「園長も喜びますよ~」:日保協の石川県支部、青年部主催の研修会で、今週、講演します。

日保協の石川県支部、青年部主催の研修会で、今週、講演します。(10/6(金)15:00~16:30  金沢市文化ホール二階 大集会室 )

県内外の保育関係者であれば、参加できるようです。申し込みフォーム:https://forms.gle/txkW8xYQwnraeYgG7)

金沢は、去年逝ったお袋の故郷。祖父が、小さな本屋さん「福音館書店」を始めた街。そのお袋が、京都の同志社大学で親父と出会わなければ、「ぐりとぐら」も「ぐるんぱ」も、この世に生まれなかったかもしれない。私もこういう話を始めなかったし、「ママがいい!」と言う本も書かなかった。人生は物語ですね。

日保協の青年部が主催してくれることが、嬉しくもあり、心強い。チラシに「ママがいい!」を載せてくれています。子どもを優先する、という保育指針の精神を、もう一度、取り戻そうとしているのだと思います。

懇親会を楽しみにしています、という連絡も入りました。二代目、三代目の園長、後継者たちに、彼らの御母堂たち(私の師匠たち)から教わった、保育の筋道を伝えるチャンスです。

可愛がり、寄りそう、「保育は、祖母の心持ちでやるものです」という神話の伝承をしなければ。

私は、時空を超えた、伝令役なのです。

保育を成長産業と位置付けた国の施策は、行き詰まっています。人間性を無視するから、こういうことになる。

子どもの願いに興味のない、「家庭」の成り立ちを理解していない「こども家庭庁」は迷走状態で、「ママがいい!」という叫びに耳を貸さないばかりか、子ども未来戦略(令和5年6月13日閣議決定)で、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ように、とまで言っている。

親が「夢を追いかける」には、乳幼児が障害物だと言う。それは、そうかもしれない。でも、「こども家庭庁」がそれを言ったらお終いでしょう、と腹が立ってきます。同時に、ネグレクトの奨励とも思える(慣らし保育なしの)「子どものショートステイ」を、「圧倒的に整備が遅れている」と言うのですから、稚拙で、強引な「洗脳」の危険性が見えてくる。

「今後、インド、インドネシア、ブラジルといった国の経済発展が続き、これらの国に追い抜かれ続ければ、我が国は国際社会における存在感を失うおそれがある」と書く。

冒頭に、そんな杞憂を掲げ、預ける先の「質」が二の次、三の次になっているのですから、この「戦略」は思慮の浅い経済施策、「子ども真ん中」を掲げるこども家庭庁が出す施策としては、明らかに本末転倒なのです。

「国際社会における存在感」など、どうでもいい。慣らし保育における、幼児たちの「ママがいい!」という叫びを真剣に聴く姿勢こそが、この国の国際社会における存在感でなければいけない。

国の「戦略」通りに進めれば、少子化がさらに進むでしょう。いじめや不登校がもっと増えるに違いない。その程度の想像は、みな付くようになっている。「子ども真ん中」などいう言葉では、騙せなくなっている。

私は、幼稚園、保育園を「親心のビオトープ」に、とお願いします。そうやって、子どもたちの「願い」を優先すれば、道筋はついていく、と園長たちを説得します。

金沢行きの新幹線の中で、窓際の席に座って、講演を聴きに来た人のいく人かが、園で一日保育士体験を始めてくれたら、と考えるのでしょう。それに、一日一冊、読み聞かせの習慣を定着させることができたら、それだけで、この国は立ち直る。

親たちから文句が出たら、「ここは私の園です。私が楽しく園長をできなければ、子どもたちは良い感じに育ちません。ですから、私のやり方に従ってもらいます」と言えばいい。

福祉はサービスだ、当然の権利だと思っていた親は、目を白黒させるかもしれませんが、小さい子どもを育てている親たちは、たいてい理解しますね。最終的に、園長の人気も高まります。親たちは、親身な人を、本能的に探しているからです。

子育てをしている親たちの「財産」は、周りに親身な人がいるかいないか、なのです。

親を一人ひとり、順番に、「楽しそうな」子どもたちに漬け込む。世界を信じようとしている人たちに、委ねる。子どもたちが親を育てる力を信じる時が来ています。

全員を目指してください、とお願いします。

目指す目標が「全員」だと、それが、一つの意味を持つ。子育ては、希望者だけやればいい、というものではないのです。そこに選択肢はない、という常識が、利他の心を育ててきた。

親は子どもを選べない、子どもは親を選べない。選択肢がないことが、人類を支えてきた。

それがわかるための「一日保育者体験」です。

夫婦が、それぞれ別々の日に、がいい。

「子どもが喜びますよ~」と、笑顔で、言い続ける。それだけのことです、とお願いします。子どもたちが、我々の味方ですから、だいじょうぶ、と次の世代の園長たちに言うのです。そして、小さな声で、「園長も喜びますよ~」と付け加えれば、もっといい。

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。)

一昔前なら、「禁じ手」

 

幼稚園、保育園で保育者、保護者たちに講演する機会が戻ってきました。

保育士の勉強会や幼稚園教諭の研修会、各園から役員の保護者が集まってくる県大会もあって、園長先生たちと毎週のように意見交換します。

四十年前に私の講演を聴き、ずっと親の保育士体験やってます、という高齢の園長先生に会ったりすると、時間と空間が、子どもたちを通してつながっているようで、嬉しくなります。

講演前後の会食や、前泊しての懇親会に期待している先生たちもいて、その場でさらに突っ込んだ意見と情報分析を求められます。

幼稚園、保育園、こども園、こども園の場合は1号と3号の割合、施設補助をどの程度受けたか、正規職員と非常勤の割合、など、二十年前ならあり得なかった様々な要素が絡み合います。そこにぶら下がりの小規模保育や企業型保育も加わる。

幼稚園の七割がこども園になっている地域もあれば、一つもなっていない市もあります。幼稚園が一つもない自治体もありますし、ほとんどの子どもたちが、公立幼稚園を卒園する市もある。(公立幼稚園は、全国的に見れば絶滅危惧種。親にサービスをしないことによって、親たちの強い絆が育つ。私の好きな形です。無償化で、一気に消えて行きましたが。)

そこへ、いま「保育バブルの崩壊」と言われる状況が起こっている。少子化や、園児の奪い合いによる撤退、損得を賭けた買収、M&Aが起こっている。市場に見切りをつけた廃園も相次ぎ、子ども優先という人間社会の「柱」が置き去りにされ、揺らいでいる。

事情の異なる地域で、現場の状況を考慮せず変更されていく「制度」と、「親たちの意識の変化」、その両方に直面し、方向性を見失っている園長先生、「生き残り」と「いい保育」の板挟みになり、それでもパズルを一生懸命解こうとしている理事長先生たちがいます。

昼食会で女性の園長先生たち、懇親会では主に男性の園長・設置者たち、みたいになることがあって、保育に対する姿勢の違いにちょっと笑ってしまいます。ざっくり言えば、子どもを主体に考えるか、経営者的立場が先に立つか、子育てをテーマに、女性らしさ、男性らしさが現れます。どちらが正しいということではないのです。私はとにかく、園で、親心をどう育むか、ということ、「園を親心のビオトープにしてください」と、お願いする。

子どもと一生付き合っていくのは親たち、その人たちの「子育て」に対する関心が薄れるのが一番怖い。義務教育は、受けきれない。仕組みの中で、密かに、確実に、親たちに「子育て」を返していくこと。幼稚園・保育園でしかできないこと、その大切な役割りについて話します。(「ママがいい!」にそのやり方が書いてあります。園で貸し出したりして、親が理解すると、難しいことではない。)

保育に関わる人たちは、幼児に日々囲まれている人たちで、根っこはいい人たち。混沌から抜け出すには、まず、納得できる目標と、やり甲斐が必要なのです。私は、時空を越えた伝令役となり、情報収集をするのですが、生き残るために保育が「親サービス」になっていくこと、それだけは止めなければいけません。

国は、「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ようにする、と書く。

子どもを預けないと、夢が追いかけられない、人生の幅も狭まる、確かにそうかもしれない。しかし、そんな趣旨を、わざわざ書いて閣議決定すれば、子どもが邪魔者のように思えてくる。そこで政府の思惑通りに母子分離が広まれば、次世代に「夢を託す」という、人間社会に不可欠な「利他」の動機が社会から消えていく。

六割の女性たちが、0、1、2歳を預けようとしないことに、政府も経済学者も苛立っている。だから、こういう失礼な閣議決定をするのです。

しかし、実は、この辺りの誘導、安い労働力を確保するための閣議決定で促される社会全体の意識の変化が、保育の質、小中学校での教員の質を下げていく。

今年、「二人目は無償、そうすれば子どもが輝く」という、意味不明な発言が、都知事の口から飛び出しました。それが、「チルドレンファースト」だという。以前、首相が国会で言った、保育園でもっと預かれば女性が輝く、までは、欲の資本主義の範疇かもしれない。しかし、母子分離で、「子どもが輝く」「チルドレンファースト」と言われると、唖然とするしかない。

この荒唐無稽な論理の飛躍を、マスコミが反問することなく報道してしまうから、「ママがいい!」という子どもたちの必死の願いに日々対峙する保育士たちは、たまらない。

 

公立保育園を抱え、現場と政府の「戦略」の間で板挟みになっている行政の課長や係長が講演会に来ます。先日講演会を主催してくれた園長先生から、メールをいただきました。

「保育課の職員も講演後私のところに来て『素晴らしかったです!時々胸にグサッ!ときましたけど大変勉強になりました』と感想を述べておりました」。

現場と行政が一緒に聞いてくれるとありがたい。そこが心を一つにできないと、いつまで経っても問題は解決しない。

単体の保育園や幼稚園でも、市議や市長を「この講演だけは聴いてほしい」と引っ張ってきてくれる園長先生がいます。園長先生たちは、保護者や卒園児の親たちという票を持っている(感じがする)ので、選挙が近いと政治家は結構来ます。市長が来ると、一緒に教育長や福祉部長が来たりします。

親たち、保育者、行政、議員、市長、みんなで一緒に聴いて、その地域で「子どもたちのために」心を一つにして欲しいのです。

大きな大会では、知事や市長と控え室で話す機会があります。

そんな時は、義務教育の将来が、「今、保育施策で何をするかに掛かっています」と危機感を伝えます。園長先生たちが前もって「ママがいい!」を渡してくれていたり、レクチャーしていて、私の講演会に顔を出す首長は、すでに保育の重要性に気づいています。

 

「保育バブルの崩壊」は、不動産バブルや介護保険の時と違い学級崩壊につながります。児童虐待や、児童養護施設、学童、特別支援学級の混迷と混沌にも直結する。だからこそ、保育界に必要なのは、何より、その安定性だった。それが、政府の思惑や、母子分離によって生じる利権争いを絡め、失われている。

その中心に、

「保育分野は、『制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野』」(「日本再興戦略」:平成二十五年六月十四日閣議決定)という閣議決定があった。

都市部では0歳児に、すでに欠員が出て、地方では、幼稚園はもとより、保育園でも定員割れが起こり、(政府の母子分離政策が主導している)少子化は、止まる気配を見せない。募集すれば園児が集まる園でも、いい保育士が揃わないという理由で定員を減らしたり、精神的に持たない、と廃園を模索する園が出始めている。

良くない保育士を一人雇うことが致命傷になることがある。保育とはそういうもの。信頼関係や、ゆとりを失ったら「いい保育」はできないのです。

人員不足は、学校でも切迫した問題になっていて、役場も事情は理解する。「いい保育士が見つかりません」と言えば、受け入れるしかない。

人生における様々な「物差し」が交錯し、混乱している様子を見ていると、ミヒャエル・エンデの書いた「モモ」がふと頭に浮かびます。「時間どろぼう」が暗躍している。

 

「禁じ手」

コロナで講演ができなかった間に、国の母子分離策は進み、保育園はパートで繋いでいい、と規制緩和がされました。常勤の保育士を確保できなくなってきたのです。それを「短時間勤務の保育士の活躍促進」(新子育て安心プラン)と名付けた国のネーミングには呆れます。

一昔前なら、「禁じ手」だった。

幼児期、特に長時間預けられた三歳未満児は、誰と愛着関係を結ぶのがいいのか、保育士でいいのか、そうだとしても「一対三の担当制がいいか、三対九の複数担任制がいいか」、不完全な仕組みが宿命として抱えた、子どもたちの将来に影響する永遠の課題だったのです。そうした親身な悩み、心遣いを、国は「短時間勤務保育士の活躍促進」と言って、簡単に踏みにじる。一億総活躍もそうですが、この人たちは「活躍」という言葉で誤魔化す。矛盾だらけの「安い労働力確保のための政策」を押し通す。専門家会議に出ているはずの保育学者たちは、一体何をやっているんだ、と腹が立ちます。

一方で、長く、多く、預かる街が「子育てしやすい街」という図式が受け入れられていく。子ども好きの保育士からすれば、「子育て放棄しやすい街」に見える。その矛盾が学級崩壊やいじめ、教師の質の低下に連鎖し、すでに限界を超えているのに、気づかないのか、気づこうとしないのか。

首長の選挙対策と、正義を装い、親の利便性を守ろうとしてきた報道を介して、母子分離という形の「福祉」が利権として定着していった。

「ママがいい!」という、幼児たちの願いを根こそぎ、無視しておいて、「子ども真ん中」と言うのは、もう辞めてほしい。

 

(『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました、と、出版社グッドブックスの良本編集長から、Facebookに報告がありました。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4793

じわじわと読まれている。口コミとSNSが頼りです。今、なるべく多くの人に読んでもらいたい。気づいてほしい。拡散、どうぞ、よろしくお願いいたします。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。(#ママがいい)

『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました。

出版してくれたグッドブックスの良本編集長から、Facebookに投稿がありました。じわじわと読まれている。口コミとSNSが頼りです。今、なるべく多くの人に読んでもらいたい。どうぞ、よろしくお願いします。

 

(良本さんのメール)

松居和著『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました。

2位の『親といるとなぜか苦しい』は世界で売れている本で、高い壁になっていましたが、ついに抜きました!!(一時的かもしれませんが)。

『親といるとなぜか苦しい』はずっと注目してきた岡田尊司さんが監訳されていて、もちろん買いましたが、タイトルだけを見ると『ママがいい!』と相反する内容のようで、じつは相関関係にある本です。

愛着形成がうまくなされなかった親子に生じた悲劇をうたった本は最近多く見られるようになってきましたが、『ママがいい!』はその根っこの部分が壊されようとしていることを問題提起しています。

『親がいるとなぜか苦しい』は翻訳物なので、日本の現状と合わない部分もあり、まだ日本はそこまで壊れていないと感じるのですが、このままいけば、欧米に追随してしまうと思います。

今日もどなたかが『ママがいい!』を手にしてくださっていることを想像すると、本当にありがたいことです。

 

 

アフリカ経由、縄文時代から日本へ

「この動画、見て下さい。

日本人がいかに素晴らしかったのか。取り戻していきたい事、保育に繋がる事がみえてきます。 https://youtu.be/k1zx_VpUfcQ縄文時代の日本の文化がアフリカの奥地に伝わっていた!

というメールをフェイスブックにいただきました。保育関係者は、乳幼児と関わっている人が多いので、この種類の伝言、伝承に敏感です。

真実のメッセージに溢れている。お薦めです。

日本の青年がアフリカに行って、ブンジュ村で部族のシャーマンから「日本はすごい国だ。たくさんのことを学んだ」と感謝される話なのですが、シャーマンが言う日本が、縄文時代の日本なんですね。こういう時空を越えた人間のコミュニケーション能力って、すごいですね。感動します。ほとんど、「だいくとおにろく」とか「わにわに」、「モモ」の世界です。

文化人類学者なら、たぶん驚かない。(原ひろこさんなら驚かない。)普通の学者だったら、エビデンスがあるのか、とか、絶対馬鹿げたことを言って反論すると思いますね。学問、学者、大学、資格、というものは、ブンジュ村の真実から遠ざかっていくようで、本当に厄介です。

このアフリカに行った、ペンキで絵を描く青年は、大学の保育科で教えることはないはず。しかし、アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識だ、と言ったんです。こういう人ほど、全国すべての保育科で教えてほしいと思います。

有名大学で保育科の教授が、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いた学生に、勉強不足と言い、不合格にする時代になっている。この国が立ち直るきっかけを、学者が潰している。

なんで、こんなことになってしまったのか。大学という仕組みが市場原理に取り込まれたためか、利害関係が複雑なのか、様々な次元の損得勘定が働いて、本当のことが見えなくなっているのです。「ママがいい!」と言う幼児の願いが、動機としては一番純粋で、利他の心で社会を満たすもの、と気づけばいいだけのこと、なのですが。

動画は、アフリカのブンジュ村のシャーマン、そこへ出掛けて行ったペンキで絵を描く日本の青年、この動画のことを私に教えてくれた保育者経由で伝わってきた、縄文時代の日本人からの「伝言」です。

 

「諦める、ということは、いまから真の休息が来るということ」

「日没になって、真っ暗になったら、全ての仕事を諦めなければならないから」

「この世には、諦める時間が来ることの幸せがある」

「諦めることを知らない親に育てられた子どもは、諦められなくなる」

 

いいなあ、こういう伝言。

村長、すごい。縄文時代の日本人に習った、と言って感謝しているところが、真実味があっていい。

虫と会話ができる民族は、日本人とポリネシア人だけだそうです。この辺りの話も、尺八奏者でもある私にはとてもよくわかるんですね。

(十一月十日、渋谷のライブハウスJzBratで、塩入さん、ノブくん、菅原さんと、また演奏します。ぜひ、予定帖に書き込んでおいてください。大田区私立幼稚園連合会の皆様、保護者の皆様、ご心配なさらずに、演奏の方は、夜です。)

早速、いく人かの友人に知らせたら、子育て関係者、絶賛です。幼児たちと毎日会話を重ねている人たち、幼児の時間を大切にしている人たちは、こういう真実を、直感的に理解するんですね。「エビデンス」なんて言葉に縛りつけられて、身動きができなくなっていない。(「自然治癒力」は、あちこちに形を変えて存在している http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4381 )

児童養護施設で、最前線で頑張っている友人から、こんなメッセージがきました。

ありがとうございます。

日々の忙しさのなかで、見失いかけていたものに気付きました。

笑顔を忘れた職員と

笑顔が消えた子どもたち

魂がすり減っていく音が聞こえてきます。

でも、明日も歩き続けます。

そこに子どもたちがいる限り。

タンザニアの村のお話しを寝る前にしてあげようと思います。

 

 

思い出すこと。日本の記憶

 思い出すこと

 

希枝ちゃんのお通夜には数百人の人たちが集まってきたのです。家族が知り得なかった、希枝ちゃんの人生がそこに現れた。

希枝ちゃんは私の教え子で、授業の後、暗くなるまで残って食い下がってくる学生の一人でした。卒業してからも時々会いました。保育士を辞めて病気になってしまって、私は、山から汲んできた力のあると言わる水を届けました。でも、彼女は逝ってしまった。

家族に頼まれ、告別式で一曲手向けました。彼女は、私の演奏が好きだったから。

いつまでも続く、葬儀屋さんが慌てるほどの長い静かな行列になりました。仕事から駆けつけた人、子どもの手をひく母親。子どもたちの中には、制服姿の子もいました。

あの、優しいけど、頼りになる笑顔で、希枝ちゃんはすごいことをしたんだな、と思いました。

子育ては、オロオロしながらやるもの。みんなでオロオロすれば、社会が出来上がる。そんな流れの中で、希枝ちゃんは、いつも変わらず、みんなを園に迎え入れていたにちがいない。

自然な、静かだけど強い、その姿が、みんなを安心させたのでしょう。この人は、いつでも親身になってくれる。

あの人が、あそこに、ああして立っているんだから、私たちは、だいじょうぶ。

私も、時々、思い出して、会いたいなぁ、と思うのです。

 

日本の記憶

日本の保育は、「逝きし世の面影」(渡辺京二著)http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 に描かれる、子どもを泣かせないこの国の伝統と土壌から生まれた、世界で唯一無二のもの。

この国の良心、文化や伝統に根付いた「生きる動機」が、最もいい形で発揮された領域。そこに私の教え子が一人立っています。

欧米先進国とは「子育て」に対する視点が元々違うのです。

百五十年前に日本に来た欧米人が書き残した文章を、「逝きし世の面影」を介して読むと、欧米は、子育てを、かなりな部分、教育と重ね合わせ、将来の「戦力」を育てる意識で見ているような気がする。それに対し、日本人は、子どもを崇拝する、歓ぶ。インドや中国をすでに見た欧米人が、そのやり方、子どもの「扱い方」に衝撃を受け、「パラダイス」と呼ぶのです。

第十章だけでも読んでほしい。そして、欧米的な教育論、学問によって私たちが何を失おうとしているか、考えてほしいのです。

「逝きし世の面影」:第十章「子どもの楽園」から」

 

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838~1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている…(バード)』

 

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

 

『十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる(ヴェルナー)』

『私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない(ムンツィンガー)』

『「日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである。(チェンバレン)』

『日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ』。

『日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも十六世紀以来のことであったらしい。十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである。』

『ワーグナー著の「日本のユーモア」でも「子供たちの主たる運動場は街上である。・・・子供は交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。彼らは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担った運搬夫が、独楽(こま)を踏んだり、羽根突き遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、少しのまわり路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や駆者を絶望させうるような落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する。」ブスケもこう書いている。「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧を揚げており、馬がそれを怖がるので馬の乗り手には大変迷惑である。親たちは子供が自由に飛び回るのにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が乳母の足下で子供を両腕で抱き上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」こういう情景は明治二十年代になっても普通であったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ。』

(ここから私です。)

子どもの扱い方で、その国の性質、本当の姿が見えてくるのだと思います。ここに挙げた「記録」は、私たちの中に文化的「記憶」として残っている。それゆえに価値がある。これだけ一律に欧米人が驚きを持って、それを(私たちに)伝えようとしています。

日本人の子どもの可愛がり方は、尋常ではない、それが「事実」であり、ある国で、人類がたどり着いた極上の「調和」だった。

その伝統が、まだ残っているから、私は、人類の宝ともいえる「そのやり方」を、政府が母子分離施策で根こそぎ刈り取っていくのを見ているのに耐えられないのです。一言でも「愛国心」を言う政治家は、まずこの国の本質と役割を愛することから始めてほしい。

「逝きし世の面影」の中に、日本人の男、夏と冬という絵があって、夏の男はふんどし姿で子どもを抱き、冬の男は着物姿で子どもを抱いている。政治家たちも、頻繁に子どもを抱っこしてほしい。そうすることで、本当の日本の男になってほしい。

それからでしょう、「愛国心」について語るのは。

 

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。子どもたちは、可愛がってもらいたいのに、繰り返し裏切られて、大人を信じなくなっている。児童養護施設の荒れ方を知ると、最後の堰が切れようとしているのがわかる。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。)

 

一杯のお茶

一杯のお茶

ずっと以前、8時間保育が11時間開所になった頃、保育士たちがみんなで一緒にお茶を飲む時間がなくなったことを嘆いた園長先生がいました。長野県の公立園で親たちに講演し、職員室に座って、先生が漬けた野沢菜をつついていた私に、空になった園庭を眺めながら、園長先生が呟いたのです。

「保育が終わって、みんなで静かにお茶を飲む時間がなくなったんですよ」と。

一瞬、時間が止まったように感じました。

「Feel it!」と、誰かが私に囁きました。

公立園は職員の異動があり、園長先生には定年がある。六十歳は、本当に早すぎますね。

私立園とは、ずいぶん違った仕組みです。それでも、保育は子育て、大人たちが日々、心を一つにしなければやっていけない。情報を交換し、ときに愚痴をこぼし、慰めあう。ホッとして、感謝し、静けさを分かち合う。そういう時間が、とても大切なのです。家庭から伝わってくる喜びや悲しみを話し合い、噛み締めて、子どもたちの毎日を、できるかぎり笑顔で満ちたものにしていく。

繰り返し、繰り返し、「その日のうちに」みんなで祝わなければ、保育は、その形(かたち)を失ってしまう。

私に、そう教えてくれたのは、祖母のような園長先生たちでした。全員、女性でした。

(先日、高野山保育連盟の集まりで南紀白浜で講演した時、藤岡佐規子先生が亡くなられたことを聞きました。保育士会の会長もされ、国と渡り合うことができる、すごい方でした。二十年以上前に、「話したいだけ、話してください」と、講演時間を4時間用意してくださったことがありました。

先生の記事があります。

 「無償の愛が必要なときに愛されないと、人は育たない」https://www.asubaru.or.jp/92288.html 

ぜひ、読んでみてください。

横浜の瀬谷愛児園の九十歳で現役だった尾崎千代先生もそうでした。私のことをあちこちで推薦して下さり、「いいのがいる」。「どんな先生ですか?」という質問に、「先生じゃないんだよ。いいのがいるんだよ」と言ってくれました。

この世代の女性園長たちは戦争を体験し、戦後すぐ、女性解放を目指して、働く女性のために立ち上がった人たちです。女性の教員の産休が三ヶ月で、それでは辞めざるを得ない、という仕組みに決起した人生です。その人たちが、一つの苦言に行き着くのです。

「もしも、保育園や保育士が親の代行業になってしまえば、子どもにとってこれほど不幸なことはない。子どもがいちばん求めているのは親であり、親の無条件の愛、無償の愛が必要な乳幼児期に愛されないと、人は育たないんです」(藤岡佐規子先生)

国の母子分離政策に引き込まれた親たちの意識の変化が、これほど子どもたちに寂しい思いをさせ、急速に保育界を疲弊させるとは、戦後の民主主義に女性の自立、地位向上を重ね、夢見た人たちには驚きだったのでしょう。

前回のブログに書きました

 「働く女性を助けようとする人たちと、働く女性を増やそうとする人たちとでは、その動機があまりにも違う」

藤岡先生や尾崎先生の晩年の葛藤を思い出して書いたのです。自分たちは利用されたのではないか、という忸怩たる思いがあった。この人たちの精神が、おひとり様の女性学や、保育をビジネスチャンスと宣伝する連中に汚されるのは耐えられない。

私は、矛盾と葛藤を背負った女性園長たちの、厳しい目を常に意識し、そのエネルギーとその視点に仕込まれ、守られているつもりです。

「藤岡先生、『ママがいい!』という本を出しました。7冊目になります。大変です!」と心の中で報告しました。)

(福島の上石先生、新潟の長尾先生、島根の三加茂先生、奈良の竹村先生、はとり幼稚園の石川先生、千葉の御園先生ほか、道祖神園長の皆様。まだ、諦めませんから。😀)

 

保育施策を経済のために考え、操作している人たちは、保育園という仕組みが、どうやって整っていくか知らない。幼児を育てることは、同じ「福祉」でも介護とは違う。人数や予算、学問や手法で子どもたちの信頼を勝ち取ることはできない。「11時間保育を標準とする」など、あまりにも馬鹿げている。それを、政府や行政は、ただ、

「シフトを組めばいい」と言った。

その瞬間に、この国の大切な心臓部に近いところに亀裂が入ったことを、彼らは知らない。

 

千利休は、一杯のお茶で、人間社会(宇宙)がどう整っていくか理解し、人生を作法に昇華して権力にさえ立ち向かいました。

損得から離れることで権力と対峙する、日本の文化の象徴的存在でしょう。

その人からつながってきた「作法」が、保育園の職員室で受け継がれ、確かに生きていた。その伝統が、経済界の都合、政治家の選挙対策によって壊されていった。

「この人に預ける」が、「この場所に預ける」になり、「共に育てる」という保育の本質が失われ、仕組みが形骸化していった。

親子の双方向への体験が土台となって、人生が支えられるように、幼稚園や保育園は、本来、卒園児と卒園児の親たちの思い出の中に永遠に建ち続けるものでした。それが、「保育は成長産業」という「閣議決定」の中に消えていったのです。

日本の保育は、「逝きし世の面影」http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 に描かれる、子どもを泣かせないこの国の伝統と土壌から生まれた、世界で唯一無二のもの。この国の良心が、最もいい形で発揮された領域。子どもの存在を賛美する。「女性らしさ」が領域を支配し、年配への敬意が家長制度のように機能していた。そこに行けば、いい「日本」が見えた。男たちも、行事や儀式をきっかけに引き入れられ、自分の「優しさ」を取り戻すことができた。

保育は、心でするもの。

その教えを、利他の心と、幼児に向き合い心を一つにする「作法」が支えてきた。私が招き入れられた、多くの園ではそうでした。給食のおばさんたちにまで、その姿勢が行き届いていました。

乳児への声かけ一つに親身さが欠けていれば、保育室は突然その色彩を失います。人間社会のモラルや秩序の土台となる動機の伝承が、保育園の職員室で行われないと、保育はその心、「母性」をつないではいけない。この伝承に、みんなで静かに飲む「一杯のお茶」が、大切な役割を果たしていたのです。

 

「幼稚園、保育園を、親心(利他の心)のビオトープに」と、私は講演して歩きます。

それが出来ている園が残っているうちに、親たちが、そういう幼稚園、保育園を選び、大切にしてほしいと思います。祖母の心で親たちを見張っている園長先生たち、その遺志を受け継いでいる保育者たちに感謝し、その人たちを守って、次の世代に渡してほしい。

卒園してからも園児たちとの縁を大切にし、園が一家の故郷(ふるさと)になっている園があります。成人式の日には、晴れ着姿の卒園児たちが、親たちと嬉しそうに集まってくる。その子たちを世話したベテラン保育士たちがまだ残っていて、またはその日園長に呼び出されて、涙を流す。そんな故郷(ふるさと)を手に入れた家族の人生は、彩り豊かで、確かなものになるのです。

日本の保育の伝統を守るのは「親たち」なのです。よろしくお願いします。

保育がその魂を取り戻せば、この国はまだまだ輝き続けるはず。

一杯のお茶、が大事な役割を果たしていた、という園長先生の教えが、蘇えってくることを祈ります。

(コロナが明け、幼稚園、保育園での講演が増えました。二年以上中止になっていたので、親たちを巻き込む「行事」、親たち自身の伝承でビオトープのように回っていた催しを復活させるのは、なかなか大変です。講演をきっかけに、もう一度エンジンをかけ直そう、と呼ばれる。十五年ぶり、二十年ぶりの「師匠」「同志」との懐かしい「再会」があります。

保育の草創期に、「祖母の心」が保育界を支配していた頃の「言い伝え」「教え」をつないでいかなければならない。

録画してもらい、来なかった人たちに回覧してもらい、園のホームページに上げてもらいます。

園長先生たちの尽力で、近隣園の保育者や役場の人、助産師さん、校長先生、理事長の説得で、市長や教育長が来てくれたりする。先日は、知事も大会に来てくれました。控え室で話をし、本を渡します。読みます、と言ってくれました。

「ママがいい!」という、子どもの気持ちを優先すれば、様々な仕組みが再び整ってくる。

幼稚園、保育園が主導する、親心のビオトープは一度回り出せば大丈夫。人間が幸せに成りたい、と思う気持ちが原動力になって、年長さんの親から、年中さん、年少さんの親へと伝承され、回り続けるのです。その作り方、を実例を挙げて「ママがいい!」に書きました。子育て支援センターや、学童、放課後子ども教室や学習塾でも、ビオトープは作れます。親たちがそこで一生の相談相手を見つければ、それが社会の土台となっていきます。

お互いの子どもの小さい頃を知っている、それが「安心の最小単位」なのです。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。小学校のPTAからも依頼が入りますが、感想文に、十年前にこの話を聴いていたら、とよく書かれます。)

 

俊先生に描いてもらった「とら」。

第十章「子どもの楽園」だけでも、読んでほしい。本当の日本が見えてくる。

 

「子育て」という神秘体験

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。それを自覚していない。

だから、母子分離を雇用施策の中心にして、少子化を進め、自らの首を絞めるようなことをしている、と、前回書きました。

日本の女性の「女性らしさ」が、とても自然に存在してきたので、気づかないのか、幼児の子育てを経験しなかったためか、政財界には、人間として大切な感性が(たぶん後天的に)欠落している、幼児との切っても切れない関係性において、想像力と感謝の念が足りない。

それとも、ただ単に男たちの集まりだからなのか。

「女性の社会進出」という言葉が象徴的です。

経済活動をしていない「おんなこども」は社会の一部ではないという視点が見え隠れする。子どもたちの日々が、「社会」という概念から置き去りにされている。「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)を読めば分かります。

それがさらに進んで、学校教育や、時には法律など、様々な手法を使って、「女性らしさ」の価値を下げようとする。そうすることで、自分たちの足元、この国の「利他の伝統文化」を壊していることに気づいていない。

ジェンダーフリーを言う人たちと、経済界が、本当は心の中ではバラバラなのに、「利権争い」という次元で一体になっている。それでもいいんですが、双方とも、「ママがいい!」という言葉からは、絶対に逃れられない。

子どもたちに、パパはどうなんだ、と言っても通用しない。

私が三、四十年前、保育について色々教わった園長先生たちは、皆、年配の女性でした。

「祖母の心」で保育を見ていた。「戦略」という言葉など絶対に使わない人たちだった。

戦いの土壌で子育てを考える人たちではなかったのです。戦う人を育てるつもりもない、楽しそうな子どもたちに喜びを感じる、「教育」と「子育て」の違いを理解していた人たちでした。

祖母の心は、小さい子の気持ちを優先します。

ああ、早くいい人にならなければ、という人生の動機があって、子どもの幸せを願えば、「親たちを育てなければいけない、自分は長くない」と、次世代に「託す」気持ちが生きがいになっていた。祈りの世界ですね。

ちょっと考えれば、誰にでも分かりますが、経済競争だけが「社会」ではないのです。

初めての笑顔を喜び、泣きやませようとオロオロし、はじめの一歩を祝うこと、輪になって踊ることの方が、よほど大切な「社会」だった。日本人は、その小さな「やりとり」に「宇宙」を感じ、敬い、愛で、表現するのが好きなのです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

欲得に縛られると、本当の世界が見えなくなりますよ、気をつけなさい、という警告が常に存在していた。

「古池や、蛙飛び込む水の音」

二十代の頃、この俳句を、アメリカ人の友人に英訳した時、「だから、どうなの?」(So, what?)、と言われ、笑ってしまいました。日本の文化は、「だからどうなの?」という次元を密かに楽しみ、受け入れ、共有する。損得勘定から離れることに、自由の広がりを見る。

(私なんか、母校が甲子園に出て、勝って、テレビから校歌が流れたりすると、もう泣きそうになるんですね。馬鹿だなぁ、とは思うんです。たかが野球でしょ。でも、そんな「魂が震えてしまう」瞬間が、好きなんですね。けっこう音楽が絡んでくる。

ベートーヴェンの第九を生で聴いたりしたら、もう涙が止まらなくなって、ただただ、「人類は、凄い!」と心の中で叫びます。この曲を、いつでもヘッドフォンで最高の音で聴ける時代に生きている人は、それだけで、感謝すべき、と思うことがあります。

甲子園に話を戻すと、どういう仕掛けで、どの次元のコミュニケーションが交錯すると泣いてしまうのか、考えていたんです。すると、あの頃、つまり高校生の頃、私の一番の相談相手は、可愛がっていた犬だったんです。喋れない。でも、いつも寄り添って、優しい目をして。ふざけようとしたり、一緒に走ったりして、いまでも心の片隅で相棒です。

サトクリフの児童文学「太陽の戦士」に、その辺のことが詳しく書いてあります。石器、青銅器、鉄器、と道具や武器が進化する過程で、人間が順番に失っていくもの、「古(いにしえ)のルール」、みたいなことが書いてある。戦う武器、教育もそうですが、競う道具、が進化すると、「優先順位」に変化が現れるんです。その時失うもの、失ってはいけないものに気づくために、喋れない相談相手がいる、そんなことが書いてあって、私には哲学書です。〇歳児は、人類の相談相手なんだ、と気づく。もっと遡ると、私の相談相手はクマのぬいぐるみでした。

そして、行き着くのは、「おなじ阿呆なら、踊らにゃ、そん、そん」という、掛け声なんですね。社会とは、人間が大自然と踊ること、踊りに、踊らされることで成り立つ。魂を震わせ、その後に、鎮まる。)

そろそろ「社会進出」という言葉の「罠」に気づくべきです。

共働きを助けるための施策と、共働きを広めるための施策は、違います。

動機、出所が違う。「動機の違い」を見極めないと、母子分離を「欲の経済学」の中心に置く連中に加担することになる。

共働きを助けようとする人たちと、共働きを広めようとする人たちとでは、その「生き方」に決定的な違いがあるのです。

 

「子育て」という神秘体験

眠っている幼児を眺める時間の大切さを思い出すときが来ています。

そういう時間から、注意を逸らすものや、仕掛けが溢れているから、意図的に、義務教育なんかで、その大切さを子どもたちに伝えていくべきです。もし、もう一歩進みたいなら、眠っている我が子に、そっと歌を唄う時間を、自らの意思で創り出す。その積み重ねで、社会は、じゅうぶん整っていく。

この国には、「千と千尋の神隠し」を、あれだけ長い間興行収益第一位にし続けた土壌と「伝統」がまだある。それがあるうちに、感性を手放さないようにしないと、と思います。

人間は、生まれた時が「社会進出」です。

それを一番よく知っていた国が、何、騙されているんだ、しっかりしようよ、「教育」など、子育てのほんの一部分でしかないのだから、と思うんです。

生まれてから三年くらいの間に、それは、脳が発達する時期と重なっているのですが、幼児は人間社会を「利他の心」で整えるという、何者にも代え難い役割を果たします。ほとんど自己犠牲のような行いです。普通にやっていれば、「育てあい」「育ちあい」が安心への道筋になる。

可愛がって、食べさせて、世話をして、その過程で言葉が喋れるようになっていく。これは、凄い。

驚くべき体験で、その神秘体験を繰り返すために、人間(魂)は生まれてくる。

 

私は、トイレに入っていた小さな息子に、「どう、出そう?」とドアの外から訊いた時のことを覚えています。

中から、「ビミョー(微妙)」という、いくぶん不安げな声が聞こえたんです。

ああ、息子は、「微妙」という言葉を知ってる。得体の知れない感動でした。人類の進化を見たような、視野が一気に広がっていく感じがしたのです。

魂が、言葉を手に入れていくことを考えると、ドキドキします。それを目撃した「自分の存在」が、嬉しくなります。魂に、言葉を教える時期は、人生における体験としては、教える側、教えられる側、双方にとって、極めて貴重な特別な「時」なのです。部族という単位にまで発展する。

「ビミョー」は、たぶん、私が教えたのではない。でも、ああ、育っている、育ってる、と思う。みんなに育てられている。ムーミンかも知れない。「すべてがむだであることについて」という本を愛読するジャコウネズミが言ったのかも知れない。私たちは、守り合っている。

私が、公園に一人で座っていたら、「変なおじさん」。でも、二歳児と座っていたら、「いいおじさん」なのです。横に座っているだけで、二歳児は宇宙の相対性の中で、私を「いいおじさん」にする。その仕組みに気づき、感謝するために人生がある。

二歳児は、私を「いいおじさん」にしようと思って座っているのではないのです。ただ、座っている。ただ、座っているだけで、これほどのことが出来る。それは、すなわち、宇宙の大原則がそこに座ってらっしゃる、ということ。

すべてが役割を持っていることに気づけば、孤独が人生から遠ざかっていきます。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。拡散、シェア、コピーペースト、転載でも構いません。どうぞ、よろしく、お願いします。

「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

最近、講演の最後に一曲演奏を頼まれることが増えました。音楽は、不思議ですよね。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。(#ママがいい)

 

「政財界の甘えと無自覚」

「政財界の甘えと無自覚」

 

政府の「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf は、子どもの側には立っていない。愛が感じられない。

母子分離、「共働きを前提とした平等論」で、結果的に少子化を進めてきた「政策」にいまだに固執している。

この人たちは、「キャリアと子育ての両立」という言葉が、心情的にも、仕組み的にも、幼児の側からは成立しないことが理解できていない。

日本中で毎年聴こえる「ママがいい!」という叫びと、自分たちの思惑を切り離し、それが「子どもの未来」とは無関係だと思っている。元経済財政諮問会議の座長が、「〇歳児は、寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。誰が世話しても同じ、「飼育」くらいにしか思っていない。だから、子どものために仕組みの質を整えるより、女性の労働力を確保すれば、それが国のためなのだ、と思っている。そして、人間は皆、損得勘定で動くと計算している。悪い人ではないのは、話していてわかりました。でも、何かが極端に欠けている。

義務教育という歴史の浅い、未知の試みと言っていい巨大な仕組みは、親が親らしい、という前提のもとに作られている。親が、子どもを可愛がる、または、可愛いと思うこと、が自然で一般的だった時に作られている。それを忘れると、仕組みが新たな「常識」を作り出し、「人間性」との間に、不一致を生み出すことなってしまう。

預けられた一歳児が、お昼寝の時間に、ふと起き上がり「ママがいい!」とつぶやく。それを聴きながら、保育士たちは、ドキッとするのです。ここに来るようになって、数ヶ月経っているのに、夢を見たのだろうか……。隣にいた子どもが、その声を聴いたかもしれない……。つられて、しくしく泣き出す男の子もいる。

その風景の中で、一歳児たちの脳が育っていく。

そして時々、「進化」を止める。一日10時間、年に260日。人類未体験の不自然な状況で、子どもの未来が決まっていく。国連も、ユネスコも、WHOも、「乳幼児期の、特定の人間との愛着関係が、子どもの将来に影響を及ぼす」と繰り返し言っているのです。

それを知っている保育士たちには、その風景の中で、小さな「歯車」が一つ、二つ、と欠けていくような不安がある。一人ひとり、丁寧に相手をしなければいけないのに、それが許されない仕組みの中で、困惑するのです。

大人たちは、「男女共同参画社会」という言葉のトリックで誤魔化せても、子どもたちには、通用しない。納得しない。

「ママがいい!」と本気で、掛け値なしに、叫び続ける。

「誰でもいい!」とは、絶対に言わない。

 

戦略会議は、「性別役割分担意識からの脱却」を「働き方改革を正面に据え」実施していく、と宣言しているのです。「常識」が思考から欠落している。子どもたちの願いが、はじめから視野に入っていない。

「性別(性的)役割分担意識」なしで人間社会は成り立たないのです。

結婚が、人生の主目標から外れてくるし、子孫を作ろうとする意欲は薄れる。しかし、この会議は、「それは困る、少子化は困る」という会議なのです。そして再び、「子育て」の苦労を減らしてやれば産む、として母子分離を薦め、それを懲りずに、「異次元の少子化対策」と呼ぶ。論理が破綻している。

でも、放っては置けない。こういうやり方を許したら、保育園、幼稚園、学校という、この国の生活に不可欠な、いわば逃げられない「仕組み」が共倒れになり、壊れていくから。

 

分かりきったことですが、芸術も、音楽も、文学も、演劇も、人間が楽しむものの中心に性的役割分担「意識」が存在していて、そこから、喜び、悲しみ、苦悩が生まれ、様々に表現されてきました。想像力というコミュニケーションの領域で花開き、次世代に伝授されてきた。

「祭り」は、その意識を陰陽の法則における「調和」への道筋とし、祝います。それは、生命の持続性を賛美することでもあって、人間たちの魂は、それを見て、震える。

「ママがいい!」、この言葉は人類にとって、はじまりであり、勲章なのです。

 

本気で「性的役割分担」を批判し、時代遅れと言う学者がいると、

阿波踊り、とか、リオのカーニバル、小学校の運動会や、中学の合唱コンクールでもいい、何かを感じてくれ、遺伝子をオンにしてくれ、と言いたくなります。「鯉のぼり」や「ひな祭り」、「七夕祭りは、いずれ廃止ですか?」と尋ねたくなる。

「千と千尋の神隠し」やトトロ、「男はつらいよ」もそう。こうした、祭りや儀式、映画がなぜ支持されるのか、「性別役割分担意識からの脱却」と軽々しく言う前に、戦略会議は、一度、なぜ子どもたちは「ママがいい!」のか、真面目に考えてほしい。

「父親の育児参加」、これはいい。進めてほしい。しかし、「共働きを前提とした」平等論では、本当の対応にはなっていないのです。子育てに、平等はない、そこをちゃんと理解し受け入れないと、子どもに真剣に向き合ったことにはならない。共働きを薦めるための「父親の育児参加」では、動機の段階で本末転倒なのです。(結果、オーライのような気もしますが。)

確かに、人間社会は、理不尽な役割分担に満ちています。

歴史的に見て、男たちの傲慢さは目に余るものがある。是正すべきことがたくさんあるにもかかわらず、アラブや、インドや、アフリカの現状を見ていると、「慣習」では済まされない差別が権力と武器を手にしている。民主主義の脆さが、次々と露呈している。先進国といわれる国でも、平等論を利権争いに巻き込むことで男女間の対峙は拡大しているように思えます。子どもたちを置き去りに、家庭という「愛着関係の行き場」が急速に失われていく。

「性的役割分担」は人間にとって、生きる「動機」です。それを対立のきっかけにしていくのは、非常に危険です。

災害やストライキが簡単に暴動となって広がる「欧米の犯罪率」もまた、私たちに強く警告している。

地球温暖化で乾き切った山林が、あっという間に山火事になるように、犯罪の広がり方や、その質が人間性を逸脱し始めている。母子分離によって乾き切った人々の心は、いつ火がついてもおかしくない枯れ草の下生えとなって社会に溜まっていく。

前回、1980年代前半に、二万六千人だった米国で収監されている女性の数が、四十年後、二十三万人になり、増加率は男性の二倍、母親が半数を超えていることについて書きました。同じ時期に、親による虐待で重傷を負う子どもが六倍になり、ホームスクールで教育を受ける子どもが百倍になっているのです。

一方、日本では、こんな声が保育現場から聞かれるようになっていました。

「週末、四十八時間子どもを親に返すのが心配です。五日間せっかくいい保育をしても、月曜になると、また噛みつくようになって戻ってくる」

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。四十八時間オムツを一度も替えない親たちを作り出しているのは私たち(保育士)ではないでしょうか」

週末を挟んで現れるこうした兆候が、将来の児童虐待や犯罪、いじめや不登校の広がりを示唆していることに保育の現場は気づいていた。当時の子どもたちが、いま親になり、保育士や教師になっている。最近よく言われる、長続きしない保育士や教師の多くは、二十年前、保育士たちが違和感を感じた、長時間の母子分離の結果ではないのか。もし、そうだとしたら、教師不足は止まらない。加速していく。

子どもたちは、誰を育てるのが自分の役割か本能的に知っています。

その子たちを、少しでも納得させたいなら、(キャリアと子育てを、少しでも、両立させようと思うなら)、保育士たちの「女性らしさ」、園長先生の「祖母らしさ」に「頼る」しかない。そこで行われる女性から女性への「利他の幸福」の伝承に依存するしかなかったのです。

この時期の子育ては、理論でも理屈でもない。可愛がること、寄り添うこと。それに幸せを感じること。

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。

 日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。

それを自覚していない。

その無自覚さが、強者たちが、自分で自分の首を絞める現象を生んでいる。

(続く)

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

幼稚園、保育園単位で「親心のビオトープ」を作ることは可能です。やり方は、「ママがいい!」に書きました。心強いのは、一度回りだすと、それが、嬉しそうに回ること。一学年ずつ卒業していくので、代々引き継がれ、伝承が行われていくこと。)

 

「女性らしさ」のおかげ

前々回、金沢市での講演会のお知らせの、一つ前に、

「男女平等、日本125位=順位落とす、先進国最下位―国際調査」~政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった~。https://sp.m.jiji.com/article/show/2966296?free=1という報道について書きました。

政治や経済の分野に参加する女性が少ないことを「遅れている」として、それに疑問を抱かせない。マスコミのこうした姿勢が、国全体に欧米コンプレックスを植え付けてきたように思います。

遅れていることがいいこと、とは誰も言わない、

男女平等、日本125位の国が、GDP世界第三位なら、国のあり方としては、逆に良かったのではないか、と考える方が論理的なはず。

しかも、日本の女性の平均寿命は世界一です。

「政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった」と記事が指摘するように、この「国際調査」が示す順位や平等の概念は、「欲」の強さの順位づけであって、利他の幸福感とは真逆にある価値観が働いている。

だから、「子育て」「母性」と対峙するのです。

平等を目指す道筋には、欲を満たす方向性と、もう一つ、欲を捨てる方向性がある。

経済は、前者の物差しで活性化しようとし、成功に安心を求めますが、結論から言えば、例えばアメリカなら数パーセントの人が95%の富を握ることになってしまう。極端な格差を生む。多くの人が不安を抱えて生きる社会になる。アダム・スミスは、その不安と不満が資本主義のエネルギーと言ったのですが、そんな呑気なことを言ってられないほど負のエネルギーは蓄積し、人類は、「欲望の時代」と呼ばれる対立の「時代」に入ってしまった。

一方、仏教など、主要な宗教は、後者の道筋、欲を捨てる方向性を教えの基本とします。「利他」の心構えを、より確かな、万人に可能な、平等への物差しとして勧めてきたわけです。

前者が、獲物を求めて狩りに出る男たちの手法とすれば、後者は、子育てをする母性的な道筋と言ってもいいかもしれない。

古人類学では、男が狩りに出かけ、女が残って子どもを育てるという「性的役割分担」が人類に家族という定義を与えた、と考えるそうですが、言い換えれば、「性的役割分担」が薄れた時、人類は、家族、家庭という定義を失っていくのです。そして、この「家族」という単位が維持できなくなると、個々の欲を鎮めるのが困難になり、「欲の資本主義」にさらに惹かれていく。

子育てに時間を使っている女性を、生産的でない、と見下す欧米の「調査」など無視すればいい、日本の文化と伝統を愛したスティーブ・ジョブスが天国でそう言っている気がします。

保育科の学生が、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いたら、勉強不足、と不合格になったそうです。

私が師と仰ぐ園長先生たちは、言っていました。

「保育は五歳まで。二十歳くらいまで見るなら別ですが、一生続く親との関係が一番大切です。長時間預かるなら、そのことを親に言い続けなければ、保育ではありません」。

「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針の柱が保育科の授業で壊されていきます。福祉はサービス、親のニーズに応えるのが保育、と学生たちが市場原理の一部になるように仕向けられている。

一部の学者が、保育に、ジェンダーフリーという「大人の利権争い」を持ち込んだことで、「女性らしさ」で成り立ってきた保育界が「心の根腐れ」を起こし、混乱している。

子どもたちは「ママがいい!」と毎年、慣らし保育の度に言っている。「子ども真ん中」と言うなら、まず、その願いの尊重からスタートすべきでしょう。

政治家や学者たちは、どうしてその叫びをここまで無視できるのか。それに慣れることは、私たちが幼児に見捨てられることです。

子どもの権利条約に、「できる限り父母を知り、父母によって養育されること」が権利として書かれ、

児童の権利宣言:第六条には、

「児童は、その人格の完全な、かつ、調和した発展のため、愛情と理解とを必要とする。児童は、できるかぎり、その両親の愛護と責任の下で、また、いかなる場合においても、愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てられなければならない。幼児は、例外的な場合を除き、その母から引き離されてはならない」と書かれた。

その権利が、家庭崩壊の流れを「機会の平等における『進歩』」と解釈する学者たちによって、子どもたちから奪われていく。

「もう、そういう時代じゃない」「日本は遅れているんです」、「もっと勉強しなさい」と言って、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いた学生の心が、保育科で教える教授によって、不合格とされる。「社会で子育て」など出来ないことは、すでに結果が証明していて、それが義務教育に連鎖していると報道されているのに、母子分離を目指す政策が止まらない。こども未来戦略会議が言う、「こどもを安心して任せることので きる質の高い公教育を再生し充実させること 」など、もう無理なのです。親に返し、子どもたちが親を育てる力に望みを託すしかない。公教育は、親が親らしい、という前提の元に作られているのです。

権利宣言にある「愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てる」ことは、パートで繋いでいい、五日間で取れる「子育て支援員」の資格でいい、それさえもなくていい、という規制緩和の元で、できるわけないでしょう。それが、わかっていて、

人間性の本質に関わる問題に、一律に「合否の判定」を下す教授がいる。

この仕組みは一体何だろう。時の政権、政策の都合で動くのが学問の常とはいえ、この教授のやり方は傲慢であるだけでなく、稚拙だと思う。

人生は思うようにはなりません。

母親が育てることができない場合もあるだろうし、子育てから離れ、違う道筋を、自らの決断として選ぶ人がいて当然だと思う。ダーウィンの法則の一部でしょう。

しかし、

保育科にくる特別な、と私は思いたい、女性たちの、新鮮な、いわば一年目の母にも似た願いが、一律に「学問」で打ち消されるところを目の当たりにすると、腹立たしくなり、寒々しさを感じる。

「勉強なんかしなくていい」と思わず、教室から連れ出したくなる。

私が尊敬する園長たち(女性たち)の半数は保育資格を持っていなかったと思う。土地を提供することで始まることが多かった草創期の事情で、園長先生に資格は要らなかったのです。オルガンで一曲だけ弾けますよ、と笑う人も居ました。子ども好きな女性が、子どもたちに鍛えられ、親たちを見張り、様々な人生に寄り添い、日々一緒に育っていった。

やがて、その一帯の守り神のようになって、歩いているだけで、親たちが鎮まる、そんな光景にあちこちで出会いました。

その道祖神のような方々が、日本の保育界と「子どもたちの願い」を重ねていたのです。

11時間保育を標準と名づけた上に、就労規程を取り払い、「誰でも入れる保育園」を目指す政府の戦略、慣らし保育なしで最長7日間まで預けられる「子どものショートステイ」(生後60日から十八歳未満対象。育児疲れ、冠婚葬祭でもOK。一泊二千円から五千円)を、「圧倒的に整備が遅れている」と言ってしまう「方針」の背後に、この道祖神たちとは別次元に住む、学問でしか子育てを見ない、子どもに同情しない「専門家」たちがいて、「こども未来戦略」を立てている。

内村鑑三は、「教育で専門家は育つが、人は育たない」と百年前に言いましたが、産業化した高等教育は、すでに市場原理に取り憑かれている。

保育界には、その物差しを持ち込まないでほしい。

 

私が渡米した1980年代前半、米国で刑務所に収監されている女性は二万六千人でした。四十年後の現在、二十三万人になっている。そこから、人類に何が起こっているか感じてほしいのです。

増加率は男性の二倍、そして、母親が半数を超えている。

未婚の母から生まれる子どもが四割、首都ワシントンDCでは、六割の家庭に「大人の男性」がいない。実の父親という言葉はすでに歴史の中に葬られ、父親像を持たない子どもは五、六歳からギャング化する、という研究発表もありました。

仕組みが子育てを代行することで、男たちが無責任になり、心を鎮めるチャンスを放棄してゆく。そして、優しさや忍耐力が社会から欠けていくと、貧困、薬物戦争、性差別、が女性たちを直撃するのです。

そのフィールドに三十年住んでいた私には、そこで起こっていることが、日本の保育現場と重なって見えるのです。

 

「こども未来戦略会議」は、「こどもがいると今の趣味や自由な生活が続けられなくなる」といった背景を指摘するより、平等という言葉に隠された大人たちの「利権」争いが、子どもの人生をどう巻き込んでいくか、アメリカの女性の囚人の増え方から、考えてほしい。

(「自由な生活」が何を意味するか知りませんが、子育ては自由を失うこと。その、自由を失うこと、自由を捧げることに、喜びを感じるのが人間でしょう。それを体験的に知るために、幼児を可愛がる機会を増やしていくべき時代に、この「こども未来戦略会議」は一体何を目指しているのか。この国から人間性をなくしたいのか。)

一人ひとりの欲が、自分の子どもを可愛がることによって抑えられないと、家族という単位が機能しなくなる。福祉や教育では絶対に補いきれない。一時的に経済が活性化しても、自由が手に入ったように思えても、次にあるのは、不満が一瞬のうちに暴動につながっていく、自浄作用を失った社会なのです。

アインシュタインもドラッカーも指摘したように、日本は特殊な、選ばれた国です。

アインシュタインはその民族性を調和の美しさ、と言い、ドラッカーは経済発展にもそれが有効だったと指摘した。しかし、二人は外国人ですから、私たちが知っているこの国の真髄までは感じ取れない。その真髄は、子どもたちとの一体感なのです。そして、この国をまとめる力は、母性、そして祖母の視点だった。

調和の原点が元々そこにあったから、保育という領域で、この国の特殊性は際立ち、「女性らしさ」によって維持されてきたのです。

 

いま、政府が進めている母子分離による経済政策の愚かさは、この国の民族性、美しさと柔軟性を、税金を使って葬ろうとしていること。一度失ってからでは、手遅れになる。

幼児たちは「ママがいい!」と言っている。この子たちの偽りのない「警告」を聴くだけの文化と伝統が、この国には残されているはず。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

日本の魅力を理解する外国人が増えています。アニメやJ-popの影響もありますが、落ち着いた「文化」そのものに惹かれる。風景とか空気感が、世界中の国々と比べて穏やかでバランスが取れているのです。それほど欧米の状況が不安定になっている、ということでもあるのです。欲の資本主義に支配されていない、この国の個性が、世界中の混沌の中で際立ち、人間を魅きつけるのです。

いい国、なのです。

遅れていたって、構わない。この国を大切にしなければいけない。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。

 

 

父の遺品と言葉

 

 

先月13日の読売新聞夕刊に、去年逝った、父の遺品と言葉が載っていました。
「母親が自分に読んでくれると言うのは、子どもにとって最高のことです。」(「私の言葉体験」から)

妹、「わにわに」の小風さちさんが、「人形に、幼い頃の自分と母親を重ねていたのかもしれません」とコメントしていました。
絵本も、児童文学もそうですが、何度も何度も読んでもらえる、繰り返し読めるのは、それが「体験」だからです。情報だとしたら、一度でだいたい覚えてしまうし、話の筋も、会話も知っている。
何度も読めるのは、生きた「体験」だからなのです。
私も、ドリトル先生などは、一冊につき5、6回は読みました。「秘密の湖」のあの神秘的、哲学的深さは、いまでも肌触りとして残っています。長靴下のピッピもそうですし、「飛ぶ教室」「太陽の戦士」「農場の少年」「トムは真夜中の庭で」「カラスが池の魔女」、私が思考する中核に、繰り返し読んだ児童文学の体験がはっきりとあります。
児童文学をたくさん読んでいれば、大人の誤魔化しには騙されない、そんな感じです。

アインシュタインが、情報は知識ではない、体験が知識なのだ、と言いました。わかる気がする。

その体験の根っこに、母親に読んでもらう(もちろん父親でもいいのですが)読み聞かせの体験があって欲しい、と父は思っていたのです。
こういう時代だからこそ、もう一度「読み聞かせ」を復活させてほしい。幼稚園、保育園で、親たちに薦めて欲しい。「一日一冊読んであげても、十分くらい。それが母親の言葉として記憶に残っていくんですよ」と教えてあげてほしい。それを、毎日積み重ねていくと、親子でした「体験」の土台が作られていく。こんなに便利な「道具」はないのです。

この時期の体験は、この時期しかできない体験です。お母さん、お父さんも新米で、子どもは、もうキラキラして親を信じている。そういう時に、人間社会の基本が出来上がっていくのです。