園児と薬物(子育てと相談相手)

園児と薬物(子育てと相談相手)

 

千葉で保育士が警察に逮捕され、園長が取り調べに、「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言ったのが三年前、これは新聞の記事にもなりました。

そしていま全国で、「週末、子どもを親に返すのが心配です。せっかく五日間いい保育をしても月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる」、「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツも替えないような親たちを作り出しているのは私たちなのではないか」という声が保育現場から聞かれる。これでは「子育て」をする信頼関係が育たない。保育の仕組み全体が「子育て」をする限界を超えている。

家庭と園の心の連携が毎年、より一層難しくなってきているのです。

 

保育士不足、発達障害児の早期発見、それに対する加配の限界、そして親の意識の変化、様々な要素が重なっているのかもしれません、専門家の薦めと、時に親の要望で、行動や発達に問題のありそうな幼児に薬を飲ませておとなしくさせるケースが増えている気がします。薬物でしつけの代わりをしようとする。愛着障害を薬物でごまかそうとする。

「問題児だったけど、毎日あんなに甘えて抱きついてきた子が、突然『抱っこはもういい』と虚ろな目で言うんです」それが悲しい、と保育士が言うのです。そんな保育士が可哀想です、と園長が私に言うのです。大自然からもらっている治療法、双方向への自然治癒力、自浄作用、「抱っこ」が、薬物に代わられてゆくのです。

 

数年前、都の認証保育所に勤め始めた保育士が、園長から抱っこするな、話しかけるな、と指導され驚いたという話を思い出します。子どもが生き生きすると事故が起こる確率が高くなる、という園長の説明が、すでに保育の限界を示しています。3分の1は資格なしでもいいなど様々な規制緩和の中で、信頼できる保育士を確保できない状況に追い込まれている園長先生も哀れです。安全最優先が「抱っこしない保育」につながるのです。それでも預かれ、と政治家たちは言う。「生活のためだ」とマスコミも言う。

一体「生活」とは何なのだろう。

幼児たちの「生活」を眺めながら、保育士は考えるのです。だからいい保育士が辞めてゆく。

 

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アメリカでは、小学生の10人に一人が学校のカウンセラーに薦められ薬物を飲んでいると言われます。薬物で子どもをおとなしくして画一教育を可能にして、かろうじて教師の精神的健康を保っている。一人の教師に、30人のしつけもできていない、愛着障害が考えられる子どもの「子育て」を任せようとすれば、熱心な先生、感性豊かな先生から順番に精神的に病んで、辞めてゆく。教師不足は深刻です。

(アメリカでは、4割の子どもが未婚の母から生まれ、18歳になるまでに40%が両親の離婚を体験します。愛着障害と児童虐待が犯罪の増加の根底にあるのです。)

(25年前、東京都で休職していた先生の四分の一が精神的病で休職していました。いま、それが7割といいます。社会で子育ての限界がそこにはっきり現れています。幼稚園・保育園の段階で、親子の愛着関係をしっかり育ててゆかないと、義務教育が義務である限り教師の精神的健康が崩れてゆく。)

(政府が、資格なしでもいい、と進め、ビジネスコンサルタント会社が、儲けるならこれです、と薦めている障害児のデイなどは、まさに薬物による子育て支援の出発点になりそうな危険な構造になっています。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269)

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義務教育が普及すると、子育ての肩代わりが起こり、「子育て」が夫婦の絆をつなぎとれられなくなって家庭が崩壊し始める。家庭が崩壊し始めると義務教育が成り立たなくなる。その結果、薬物や警察に頼らないと義務教育が成り立たなくなってくる。アメリカでは、学校教育における薬物使用の背後に製薬会社の利権がある、と言われます。薬物の利用は、人間の絆の崩壊、家庭崩壊、孤立化と比例して増え続けます。

学校のカウンセラーが薦める薬物が、将来、麻薬中毒やアルコール中毒につながっている、という研究が20年前すでにアメリカでされていました。「子育ての社会化」などまったく無理な話で、福祉や教育で「子育て」はできない。結局、薬物や司法制度に頼ることになる。

アメリカで昨年4万7千人が薬物の過剰摂取で命を落としているのです。過去最高だそうです。(人口比で割れば、日本で毎年2万人が薬物で死亡するということ。)子育てが中心にならない社会で、人々の孤立化が進んでいるのです。

去年、首相が国会で40万人乳幼児を保育園で預かれば女性が輝くといい、ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました、と言ったことを、こういうアメリカの現実を見ながらよく考えてほしいのです。子育てを家庭から奪うことの本当の意味を考えてほしいのです。政治家や学者が薦める「社会で子育て」「保育は成長産業」という経済主体の流れを早く変えないと、日本の仕組みも少しずつ欧米の真似をし始めているのです。

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テレビや新聞報道で、子どもたちの「心のケア」という言葉が言われることがあります。場面は様々ですが、日本人がこの言葉に慣れ始めている。それがとても危うく見えるのです。「ケア」という英語が導く先に家庭崩壊した欧米社会が見えるのです。「カウンセラー」(相談相手)は、まず親でなくてはいけない。しかし、カウンセラーという横文字に「専門家」というイメージが重なると、いまだに欧米コンプレックスが残っているこの国では、その人たちが子どもをケアしたほうがいいのではないか、という風に考え始める。ところが、こういう横文字の専門家たちは、実はその子と一緒に暮らしたこともない素人で、その資格さえかなり怪しいもの。その事実を隠すために薬物の方向へ向かいたがる。少なくとも、アメリカで40年前に起こった流れを見ていると、それがわかるのです。

こんなやり方は、本来、日本人の選択すべき方法ではなかったはず。日本人の相談相手は、そういう最近できた専門家たちではなかったはず。親身でもない、絆も育っていない、ただちょっと学問をしただけの、自分自身も心に問題を抱えている場合がとても多い「カウンセラー」たちではなかったはず。

 

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「分け入っても、分け入っても、青い山」(山頭火)

「じっと手を見る」(啄木)

 

自然との会話、自分の手との会話、それはすなわち自分との会話宇宙との会話、それがこの国の伝統だったはず。この非論理的な会話の入り口に0〜2歳児が座っている。この人たちとしっかり、ゆっくり付き合って、人間は、年をとってから、お地蔵さんとも、盆栽とも話せるようになる。海や山や川とも話せるようになる。

自然治癒力が遺伝子の中にはちゃんとあって、それは言葉のやり取り以前に組み込まれたものが多いのだと思います。

幼児を眺める、命を眺める、という一番のカウンセリング方法を政府が「重荷」と見なして人々から奪おうとする。そして、問題が起こると安易に「心のケア」などと言う。専門家に、親や親戚、隣近所以上の働きはできないのに、学者や政治家たちは、資格を持っていればできると思っている。しかし、(保育もそうですが)その資格を出す「学校」「養成校」が、明らかに資格を与えてはいけない学生に平気で資格を与えるようになっていて、市場原理の一部になっているのです。

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長い間、人類にとって「幸せを見つける」一番のカウンセラーだった、生産性のない幼児たちと老人たちが、「子育ての社会化」という言葉で、その役割を失ってゆく。

ひきこもりや不登校になっている小学生や中学生に、保育園で三日間も幼児に囲まれる体験をさせてあげれば、ずいぶん生き返ってくるのです。義務養育の中で、幼児たちが人間たちにとって一番の相談相手だったことを、子どもたちに教え、体験させてあげてほしいと思います。あの人たちは理解します。

 

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このブログをアップしたあと、「抱っこは母と子の共同作業です。と力説している先生がおられたのを思い出しました」というツイートをいただきました。
抱っこは双方向です。だからこそ、このブログに書いた子を、毎日抱っこで鎮めようとしていた保育士が、親から何も相談されずに、薬で鎮められた子供にある日突然「抱っこはもういい」と言われた時の気持ちを考えると、保育という仕組みの切なさをひしひしと感じるのです。

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参考資料

薬物の過剰摂取の死亡者、過去最高を記録 米CDC

http://www.cnn.co.jp/usa/35075600.html

以下、 以前書いたブログからです。数年前のこの状況に、保育士不足が重なっているのです。;

(園長先生からのメール)

船井総研に次いで、どしどしビジネス保育の営業が増え始めましたね。安易に保育を始め、事故や問題おきたら逃げてしまうんでしょうね。事故というより刑事事件であることも理解しないままに。

 http://www.info-studies.com/hoiku-top/

 小規模保育がターゲットだそうです。

(内容は)

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(私の意見:保育は「何から、どう始めていいかわからない」人、「今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方」がマニュアルを読みながらやる仕事ではないはず。こんなことが市場原理として政府によって推し進められているのです。だから保育園が騒音に聴こえてくるのです。)

人生における登場人物モハメド・アリ、カール・アンダーソン。

モハメド・アリが亡くなりました。

私たちの世代にとっては不思議なヒーローでした。みんなにとっての、人生における登場人物と言ってもいいかもしれない。一度だけ会ったことがあります。亡くなったという一報に、思わず自分の人生を振り返った人も多いはずです。
最近復刻されている私の最初のアルバム「Time No Longer」で歌っているカール・アンダーソン、https://www.youtube.com/watch?v=KwYERT0zE-Q、奥さんが、以前アリの奥さんだったベロニカで、LAのベニス運河沿いの家に何度か行きました。のちにボクサーになった娘さん(アリの)が高校生くらいで一緒に住んでいました。カールはその後、私の日本ツアーでもボーカルを務めてくれた人。政治的なこと、人種差別のこと、宗教のことなど何度も話し合いました。クルセーダースのジョー・サンプルもそうだったのですが、黒人側からのアメリカを私に繰り返し教えてくれた人でした。カールもムスリムに改宗していて、アブ・カリル(カリルの父親)というムスリム名を時々使うことがありました。奇妙ですが、映画ジーザスクライストスーパスターでユダ役をやっていた人です。
彼の声をこの曲のレコーディングで最初にスピーカーを通して聴いた瞬間に、ああ、アメリカに来た、と感じたのを今でもはっきり覚えています。
カールは扉を開けてくれた人。白血病で亡くなる直前、電話で話していて、I’ve got bad deal, Kazu.と言ったVoiceが耳に残っています。葬儀では、ナンシー・ウイルソンが弔辞を述べ、その弔辞がいつの間にか歌になっている、という、スピリチュアルが生まれる瞬間を目の当たりにするような経験をしました。スティービー・ワンダーも弔辞を述べて歌いました。

Time No Longerは、いまの私に語りかけてくるような暗示的なアルバムです。

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砂場での出来事・公園と保育園

砂場での出来事

政府の始めた新制度で、小規模保育や家庭的保育事業が奨励され、園庭のない保育園が認可され、保育士さんたちが近所の公園に園児を連れて行く風景を頻繁に見るようになりました。横断歩道や踏切を渡る一行を見ていると、大丈夫かな、こんなやり方でいいのかな、と心配になることがあります。それが規則だからみんな毎日そうしているけれど、一人で幼児4人を連れて歩くのはとても難しいのです。

そして、こんな光景を見ました。園児たちが公園につくと、男性保育士が段ボール箱に入れてきた砂遊びの道具を砂場にダーっと撒いたのです。ちょっと豚かなんかに餌をやる姿に似ていて、びっくりしました。それを女性の保育士が悲しそうに見ています。たぶん、注意できないのです。自分だったら、もっと丁寧に、子どもたちの気持ちに寄り添うように置いたのに、と心の中で思っていたのかもしれません。

そこが問題なのです。保育士の気持ちに最近とても決定的な温度差があって、それをお互いに注意できないこと。そして、公園の砂場にオモチャを入れるやり方が仕組みの中で確立されていないこと。(加配相当の子どもの親が政府の言う「標準保育」11時間を望んだ時の保育のやり方が確立されていなこと。)様々な問題が解決されないまま「あと50万人保育園で預かれ」という政府の施策に、この国の「子育て」が押し流されてゆくのです。

うちの近所でも、子どもたちが毎日遊んでいる、木がたくさん植わっている、そしてミニサッカーもできる広場もある公園を、区長が平気で、ほとんど予告なく潰して保育園を作るというのです。大人の都合からしてみれば、子どもたちの好きな公園などは小さなことなのでしょう。お母さんたちが必死に反対しています。あっという間に三千を超える署名が集まりました。「風景やたたずまい」が子どもの成長には大切だということを敏感に感じ取っている人たちがまだたくさんいるのです。こういう感性がなくなっていったら、乳幼児は誰が育てても同じ、みたいな意識がやがて保育や学校教育の質を蝕んでゆくのです。みんなで生きてゆくために大切な人間性や感性、信頼関係や、幼児たちの気持ちが経済のための「仕組みの改革」に押し流されてゆくのです。

砂遊びの道具のことも、父親が砂場に連れてきた自分の子どもたちにそれをしているのだったら、私は何の違和感も感じなかったはず。

風景の中で、保育士の心が一つになっていないと、その姿、動きが、保育ではなく飼育に見えることがあります。保育という仕組みそのものの、怖い部分がそこに見えるのです。

 

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(最近は中学・高校の授業で、保育や「福祉のこと」をあって当たり前のように子どもたちに教えます。新聞を読んだのか、待機児童は解消しなければいけない、と女子高校生がテレビでインタビューに答えて言っていました。そんなこと以前に、幼児は親と一緒に過ごしたがっている。乳児は母親に抱かれたがっている、という当たり前のことを学校で教えるべきだと思うのです。そいういう一番人間的なこと、大切なことを、「それは男女平等に反する」「親にも働く権利がある」などという経済競争に巻き込む「罠」のようなものに捕まって学校が教えられなくなっている。百歩譲って、教えなくてもいいのです。幼児との時間を繰り替えし体験させ、あとは子どもたちの感性に任せるのでもいいのです。遺伝子に任せるのでもいいのです。)参考:中学生の一日保育士体験:

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

 

(杉並区の公園問題に関して、「子どもの遊び場と待機児童の問題とどっちが大切なんだ」とテレビの番組で、公園を守ろうとするお母さんたちに対して語気荒くコメントしていたタレントがいました。子どもの遊び場は子どもの都合、待機児童は大人の都合、いまこれほど社会が荒れ始めた時代に、どちらを優先にしなければならないか。そこがこれからの日本の分岐点になることがわかっていない。お母さんたちの決意の深さを、感じていないのです。最近の経済論と太古の法則が、公園でぶつかっていることを知らない。

待機児童の問題は、保育の質が保育士不足によってこれほどまでに危機的状況に陥っているいま、実は保育園を作らずにすむ解決方法はいくらでもあります。もう、その方向でなければ解決しない。「保育士の良心」が納得しない問題なのです。そして、保育の問題は「保育士の心」を真ん中に語られなければいけない。

まず、乳幼児の気持ち優先に考えればいいのです。例えば偽就労証明や偽装離婚を使った福祉の乱用を罰則を設けて取り締まる、働く時間と通勤時間だけの保育にする、それだけでもずいぶん保育士は納得します。サービス産業ではない、子育てなのです。そして、例えば自分で育てる親には一律月七万円の子育て給付金を出すとか、子育て支援センターを充実させ親のネットワークをしっかり作る、など。これまでも繰り返し議論されてきたことですが、困ったことに、区長や国の待機児童解消の目的の根っこにあるのは、女性の労働力で税収を増やすこと。自分たちの政策の失敗や赤字を、乳幼児の気持ちを犠牲に取り繕うことなのです。本当に働きたい、そうしなければならない母親の子どもだけ預かっているのであれば、保育園も保育士も足りています。それを厚労省は知っています。

夜、公園の横を自転車で通りました。もう子どもはだれもいない公園が、気を鎮め、明日を待っている気配がしました。お母さんたちの決意が、寄り添っているようでした。)

 

 

中学生は理解してくれる

中学生は私の講演をけっこう理解してくれます。感想文を読んで、まだ神様のしっぽを引きずっている人たちが、感性で理解してくれたと思うと、試験に通った気がして、私も嬉しいのです。中学生に講演する時は、一週間前から緊張します。ごまかしは効かない。でも、あっちもまだごまかして生きてないから真剣勝負みたいなところがある。緊張の一週間で、彼らが、すでに私を育てようとしているのがわかります。ですから、こんな人たちと毎日つきあう中学校の先生を私は、うらやましくもあり、尊敬します。

高校、大学と高等教育を受けているうちに、次第に感性がなくなっていくようです。学生が眠っていても平気で授業をする教授たちの姿を見ていると、魂を込めたコミュニケーションが、大学で終わってゆくのがわかります。心ないコミュニケーションを繰り返すくらいなら、もう黙っていてほしい。

でも、一度感性を放棄したように見えるその人たちが子どもを授かったとたんに感性が溢れ出てくる。遺伝子が、そういう仕掛けになっているのでしょう。幼児を育てている親たちに講演するのは、どこへ行っても楽しいのです。

 

中学生に講演した時の感想文から

「よくわからなかったけど、聞いてよかった」

「いつでも無言の愛というやつはとてもいいと思っております」

「話が難しく思えましたが、生きていくうえでは大切なことだと思いました」

「自分も小さい子たちにはげまされて、育てられたいです」

「自分が親になって困ることより『いいな』と思う方が多くなる日が来ると思うと、とても楽しみになりました」

「幸せについて、きちんと語る人はめずらしいです。ぜひ、次の講演も頑張ってください」

「親になりたいと思いました。今日のお話しは、私の成長につながったと思います」

「私たちは親に育てられているだけではなく、私たちも親を育てているとゆう話を聞いて、なんていえばいいかわかりませんが、話にひきつけられました」

「松居さんが一年生からの質問の答えを、全て精神的なことで答えていたので、子どもを泣き止ますためには、まず自分が落ち着いて、それから自分でどうすればいいか考えるのが大事なんだなあ、と思いました」

「非常に実になるお話を聞くことができ、とても嬉しいです。『幸せのものさし』という言葉をよく使われていましたが、あれは自分の価値観ということなんでしょうか。自分も職場体験で幼稚園に行き、園児たちが自分の行動一つ一つに笑顔を見せてくれて、松居さんの『幸せのものさし』というものがよくわかった気がしました。子を育てるという行為が、逆に自分を育てることにつながるという話が一番お話の中で共感でき、印象に残りました。松居さんの色々な経験談を聞けて、本当に自分の物事を見る目が変わりました。とても良かったです」

「私は、幼い子は苦手なので、今まで幼い子と関わらないようにしてきました。けれど、今日の話を聞いて、積極的に幼い子と関わろうと思いました。」

「幸せは人によって違うけれども、幸せを見失った時、幼い子どもの幸せを眺めているだけで、幸せを得られる。その幸せこそが最高級の幸せであり、その幸せを感じられることもまた幸せである。

今、まさに幸せの形を追い求め始めていたので、とても参考になりました。今日のお話しで、今の自分に少し自信が持てました。少し、がんばってみようと思いました。」

「僕は、今回の話を聞いて、幸せとはどういう物かっていう、自分のものの見方が変わりました。幸せは、人生の中で、どれだけ成功できるかとか、作り出していくものではなくて、その今生きている人生に幸せを生み出す=ものの見方を変えていくことでつかみとるものなんだなと思いました。その、ものの見方は幼稚園、保育園児に学ぶものであったり、他にもいろいろな人から学ぶこと、いろいろな物から学ぶことであると思うので、しっかりと自分とかを見つめ直して、初心を忘れないようにできたらな、と思いました。」

「自分の考えを変えれば、なにかが変わるんじゃないかな、と改めてわかりました。」

「僕ははじめは、話をきいて、とても難しいはなしでよく分かりませんでした。でも、せっかく講演会を開いていただき、意味も分からないままでは、もったいないと思って、一生懸命話をきいていたら、だんだん松居さんのはなしの意味がわかるようになっていきました。マサイ族が一人で立っている草原をイメージして集中していると、30秒でピタッと泣きやんだ、なんてはなしは、普通にきいていたらきっと信じませんが、松居さんが話しているのをきくと、すごく気持ちがこもっている話で『本当なんだろうな』』と思うことができました。

今日の講演会では、松居さんの気持ちのすごくこもったいい話をききました。家に帰ったら親におしえてあげたいです。自分が大人になって子どもを持つようになったら、この話を思いだして、子どもといっしょに”立派な人間”になっていきたいです。今日の講演会はとても自分のためになったと本当に思います。

小さな子どもと遊ぶときなどに、今日の話を思いだして、やさしく対応してあげたいです。」

「今日、松居先生の話を聞いて心にのこったことは、園長先生がうさぎになってくださいと言ったとたん、お父さんたちがうさぎになったことです。園長先生は、お父さんたちをうさぎに変えることができてすごいし、お父さんたちは子どものために、はずかしがらずにうさぎになるのもすごいと思いました。ぼくは、この話を聞いて、弟がほしくなりました。」

「私は、『親になる幸せ』を聞いて、不思議な気持ちになり、同時に、早く大人になって子どもを産んでみたくなりました。私が今生きている。それだけで周りの人たちが笑ってくれる。それだけで幸せだと思いました。」

「ぼくの妹はダウン症候群で、上手く話せません。いろいろ困ることがありますが、ぼくは妹がいてとてもよかったと思いました。」

「ぼくは、親に幸せをあたえていると聞いて、安心しました。僕もはやく親になって、子どもから幸せを受けてみたいです。」

 

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日本人のボランティア精神・一億総活躍・-園長先生からのメール

チャリティー精神、ボランティア精神

熊本地震の報道を見ていて、この国はまだまだ、とてもとてもいい国だ、と思うのです。

いつ誰が言い出したのか、日本人は西洋人に比べて「チャリティー精神、ボランティア精神に欠ける」と言われます。私も講演でこんな質問を受けます。

「アメリカ社会の家庭崩壊の現状はわかりました。犯罪率も確かに日本に比べれば異常に高い。でも、アメリカ人はチャリティー精神に溢れ、ボランティア活動も社会に根付いているといいます。その辺の事も是非聴かせて下さい」。

もちろんアメリカ人にもいい人はいっぱいいます。私も30年間住んで、友達がたくさんいます。比較論としては「嘘も方便」ですからこういう噂は野放しにしておいても良いのです。日本が良い国であり続ければいいのです。より良い国になるために、「絵に描いた餅」でもいい餅は目指していいのです。しかし、欧米コンプレックスは時に日本の欧米化につながるので一応説明したくなるのです。

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公の場で行われるチャリティーコンサートやボランティア活動だけが「慈善、奉仕」ではありません。醤油の貸し借りから、交通費くらいしか出ない民生委員や保護士の活動、いろいろ問題はありますが町内会の会費、公園の草取り、ゴミ収拾所の清掃当番まで、居住地の定まった日本人の生活には社会的労働奉仕や慈善活動が深く関わっているのです。(最近は、急速に弱まって来たとはいえ、です。それは、心がこもっていない、批判する人もいるのですが、日本人は「形」から入るのです。)

 

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以前、日本の学校を視察に来たアメリカの校長先生が私に言いました。小学校で、掃除当番を見たのです。「日本人はさすがです。子どもを使って教育予算を切りつめているのですね。でも、あれをアメリカでやったら、親達から人権問題で訴えられますよ」。日本人は金銭感覚に長けていて、人権意識が遅れていると言いたいのです。子育てや教育に関する視点が根本から違う。この視点の差がある限り、お互いの持っている慈善、奉仕の概念は理解出来ないと思います。国を超えて「幸福度」を比べるなど、数字で幸福を測ろうとする西洋の学者が始めたこと。愚の骨頂です。アメリカ人の「慈善、奉仕」は確かに公に見えやすい。神に自分の心と行いを見てもらうキリスト教のミッションの歴史と、家庭中心ではなくなった社会がそうさせるのかもしれません。

社会における基本は「他人の心配をするより、まず自分の子ども、家族の心配をする」ことだと思います。家庭崩壊が進んだ欧米で、あかの他人に「慈善、奉仕」をしても、自分の家族と親身な交流がなければ、どこか本末転倒な感じがします。チャリティーの多くが、孤独な金持ちの免罪符か、企業のタックスシェルター(税金対策)ではないのか、と少し疑ってしまいます。(アメリカの税法は良くできていて、寄付行為によって、寄付した方も、寄付された方も、寄付する品物を売った方も、三者三様に利益が出るようになっています。)

私は神戸の地震と、その時のアメリカでのテレビ報道を思い出すのです。あの時アメリカ人が何に一番驚いていたか。それは「略奪」がまったくと言っていいほどなかったこと。地震やハリケーンなどの災害が大都市で起こった場合、アメリカ人がまず心配しなければならないのが「略奪」です。災害直後、州警察や軍隊によって治安が確保されるまでの間、普段から武器を持っているひ人々は拳銃やライフルを持って、壊れかけた家の屋根に登り、自分の財産を守ろうとします。(銃社会ですから、三軒に一軒は銃を持っています。気づいたのですが、韓国系移民の人たちは母国に徴兵制があって訓練を受けた人が多くて、銃の構え方が本格的でした。)

大きなハリケーンのあとのテレビニュースで言っていました。一般に、災害によるストレスよりも、略奪の心配をしなければならないストレスの方が後遺症が大きい。悲劇に見舞われている人を平気で襲おうとする人間の浅ましさが、より人々の心に大きなトラウマ(傷痕)を残すのだそうです。自然相手の天災より、人間同士の人災の方が、人間により激しい絶望感や怒りを覚えさせると言うのです。わかる気がします。家庭という信頼関係の基盤が失われていくと、より一層災害時の孤独感は耐え難いものになっていくのです。

「ボランティア精神」が美しいのは、それが利益のためではなく、他人を思いやる心から生まれているからでしょう。助け合い、に人間は「社会の成り立ち」を感じる。そして、その第一は、「災害時に略奪をしない」ことです。略奪をせず整然とボランティア活動が行われた神戸の状況を、なんと美しい光景だろう、と全米にニュースが繰り返し報道していたのを思い出します。

震災後の熊本の風景を報道で見ていると、いろいろ問題はありますが、この国はまだまだ底力を持っていると思えてくるのです。私は熊本の保育園の園長先生たちに知り合いが多いのですが、フェイスブックから伝わってくる他県の園長先生たちから数日うちに自家用車で届く支援物資の画像を見ていると、幼児をいつも眺めている人たちの結束の強さに、嬉しくなります。

「保育園落ちた、日本死ね!」などとは絶対に言ってほしくないのです。保育園が、政治家によって壊されそうになっているこの国を立て直す、鍵を握っているのです。

 

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一億総活躍、雇用117万人創出 諮問会議が具体案 

(2016/4/26付・日本経済新聞 朝刊)

「政府は25日の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)で、名目国内総生産(GDP)600兆円の実現に向けた具体案をまとめた。非正規労働者の賃上げなど働きやすい環境を整え、雇用を2020年度までに117万人増やす。賃金増による約14兆円の消費支出効果も見込むが、税や保険料を抑え可処分所得を増やす改革は具体策を欠いている。」

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結局これなんです。50万人3歳未満字を預かろうという「子ども・子育て支援新制度」は、この一億総活躍施策の一つの柱なのです。わかっていたことなのですが、雇用労働施策です。

10数年前に、経済財政諮問会議の座長が0歳児は寝たきりなんだから、と馬鹿なこと言って、雇用労働施策に保育を取り込み、それが現在の0歳児の事故の増加につながっているのです。 保育は子守り、誰がやっても同じ、みたいな感覚が未だに抜けないのがいまの政府の「子ども・子育て支援新制度」。小規模保育などは資格者半数でいい、と言うのです。小規模保育は3歳未満児を預かる施設です。こういう所こそ、規制緩和してはいけなかった。

「女性が輝く」も「活躍」も表面上つくろっているまやかしで、幼児の気持ちを無視するどころではない、国の施策で積極的に、幼児を母親から引き離すなどというのは、もう人間の人間性を無視している。こんなことを堂々と言われて、黙っているわけにはいかない。もちろん民主党の時も同じことを言っていたのです。共産党もだいたい同じようなことを言っているのです。ほとんどの政治家がこの国の魂とか、個性とか、伝統とかを考えずに、欧米式の平等論や、市場原理的、数合わせのような「ただ働く人間が増えればいい」という薄っぺらな経済論を鵜呑みにしているだけ。こんなやり方で、税収が増えるわけがない。過去10年間、保育所を増やし、保育時間を増やし、少子化の流れは変わりましたか? 働く女性は増えましたか?

(50代、60代の働く女性は確かに増えました。孫が保育所に行ってしまえば、そうなるのかもしれません。)

 

——-園長先生からのメール(本当に活躍している人)———–

 

松居先生

すっかりご無沙汰してしまい申し訳ございません。
新年度は、支援児以外で多動なお子さんがあり、目が離せませず、先生とのご連絡も役所の事務方に任せっぱなしで申し訳ございません。
私どもは、近くに「母子の家」がある関係上今年度も父親のDVで避難してきている園児や、一方母親の不安定で(母親の虐待でこれまで、何度も問題が起きました)、このGWの間、母親と二人きりの時間が多くなったであろうことを思いますと、明日いつも通り登園してきてくれるか心配な園児もいたりして居ます。問題の、父親、母親にしてもきっと幼いころからの積み重ねが、こうした行為となって表れてきていることを考えますと、周りの大人から、一人一人の子どものこの世への誕生が、祝福されたものであったら、わが子への虐待などには、つながらなかったであろうことを思いますと、卒園して15年もすれば成人の仲間入りとなる、目の前のこの子らの輝きを曇らせることの無い様、ますます保育担当者として身の引き締まる思いです。
ご講演をお願いしましてから、ご著書をいろいろ読ませていただきまして、このご講演後、保育現場にどう根付かせていくかが、大きな課題として迫ってまいりました。「いいお話を伺いました.良かったです」で終わりにならないよう引き続きご指導よろしくお願いいたします。
とりあえず、ご無沙汰のお詫びです。どうぞよろしくお願いいたします。

通常人間は、乳児にイライラしない・保育は元々選ばれた人たちがやるもの

通常人間は、乳児にイライラしない

絶対に一人では生きられない0歳児にイライラしたら、人類は成り立たない、とっくに滅んでいる。少し想像力を働かせればそれは誰でもわかる。哺乳類は成り立たない、と言ってもいい。動物たちの子育てを見ていれば感じること。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)の第10章「子どもの楽園」を読むと、150年前にこの国に来た欧米人が私たちに大切なメッセージを送ってくる。一人ではない、みんな送ってくる。日本人は5、6歳までの子どもを叱らない。イライラしない。子どもを社会で一番偉い人のように扱っている。崇拝している。そして、子どもは6歳くらいまで父親の肩車を降りないようだ。

男たちと幼児がこれほど一体の国はなかった、と欧米人が私たちに向かって証言してくれる。

インドの田舎で、人々の日常の生活を観察しているとわかります。本来、人類は乳幼児にイライラしない。あの人たちが何もできないことを当然のように受け入れる。それを受け入れることが、何万年にもわたって、人類存続の大前提になっていたのがよくわかる。しかもそれが、人々の幸せに直結していた。自分の存在(善性)が幼児の存在によって浮き彫りになる。

いま、これほど毎日テレビのニュースが映像で、人類の良くない部分をたくさん伝えてくるから、なお一層、先進国社会の人間たちは「自分のいい人間性」を体験する機会を増やさなければならないのだと思うのです。

首相が、40万人0〜2歳児を母親から毎日10時間引き離すことを「女性が輝く」と国会で言ってしまうことの危険性に気づかなければいけない。それを政治家やマスコミたちがまったく批判しないことに、人類の存続に関わる危険性をみなければ、この国の存在意味がなくなってしまう。

 

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保育は元々選ばれた人たちがやるもの

保育士の待遇改善が必要なのはわかります。しかし、いまの保育士不足の本当の原因は、そこにはない。親たちの、国の、マスコミの「子育て」に対する意識の変化が、保育士不足につながっている。つまり「子どもを優先にしていないじゃないですか」という保育士たちの気持ちが、いい保育士たちを保育から遠ざけているのです。

平等や権利のために「闘って当たり前」と思っている人たちが、「なぜ保育士たちはいままで待遇改善を要求してこなかったのか、保育士たちにも原因がある」と言うのです。日教組が時給2700円を非常勤に勝ち取っていたころ、保育士は時給850円くらいだったのですから、確かにひどすぎる話です。私も、「ストライキをやったらいい。幼稚園教諭がストライキしてもあまり影響はないかもしれませんが、保育士がやったら、国が震え上がりますよ」と講演で、少し冗談っぽく言ったこともあるのです。

でも、保育は元々選ばれた人たちがやるものなのです。学者や政治家や起業を目指すような人たちにはとても務まらない、任せられない、感性で響き合う仕事なのだと思うのです。学校の先生にもちょっと無理かもしれない。特に3歳未満児や障害児を一日相手にする保育はそうだと思います。それが上手な人たちは、とても選ばれた人たちで、きっと待遇改善の闘いに向かなかった。だからこそ、保育は気をつけて守ってあげるべき仕事で、保育士たちに対する特別な感謝の気持ちを親たちも持っていた。それがいま、政治家が保育を守ろうとしない、親たちが保育士に感謝しない。

この保育士たちの資質、多くの場合天性の資質を、競争社会に向かないからと否定することは、乳幼児を育てることに特別な幸せを感じる人たちの感性を否定することになる。その人たちが、喋れない、歩けない人たちと過ごす時間の価値を否定することになる。経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と言った言葉を受け入れることになる。これは人間性の否定です。

経済学者なんかにわかりはしない、乳幼児との大切な時間を、この国は忘れてはいけない。この不思議な大切な時間が、世の中の幸福論を育て、生きる力を育んできたことを、この国は忘れてはいけない。

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知覧での講演・日本の伝統的家庭観・パラダイス

鹿児島県の知覧で講演しました

今回は行けませんでしたが、知覧には特攻平和記念館があります。私には、身の引き締まる思いで、若者たちの「思い」と向き合う、自分の人生を振り返る場所です。記念館の説明にこうあります。

「私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。

特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。」

遺書、遺品の展示の中に、一本の尺八があって、なぜかまだ若い尺八で、それがいつも語りかけてくるような気がするのです。

私も、この不思議な楽器を持って20歳の時にインドへ出ました。そして、いままでずっと一緒に旅してきました。

この若さで尺八を吹く人、というだけで、何かが私たちを引き寄せる気がします。

遺品として寄贈されたのかもしれません。でも、私は考えるのです。ここまで一緒に持ってきたんだ、と。故郷には置いてこれなかったんだ、と。そして、逝く前に毎晩、静かな音で吹いていたはず。

すると、みんながそれに耳を傾けて、月を見たり、目を閉じたりして・・・、とそこまで考えると胸がつまってくるのです。

そして、その人はこの一本の竹の笛をこの地に置いて、飛び立った。

何を守ってほしかったのか。

親、兄弟姉妹。息子、娘。この国の音色、この国の気配。

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伝統的家庭、この国の風景

伝統的家庭というと男が働きに出て女が家で子育て、と誤解する人が多いのですが、日本は違います。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)第十章「子どもの楽園」を読むと、160年前、江戸の末期から明治の初期にかけて日本に来た欧米人がそれぞれ様々な文献に、日本の男たち(父親たち)が常に子ども(特に幼児)と一体になって暮らしている姿を、驚きをもって書き残しています。

日本人は幼児をしからない、崇拝する、と欧米人が書き残しています。それなのに、何で10歳にもなるとあんなにいい子に育ってしまうのか。幼児のいる風景が、日本の風景であって、それがよほど印象に残るのでしょう。日本が嫌いな西洋人でも、日本の子どもは好きになる、と書いています。江戸で朝、男たちが十人ほど座っている。それぞれ幼児を抱え子どもの自慢話をしている。日本の子どもは、5歳まで父親の肩車を降りないようだ。男たちが寸暇を惜しんで幼児と過ごすのが、欧米人がパラダイスと呼んだ国の日常の風景だった。幼児と過ごす喜びを堪能する男たちがこの国を支え、穏やかにしていた。

幼児を知るものは天国を知る、とイエスは言った。だから、欧米人たちはこの国を「パラダイス」と呼んだのでしょう。それが、この国の風景だった。

それを、少しずつでも取り戻していかないと、日本も「ただの先進国」になってしまう。それではあまりにも申し訳ない。

日本の男たちを、それこそ小学5年生くらいから、おじいちゃんまで、早く幼児たちの元に返してやらないと、と思います。それには保育園や幼稚園を使うしかない。幼児と人間を出会わせる場に「保育」がなっていけば、きっと自然治癒力が働く。

福祉に性的役割分担の代わりはできません・欧米社会における原点回帰・日本教育再生機構への寄稿・あるべき「保育」にむけて

2016年5月

福祉には男女間の性的役割分担の代わりはできません

先日、一人の可愛い女児(園児)をずっと抱き続ける男性保育士の話を聴きました。若手ばかりの小規模保育では、それを注意できる保育士がいない。どう説明してやめさせたらいいのかわからないというのです。解雇したら明日から困る、という現実。自主的に辞められても同様に困るでしょう。そして、もし解雇したとしても、資格を持った良くない男性保育士は、派遣会社に登録すればまたすぐ別の保育所で保育士になれる。(養成校が資格を簡単に与えすぎている。)

資格の価値が以前に比べ下がった状況の中で、男女平等というパワーゲームとマネーゲームの裏返しのような競争を助長する概念を、保育界という家庭の役割を果たさなければならない所に持ち込んではならなかった。

男性の実習生にはオムツ替えはさせない、という園長がいます。男の子相手ならいいのでは、という園長もいますが、年配のその園長はダメです、と言いきる。そして、自分の園に、男性保育士は採用しない。(この問題については、前にも、このブログに書きました。いい男性保育士にはとてもとても失礼なのですが、そういうものなのです、という園長の判断を私は支持します。すみません。)

それほど福祉の現場における性の問題は根が深く、そこに居る人たちの信頼関係と意思の疎通がないと、あってはならない風景が日常になってゆく。人材不足による質の低下がそれに拍車をかける。介護施設が犯罪者の隠れ蓑になっている、とまでいわれる米国における福祉に関わる人材確保の経緯を知ればわかるのですが、老人介護から始まり最終的には保育まで、「性」の問題は、福祉の広まり、子育てや介護の外注化と並行して必ず起こってくる。福祉という新たな仕組みに、男女間の性的役割分担の代わりはできません。障害児デイや学童も危ない状況になっています。

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なぜ、いまアメリカで専業主婦が十年間に10%も増えているのか。政府はもう一度考えてみる必要があると思います。性的役割分担が薄まると「家族」という定義が弱まってゆく。アメリカという市場原理の国で、それがわかってきた人たちが原点回帰を始めているのです。いま日本の政府が追いかけているのは40年ほどの前の欧米社会。社会学者が自分の研究と人生を肯定するためにしがみついている「平等論」は、欧米では家庭崩壊と並行し、すでに形骸化し崩れかかっている。現在のアメリカの大統領選や、ベルギーやデンマークで起こっている排他主義の復活を見ているとわかるのだが、状況はすでに一周し、未体験の分断が始まっている。

男女共同参画社会の本来の姿は、役割分担であって、東洋的陰陽の法則ではないか。手遅れだとは思いますが、欧米がそれに気づき始めている。

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日本教育再生機構への寄稿

以前、このブログにも載せたのですが、日本教育再生機構という安倍首相も創設に関わった機構の機関紙「教育再生」に二年前に原稿を依頼され、「育てること、育つこと」という文章を書きました。(八木先生には、感謝です。)ここに、もう一度載せさせていただきます。日本の「教育再生」には、先進国社会に共通した「家庭崩壊の進行」をどう食い止めるかが一番重要な鍵だと思っています。機関紙の性格上、政治家や厚労省や文科省の方々もきっと読んでくれるのではないか、と思って書いた文章なのですが、保育士不足、保育の質の低下の流れはいまだに止まりません。

(この中に、保育園保護者連絡協議会会長が公立保育園の民営化に伴う選定で株式会社系2園、社福系2園の視察に行く話が出てきます。その時の手紙に、この寄稿では字数の都合で書かなかったのですが、やはり男性保育士による良くない場面を視察現場で見た、という生々しい記述があり、会長がとても心配しておられました。選定に手を上げ、視察を受け入れている園でさえ、そうなのです。)

 

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日本教育再生機構用原稿 機関誌「教育再生」2014年、11月号

「育てること、育つこと」

元埼玉県教育長 松居 和

来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。NHKで次のような報道がされていました。

厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で二万一三七一人で、去年の同じ時期より一三七〇人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、今年中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。

4年連続で減っている「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」。この数字の裏に何があるのか。このような言葉や数字が繰り返されているうちに、「待機児童は問題」で「解消しなければいけない」という印象が人々の記憶に刷り込まれていく。それは本当に私たちの願いであり、望んでいる社会の姿なのでしょうか。

「受け皿」という言葉は、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」ではなく「子育ての受け皿」というべきでしょう。そうすれば、家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、毎年入れ替わる派遣や非正規雇用の保育士でいいのか、「待機児童」解消は実は3歳未満児を母親から引き離すということではないか、と気づく人が出てくるはずです。

二つの問題があります。

一つは、待機児童を解消することが主目的となり、社会が健全であるために、子供はどのように過ごし、親はどのように子育てに関わるのがいいのか、その時期に親らしさや夫婦・家族の絆がどう育ってゆくのが自然か、ということが二の次になっていること。保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。

もう一つ、「計画通りに保育所の整備が進めば七万四千人の保育士が不足する」とある。一万人であろうと五千人であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。他人の三才児を二十人、一人で八時間育てられる人間はそう多くはいません。一日平均十時間子育てを保育という仕組みに任せるのであれば、この選べない状態こそが子供にとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても一番深刻なのです。保育の質が低下し、親の意識が育たないと学校教育がもたない。

保育士の質

今年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたこと。この状況が、程度の差こそあれ全国の7、8割の保育園で起っている。悪い保育士を解雇できない。その風景に耐えられず、いい保育士が辞めてゆく。致命的な負の連鎖が始まっています。

地域の保育園保護者連絡協議会会長から手紙をもらいました。公立保育園の民営化、保育への市場原理導入が進む中、民間委託を希望する法人園に、行政と一緒に行った視察先での話です。

民営化の選定で都内の園を計4園視察しました。2社が株式会社、2社が社会福祉法人です。株式会社は酷い有り様でした。建物は広めの一戸建てという造り。床面積を稼ぐためか、収納は全て吊戸棚。保育士が主導権を握って、子供の気持ちに関係無く時間配分で変えていました。0歳児クラスでは、離乳食の時、スプーンに入れたおかゆを上あごにこすりつけて食べさせていました。食べづらいだろうに……と涙が出そうになりました。別の子は泣いてコットに寝かされていましたが、保育士は全く見ず、手だけ後ろに回してバスケットボールのドリブルのようにコットをボヨンボヨンとバウンスさせてあやしていました。見ていられず、別クラスへ移動しました。その10分後に覗いてもまだ同じことをしていて、胸が痛みました。

 給食の試食では、会社のマネージャーが自慢げに「うちの園の給食ははっきりいって美味しくないです。親がマズイと思うのが狙いなんです」と言っていました。ごはんも堅すぎで、私でも食べるのに苦労したぐらいです。あんな給食を毎日食べさせられて本当にかわいそうでした。

子供の気持ちを考えず自分の都合で〝あやす〟保育士。心のこもらない保育が日常になってきています。子どもが活き活きしたら事故が起きるから三歳未満児には話しかけない、抱っこしない、と指示する園長まで現れています。こうした一日一日が、この国の将来を決めてゆく。

全国的にみれば、公立園でさえ保育士の6割が非正規雇用化され、民間でも資格を持たないパートや派遣保育士を雇わなくては成り立たない状況が起っています。これ以上「待機児童の解消」を至上命題として、「受け皿」の(掘り起こせば現場が迷惑する)「潜在保育士」を掘り起こし、規制緩和で性急に「保育士」を作り出せばどうなるのか。

私は講演で毎年全国を回っていますが、今年ほど保育界が混乱し、次の世代を育てるべき中堅保育者たちが定年を前に辞めてゆく年はないと思います。家庭保育室という名で百人規模の認可外保育園があります。役場の保育課長が諦め顔で「概ねで始まり、望ましいで終わるような規則で、乳幼児は守れません」と私に言います。子どもの安全を犠牲にした規制緩和に行政が対応しきれなくなっている。

実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

なぜこんなことになってしまったのか。十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。

志をもって一生懸命に取り組んでいる保育士の方々もたくさんいます。しかし、そうした保育士さんたちとお話をすると、「悪い保育士を良くするにはどうしたらいいでしょうか」という質問を受けます。保育士のイライラから起る「問題」や、本来はすぐに逮捕されるべき「犯罪」が日常化しているというのです。厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

大人の「教育」としての保育

そして一つ目の問題につながっていきます。

「子育てしやすい国づくり」が「待機児童の解消」=「保育園を増やすこと」とする考え方に、日本人が違和感を覚えなくなっている。「子育てしやすい」という言葉を使って、親が「子育て」よりも「仕事」を優先できるように、国が望んでいるのです。長い目で見て、本当にそれが経済対策になるのでしょうか。愛着関係の土台を築けなかった子どもたちが、将来戦力になるのでしょうか。

「子育て」は時々大変です。しかし、0、1歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。

子供を、自分で育てられない事態に遭遇した親たちは、過去にもいた。これからもいる。人類は困難を乗り越え「絆」を手に入れて来た。しかし、積極的に子供を人に預け、それがあたかも普通の「子育て」と見なす社会はありませんでした。「子育て」は、子供を「育てる」という側面だけではなく、大人が親とし「育つ」機会でもあったからです。

私が、「3歳未満児はなるべく親が育てた方がいい」と言う時に、土台にあったのは「幼児たちの人間社会における特殊な役割を忘れてはいけない、幼児たちが社会に人間性を満たし、心を一つにする」という考え方でした。「子育て」を通して育つのは、他でもない大人の「親としての心」です。幼児を眺め、一緒に育てることが人間にとって最大の「教育」なのです。人間の心は、子を産み育てることで(産まなくても幼児に代表される弱者に関わることで)、忍耐力や優しさを身につけ、人間らしくなっていた。

幼稚園や保育園で幼児を眺めながら思うのです。頼りきって、信じきって、幸せそうな幼児たちの姿こそ、宗教の求める人間の姿ではなかったか。遊んでいる幼児たちから、人間は心のものさし次第で自分はいつでも幸せになれることを教わってきた。特に、この日本という国はそうだった。だから状況が欧米に比べ奇跡的にいいのです。利他の心が伝統的に生きているのです。

あるべき「保育」にむけて

最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

人生は自分自身を体験すること、しかも、たった一度だけ。だからこそ、過去の人たちの意識を重ねあわせることによって、より深く体験することができる。多くの人間が選択肢なしに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり向き合うこと、そしてそれを楽しむこと。これが人類にとって何よりも重要なことではないでしょうか。

 

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幼児の姿・聖書から、そして仏教も・政府によって作られた保育新時代の悩み・就労支援か子育て支援か・一ヶ月遅れの謝恩会

講演依頼は matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。数日以内に必ずご返事します。
返信メールが来ない場合、お手数ですが、確認のためファックスで再度お願いいたします。FAX:03ー3331ー7782です。

 

幼児と聖書、そして仏教も(人間は幼児をどう見るのか)

「幼な児(おさなご)のような心にならねば。天国には入れません」

「幼な児(おさなご)を受け入れることは、神を受け入れることです」

そして、「裕福なものが天国に入るのは、とても難しい」

どれもイエスの言葉だと言われています。

一つ目の言葉を、私は、子どものころに聖書カルタで覚えました。子ども用のカルタになるくらいですから、キリストの教えの中でも、重要なフレーズなのだと思います。

二つ目は、もっと率直に「幼児の存在意義」を表しています。この思いと認識で、人間社会は成り立つはず。そして人類は存続し、進化してきた。三つ目は「貧しきものは幸いなれ」という言葉でも表されます。

聖書に書かれているこうした言葉を2000年以上、人々は生きる指針にしてきた。今や世界中にくさんいる、経済競争への参加を薦め、豊かになることを目標とする種類の経済学者たちは、きっと「聖書は神話に過ぎない」と言うのかもしれない。三歳児神話は神話に過ぎないと、以前誰かが言ったみたいに。

しかし、神話であっても、ことわざであっても、そこに幸せになるための、人間たちが世代を越えて絆をつないで行ける「鍵」が存在するから、多くの人たちが、そうした言葉を生きるよりどころにしてきたのだと思います。

生きる指針が不透明になってきているこういう時代だからこそ、神話にこそ真実があるのではないか、と考え始めてほしい。

仏教の方は、もっと端的に教えの中で「欲を捨てること」を薦めます。そうすることで人間は執着から解放され、宇宙と一体になるというのです。「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」がシリーズになるくらいですから、日本という国は伝統的にこのやり方を愛し、信じてきた。そして、それが親心と重なっていた。親になることは、損得勘定を捨てること。そこに生きがいを感じること。「愛国心」を言う政治家たちは、まずそのことを思い出してほしい。この国の伝統文化や宗教的幸福論にもう一度丁寧に、慎重に耳を傾けてほしい。人類にとって、とても大切な「何か」がそこにあると思うのです。

お経を勉強するよりも子どもと遊ぶ時を大切にした良寛さま。幼児の中に仏性を見たのでしょう。人間が求める、生き生きとした美しい人間の姿が一番に顕れるのが幼児たちの遊ぶ姿なのです。

人は何のために生きるのか、それを考えさせ、幸せでいるために生きる、と教え続けるのが無心に遊んでいる幼児たちの姿なのでしょう。

 

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子どもと一緒にいるとイライラする、と言う親が時々います。(マスコミなどは、そう決めつけるような報道の仕方をします。)イライラしなければいいでしょう、と言うしかない。それが成長で、人間としての修行です。幸福を得るために自分を変えていけばいいのですが、こういう簡単なことを教えてもらっていない。修行が苦手ならば絆をつくればいいのです。自立なんて目指すよりよほど簡単で自然です。子育ては育てる人間たちの信頼と絆を生むためにある。子育てという最善の機会を与えられながら友達や相談相手をつくることをサボっていると、自分に嫌気がさし、イライラしてくる。子どもにイライラしているのではなく、自分にイライラしているのです。

そして、子どもがイライラしている、と親が私に言うのです。親のイライラが移ったのでしょう。まず、親側が落ち着いて、心を鎮めて、「イライラしちゃいけないよ」と言えばいいのです。言うことを聞いてもらえなければ、何か肝心なところが伝わっていないのですから、抱きしめて、可愛がって、甘やかせばいいのです。一緒に遊んでやればいい。話をすればいい。何でもかんでも要求を聞いてやればいいのです。一週間もそれをすれば何かが伝わります。時間がない、などと言っては、とても大切な機会を失うことになる。時間はあるのです。大切なものを伝える方法はいくらでもあります。その方法を考えることが人生の目的かもしれない。誰かが解決してくれると思うと、不平不満になって、それこそイライラの原因になる。社会制度や福祉などという仕組みで解決できることではない。それに頼っていると、いつか仕組みが壊れた時に自浄作用が働かなくなっている。子どもは、親がいれば大丈夫、それだけ思っていればいい。

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私は、キリスト教徒の家に生まれましたが、親鸞上人が好きです。祖母は毎日念仏を唱えていましたから、ご先祖様まで入れれば、真宗の家なのかもしれません。

幼児たちの「信じきって、頼り切って、幸せそう」、その姿に他力本願そのもの、目指すべき「安心」があると思うのです。人間の完成形、理想の姿が幼児、4歳児くらいにあると考えます。だから、常に幼児を眺めていないと人間はしくじるのだと思うのです。「社会で子育て」などと言って保育園を増やそうとする人たちは、なぜか忘れている。「子育て」が「社会」をつくってきたということを。

幼な児(おさなご)をたたえ、幼な児に信じてもらって、人間は自分に納得する。宗教はだいたいそんなことを言ってきたのです。

いま、「幼児を40万人保育園であずかれば、女性が輝く。みんなが活躍できる」と指導的立場にある総理大臣が国会で言うことに、もう少し、真面目に宗教者は異論を唱えないといけない。この国に、信仰を持つ政治家はいないのでしょうか。少しは、いるはずです。こういう時に声を上げないで、いつ発言するのでしょうか。

40万人の3歳未満児を親から引き離そうとする。そして、それをあたかも幸福論と結びつけようとする。こんなことは人類の歴史の中でありえなかったやりかたです。みんなで声を上げる時がきています。

 

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政府によって作られた保育界、新時代の悩み

私立の保育園は、保育士が一人辞めたり病気になったら、最近では、派遣会社に電話するしかない。そういう状況になってきました。すると派遣会社に「フルタイムの人はあまりお薦めできるひとがいないのですが、6時間、午後2時までのひとならいいひとがいます」と言われたりする。「子どもが学校へ行っている間なら」とか、「どうせ時給なのだから、疲れない程度に」とか、理由は様々ですが、短時間ならいいという人の中に「いい保育士」が意外といる。子どもを親から離して6時間以上預かると、預かっている方も幸せにはなれない、という種類の人類の法則が動いているのかもしれません。

6時間でいいから『いい保育士』にお願いするか、フルタイムで『お薦めでない』人にするか、こんな悩みは保育界にとってはまったく新しいものなのです。よく考えれば、様々な要素を含む、難しい決断です。それについて一冊の本とは言いませんが、本の一章、論文が一本が書けるかもしれない。

「いい保育士」の定義は非常に曖昧で、千差万別。その園の保育の仕方によっても、保育室の雰囲気によっても、保育士の組み合わせによっても基準は違ってくる。ある園で「いい保育士」が、他の園では「やりにくい保育士」だったりする時代です。だから最近、保育士たちが職場を転々として、「自分に合った」園を探そうとするのです。自然な動きに見えますが、一方で、選択肢があると迷いが生じ、育つべきものが育たなくなる。保育が伝承である限り、やがてこの「選択肢があること」が保育を異質なものに変えてゆく。

(親子という関係には元々選択肢がなかった。そこで人間社会の基本になる絆が子育てを通して作られた。)

そして、0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えた時に、先進国社会で、保育士は生きる指針を失い、学校教育が崩れてゆく。

(いまほど、保育の仕組みが多様化し、同時に保育(子育て)の定義が揺らぎ、園の方針に違いが出てきてしまったことはない。それが「保育士の当たり外れ」が余計頻繁に起こる原因になり、保育士不足の一因にもなっている。)

 

いい保育士とは

「しっかりしている」「任せられる」「子どもと居て、活き活きしている」「やさしい」「あたたかい」「きびしい」「他の保育士とうまくやれる」、色々ありますが、いい保育士の定義は実は子どもとの相性によっても変わる。

そこを辞めてきた人に聞いたのですが、サービス産業を自認する保育園では、「接客態度」「要領がいい」みたいな項目さえ「いい保育士」の条件として入れているようです。(この場合、「接客態度」の「客」は親たちです。これは非常に問題で、いい保育士というよりいい従業員というべきでしょう。)

6時間のいい保育士がいいのか、8時間のお薦めでない保育士がいいのか考える時、最低でも8時間、最長では国が標準と名付けて目標にしている11時間以上保育園で過ごす子どもたちにとって、担当の保育士が途中で替わる頻度が、どの程度心の安定や発達に影響を及ぼすのか、ということをまず考えてしまいます。

(最近では13時間開所が当たり前になっていますが、十数年前まで保育園は8時間開所だったのです。それを厚労省が長時間保育といい、白書で子どもに良くない、と言っていた。そして、朝、預かった人が夕方親に子どもを返していた。保育所、この場所に預けるというより、この人に預ける、という感覚が親側にもあったのです。)

早番、遅番、正規、パート、今では一日三人に担当される場合も少なくない。保育士の当たり外れだけではなく、交代する人との引き継ぎ、保育士同士のコミュニケーションの問題も重要になっている。引き継ぐ人が毎日替わる状況もある。保育園における「引き継ぎ」は、すでに子どもの一日をつなげない状況になってきている。そういう状況の中で、保育士が「いい保育」をあきらめている。親身になることをあきらめ始めている。そこが一番あぶない。

保育という仕組みを「子どもが育ってゆく環境」と考えれば悩みは尽きません。子育てと同じで、それが保育です。悩みが尽きなくて当たり前、それが親心というもの。だからこそ、「親身さ」だけは保てるような仕組みでなければいけない。

こういう今までありえなかった奇妙な悩みを、園長先生たちに与えないようにするのが、国が施策を考える時に最優先されるべきだと思うのですが、いま政府の進める新制度は、保育の根元に関わる解決しようのない「悩み」をどんどん増やしている。

「仕事」と割り切ることが絶対にできないのが、保育なのです。

大手の株式会社保育園の離職率を見れば、それがわかります。保育士やめるか、良心捨てるか、保育士は追い込まれている。

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就労支援か子育て支援か

病み上がりの子どもを連れてきた親に、もう少し一緒に居てあげてくださいと園長が言う。保育指針に「子どもの最善の利益を優先する。親を指導する」とあるのですから当然のことなのです。加えて、病気の時にこそ親子の関係は普段よりもっと深まる、と園長は思っているのです。自分が楽しようなどとは、絶対に思っていません。

すると、親が役場に文句を言いに行ったのです。そして、役場の保育担当が園長に「保育園は就労支援なのだから、そういうことを言ってもらっては困る」と言うのです。保育担当の役人が、保育所のあり方を法律で規定した保育指針を読んでいないということです。

埼玉県は、園と保護者の信頼関係を築くために「一日保育士体験」を奨励しているのですが、ある市でそれを進めようとした保育園が役場から「保育は就労支援なのだから、こういうことはしないでくれ」と言われた。保育所保育指針という法律に「保育参加」という言葉が入り、一日保育士体験が厚労省の解説DVDに入っていて、県がそれを奨励しているにもかかわらず、「就労支援」という言葉の方が役人の意識の中では勝っている。

保育は子育てであって、就労支援が第一義ではない、という意識を取り戻さないかぎり、いまの混乱は治らない。

 

一ヶ月後の謝恩会

最近、若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。

卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する、と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくる。なるほど。いい指摘です。(学校と保育園はその趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。もちろん子育ての方がはるかに深く、面白い。)

卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている、相談相手がまだいない。

そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付き合う。お互いに相談し始める。お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。

 

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国会での討論。

25歳から44歳の働く女性の数の推移は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばい。25歳から44歳の働く女性の数は2014年から15年にかけて減っている。女性の就業者数は待機児童の増減とは原因と結果の関係にならない。

この国会での質問に、首相がすぐに答えられないことが一番問題だと思うのです。就労支援、少子化対策と待機児童の問題は政治家や学者のイメージの中で進められた施策で、現実はそのように動いていない。現在の急激な待機児童の増加は、就労していなくても預けられるという規制緩和が主な原因だと思います。11時間保育を標準とし、就労証明なしで土曜日も預けられるようにしたり、三人目は保育料無料としたり。子育てに対する意識の変化が待機児童という現象に現れている。そして、それによる保育士不足が止まらない。

政治家が、保育士が去ってゆく姿から、幼児たちの主張を読み取らなければ、これからますます世の中が荒れてゆく。

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ツイッター(@kazu_matsui)の会話から

「保育園で親子遠足にいくと、お父さんの参加が多くなってきた。クラスの3割以上が参加してくれる。会社も「遠足か!」「行ってこい!」と休みをくれるようになった。」(園長)

「父親の保育参加、鍵ですね。調布の私立保育園で一日保育士体験を始めた一年目、父親の方が多かったと言われました。男たちも気づいている。競争社会よりも保育園の方がよほど自分のいい人間性を体験できる。それを体験しないと幸せになれない。」(私)

「所沢での1日保育士体験でも、だいぶん父親の参加が増えてきたように思います。少なくとも私の子供の通っている園では。他もそうだと期待したい。」(父親)

「嬉しいです。各地で園長たちが、父親の参加が増えたと言います。入園式や卒園式も含め、父親の行事参加が増えたのは10年くらい前からでしょうか。幼児期に実の父親が家庭に居ない率が3割を超えた欧米に比べ、日本の父親たちは何か気づいている。」(私)

(解説)所沢市では、すべて公立幼稚園・保育園で「一日保育者体験」が始まっています。市長さんから保育園に預ける家庭に、こういうのをやります、という手紙が行ったそうです。板橋区などもそうですが、市がバックアップしてくれると現場もとてもやりやすい。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1360914331329/index.html …

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index04004012.html …

福井県:http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

高知県:http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/files/2014033100475/2014033100475_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_113264.pdf …

(ツイッターから)

ブログhttp://kazu-matsui.jp/diary2/ に『保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について』を書きました。やはりここが分岐点になる。保育は就労支援なのか子育て支援なのか。サービスなのか一緒に子育てなのか。子ども優先、と保育指針には書いてある。そこが保育の質そのもの。

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「幼子が来るのを止めてはいけません。天国はこのようなものたちのためにある」

保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について

保育の質を保つために

:保育園・幼稚園における「一日保育者体験」

 

八年前、保育園の園長先生たちと「親心を育む会」という勉強会を始めました。その頃、すでに保育界は様々な問題を抱えていました。保育サービスということが言われるようになり、長時間保育が義務付けられ、保育士不足、財源不足などが加わって、いままでの保育の定義が揺らいでいました。
保育の質を保つにはどうしたらいいのか。

そこで提案 されたのが「一日保育者体験」です。年に一日、保育園の場合は八時間、親が一人ずつ、園児に囲まれ過ごす。 三つの園でやってみました。その結果は、会のメンバーを驚かせました。普段から親たちとの信頼関係が育っていたのでしょうか。親がほぼ全員参加した。そして、文句がほとんど出なかった。感想文に、判で押したように、保育園への感謝の気持ちが書かれていました。この、感謝の気持ちが保育士を育てます。そして、学校教育を支えます。
(「親心を育む会」 のホームページ http://www.ac.auone-net.jp/~oya_hug/ に感想文が千以上積み上げられています。園長先生たちが作ったマニュアルも ダウンロードできます。)


始めは、半数の親が嫌がります。会社を休んで8時間(幼稚園なら5時間)。しかも一日ひ とり、または一部屋にひとり、結構大変そうに思えます。でも、半数の親たちが、何月何日私が来ます、とスケジュール表に書き込んでくれました。つられて残りの3割が書き込みます。最後の2割は、もう他の親たちの保育者体験が始まっていますから、子どもたちが「お母さんは、いつ来るの、お父さん、来るの?」と聞いてくれます。


保育者は、「子どもたちが喜びますよ」「子どもたちが喜びますよ」と、繰り返し薦めます。信念を持って説得すればいいのです。園は親子の幸せを願って取り組んでいるのです。園に対する信頼があれば、一年かければほぼ全員参加します。説得できないなら、まだ信頼関係がないのだ、と思い、親たちと心を一つにする努力する。その努力が保育者の姿だと保育者自身 が思い出すかもしれません。そして、子どもたちを可愛がり、「子どもが喜びますよ」を、心を込めて言い続ける。それでも駄目なら仕方ない。そういう親はたぶん室町時代にもいたでし ょう。気にすることはありません。人類の進化には、そんな人ももちろん必要です。


一日保育者体験は、父親母親ほぼ全員が参加した時、園と親たちの信頼関係ができた、ということなのですが、一組でも参加し、その一家の人生が変わるなら、それだけでも実は素晴らしいこと。全員は無理でも、全員を目指す。その決意に意味があるのです。
お母さんがやったら、お父さんも、お父さんがやったら、お母さんも。夫婦が、別々の日に、卒園までに3回か4回、これで一家の人生がそうとう変わります。参加した親の感想文を園だよりに載せたり、玄関のところに写真を張り出したり、参加人数が少なかったら、参加した人、やって良かったと思った親に、祖父母もいかがですか、もう一度どうですか、と薦めます。幼児と居て楽しそうな人を一人ずつ増やしていけば良いのです。(特に父親。男性は大人になっても結構子どもなので、素直になると幼児と波長が合います。)


埼玉県では、三年以内にすべての幼稚園保育園で、を目指すことになりました。当時の厚生労働副大臣に頼んで、新しい保育指針の解説DVDに、保育参加の例として「保育士体験」を入れてもらいました。保育参観ではなく、参加を、これは、保育所保育指針に書かれ、法律として決ま った保育園の役割です。そのことは、堂々と親に言っていいのです。法的裏付けもあるので す。
でも、やはり親を説得する言葉は、「子どもがよろこびますよ」が良いのです。

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保育は就労支援なのか、子育て支援なのか。一日保育士体験は保育園はただ預かる所ではなく、保育士と親が一緒に子育てする所ですという宣言です。しかも、いつでも親に見せられる保育をしている、という宣言でもあるのです。保育界が混沌としてきた今、ここが、これから分岐点になってきます。
幸い広がっています。砂場で遊ぶ幼児を眺めて、人間は自分はいつでも自分次第で、砂でさえ幸せになれることを思い出します。

(保育者体験の勧め、など、講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com 松居までどうぞ。市長さんが聴いてくれると、保育に関する市の姿勢がずいぶん変わったりします。)

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親全員が参加する保育園のページです。http://www.hanazono-fukushikai.com 特に父親の保育参加に力を入れています。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/…/cont…/1360914331329/index.html

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_cate…/index04004012.html

福井県の一日保育士体験:http://www.pref.fukui.jp/…/…/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf

高知県の一日保育士体験:http://www.pref.kochi.lg.jp/…/2014033100475_www_pref_kochi_…

その他、各地で始まっています。「一日保育士体験」で検索するとたくさん出てきます。

 

幼児たちが私たちを育て、支える一番確かな存在です。彼らの役割を果たさせてあげれば、必ず社会に自然治癒力と浄化作用が働きます。
どうぞよろしくお願いします。