービスや児童発達支援へ参入しやすくなった

(株式会社・合同会社・NPO法人・社団法人、財団法人・社会福祉法人・医療法人)法人であれば、どのような形態の法人でも事業を行うことが可能。指導員は特に資格要件無し 

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シスターから手紙が着ました。久しぶりにシスターの語る言葉に耳を傾けました。https://www.youtube.com/watch?v=SUaQXFUp1_M

「わかちあうこと」とシスターはいつも言っていました。「わかちあうこと」が人間の美しさであり、生きてゆく目的。

特に子育てをわかちあうこと、がいま日本に必要なことだと思います。

 

Dear loving kazu zan,
How are you . Our best wishes to Yoko zan and Rio zan.
We are having our program at New Delhi on 3 Mach.
We are travelling on 28th. 2nd evening we may have the rehearsal.
The concert title is Sound of Freedom.
We are back to Dindigul on the 6th march.
Many of our girls are preparing for their examination.
3 are to complete 8 std, 4 are to write 10th std, 5 are preparing for 12th std
And 5 are doing their college study.
All of them are having their exams in March.
Do remember them all.
Some of them have not seen you. Please do come once.
We look for your arrives.

With love

Sakthi sisters Sr Chandra and Felci


子育てを中心とした「伝統的家庭の価値」(インタビューから)

子育てを中心とした「伝統的家庭の価値」(インタビューから)

 私は時々「伝統的家庭の価値観を取り戻さなければならない」という話します。一部の学者や文化人は「性別役割分担の押し付けだ」と言うのですが、違います。

 家庭崩壊は先進国社会で共通に起こっている人間の欲の問題に起因していると考えています。幸福感の主流が自己の欲に基づくものになってしまい、「利他」ではなくなっている。日本が社会秩序の面でも経済的な面でもうまくやってきたのは、「利他の幸福感」があったからだと思います。そして利他の幸福感は、親心の幸福感と重なっていた。特に幼児を眺め、育てることは、親だけでなく社会全体に利他の心が育つことなのです。

 伝統的家庭の価値観というのは、イスラム教の国、ヒンズー教の国、仏教の国と、各々違います。共通しているのは「子育てを中心とした」価値観です。家族の真ん中に子育てという営みがある。これが共通しているのです。

 欧米と違った日本の伝統的家庭の価値観は、『逝きし世の面影』(渡辺京二著)などを読むとわかるように、父親たちが一様に子育てに深く関わることでした。しかもその姿は子育てというより、子どもを崇拝するような行いだった、と欧米人が書き残している。そして、その風景が国中にいき渡っているのを見た欧米人が百五十年前、この国を「パラダイス」と呼んだのです。江戸で男たちが並んで幼児を抱えて自慢話をしている姿を見て、すでにインドや中国を見た欧米人が、その様子に憧れた。日本の父親は幼児と離れなかった。究極の他力本願、文明の底に流れる独特な易行道だと思います。

 元々働く理由の中心は「子どもを育てるため」というように、子ども優先でした。私にとってはそれが「伝統的家庭」であって、「男が競争社会で働き、女は家で子供を見ていればいい」というのはこの国の伝統的家庭の価値ではありません。

 歴史的に、絆を作る中心にあったのが子育てです。特に〇、一、二歳児という神様のような幼児と付き合うことによって心が一つになっていたということを、もう一度思い起こすべきです。幼児の人間社会における役割分担、人間を「良い人間」にしていくという役割を理解しない限り、家庭崩壊、教育の崩壊、生きる力の喪失、という問題は続くでしょう。

 幼児と触れ合う時間を増やしてほしい。一歳児、二歳児が歩いている姿を見るだけで、人間は遺伝子がオンになる。一緒に座っているだけで、自分がいい人間だと気づく。カトリックは聖母マリアの母子像を崇拝してきました。母子の関係に崇拝すべき何か、利他の美しさを見てきたわけです。仏教でも、良寛様は子どもの中に仏が宿っていると言います。伝統的に、乳幼児は、我々に共通に与えられている「神様、仏様」なのです。乳幼児を眺める時間を全ての人間が毎日持てば、一人前の人類になれるのではないかと思うのです。

 夫婦が子育てを通じてお互いの良い人間性を確認し、育て、信頼関係をつくり、損得を離れた絆を社会に育み続けるために子育ては存在する。子育てを「社会化」すると、地域の絆どころか、夫婦揃っての子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れていきます。

 何万年と続いてきた子育ての第一義的責任を親から社会へ代えるのであれば、それは人類の進化の根本にあった心の動きと親子の育て合いを放棄することになります。ヒトの遺伝子の組み換えでもしないとこんなことはできないと思います。

 先日、新聞に掲載されたアンケート調査で、二人目の子を生まない理由として最も多かったのが「父親が子育てに参加していない」でした。「経済的に厳しい」というのは三番目以下でした。これには私も納得しました。

 子育ては、男女がお互いの人間性を確認する場です。父親が参加しなければ子育ての本来の意義が失われてしまう。夫婦がお互いに「あの人は良い人だ」と確認し、それが社会全体に広がる。男女でそれをしないと、父親に「責任を感じる幸福感」「我が子に何かを教える幸福感」がなくなっていきます。

 いま日本という不思議な国が目指さなければならないのは、乳幼児の天命をなるべく果たさせる方向に社会の仕組みを持っていくということです。人間社会における彼らの特殊で大切な役割を果たさせてあげる。なるべく多くの人が乳幼児と関わることによって、自分は良い人間だということを実感する体験を増やし、その積み重ねで絆を深めるということですね。幼児の集団は、「頼りきって、信じきって、幸せそう」な、最も完成された人間集団で、そこに漬かっていると遺伝子がオンになって来るのです。

 親であることに幸せを見つけることを「子育て」の第一義とし、「育てたい」「守りたい」という気持ちが社会にモラルや秩序、意欲や絆を生む原点だということに気づかない限り、いじめも不登校も、児童虐待もDVも止まりません。

 最近、道徳教育が議論されていますが、私は「道徳心は幼児から学ぶ」「幼児たちを眺めて生まれる」と思っています。



クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)



 クローズアップ現代(NHK)で、〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)という番組が放送されました。発育過程で家庭で主に親と愛着関係が作れなかった子どもたちが増えていて、それが社会問題となりつつある。殺人事件を起こした少女の裁判で、幼少期の愛着関係の不足により「愛着障害」が減刑の理由として認められたという内容です。

 さっそく、保育園の園長先生から電話がありました。

 「問題はここですね。保育の現場で私たちがずっと以前から気づいていたことです。肌の触れ合いや言葉掛けが減ってきて、一歳から噛みつく子がますます増えています。保育士が補おうとしても限界があります。手も足りません」。保育士たちが日々保育室で目の当たりにしている光景、いわば愛着障害予備軍の幼児たちなのです。

 行政の方からも電話。「この番組を見て、政府は4月から始める『子ども・子育て支援新制度』をすぐにストップしてもいいくらいだと思います。幼児期の大切さをまるでわかっていない」。

 役場の子育て支援課長がここまではっきり言うのも、今回の新制度は、首相の「もう40万人保育園で預かります。子育てしやすい国をつくります」という二つの矛盾した考えから始まっているからです。3、4、5歳に待機児童はほとんど居ません。幼稚園と保育園でほぼカバー出来ている。首相の言う40万人は自ら発言出来ない、三歳未満児が中心で、番組で言われていた愛着関係の濃淡に最も影響を受けやすい、脳科学的にも人間性の基礎が形成されると言われている一番大切な発育期にある子どもたちなのです。

 政府が経済最優先で進めている改革の中身は、認可保育園での三歳未満児保育を増やす、認定こども園、小規模保育、家庭的保育事業と、市場原理を利用しながら「乳幼児たちと母親を引き離すこと」なのです。そして、すでに小学三年生までの保育でアップアップの学童保育を四月から一気に六年生まで引き上げろと言うのです。指定管理制度の中で抵抗出来ず、行政から言われる通りにやるしかない非正規雇用中心の指導員に、様々なレベルの愛着障害の子どもたちに対応するだけの余力は残っていない。一週間程度の座学で誰でも資格をとれる子育て支援員で誤摩化せるはずもありません。以下、放送された内容です。

(全テキストは)http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3613_all.html

201529日(月)放送

少年犯罪・加害者の心に何が

〜「愛着障害」と子供たち〜

 

 一昨年(2013年)、広島県で起きた少年少女による女子生徒殺害事件。

 事件を主導したとされる少女に1審判決が下り、その背景として、ある障害が指摘されました。今、その障害がさまざまな少年犯罪で要因の1つになっているのではないかと注目されています。(中略)

 「良い行いをして褒めても響かない。悪い行いをしたときに逆ギレしてパニックをよく起こしてしまう。」(中略)

 ”犯行動機に被告人の不遇な成育歴に由来する障害が影響している。裁判では、少女が幼少期に虐待を受け続けたとし、そのことで怒りをコントロールできなかったとしました。精神鑑定で指摘されていた、「愛着障害」の影響を認めたのです。(中略)

 16歳とは思えぬ幼さと粗暴さを感じたといいます。(中略)

 長年、少年院で子供たちと向き合ってきた医師は、今起きている多くの少年事件の背景に、虐待や愛着の問題が存在するといいます。(中略)

 

 関東医療少年院 教育部門 斎藤幸彦法務教官「職員にベタベタと甘えてくる。逆にささいなことで牙をむいてきます。何が不満なのか分からないんですけども、すごいエネルギーで爆発してくる子がいます。なかなか予測ができない中で教育していかなければいけないというのが、非常に難しいと思っています。」(中略)

 愛着障害特有の難しさに加え、さまざまな事情が複雑に絡むので、更生といっても従来の対処法だけでは困難な面があるといいます。(中略)

 

 関東医療少年院 医務課長 遠藤季哉医師「愛着の問題は虐待と関連がありますけど、これは虐待、これは(先天的な)発達障害、みたいに単純には割り切れない。いろんな問題、要素が絡んで本人の複雑な症状をつくり出している、非行をつくり出している。」(中略)

 


高岡健さん(岐阜大学医学部准教授) 愛着っていうのは、しばしば船と港の関係に例えられます。港、すなわち親や家族が安心できる場所、安全な場所であると、船である子供は外の海に向かって悠然と出かけていくことができます。そして燃料が少なくなってくると、また安心な港に帰ることができます。ところが、もしその港がうまく機能していない場合はどうかといいますと、子供はまず、常に裏切られた経験というのを積み重ねてしまった結果、自分を分かってくれる大人なんかいるわけがないという、そういう気持ちに陥りがちです。これが、褒められても喜ばないということですね。(中略)

 むしろ子供の行動や気持ちに対して、必ず応えてあげてることがあるかどうか。私どものことばでは「応答性」と呼びますけれども、応答、すなわち応えてあげてるってことがとても大事なわけです。(子供のほうから声をかけてきたときに親がきちっと向き合うこと?)おっしゃるとおりです。逆にそれを無視してしまいますと、いくら長い時間つきあっていても、それは意味がなくなってきます。

●愛着形成の期間、何歳までが大事?

これはあくまで目安という意味ですけれども、大体3歳ぐらいを過ぎますと、自然にその港から外に行く時間が長くなってきます。(中略)

 

養護施設の職員「養護施設に来る子供たちっていうのはマイナスからの出会いなので、赤ちゃんを抱いているような感覚でずっと接してきました。ここ11年間、それは大変でした。」

 

(ここから再び私見です)

 この番組で指摘されている「幼さ、粗暴さ」、「何が不満なのかわからない」「逆切れしてパニックを起こす」、講演先で出会った中学の先生たちが、最近の中学生の全体像の中で言われた特徴と重なります。犯罪を犯したりする子どもたちは氷山の一角で、似たような子どもたちは程度の差こそあれ確実に増えていて、学校におけるモラルや秩序の維持に影響を与えている。対応する教師たちが限界に近づいている。

 クラスに1人くらいだったら、それはもう人間社会では当たり前のこと、育てる側に絆さえあれば対応出来るのかもしれない。3、4人の軽度の愛着障害+発達障害の子どもと、予備軍的生徒が数人がいると、時に教室の空気、雰囲気は子どもたちにとって調和のとれない辛いものになってゆく。学級崩壊は、その学級の子どもたち全員の人生に影響を及ぼしてゆくのです。このまま無理な施策を進めて行けば連鎖が始まり、何かが一気に崩れ始める。そんな漠然とした不安が教師たちの将来の展望を重くしている。先が見えないのです。

 番組の中で「様々な事情が複雑に絡む」と言われているように、厳密に言えば、すべての人間が愛着障害と発達障害の組み合わせで成り立っている。しかも、その見分けは困難で、だからこそ、成長発達の過程である一定の環境、伝統的家庭観と言ってもいいかもしれませんが、歴史のなかで育まれて来た常識を簡単に崩してはいけない

 (人間の行動は、単純に発達障害+愛着障害+環境、というよりも、発達障害×愛着障害×環境かもしれず、それが学問では予測出来ない人類の歴史を生んできた。それでいいのだと思います。しかし、現在先進国社会で起っている愛着障害の急激な増加は、人類が経験したことのない領域で、あまりにも振れ幅が激し過ぎる。それはつまり欧米先進国で3割から5割の子どもが未婚の母から生まれていること、父親たちが幼児と関わる時間が異常に減少していることに起因していると思います。)

 幼児期の体験は相当決定的で道徳教育などで対応出来る種類のものではない。それはユニセフのこども白書や国連の人権条約などでも言われていたこと。それがあらためて、夜七時半の全国放送で裁判所の判断と共に放送されたのです。

 クローズアップ現代は有名ですし、私は質の高い報道番組だと思って見ています。ここまではっきりと報道されている三歳までの愛着関係と「応答性」の大切さの指摘を、子ども・子育て支援新制度でもう40万人三歳未満児を親から引き離そうとしている首相はなぜ理解しようとしないのか。十年以上前、厚労省が「長時間保育は子どもによくない」と保育界に向けて研究発表した時の長時間が8時間だった。それをいま13時間開所を保育所に要求し、11時間を標準保育、8時間を短時間保育と名付けて進める新制度の意図が、子育ての現場を追い込んでゆく。政府が、この国の親子間の愛着関係を土台から壊し始めている。親を客と考える市場原理を使ってこれを進められては、児童相談所も、学校も養護施設も少年院も対処しきれない。この制度で始まる負の連鎖は長く将来に影響を及ぼすことになる。

 今回の新制度が民主党政権によって新システムと呼ばれ始まった頃、厚労省の人に「私たちもおかしいと思う。財源が確保されていない。人材的にも無理。でも、閣議決定されたら仕方ない。内閣を選んだのは国民でしょう」と言われたことがあります。国民は直接内閣を選んではいないし、選挙に出る候補者を選んでもいない。しかし、この問題に関しては、すべての政党が「待機児童をなくせ」と、幼児の気持ちを考えずに言っているのですからどうしようもない。政治家は、待機児童を無くせというマスコミの論調に踊らされ、乳幼児の姿が見えなくなっているのかもしれない。

 いや、そうではない。もしそうなら、2万1千人の待機児童数と40万人保育所で預かりますという首相の発言の矛盾が説明出来ない。経済の仕組みの本質が幸福論にあることを理解していないか、すっと先のことまでは見ようとしないのか。

 クローズアップ現代のように、間接的ではあるけれど、よく考えれば、ほぼ直接的に新制度の危うさをマスコミが報道してくれる場合もある。あとは親たちの問題、と言い切るのは酷だろうか。子育ての責任回避の傾向はもう仕組みが引き受けられる一線を越えてしまったのか。あの番組の最後に、「そして、今政府は40万人の乳幼児を保育園で預かる施策を進めています」と国谷さんが言わなかったから、みんなことの重大性に気づかなかったのだろうか。

 まだ、大丈夫だと思う。埼玉県や横浜市だけでなく、選択肢のある自治体では7割以上の親たちが三歳未満児は自分で育てるという選択をしている。


 以前、乳幼児は両親、兄弟、祖父母など4、5人の人たちに囲まれ見つめられ、「応答」してもらって育っていた。保育園で、一人の保育士が六人の一歳児を育てるということは、その応答性が、単に6分の1ではなく、人類が本来家庭という場で経験して来た平均の20分の1程度になるということ。それも、家族並みに乳幼児に話しかけてくれる保育士に当たってのことなのです。そのことに親たちも気づいて欲しい。

 そして、今の保育施策はすでに決定的な保育士不足を生み出し、現場に「子どもに話しかけない保育」さえ生み出しているのです。

http://kazu-matsui.jp/diary/2013/12/post-225.html「子どもに話しかけない保育」

 そして、幼児に話しかけない親たちも生み出している。

http://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-262.html「話しかけない親たち」

 園庭もない保育室で、一日中音楽をかけ続ける保育を見たことがあります。

http://kazu-matsui.jp/diary/2014/04/post-247.html

 政府の幼児の日常を大切にしない、親や経営者の利便性のみを追求した経済優先の保育施策が、乳幼児の過ごす時間の質を考えようとせず、保育園を安易に選択する親を生み出しているのです。

http://kazu-matsui.jp/diary/2014/03/post-241.html

 一歳児の噛みつきと、親身な保育園の奮闘について

http://kazu-matsui.jp/diary/2012/06/post-149.html


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相の所信表明演説から再び

 「子育ても、一つのキャリアです。保育サービスに携わる『子育て支援員』という新しい制度を設け、家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくりを進めます」

 子育てという仕事、労働をやったことある人なら、他の子どもの保育も出来るだろう、という考え方です。労働と子育ては次元が異なることがわかっていない。「家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくり」と簡単に言いますが、家庭に専念とは一体どういう意味なのか、イメージを持ってしっかり考えてから発言した方がいい。家庭に専念してきたことが、キャリア的に「他人の子どもを、しかも愛着関係とか発達障害があるかもしれない子どもを含めて6人、4、5才児なら30人、8時間保育すること」に役立つと思っているのなら、あまりにも考え方が甘い。保育を知らない。しかも保育士は、嫌になったから簡単に辞めていい種類の職業ではない。


子育てはキャリアではない。「愛着」の意味がわかっていない。

 




0歳児の家庭保育支援/1人に月額数万円給付

 こんな動きが始まっている。今の保育界を支える財政や保育士不足を考えれば、当然こうなってゆくしかないと思う。その第一歩がたぶんあちこちで始まっているはず。そう願いたい。現場で子ども優先に、そうでなくても現実を知る首長や行政が本気で住民のことを考えれば、遅かれ早かれ家庭に子育てを返してゆくしか方法はない。中央政府の政治家の面子や意地(選挙や??)がこの国の伝統的家庭観を壊してしまう前に。


伯耆町、0歳児の家庭保育支援 1人に月額数万円給付保育業界ニュース

http://hoiku-news.blogspot.jp/2015/02/blog-post_5.html

 鳥取県伯耆町は、保育所に預けずに家庭で0歳児を育てる場合、子ども1人につき月額数万円を給付する制度を新年度に創設する方向で検討に乗り出した。出産後、早期に職場復帰して0歳児を保育所に入れる保護者が増える中、経済的支援をすることで、発達上重要とされる0歳児期に家庭で育児ができる環境を整える。家庭保育が進めば、保育士確保の負担も軽くなる。町によると全国的にも珍しい施策という。

 町内で年間に出生する70人前後のうち、60人程度が新制度を利用すると予測した上で、制度設計を進めている。予算は約2千万円を予定し、地方創生関連の国の交付金を充てる見通し。生活保護世帯の0歳児1人当たりに払われる手当の額などを参考にしながら、給付額を詰めている。

 親が家庭で世話をする場合に加え、祖父母ら家族に保育を頼んで親は働きに出るといった形でも給付を認めたい考え。施設に預けたり、ネグレクト(育児放棄)の状態に陥っていたりする状況が確認されれば、支払いを打ち切る。保健師の家庭訪問などを通じて、不適切な支給を防ぐ。

 景気低迷の長期化や、サービス業などを中心とする人手不足などを背景に、町営の保育所に預けられる0歳児は、6年ほど前に比べてほぼ倍増している。子どもと家族との愛情形成を図る上で、0歳児は家庭で保育するのが望ましい在り方だと判断した。

 0歳児の家庭保育が進めば、保育所運営の円滑化にも役立つ。

一般に3歳児は20人につき保育士1人の配置が求められているのに対し、片時も目が離せない0歳児は3人に対し保育士1人を充てる必要がある。0歳児の受け入れが減れば、保育士の慢性的な不足傾向の緩和にもつながる。

 同町の谷口仁志福祉課長は「ここまで踏み込んだ手当の給付は画期的だと思う。発達上の良い影響が見込める上、もう一人産むという方向にもつながるのではないか」と話している。

ワーキングマザー/いただいた浅羽佐和子さんの短歌集から/デンマークの幸福度

浅羽佐和子さんの歌

(講演に来て下さり、いただいた短歌集「いつも空をみて」からです。身の引き締まる瞬間です。)

 

昇進の見送り理由を幼子とするぼろ布のような私

私のキャリアをどうしてくれるのと考えたってあふれる乳汁

仕事中だけはあらゆる不安からのがれられるの、どうしようもない

ヤクルトの小さな容器を積んでゆく ここまでいったら空だよ、ママ

保育園で描く絵はいつもママばかり、ママがぽつんといる絵ばかり

「お母さん、疲れたとだけは言わないでください」若い保育士のメモ

「ママうちにかえろう」ってただ手をつなぐために私はずっとここにいる

代役のない本当のママという役を演じる地球の隅で

 

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「ワーキングマザー」

 いただいた本の帯に「ワーキングマザー」とあって、出版社がつけたのだと思う

 「働く母親」「外で働く母」ではどうかなと思ったけれど、それでは帯の宣伝文句には向かないことは私にもわかる。「母」という言葉にある伝統的なイメージを払拭し前へ進まなければ、「マザー」にはなれない、そんな意識が働いているのか。しかし、やはりマザーだけでなく母はみな働いている。

 「働く母親」は一人の人間でありうるのに、なぜ「ワーキング」と「マザー」は対立し、そこに葛藤が生まれるのか。日本という国で西洋の言葉を利用する時に生まれる様々な対立は幸福論と資本主義の対立のようにも思える。次元の異なる対立を可能にするための手法なのか。

 園長から聴いたことがある。「ワーキングマザー」から「母」の顔に戻るのは中々難しい。必死にそれをするしかないほど、子どもの目は厳しく、優しい。トビラ一枚のことではない。子どもがあきらめてしまったら、それにマザーが気づかなかったら、と思うと、なるべくそんなことにならないような仕組みに出来ないか、と考える。

 ワーキングとマザーの間に「保育所」が存在していることが、今の社会状況と過去の仕組みとの一番の違いだと思う。特に三歳未満児にとって保育所はあまりにも絶対的な存在で、もはや絶対的過ぎると思う。その仕組みが、限界に来ている。幼児たちのために、その質に責任を持たなければいけない政府によって、幼児たちの存在自体がないがしろにされているのだから、ワーキングとマザーの間にある溝はますます深くなる。みんなで見ぬ振りをするしかない。すると苛立ちがつのる。仕組みを少々変えても、もう誤摩化すことはできない。

 途上国へ行けば、多くの子どもたちは5歳位で働いている。子守り、水汲み、物売りだったりで、一人前になった自分が嬉しいのか、結構活き活きと、美しく、働く。彼らを眺めていると、働くことはいいことなんだな、と思える。働くことは人々にとって人生の絆を育て、教え、教えられ、それは生きてゆくための日常で、形は様々だが人は皆してきたこと。時には「三年寝太郎」や「わらしべ長者」落語の与太郎のような一見役に立たないように見える人たちが重要で、その人たちには労働を超えた、社会における「働き」があったんだろうと思う。社会に必要な「ゆとり」や「人間性」を生み出す人たちなのだと思う。その「働き」が幼児に似ている。

 日常的に働くことで生まれる絆を主体に社会は成り立つ。「子育て」は働くというよりも、「働き」に近いが、それが中心にあるから人間は「働く」。

 今さら英語を使って分類しようとする意図はなにか。「マザー」と「母」の間に微妙な対立が生まれている。どちらも現実から少し離れているのだが、「ワーキングマザー」と「専業主婦」には今風の確かに異なる人生観があって、それは選択肢の問題であって対立はしないほうがいい。どちらも働いている。そこまではわかる。「ワーキング」と「マザー」の間にある葛藤は本人のものであって、経済施策などに利用されない方がいい。ワーキングファーザーとわざわざ言ってもらえないひとたちもいて、その人たちの「父」のイメージは、「母」よりもっと急速に薄っぺらい、頼りないものになりつつある。

 シングルマザーという横文字が定着し、政府の作ったパンフレットには「すくすくジャパン」という奇妙な言葉さえある。仕組みや概念、ニュアンスを変える時は外来語にして広めてしまえば「進歩」に見える、最近のカタカナ語の多くにそんな軽々しい仕掛けを感じる。政府がカタカナ語を盛んに使うということは、施策自体が軽々しいのだと思う。

 日本も急速に悪くなっているとはいえ数字で見れば、欧米の50年前くらいの状況。家庭や家族という概念にしがみつき続ける日本人のしぶとさに感動する。しかも119番に電話すれば救急車が30分以内に駆けつけてくれるのだ。夜、小学生が塾帰りに夜道を歩けるし、子育てするには世界一いい国、と思っている私には、こういう政府の「意図や仕掛け」が、進歩というより危うさに思える。欧米志向で本当にいいのか、特に子育てや家庭観に関わることでは、明治維新以降の欧米コンプレックスはもう卒業したほうがいい、自虐的な感じさえする。もっと自分たちの文化や国のあり方に自信を持ったほうがいいと思う。(後述のデンマーク関連の記述も参考にしてください。)

 乳幼児と、一日中一緒に居る親も結構大変です。いや、そうでもないか。インドの農村でみんなで乳幼児と暮らしている風景を見ていると、心が落ち着いていれば、遺伝子に組み込まれたこの時期の独特の幸福感や親としての成長は何事にも代えられない貴重な人生体験なのだと思う。進化の過程から見れば、この時期を体験することが人生の第一目標だった。幸福感が伴わないわけがない。

 先進国社会では、母親の孤立化が「社会で子育て」という方向性を生んでいる。そして、「社会で子育て」という方向性が母親の孤立化をますます進める。

 家事労働はまだしも、子どもに対する責任には切れ目がない。必ずと言っていいほど目の前で怪我をしたりするから、そうなると言い訳出来ない。祈ったり、謝って暮らすしかない。三歳までの子どもを育てていると、常に、ヒヤヒヤする。自分で判断し、創造しなければならないことがたくさんあるから、逃げ出したくなることもある。本来、一人でやるものでは絶対にない。

 単純に、会社を辞めて子育てに逃げる人と、子育てから会社に逃げる人が居たとして、その動機を比べてみると、どちらが幸せを探しているか、そんなことを考える。

 本来逃げられないものから逃げられるようになった社会が、幸せなのか。選択肢があるということは自己責任が増えることであって、実はそんなにいい事ではない。自己責任は自己嫌悪につながることが多い。連帯責任か神様の責任にするのが、絆に守られる人間社会を作るコツかもしれない

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デンマークについて

 

 デンマークという国の幸福度が高く、日本は先進国で最下位という報道があった。私はこの西洋人が(特に学者が)勝手に決めた「幸福度」というのが好きではないので、関連しそうな数字を一時間くらいネットで調べてみる。まず基本的な数字を日本と比べると、

女性がレイプされる確率:日本の十倍 (スエーデンは60倍)

傷害事件の被害者になる確率:十五倍

ドラッグ汚染率:五倍

 以前、調べた数字もだいたいこんなものだったと思う。ネット上の情報は様々ですが、比較する時は、まず、こういう基本的な数字から入るべきだと思う。これだけ物騒で(傷害事件)、男女間の信頼関係がなく(レイプ)、若者たちが夢や希望を持てない(ドラッグ)国を、日本より幸福な国と位置づけるには「無理な意図」が背後にある。この世界を覆う「無理な意図」が日本にも確実に影響している。

 仏教を土壌とした「欲を捨てることに幸せがある」という文化と、資本主義を動かす「勝つことが幸せだ」という物差しが日本でぶつかる。特に子育てでぶつかる。(ワーキングとマザーがぶつかる。今の仕組みの中で、幼児の視線を感じれば、その瞬間両立出来ないから、ぶつかる。もっとうまく両立に近いやり方を模索できると思う。幼児の気持ちを優先させれば、できると思う。)

 大学を中心とした社会制度に関連した学問は、一般的に欧米が本場で欧米を肯定することで生き残ろうとする傾向がある。デンマークは幸福だ、的な論理が国連で認められてしまうと、単純に受け入れ、意外と普及してしまう。前述した基本数字をみればわかるように、欧米の後を「幸福度」なとどいう言葉で追いかけたら、世の中は殺伐とし、弱者という多者が追い詰められ、取り残され、不幸になってゆく。

 しばらく検索していると、デンマーク在住の日本人と、日本在住のデンマーク人の文章に出会った。先入観と意図を含む学者の研究より、ストリート系の普通の感性で書かれた文章により真実が見える。幸福度に関しては、直感的にこの解説あたりが妥当だと思いましたので後述します。

増えているヤング・マザー。幼児期のネグレクトが原因?

テレビの番組のこととか、幼児期のネグレクトに関する新聞の記事などは、五年前の記述ですが生活に沿った、子どもたちの幸福感に直結する、リアリティーを感じるデンマーク情報だと思います。国全体の置かれた「子どもが成長する過程における」環境が見えて来ます。

 日本では、13歳の母親が増えているという状況が全国紙の記事になるような事態には至っていない。性犯罪や麻薬の汚染率も欧米よりはるかに低い。

 ここには挙げませんが、いまデンマークが伝統的家庭観を取り戻すために進めている施策にはとても良いものがあって、主に子育てを夫婦に返そうという動きですが、良く観察すると背後にはいわゆる「右傾化」がある気がしてならない。米国のキリスト教右派の動向と似ています。方向性はいいのですが、背後にある動機が差別的で危ない。痛し痒しですね。でもそこまで追求せずに、いいことをやっているという事例でデンマークの施策を挙げるのは有効です。五十年前のデンマークで、または、いますぐに日本で始めたら、人類の進化の過程を変えるかもしれない、と思えるような施策があります。子どものいる夫婦は、夫婦合わせて一日9時間以上働いてはいけない、というような。

 危惧すべきは、「欧米ではこうで」という論法を使うと、政府の施策とかなり一体になっている経済論の立ち位置から、経済優先の雇用労働施策、「社会で子育て」の方向へ進むことです。首相がいまだに言う「三年以内に40万人保育園で預かります」という数値目標も、欧米並みに女性を家庭以外の場所で働かせようという税収を目標とした労働施策です。こっちの方が危険。欧米並みに家庭崩壊が進むと、福祉が成り立たなくなり、必ず治安が悪化します。

 文化や伝統、宗教の土壌が異なるのですから。「欧米では」という考え方は全般的にやめた方がいい。

 男女平等という概念でもそうですが、一流企業に女性の役員が少ないとか、県会議員に女性が少ないとか、欧米式の競争原理における「平等論」をこの国で掲げるのは馬鹿げている。子育てに価値を見出し、子どもに寄り添う母親であろうとする女性を男性優位社会の犠牲者のように決めつけることこそ、女性蔑視だと思う。選択肢として、いい親であろうとすることや、欲を捨てることに人生の目標を定めるのはむしろ王道です。仏教もキリスト教もその道を薦めている。

 「逝きし世の面影」(渡辺京二著:明治維新前後に日本に来た欧米人の日本関する記述を集めた本)に書かれているように、欧米人が150年前「パラダイス」と賞賛した社会の形が日本にあった。それは男も女も子どもを可愛がり、子ども中心に生きていた人たちだった。この国の考え方や習慣、一昔前の常識の中に様々な解決策を見つけ出す方が自然だと思います。

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『デンマーク在住の日本人のコメント』

 

増えているヤング・マザー。幼児期のネグレクトが原因?

2009-02-26 | デンマーク最新

 デンマークには「ヤング・マザー」という番組がある。

 20歳まで、ある時は15歳でママになった少女たちを主人公に、夫や両親などの家族の様子や、公的社会支援を受けて生活を構築していく様子を伝える番組である。かなり人気があり、デンマーク人はよく見ている。

 一緒に見ながら、「ヤング・マザーを支える社会の仕組もよく整っているなあ」というように見ていた。

 しかし、これは大きな社会現象のようで、、、、、

 218日のユラン・ポステンデンマークで最多の発行部数を誇る高級紙) によれば、、、、

 13歳で母親になる少女が増えており、これは「できちゃった!」というようなものではなく、彼女らが、望んで計画的に行っていることだという。避妊の失敗による事故ではなく、「家族の夢」や「無条件の愛」を求めての結果であり、彼女らは妊娠のメカニズムについてよく知っており、計画的に妊娠している。

 ヤング・マザーたちの世話をしているソーシャル・ワーカーが言うには、

「彼女らは家族を欲しがっています。そして、ずっと続く愛や無条件の愛をほしがっています。だから、妊娠は計画的なものであり、妊娠したことをとても喜んでいるのです」とのこと。

 しかし、「15-18歳以下での妊娠は早すぎ、人間としても成熟していたとしても親業まではまだ早すぎるので、対策を講じたほうがいい」のである。

 そこで、どこに手を入れたらいいかという話になるが、彼女らの動機を考えると、性教育のまずさや次期うんぬんとは別の時限の話になってくる。

 

 デンマークでは、ヤング・マザーに親としてのトレーニングを行うハウスもあるようであり、そこのハウス長は、次のように話している。

 「若くして母親になった少女の5人に1人は、確かに計画的に妊娠しています。しかしもっと強い現象は、彼女らの満たされない欲求に対して、自分の感情と戦ったうえで妊娠という方法を選んでいる、ということです」

 「ここに来る若い母親たちは、幼児期にネグレクト(親からの放置)を受けたケースが多いのです。だから、若くして、家族を持ちたい!愛情が欲しい!と思うのです。それは、彼女らが考えた末の、ひとつの戦いの結果なのです」

 

 

日本在住のデンマーク人のコメント

 

 僕はデンマーク人です。デンマークの例から挙げますと、1970年代に労働者不足になっていたため(今の日本ですね、高齢者が増えて労働者が足りない)、トルコからの労働者をどんどん受け入れました。

 当時のデンマークの政治家は無責任で一度受け入れた労働者には家族や親せきを呼ぶ権利まで与えました。当時デンマークでは生活支援法というのが出来たばかりで失業しても失業手当を貰う権利が国民に与えられました。福祉が充実して海外から見れば天国みたいな国でした。今も日本の多くの方が「天国みたいなデンマーク」に行っては福祉の勉強をしています。

 この「天国みたいな国」に行けば老後も問題ないと考えた外国人がどんどん入ってきました。特に労働者として呼ばれた方々の親戚や親が入ってきてデンマークは国として負担が増えて行きました。

 80年代になると今度はイランやイラクの難民をどんどん受け入れました。難民は自分の国の戦争や政治的な問題から逃れてデンマークに逃げてきました。やさしいデンマークの国民はこういう人たちを助けてあげなければと考えて難民もどんどん受け入れました。

 80年代は特に問題化はしていませんでしたが当時外国人が多い為デンマークの将来が危ないと考えて外国人反対の党を作り上げた人がいました。彼は人種差別者としてデンマーク中のメディアで批判されました。彼が主張していたのは単にデンマークをデンマークとして守るためには受け入れていた外国人の数が多すぎるという事でした。まぁ、実際に彼はその内かなりの人種差別者になったかも知れませんが、決して主張していた事が無茶苦茶ではありませんでした。しかし、メディアからしてみれば人種差別者であり叩くのにはもってこいの人物だったのでしょう。

 90年代になり外国人の数がどんどん増えて外国人問題が多発するようになりました。これは外国人労働者を受け入れるようになってたったの二十年後の話です。たった二十年ですよ!

 外国人は数が増えたため自分達だけで生活が成り立つようになり、デンマーク語をいつまでたっても覚えない人が増えました。

 暴力は増え、デンマーク人と外国人との対立が増え、右翼が強くなって行きました。郷に入れば郷に従えという事を主張する人が増えて行きましたが、そういう人たちは人種差別者というラベルを付けられ結果として職を失ったり、「差別」を受けたりするようになりました。何しろデンマークは世界の先進国であり難民を受け入れる「天国のような国」でしたから。誰もが安心して暮らせる国だったのです。

 外国人に反対する人たちは結果を恐れて発言が出来ない社会になってしまいました。デンマークは言論の自由が最も実行されている国だったはずが、外国人反対に関しては公に言えない国になってしまったのです。その結果、問題があるにも関わらずその問題を取り上げる事がなく90年代は過ぎてしまい外国人問題は拡大する一方。

 一時期イスラム系の人達がコペンハーゲンの小学校、中学校の給食から豚肉を外してほしいと主張し始めました。デンマークは豚肉の輸出で成り立っているような国です。デンマーク人に取って豚肉は大事な存在です。日本でいえばお米。日本の学校給食からお米を外してくださいと外国人が要求しているようなもの。自分達の給食から外せば良いのに学校全体と要求。積もり積もった外国人問題は最終的には世界で知られている風刺画問題に発展。デンマークがデンマークである最も重要な基本である言論の自由がデンマーク国内で外国人により侵されたのです。民主主義を守るか、それとも民主主義に妥協し宗教を尊重する事を重要視するかにまで問題が発展。

 世論は真っ二つに分かれ言論の自由をサポートする人と宗教を尊重すべきとする人に分かれて下手すると第三次世界大戦がはじまるのではとまで懸念されました。そろそろ5年程前の問題になりますが、未だに収まったのか収まっていないのか分からない状態です。いつこの問題が復活するか分からない状態です。

 現在デンマークには外国人が60何万人いると言われています。国民が550万人の国では一割を超えています。しかし、この数字は果たして正しいのかと議論されています。実際には150万人いると主張する人もいます。どの数字が正しいかは別としてデンマーク人は減り、外国人が増えている事に変わりはありません。つまりいずれは外国人が5割を超えてデンマーク人が少数派になる事もほぼ間違いないでしょう。ちなみにこの問題はデンマークだけではなく殆どのヨーロッパの国に言える事です。

 デンマーク人が少数派になった場合、今までのデンマークは消えてしまいます。ポルノの自由が真っ先に行われたのはデンマーク、ホモの人間が世界で最初に結婚を認められたのはデンマーク、政治的な情報開示を最も徹底的に行ってきたのはデンマークであり、EUにもそれを要求して来た。環境の先進国であり、福祉の先進国。弱い者を支えてノーマリゼーションを訴えて来た国です。オンブスマンという言葉はデンマーク語でありデンマークが生んだ制度。

 しかし、このデンマークがもはやデンマークでは無くなりつつあります。しかもたった40年でこう成ってしまったのです。

 僕は日本で育ちました。日本が好きです。しかしだからと言って日本の全てが素晴らしいとは思っていません。労働環境は何とかすべきだと思うし、政治の問題も多すぎる。

 しかし、日本には素晴らしい歴史があり日本人という素晴らしい性格の民族が居ます。この日本を日本として守るためにはどうすべきかと考えます。100年後も日本は日本人の特徴を維持しまた日本人として生存する権利を守れる国にしたいです。その為には残念ながら外国人の参政権に反対すべきだと考えます。

 外国人は政治に参加したければいろいろと方法はあります。日本人との接点を増やし自分の考えを述べる事自体も政治に参加している事になります。日本人がその意見を聞き、意見が良いものであると考えれば日本人を通して日本の政治に影響を与える事になります。

 個人的には現在労働環境の通信簿というサイトを立ち上げております。このサイトは日本の労働環境を何とか改善したいという気持ちから作りました。別に参政権がなくても日本に影響を与えられると信じています。

 また重要なポイントですが、僕が日本の労働環境を変えるという訳ではありません。日本人が日本の労働環境を変えられる仕組みを作ったのです。僕は僕なりに日本の労働環境はこうあるべきだという意見を持ってます。しかしそれを日本人に押し付けるつもりはありません。

 しかし自分が働いた日本企業の労働環境はデンマークと比較してあまりにも過酷です。また、日本人の同僚と話をしても同じ事を言います。しかし、誰も日本の労働環境を変える事は出来ず我慢の連続です。中には過酷な労働環境のあまり鬱になったという人も少なくありません。これはどう考えても労働環境を変えるべきだと思わざるを得ません。

 そこで考えたのが労働環境の通信簿を立ち上げる事です。日本人自らが自分の労働環境を評価していく事により日本を変えて行く。就職活動を行っている方は労働環境の通信簿にアクセスし労働環境の良いところを選んで就職活動をする。つまり労働環境の良いところは就職活動する人が集中し労働環境の悪いところはなかなか良い人材がつかめない。日本の労働環境は変わって行くと考えます。

 労働環境の通信簿はまだ立ち上げ中でおそらく45年は掛ると思われます。皆さんからのサポートがあればもっと早く立ちあがると思いますので是非宜しくお願いします。特に労働環境の投票をお願いします。?ホームページはwww.roukan.jp です。

 

 このように僕は参政権を持っていませんが、日本に取って日本人にとって、良い変化をもたらす事は出来ると思います。参政権は特に必要ないです。

 

 長くなりましたが、言いたかった事は外国人参政権は良く良く考えなければいけない事、海外ではその失敗例が多くある事、そして日本の政治に参加したい外国人がいれば特に参政権では無くても良い影響を与える事が出来る事。

そして何よりも日本を日本として守る事に関して僕は出来る限りの協力をしていきたい事。

 

宜しくお願いいたします。

キム・ペーダセン?メール infomx2.jp

 

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1.年間犯罪件数

 2007年のデンマーク治安当局統計によると、2007年の犯罪認知件数は444,773件であり、2006年と比較して、19,668件増加しています。?国によって統計の取り方が違いますので一概に言えませんが、犯罪に遭う確率(犯罪発生件数を総人口で比較、人口÷犯罪認知件数)は、日本の5倍以上になります。デンマークは総人口543万人で犯罪認知件数が44,773件であり、12人に1人の割合で犯罪に遭遇していることになります。これに対し、我が国は総人口が1億2,700万人で犯罪認知件数が1,908,836件であり、66人に1人の割合です。

 

2.治安状況

(1)治安・社会情勢

欧州の中でも比較的安定しているといわれていますが、移民問題に関連した青少年不良グループ間の抗争事件やアルコール中毒、麻薬の乱用に絡んだ犯罪が後を絶ちません。また、銃器を使用した事件が増かしています。

 特に観光シーズンは、外国からプロの窃盗グループが入り込み、空港、駅、ホテル等で旅行者が盗難の被害に遭うケースが頻発します。また、日本人は多額の現金を持ち歩く傾向があると見られていることから、日本人旅行者を狙ったと思しき盗難被害が多発しています。さらに、コペンハーゲン市内のクラブや街頭で麻薬の密売が行われている場所もありますので、犯罪の巻き添えにならないよう、十分に注意してください。

 

 

抱くことと授乳/話しかけない親/ドライブスルー保育園

抱っこしない授乳

先週、行った保育園の主任さんが、乳児を抱かずに哺乳瓶で授乳出来る装置があって、保育園にも、使いませんか、という売り込みが来る、と言うのです。寝かしたままやるのもあれば、時には車のベビーシートのようなものに装着するものもある。覚えれば一人で勝手に飲んでくれるから、授乳中に他のことも出来るというのです。最近は忙しいし、くたびれている保育士が多い現場には便利なもののような気がします。

 産科医にその装置を薦められずっと使っていた母親が乳児を保育園に預けに来たそうです。
 抱っこして授乳させようとすると、赤ちゃんが首を振って飲もうとしない。抱っこに慣れさせるのに一月かかりました、主任さんはいうのです。
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 抱く、つまり肌の触れ合いと、授乳、生きてゆくことは本来一体のものでした。この大切な一体感を感じる期間が人生の始めに必ずあった。二年くらいあった。(抱っこする側にもあった。)その感覚をその時期に経験しないことの恐さを、主任さんは一生懸命お母さんに説明し、母乳でなくてもいいから、これからは抱っこしながら授乳して下さい、とお願いしたのです。
 隣で聞いていた保育士さんが、以前勤めていた保育所でその装置を使っていました、それでいいんだと思ってました、と真顔で言うのです。
 「一人では生きられない」、この大切な感覚を必ず授乳という体験で脳が覚えて人類が成り立っていたような気がします。その時の記憶と感覚が、やがて男女が抱き合うということにつながっていたのだもしれません。最近になって、利便性や合理性で、乳幼児期の当たり前だった体験が突然変質してゆく。それに誰も違和感を感じなくなってきた。それが、やがて大量の孤独な老人をつくるのではないだろうか。
 「自立」なんてことはありえないこと、母親が0才児を他人に平気で手渡すこともありえないことだった、ということを、憶い出し噛みしめなければいけない時なのだと思います。
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乳児に話しかけない親
 
 以前にも書いたのですが、ある街の助産師さんが、最近生まれたばかりの自分の子どもに話しかけない若い母親がいて、話しかけないと駄目ですよ、と注意すると、言葉がわからないのだから無駄です、と言われてびっくりした、と話してくれました。
 本能的な何かが欠けている。もっと以前にオンになっているべきだった遺伝子が、最近の社会の仕組みの中でオンになっていない、そんなことなのかもしれません。もっと単純に、周りにお手本がなかったからかもしれません。
 人形やペットに話しかける体験がなかったのだろうか。親や祖父母から話しかけられる体験が少なかったのだろうか。保育士が話しかけない人だったのかもしれない。当たり前の体験が少しずつ欠け始めている、そこに原因がある気がしてなりません。
 しゃべれない、主張出来ない乳幼児期の体験、乳幼児の願いや希望が、福祉や保育・教育という、人類にとって極めて歴史の浅い、しかし、先進国という仕組みの中で大きな影響を持ち始めた仕組みの中で一番後回しにされている。でも実はその頃の体験が人生を最も左右する体験だったのではないか。
 首相が誇らしげに言う「もう40万人保育園で預かります、子育てしやすい国にします」という演説が、危うく、恐ろしく聴こえます。
 これも以前に書いたのですが、すでに、乳幼児に話しかけない保育があるのです。
 私が聞いた東京都の認証保育所では、園長が新人保育士に、三歳未満児を抱っこしたり、話しかけたりすると子どもが活き活きとしてきて事故が起きる可能性が高くなるから、何もするな、と真面目に言ったそうです。栃木の方でも同じ話を聴きました。
 保育士不足と新人の質を考えると、事故が起きないことをまず目標にしなければならない状況まで園長を追い込んだ国の施策にも問題はありますが、子育て全般に、何か当たり前だった感覚が欠け始めている。子育てが「仕事」になると、その子の人生とか、未来が、育てる側の視野から遠ざかってゆくのです。
 最近、衛生面の配慮とは無関係に乳幼児室を見せたがらない保育園があります。
 親に見せられる保育をしていない。
 付け焼き刃で始めた認定こども園や小規模保育園で、実は人員が足りていない、頼れる保育士がいない園が増えてきている。そういう園では、わざわざ一人ずつ玄関や門の所まで赤ん坊を手渡しにきます。それをサービスと思ってしまう親さえいるのですが、今の保育界の現状を考えると、親側に「保育室を見てもいいですか?」の一言がほしい。「どうぞ、どうぞ」という笑顔があればその園は大丈夫です。
 先日、ドライブスルーで乳児を親に返している園があって、それをわざわざ「保育を知らない役場の課長」が誉めていた、という笑えない話をある園長から聞きました。施設でやる保育と家庭の子育ては一体でなければいけない。親の人生と保育士の人生は重ならなくてはいけない。ドライブスルーという利便性を行政が誉めてはいけない。
 保育士を採用したら、その保育士の親と会う機会を必ずつくる、という園長に会いました。子育てに大切なのは、そうした人間の心のつながりと伝承です。その心は同じ時期を生き、重なってゆくのです。
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 更生保護女性連盟吉川支部で講演しました。他の支部で以前講演し推薦されました。あまり知られていない組織なのですが、意外に人数も多くしかりと黙々と根強い活動をされています。講演前、支部長が見守る横で市の部長に色々話をしました。その後、大田区私幼連教職員教養講座、山梨県看護士会で話し、児童館・学童部会と続きます。女性が支えている日本を感じます。幼児の存在意義を一番理解してくれる方々です。

園長児童虐待 業務停止処分/都福祉ファンド設立へ

 

JC-net (http://n-seikei.jp/2014/12/post-26033.html) から

「ちびっこランドこやま園」で園長児童虐待 業務停止処分/鳥取店

「ちびっこランドこやま園」は全国展開している保育施設だが、鳥取店で児童虐待により、業務停止処分を受けた。
 鳥取県は28日、認可外保育施設「ちびっこランドこやま園」(鳥取県鳥取市湖山町東2丁目165−202)で、保木本伸一園長(53)が入所児童をたたくな どの虐待をしていたほか、職員数を水増し申請していたなどとして、事業停止処分にしたと発表した。診療が必要なけがは確認されていない。
 12日、匿名の通報が県にあり職員らの聞き取り調査を実施。泣いている児童のお尻をたたいたり、児童のほおに吸い付き青あざを付けたりした行為を確認した。床に誤飲の恐れのある小銭などが散乱し、衛生環境も整っていなかったという。園長は、調査に対し「たたいたことはあるが、虐待という認識はなかった」と話しているという。
以上、

 

保育所ちびっこランドは株式会社学栄がFC展開している保育所で、0歳児から8歳児までを対象とした教育産業の会社。保育所ちびっこランドは、北は北海道から南は沖縄まで全国595園開園しており、園児数は33,500人を超え(平成18年4月末現在)全国最大級の規模と言われていると大阪支社は掲載しているが、下記の本社のHPには開校数が100も少なく掲載している。大幅に減ったのだろうか。減ったとしたら何故だろうか?

「ちびっこランド イオモール小山園」の場合は次のように理念と特徴を記している。
ちびっ子ランド
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(ここから私見です)
 この業務停止になった保育サービス業者が掲げる宣伝文句「保育理念」と「園の特徴」、「人に対する愛情と信頼感、人権を大切にする心を育てると共に自主・協議の態度を養い、道徳性の芽生えを培う」と、ほぼ誰にも不可能な、しかし目標としては大切な子育てをすると言っておきながら、園長が調べに対し「たたいたことはあるが、虐待という認識はなかった」と言うのです。儲け・経済・欲を目標の中心にし始めた社会のなり振り構わぬ体質がここに表れています。
 全国に595園展開しているちびっこランドは三歳未満児の保育を多くしている業者です。国に認められることで、ここまで成長したのです。もちろん、すべての園が悪いとは思わないのです。勤めていた認可保育園の保育方針に納得が行かず、自分でいい保育を目指そうとしてこれを始めた園長を知っています。しかし、人間として「親の知らないところで他人の乳幼児を絶対にたたいてはいけない」くらいは園長・設置者に徹底指導してほしい。それ以前に、フランチャイズを任せるのであれば、人選を厳しくしてほしい。幼児を預かる保育園の園長は、お金をだす人なら誰でもいいというポジションではないのです。
 乳幼児には逃げ場がない。だから、ここまで言うのです。三歳未満児の行動には悪意がない。たたいてはいけない。帰宅して親に園であったことを的確に話すことさえままならない。たった一日の理不尽な体験が人生を左右する心の傷になるかもしれない人生の最も繊細な時期を生きている人たちです。国や地域、家族や夫婦、人々の絆と信頼関係総動員で守らなければいけない一番大切な人たちだったはず。この人たちを守ろうとすることで、昔から人は人らしくなり、社会に連帯感や道徳観が生まれていたのでしょう。
 この大切な人たちを、匿名の通報があるまで日常的に劣悪な環境で保育をしながら、「豊かな感性を育て、創造力、思考力を培う」などと言う。問題なのは、こういうことを平気で言える人たち、人間としての常識が備わっていない業者(園長)が、政府の規制緩和で保育に関わり始めていること。通常の商取引だったら誇大広告、詐欺で告発されるべき宣伝文句が、保育サービスに関してはネット上に当たり前のように溢れていること。子どもの命に関わるような「嘘」を政府が取り締まろうとしない。これは一体どういうことなのか。
 この業者たちの宣伝文句を政府が作った保育・子育て支援新制度のパンフレット「すくすくジャパン」の冒頭と比べてみます。
 
 「すべての子どもたちが、笑顔で成長していくために。 すべての家庭が安心して子育てでき、育てる喜びを感じられるために。 『子ども・子育て支援新制度』がスタートします。」
 慢性的な保育士不足が全国に広がり、財源不足が露呈しているこの時期に、政府もまた不可能なことを利用者を増やすために平気で言う。この文章を誰が書いたのか、もう誰にもわからない。特定出来たとして、その人に「自分の子どもを育てた経験から考えてみて下さい。こんなことが可能だと思いますか?」と聞けば、可能ですと言える人はいないはず。「すべての家庭が安心して子育てでき、育てる喜びを感じる」のは不可能。しかもそれをもう40万人保育園で乳児を預かることで目指すのは尋常な考え方ではないのです。ここで言う「安心」と「喜び」は一体誰の、どういう種類の安心と喜びなのか。マスコミも学者も追求しない。
 子育ては、親たちが時にオロオロしながら、戸惑いながら、自分を信じてくれるその子の命に感謝すること。そうすることによって、なるべく多くの子どもたちが安心することが目的の中心になっている。親を引き離すことで、すべての子どもたちの安心を実現できるはずはない。それどころか、子育てを政府の主導によって仕組みに任せてゆくことによって、夫婦や親同士の絆という社会における優しさや秩序を保つ土台が消えてゆく。国や社会というのは、人間が幼児という弱者を眺めながら調和を目指そうとする意思だと私は思います。
 保育サービス業者のチラシも政府のパンフレットも、共通するのは、ちょっと考えれば誰でも嘘だとわかる宣伝文句が並べられているだけで現実味がない。しかし親としてまだ初心者でもある幼児の親たちの中には、そんなものかな、と思うひとたちが結構いるのです。こんな嘘で、国の根幹に関わる施策が進められ、現実を離れた魂のこもらない言葉が飛び交い、子育て論議に実感が伴わなくなってきています。

 子どもたちが不安を感じ、彷徨いはじめている。
 保育サービス業の人たちはもちろんお金のため、政府は雇用労働施策、経済対策、こちらも実はお金のため、経済優先の掛け声のもと家族を引き離そうとする。そして、親から離された子どもが、ぎりぎり笑顔で成長していくための環境、いままで保育を支えてきた理念が急速に壊れてゆく。

 (新制度を追い風に、ビジネスコンサルタント会社が元気です。こちらは、こんな宣伝文句を並べます。)

 

「保育園開業・集客完全マニュアル」をあたなにお届けいたします!

 1つのご提案として、本マニュアルには、今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方にも一からご理解いただけるようにわかりやすい手順が説明されています。「保育園開業・集客完全マニュアル」をお読みになった方は、そのほとんどが興味を持たれ、開業されたオーナー様も多くいらっしゃいます。勇気をもって新たな一歩を踏み出すお手伝いをさせていただければ本望です!

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「すべての子どもたちが、笑顔で成長していくために。 すべての家庭が安心して子育てでき、育てる喜びを感じられるために。 「子ども・子育て支援新制度」がスタートします」
 政府が税金を使って国民に配るパンフレットでこう言い切ってしまうところが恐ろしい。「新制度が始まれば、すべての家庭が育てる喜びを感じられるようになる、政府がそう言っているんだから」と思う人たちがある一定数以上現れたら収拾がつかなくなる。三年以内にもう40万人保育園で預かることが「育てる喜びを感じるために」必要だと言い切る政府。そのパンフレットを配らなければいけない行政、そこにある無理と矛盾が、いま地方の保育行政における混乱と親たちの保育士に対する高圧的な態度を生んでいるのだと思います。不安と不満が高まってゆく。こんな状況で「すべての家庭が安心して子育てでき」る社会には絶対にならない。
 東京都の「都福祉ファンド」の記事が保育業界ニュースに載っていました。ファンドは金儲けをしたい人の信託投資であり資産運用。福祉財政の行き詰まりを個人投資で補おうという主旨ですが、保育・子育てを金融商品にしてもいいのか。資金を集め保育園を増やしてしまってから、儲からないからと投資家が資金を引き上げ始めたら現場は一体どうなるのでしょうか。在庫が余ったので処分する、というわけにはいかない。
 こんなことを始める人たちは、その儲け話の向こうに保育士たちの人生、幼児たちの日々の生活が存在していることさえ忘れているのではないか。想像出来ないのではないか。何か大切な感覚が麻痺している。
 子どもたちの幼児期の質が、政府の「保育を成長産業と位置づける」という閣議決定のもとに失われてゆく。
 介護保険制度で老人を孤立化させ、今頃になって政府は在宅介護を求めてくる。福祉という制度では、しょせん家族を基盤とした人間の助け合いや絆の伝承を維持することはできないのです。目の前の経済対策、財政削減、選挙に勝つことや政権維持といった、短期的な利害関係や駆け引きで国が動き、人間が老後の孤独に怯えるような仕組みをつくってしまった。それを再び「保育」で繰り返そうとしているのです。老人介護制度の失敗とは違い、保育における失敗はその影響が多面的で、将来長く引きずることになるのです。
 乳幼児期の体験の重要性は国連の権利条約も、フロイトも、わらべうたも、言っている、人類にとって普遍的なものなのです。
「保育業界ニュース」http://hoiku-news.blogspot.jp/2015/01/blog-post_32.html からー

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 東京都は、保育所や高齢者介護施設などの福祉施設が入るビルやマンションの建設を促すため、二〇一五年度、都と民間で出資する新たな不動産基金「福祉インフラファンド」を設立する。新年度予算案に出資分として五十億円を計上する。
 都内の福祉施設は地価の高い二十三区で不足している。多額の資金が必要なことから、ファンドは百億円規模を目指すという。ファンドは都の出資金を呼び水に、法人から資金を集め、開発会社に資金を提供。開発会社が福祉施設が入る建物を造る。福祉施設だけでは収益が限られるため、住宅や事務所、店舗など建物全体の家賃収入などを出資した法人に還元する仕組みにする。開発会社は最終的に、個人から投資を集める投資法人(J?REIT)にビルを売却する。
 
 舛添要一知事は、八日、千代田区内であった東京商工会議所の新年賀詞交歓会で
「個人が出資したお金で保育所や介護施設ができるのは、素晴らしいこと」と語った。
 
 都内では、親が希望しながら保育サービスを受けられない子どもが昨年四月現在で八千六百七十二人いる。都は昨年十二月に発表した長期計画で、一七年度末までに保育所の定員などを四万人分増やすほか、二五年度末までに介護老人保健施設を三万人分確保する数値目標を掲げている。
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 (ここから再び私見)
 基盤は不動産投資としても「福祉施設だけでは収益が限られるため」と書いてあります。保育部門でも収益を出すことが投資家に対する義務であることに変わりはない。
 現在の待遇と人材不足、国の財源不足という条件下では、保育所は儲けようとすれば、必ず保育の質が落ちて来る制度。親へのサービスと子どもたちの願いが相容れない状況に陥る。市場原理が人間性と相容れない仕組みなのです。
 弱者を優先しなければ社会が成り立たないことを私たちに教えるのが「子育て」という人類に与えられた幸せへの課題だったはず。
 「個人が出資したお金で保育所や介護施設ができるのは、素晴らしいこと」と保育における市場原理導入を知事が公に推薦してしまったら、子どもたちの立つ瀬がない。介護施設はまだいいとして、保育所は、保育の質を保つことを前提に考えたら今国から出ている予算を倍くらいにしないと儲からない。中堅の、次の世代の保育士を育てられる保育士を雇っておきたければ人件費が出費の8割を越える。そうしたとしても、そこそこの保育士が集まらなくなってきているのが現状。もし真剣な投資家が、現在の保育者養成校の状況を調べたら、絶対に投資しないだろうと思います。
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板橋区の一日保育士体験/感謝!!/「子どもが喜びますよ」の繰り返しで

2014年12月

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(板橋区からのメール)
先生

板橋の公立保育園のHPをぜひご覧いただけますか?
親の一日保育士体験のページが出来ました。
園長たち頑張っています。
いや頑張るというより、楽しいと言っています。
「親の一日保育士体験」を通じて、保護者と
心と心が通い合っているように思います。
研修でも職員向けに特集号を作り
各園の取り組みを紹介した今年度です。
(添付してみました。ご覧いただけるかな?)
来年度は今年度以上にたくさんの方に
先生の講演を受講いただきたいと考えています。
6月のご予定をお知らせいただけたら
嬉しいです。大きめの会場をおさえたいと思います。
 

 

【今号の特集内容 】 

 ・・・各園の掲載ページ紹介 11号平成2611月  日

 ・・・あさひが丘保育園・緑が丘保育園        編集・発行 

 ・・・高島平つぼみ保育園・向原保育園        保育サービス課研修担当

 親の一日保育士体験のホームページへの掲載が好評です。体験を通して楽しい様子が伝わってきます。松居和先生の研修を受講した感想には、「松居先生のお話を聞いて、やっと必要性がわかった」の声が多くありました。子ども・子育て支援新制度等、子育てを取り巻く状況は様々に変わり、保護者、保育園等施設、自治体それぞれが子育てを見つめなおす時といえるでしょう。「親の一日保育士体験」を通じて子育てを一緒に考えることができる、保護者との関係づくりを進めることができたらと願います。

親の一日保育士体験ホームページ・・・各園の掲載ページから (実際のHPでご覧ください)

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index04004012.html

 

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 さっそく板橋区のホームページを見てみました。載っている各園での一日保育体験の写真を見て、親たちの感想のコメントをひとつひとつ読んでいると、たった一日の体験と、その賑やかな余韻の向こうに少し方向性が変わった人生が見える気がするのです。
 
 自分の子どもだけではなく、たくさんのお友だちに囲まれて親たちが自分自身の良い人間性を体験する。
 そして、その日、子どもはお母さんお父さんの手をしっかり握りしめて家路についたはずなのです。
 その風景の積み重ねがこの国を形成すべきなのです。


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 今年は保育界にとって忘れられない、混乱の年でした。その年の最後に、現場からこんなメールをもらい、ホッとしています。

 一日保育士体験がこの国を救うかも知れません、少なくとも、一家の人生を変えることは出来ます、それはすごいことです、という説明をあちこちの市や町で受け入れてくれ、実践してくれた園長先生、主任先生、保育士さんたちに改めて感謝です。

 そして、この方法を理解し、施策の一部として進めてくれた市長さん、区長さん、議員の方たち、行政の方たちにも感謝です。

 

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 この国の文化や伝統、特別な存在意義を思い出し、利他の幸福論で国を再生してくれるような政治家がもっと出て来て欲しいと思います。

 

 人間の営みを幼児という弱者の観点から考えてくれるジャーナリストがもっと現れてほしいと思います。

 それまで、保育者たちは淡々と親心を耕し続けるしかないのです。幼児がいる限り大丈夫なはずです。

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 内村鑑三が、教育で専門家は育つがひとは育たない、と義務教育が広まり始めたあの時代にすでに言っていた。百年後、増えた専門家たちが「社会で子育て」(実は仕組みで子育て)と言って、教育さえも成り立たないほどに「子育て」の基盤である家庭(または愛着関係)を壊そうとしています。

 いま、保育という仕組みをもう一度、人間の営み、という本来の姿に戻していかなければなりません。

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 子どもたちは、特に幼児たちは変わっていないのに、そういう時代だから、と言われるとがっかりします。

  • 子どもを預けて共働きをしないと生活が成り立たない時代だから、と誰かが言うけれど、実は日本は世界で最も豊かな国で、GDPで上に居るのは中国とアメリカ、絶対に真似したくない国だけです。

  • それ故に、豊かさの頂点にいるこの国が考えること、この国の持つ現在進行形の常識が人類全体の未来の行く道を左右するのではないか、と考えています。人間は、確かに豊かさに弱い。豊かさの中で、わかちあうこと、頼りあうこと、信じあう幸せを忘れそうになる。もしこの国の人々が、発展途上国の人たちがまだ常識的に持っている親子、親族、部族的しがらみを持って暮らしていれば、ほとんどの人々が充分に幸せに暮らせるはず。

  • だから、一日保育士体験のような普遍的で、縄文時代にも、室町時代にも通用したはずの幸せの見つけ方を意識的にこつこつと、取り戻して行かなければならないのだと思います。


保育士が親たちに向かって呪文のように唱える、「子どもが喜びますよ」「子どもがよろこびますよ」という言葉の繰り返しが社会に満ちて人を育てるのです。

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中学生の保育士体験/「あの人、変」/役場の人からのメール

2014年11月

中学生の保育士体験

 長野県茅野市で、家庭科の授業で保育士体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育ててくれますよ、という授業を一時間して、私も一緒に保育園について行きました。生徒たちは、図書館で選んだり自宅から持って来た絵本を一冊ずつ手にしています。

 昔、運動会の前日てるてる坊主に祈ったように、持っていく絵本を選ぶ時から園児との出会いはすでに始まっているのです。男子生徒、女子生徒二人ずつ四人一組で年中組の4才児を二人ずつ受け持ちます。四対二、これが中々いい組み合わせです。幼児の倍の数世話する人がいる、つまり両親と子どものような関係です。もし中学生二人が一組だと、組み合わせや役割りに余裕がなくなります。四人いると一人が座って絵本の読み聞かせをし、二人が園児を一人ずつ膝に乗せて、もう一人の中学生は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできます。お互いに馴染んできたところで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊びます。

 見ていて気づいたのですが、14歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生きと母の顔になる。お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮にキラキラ輝き始める。保育士にしたら最高の、幼児に好かれる人になる。(遺伝子学の村上和雄教授が「命の暗号」の中で書いている「遺伝子がオンになってくる」というのはこういうことなのだろうと思います。)

 そして、考えました。

 同級生四人なら、幼児を守って旅が出来る。そんな人類の法則を学んだ気がしました。

 帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げます。泣きそうな子も居ます。ほんの一時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と叫ぶのです。私はそこに日本中で叫んでいる幼児たちの声を聴いたような気がしました。


 中学生が幾人か涙ぐんで中々立ち去れない。その子を守るように同級生が囲んでいます。それを保育士さんと先生たちが感動しながら見ています。

 

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 以前、発達障害児専門の塾をしている人が、子どもを落ち着かせるためには、送ってきた親の挨拶の仕方から始めると言っていました。子どもたちはそれを社会に望んでいるのかもしれない。心のかたち、絆のかたち、それが子ども中心になっていないことに警告を発しているのかもしれない。

 

 

「あの人、変」

 

 「あの人、変」と、園児が保育士養成校から来た実習生を指差して言うのです。ぶつぶつ呟きながらうろつく明らかに園に居るべきではない若者。子どもたちは怖がって寄り付かない。園長は学校にやんわりと抗議をするのですが、いつか資格者を回してもらわなければ困ることになる。養成校がビジネス優先になり、園児の安全のことさえ忘れている、見ないふりをしている。政府の子育て支援策(全ての政党の子育て支援策)が、幼児の気持ちと願いを無視しているからこういう仕組みになってしまう。

 そして、養成校の教授が「これからは、幼児は専門家が育てるべきです」と免許を更新に来た保育者に言うのです。保育界が根底から崩れようとしているというのに、教授の視点はすでに現場の思いとはかけ離れている。その方向で施策が進めば、保育士不足が進むだけでなく、ますます崩壊家庭が増え、人々は生きる意欲を失い経済が疲弊してくるのが学者や政治家にはわからないのだろうか。

 保育は、知識も必要ですが心の方がもっと大切で、教授の言う「専門家」は5歳までしか関われない。しかも毎年担任は変わる。そういう子どもにとっての現実を教えないで、ただ「専門家」という曖昧で現実味のない単位でしか子育て(保育)を見ていない。

 そして、いい保育士を揃えられないとわかっているにもかかわらず、発達障害児のデイサービスのような仕組みがビジネスとして広まっていく。北の街で、虐待まがいの風景、詐欺師のような設置者から逃げ出して来た若い指導員の母親が、私にその実状を訴えるのです。

役場の人からのメール

今週の水曜日から、来年度の入園受付が始まりました。連日、長蛇の列です。昨年よりまた一段とお母さん達が殺気だってるような気がします。なぜか?皆さん、必死なのです。待機児童になったら、どうするの?!会社を辞めろというの?!と、こんな調子です。

また、年々乳児の申込みが急増しています。待機児童になる確率を下げるため、少しでも早く入園申込みをする傾向が加速しているのです。受付をするあいだ、こどもを預かっているのですが、(その子の発達をみることが目的でもある)、生まれてはじめて母親から引き離される時の乳飲み子の泣き声、受付会場は凄まじい状態になります。

気になるのは、こどもに無関心な親が増えているということ。親心の喪失も加速化し、養育の主体性も欠落しています。入園を希望する保育園選びをしていて、受付の最中に夫婦喧嘩さながらの光景もあります。(夫婦の絆も喪失?)

こどもを慈しむという人間本来の感情でさえ、失ってしまったのでしょうか。1日10時間の入園受付をしていても、まだ終わりません。土日も受付をします。結局のところ、保育園を新設すればするほど、待機児童の掘り起こしになることが、新年度の入園受付で確証できたのですが、誰も増設に異論を唱える人はいません。

認可園増設=待機児童減少

愚策です。

いままで拒んでいた株式会社も公募対象として決まりました。この国の子育て政策に危惧する者は、行政の中にも官僚の中にも、皆無なのかもしれません。

(こうした現場の本音が、誰にも伝えられない。配慮と言う言葉で自らを縛り、口先だけの、形だけの思いやりのようなもので誤摩化し、人間性も絆も育たなくなってきている。)

 

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平方幼稚園で保護者に講演

 埼玉県の数少ない公立幼稚園の平方幼稚園は、私の好きな園で、長屋のように並ぶ保育室を見ているだけで、園児たちの日々の充実した生活を感じ、笑い声が聴こえてくる。公立幼稚園なので、親に対するサービスがほとんどない。給食なし、園バスなし、預かり保育なし。すると親たちが活き活きとしてくる。助け合いが結束を固める。講演でも、私の言うことを隅々まで理解してくれる。それを感じ、人類が幼児と過ごす時間の大切さを実感する。

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  選挙戦の最中テレビで全ての党が、待機児童を「なくせ」と言う。政治家は簡単に言うのですが、6人の一歳児を8時間笑顔で保育出来る人間はそんなにはいない。以前、保育士は「選ばれた人たち」だった。それを、誰でも資格さえあれば出来るようなことを政府が言うと、親たちも「誰に預けるのか」という責任に無感覚になってくる。保育という「仕組み」が預かっているのではない。保育士という「人間が」預かっているのだということを絶対に忘れてはいけないのです。子ども側から見れば、保育は常に一対一なのです。

 

 三歳未満児と人間の関係は非常に直接的な心の関係であって、その質が大事だということを国が忘れてはいけないのです。本当に保育を必要とする親たちのことを考えるなら、テレビの報道も、あっちこっちで必要ないのに預けてゆく親、保育園に子どもを預けて悪びれることなく遊びに行ってしまう親の姿も繰り返し報道してほしい。それをしないと、幼児たちに対しても、保育士たちに対してもフェアではない。そして、慣らし保育の時に泣き叫ぶ幼児たちの映像を流してほしい。それをしないから、いい保育士が辞めてゆく。

 ますます増える待機児童の本当の中身を知っているのは保育士だけ。

 待機児童が二万人なのにもう40万人保育園で預かることを目指す施策は、経済論から出た数字合わせであって少子化対策でも「女性の輝き」のためでもない。本気でそれで女性が輝くと思っているのなら、それは「一部の」女性であって多くの女性ではないはず。もともと選択肢さえあれば、幼稚園に預ける親の方が多かったわけだし、その人たちの方が子どもをたくさん産んでいたのです。それを減らそうとしたのですから、過去十五年間の少子化対策で子どもはまったく増えなかった。計算違いというより、愚策です。

 親が幼児に見つめられ、親が幼児に愛される。時々許され、救われ、自分のいい人間性を確認する。そして、いい自分を体験できたことに感謝する。「逝きし世の面影」渡辺京二著で150年前に日本に来た欧米人が驚くのです。日本人は子どもを罰しない、教育しない。それなのに子どもはいい子に育つ。魔法だ、と。幼児の中に仏性を見、拝む。そんな伝統がこの国を支えていたのです。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=279

 

再び中学生に講演

 

  二週続けて中学生に講演。全校生徒330人が体育館に集まり90分。妥協を許さない中学生たちにこの長さの講演はとても難しい。自分が試されているのがわかる。確かに、この人たちの役に立とうと思っているのですが、不安で、緊張する。腹をくくって必死に訴えるのです。「人間社会における幼児たちの役割り、その人たちとの出会いで人間は自分自身のいい人間性に気づくこと。」「幸せは自分自身の持つものさしにあって、つかみ取るものでも勝ち取るものでもないこと。」「子育ては昔から男女という社会の最小単位が信頼し合うためにあったこと」など。

 

 前もって区長と校長から、その地域で児童虐待や崩壊家庭が多いことを聴いていたので、内心オロオロしながら話す。しかし、いつしか、生徒たちが私を支えてくれていた。講演後に自分が少し、洗われたような気がする。

 校長先生から翌日お礼のメールが入り、ホッとする。

おはようございます。昨日はありがとうございました。

今朝、興奮冷めやらぬ職員が、何人も私に「素敵な講師の先生を呼んでいただいてありがとうございました。」と感謝の言葉をかけられました。

 一人でも二人でも、心で感じてくれる職員ができればと思っていたので、うれしい限りです。

 養護教諭のところへは、何人もの三年生女子が訪れ、「良かった」「面白かった」等、話をして帰ったそうです。地域や役所、教育委員会の方々に先生の存在を知っていただけたことも、とてもうれしい限りです。

 またどこかで先生のお話を伺い、自分の中に勇気と元気とアイデアを育てたいと思っています。

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介助員つき授業が急増、先生でない人が教室で子どもを注意
http://hoiku-news.blogspot.jp/2014/12/blog-post_93.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
 
 
保育ママ不正請求
つなぎ国債
元保育園園長わいせつ

虐待相談:児相の子供安全確認 48時間以内にカベ

http://hoiku-news.blogspot.jp/2014/11/blog-post_0.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

今年の都市部周辺の保育課窓口へ殺到する人たちの状況を役人から聴いていると、行政が対応出来る限度を超えているのです。それが虐待事例への対応にも表れます。仮児相の役割りを果たしてくれていた保育園を政治がサービス業にしようとした結果です
児童わいせつ
人間の孤立化で潜在的な事件は増えている。にもかかわらず学童保育は現場無視の新制度で6年生までになる。財源・人材不足で指導員を選べなくなっている。政府の対応は保育と同じ民間委託と市場原理。無理なことを押し付けられた自治体の対応は極めて遅い。