「自然治癒力」は、あちこちに形を変えて存在している

「自然治癒力は、あちこちに、形を変えて存在している」

奇妙な試算と報道が、人間性を奪っていくことについて書きました。

「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円:民間研究所試算」この試算は人間の愚かさの金字塔です、と書きました。

しかし、それを受け入れていくのはやはり個人の意思と選択なんですね。

いつ、人類はこういう視点に慣れ、こうした報道に首を傾げなくなったのか。ごく最近です。「損失」の定義が偏っていることに気づかない。「社会進出」における「社会」の定義と同じで、価値観を簡単に「経済」に委ねる。

そして、乳児と過ごす時間を「損失」と感じる親が増えているのです。エビデンスは、説明の仕方でフェイクニュースの根拠になる。

「欲の資本主義」の反対側にいるのが、「園庭で遊んでいる幼児たち」だと私は思っています。だから彼らは、幼児たちと人間を引き離そうとするのでしょう。

 

こんな記事もありました。

「日本は、女性の教育レベルが高いにもかかわらず、労働市場でうまく活用されていないため、教育投資に見合うほどの利益が出ていない」(世界経済フォーラム)

母親であることを「教育レベル」と対比させ、活用と利益で人生の価値を計るように仕向ける。彼らの言葉を借りれば「教育」は「投資」なのです。馬脚を露わすとはこの事。いつの間にか、「教育」が「欲」に支配されている。欲が、動機になってしまうと、子育てが行き詰ることに、彼らは気づかない。

人間が感性を失っていく過程に、「乳児の存在意義」VS「学校教育の存在意義」のせめぎあいがあるのですね。

 

学問」と「欲の資本主義」が人間の本来の思考とアイデンティティーを抑圧している。

それに、「福祉」が母子分離という強行手段で加わった。彼らの言葉を借りれば、「労働市場でうまく女性を活用するために」。

その混乱の中で、「保育園落ちた、日本死ね!」と誰かが叫ぶんです。

国会議員たちが、その言葉を聴いて、興奮して口論をする。しかし、彼らの視点からは、とっくに乳幼児たちが消えている。

(政府によって行われてきた経済優先の母子分離策は、二割の自治体に幼稚園という選択肢がない状況で進められたことを、みんな意外と知らない。政府や子ども・子育て会議には、それだけ重い責任があったということ。保育を「投資」と考える人たちは、一人一人の人生、一つ一つの自治体の置かれた状況をほとんど想像しない。大雑把な仕組みと枠組みで考える。「0歳児を預けることに躊躇しない親をつくり出すこと」が、学校教育の崩壊につながるということさえ、いまだに理解できないでいる。)

乳幼児期の母子分離が子どもの人生にどう影響するか、はっきりとは誰にもわからない。

学校でいい担任に当たれば、その一年は人生の中で永遠に価値を持つでしょう。一冊の本に出会ったり、ある歌手のファンになる、親友が一人寄り添ってくれるだけで、人生は守られ、変化する。一編の「詩」、母の涙、祖父の笑顔、夕陽が沈む光景と島の伝説の組み合わせ、ペットとの会話に救われることだってある。

尺八の演奏もそうですが、私は、そういう瞬間にならないだろうか、と自分の講演に願いを込めます。いい伝令役、橋渡し役になりたい、と本を書きます。

自然治癒力は、あちこちに、形を変えて存在しているのです。

しかし、「子育て支援」と名付け国が行った母子分離策が、親たちの「子育てにおける幸福感の減少」と、「子どもと過ごす時間を損失と感じる傾向」につながり、若者たちの生きる力の衰退、アイデンティティーの喪失に繋がっていったのは確かだと思う。引きこもりや、結婚しない、家庭を作ろうとしない若者が三割に近づくという数字にそれが表れている。

男女共同参画社会という掛け声で、男女がお互いの価値とアイデンティティーを確かめ合う機会や、補い合う「生き方」が減らされていったのですから、子どもを欲しいとは以前ほど思わなくなる。当然だと思います。

それでいいのです。

ここまで進めば、それが自然でしょう。

自らした選択です。

 

「おひとりさま」という選択は、それができる人たちにとっては気楽でしょうし、「引きこもり」という日本特有の現象も、親が親らしい時代の残照であって一概に悪いことではない。何より「自分で育てられないなら、産まない」という選択は、「人間らしい」と思う。

けれども、経済界や政府、社会学者までもが、「少子化は困る」「致命的だ」と言う。子育てのイメージを散々悪くしておいて(責任の所在をすっかり曖昧にしておいて)、いまさら何を言ってるんだ、と腹立たしくなります。

専門家のフリをしながら原因と結果を直視しない。少子化対策で少子化は加速したんでしょう。失敗を反省しないどころか、破綻した論理を、保育という仕組みに押し付けるから、保育も破綻してくる。そして、いよいよ学校が破綻し始めている。いい人材が去っていく。

私が、一番危機感を覚えるのは、政府主導のこの「生きる力の衰退」「アイデンティティーの喪失」が、あちこちで対立や軋轢を生み、調和を壊し始めていること。

少子化が進んでいるのに「児童虐待が過去最多」という数字にそれが表れている。

 少子化と児童虐待は連結します。利他の道を選ばす、損得勘定で人生を歩むなら、多くの人たちが子どもを産まなくなる。その結果、自然治癒力や自浄作用が働く機会が減っていく。

(その先にある、福祉が人材的に限界に達し市場原理に走った成れの果ての状況を、「ママがいい!」に書きました。NHK BSドキュメンタリー「捨てられる養子たち」:https://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=161027  が良い例です。番組の紹介にこうあります。

「比較的簡単に父母になり、簡単に解消できるアメリカの養子縁組制度。毎年養子となった子どものうちの2万5千人が捨てられているという。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く」。https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/20161027-bs世界のドキュメンタリー捨てられる養子たち/1820006938239263/

報道も警告も、すでにされている。

「比較的簡単に父母になり、簡単に解消できる」社会がすでにある。家庭を「簡単に解消できる」社会の入り口に何があるのか、よく考えてほしいのです。その道筋を見極め、日本は踏みとどまってほしい。私の願いは、ただそれだけです。)

大人たちの心の貧困を「子どもの貧困」と名づける無頓着さも、実は非常に問題です。

子育てを「社会」の責任にした上で、その「社会」の正体を曖昧にし、たらい回しのように責任を回避している。子どもにとっての「社会」の主体は母親です。子どもに聞けばわかること。幼児たちの「神性」を守っている人たちをみんなで守って、「社会」というものの輪郭が定まってくる、それが人類の歴史なのです。

0、1、2歳児と時間を過ごすことは、「人生をどう生きるか」という問い掛けが、懇切丁寧に行われることでした。

言葉の領域を超える「詩的」な問い掛けは、感性を保っていなければ聞こえない、美学の領域での語りかけなのですね。

私が、親や、中学生、高校生、場合によっては教師たちにまで「保育士体験」を進めるのも、一日幼児たちに囲まれることで、自分が持っている感性、この詩的領域におけるコミュニケーション能力を取り戻すきっかけになるからです。「どう生きるんだい?」という問い掛けが聴こえてくる。その問いかけが、すなわち自然治癒力だった。

いい保育者に守られ集団になった幼児たちは、詩的領域そのもののように生きていて、砂場の砂でさえ幸せになれる。

信じ切って、頼り切って、幸せそう。宗教が示唆してきた道筋、利他の幸福感を育てるこのフィールドに立てば「子育てとキャリアの両立」なんて言葉は、もはや成立し得ない。

人間は、生きているだけで喜ばれる。

新美南吉の書いた「手袋を買いに」という話があります。この話を、五歳になった我が子に読んだ時のことを覚えています。二人で雪の中で過ごした時間、あーっと思わず顔を覆ってしまい、母子狐とホッと胸をなでおろした瞬間が人生の中心にあって、そこを基準に、私は考えている。そうしていれば、「社会進出」や「自立」などという言葉の罠には引っかからない。

一日保育士体験を市の方針として進めていた茅野市の公立園長先生、主任さんたち三十人くらいと、年に一度の経過報告を兼ねて、輪になって話し合っていた時のことです。

一人の主任さんが、「保育士も一日保育士体験をやるんですか?」と質問したのです。幼稚園が一つしかない茅野市では、幼児を育てている保育士さんはみな自分の子どもを公立の保育園に預けているのです。

すると、一人の園長が間髪を入れず、

「当たり前だよ、子どもが喜ぶんだから」と言ったのです。

みんな、一瞬ハッとして、「そうだった」と納得です。

保育の心が定着して来た、と私は嬉しくなりました。横で聴いていた役場の部長さんに、もう大丈夫ですね、と囁きました。

(日本という国は、人類にとって大切な選択肢です。その価値をわかってほしい。そして、人間は子どもを可愛がっているだけで、幸せに生きられる。そのことに気づいて欲しい。)

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