「子育て」という神秘体験

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。それを自覚していない。

だから、母子分離を雇用施策の中心にして、少子化を進め、自らの首を絞めるようなことをしている、と、前回書きました。

日本の女性の「女性らしさ」が、とても自然に存在してきたので、気づかないのか、幼児の子育てを経験しなかったためか、政財界には、人間として大切な感性が(たぶん後天的に)欠落している、幼児との切っても切れない関係性において、想像力と感謝の念が足りない。

それとも、ただ単に男たちの集まりだからなのか。

「女性の社会進出」という言葉が象徴的です。

経済活動をしていない「おんなこども」は社会の一部ではないという視点が見え隠れする。子どもたちの日々が、「社会」という概念から置き去りにされている。「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)を読めば分かります。

それがさらに進んで、学校教育や、時には法律など、様々な手法を使って、「女性らしさ」の価値を下げようとする。そうすることで、自分たちの足元、この国の「利他の伝統文化」を壊していることに気づいていない。

ジェンダーフリーを言う人たちと、経済界が、本当は心の中ではバラバラなのに、「利権争い」という次元で一体になっている。それでもいいんですが、双方とも、「ママがいい!」という言葉からは、絶対に逃れられない。

子どもたちに、パパはどうなんだ、と言っても通用しない。

私が三、四十年前、保育について色々教わった園長先生たちは、皆、年配の女性でした。

「祖母の心」で保育を見ていた。「戦略」という言葉など絶対に使わない人たちだった。

戦いの土壌で子育てを考える人たちではなかったのです。戦う人を育てるつもりもない、楽しそうな子どもたちに喜びを感じる、「教育」と「子育て」の違いを理解していた人たちでした。

祖母の心は、小さい子の気持ちを優先します。

ああ、早くいい人にならなければ、という人生の動機があって、子どもの幸せを願えば、「親たちを育てなければいけない、自分は長くない」と、次世代に「託す」気持ちが生きがいになっていた。祈りの世界ですね。

ちょっと考えれば、誰にでも分かりますが、経済競争だけが「社会」ではないのです。

初めての笑顔を喜び、泣きやませようとオロオロし、はじめの一歩を祝うこと、輪になって踊ることの方が、よほど大切な「社会」だった。日本人は、その小さな「やりとり」に「宇宙」を感じ、敬い、愛で、表現するのが好きなのです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

欲得に縛られると、本当の世界が見えなくなりますよ、気をつけなさい、という警告が常に存在していた。

「古池や、蛙飛び込む水の音」

二十代の頃、この俳句を、アメリカ人の友人に英訳した時、「だから、どうなの?」(So, what?)、と言われ、笑ってしまいました。日本の文化は、「だからどうなの?」という次元を密かに楽しみ、受け入れ、共有する。損得勘定から離れることに、自由の広がりを見る。

(私なんか、母校が甲子園に出て、勝って、テレビから校歌が流れたりすると、もう泣きそうになるんですね。馬鹿だなぁ、とは思うんです。たかが野球でしょ。でも、そんな「魂が震えてしまう」瞬間が、好きなんですね。けっこう音楽が絡んでくる。

ベートーヴェンの第九を生で聴いたりしたら、もう涙が止まらなくなって、ただただ、「人類は、凄い!」と心の中で叫びます。この曲を、いつでもヘッドフォンで最高の音で聴ける時代に生きている人は、それだけで、感謝すべき、と思うことがあります。

甲子園に話を戻すと、どういう仕掛けで、どの次元のコミュニケーションが交錯すると泣いてしまうのか、考えていたんです。すると、あの頃、つまり高校生の頃、私の一番の相談相手は、可愛がっていた犬だったんです。喋れない。でも、いつも寄り添って、優しい目をして。ふざけようとしたり、一緒に走ったりして、いまでも心の片隅で相棒です。

サトクリフの児童文学「太陽の戦士」に、その辺のことが詳しく書いてあります。石器、青銅器、鉄器、と道具や武器が進化する過程で、人間が順番に失っていくもの、「古(いにしえ)のルール」、みたいなことが書いてある。戦う武器、教育もそうですが、競う道具、が進化すると、「優先順位」に変化が現れるんです。その時失うもの、失ってはいけないものに気づくために、喋れない相談相手がいる、そんなことが書いてあって、私には哲学書です。〇歳児は、人類の相談相手なんだ、と気づく。もっと遡ると、私の相談相手はクマのぬいぐるみでした。

そして、行き着くのは、「おなじ阿呆なら、踊らにゃ、そん、そん」という、掛け声なんですね。社会とは、人間が大自然と踊ること、踊りに、踊らされることで成り立つ。魂を震わせ、その後に、鎮まる。)

そろそろ「社会進出」という言葉の「罠」に気づくべきです。

共働きを助けるための施策と、共働きを広めるための施策は、違います。

動機、出所が違う。「動機の違い」を見極めないと、母子分離を「欲の経済学」の中心に置く連中に加担することになる。

共働きを助けようとする人たちと、共働きを広めようとする人たちとでは、その「生き方」に決定的な違いがあるのです。

 

「子育て」という神秘体験

眠っている幼児を眺める時間の大切さを思い出すときが来ています。

そういう時間から、注意を逸らすものや、仕掛けが溢れているから、意図的に、義務教育なんかで、その大切さを子どもたちに伝えていくべきです。もし、もう一歩進みたいなら、眠っている我が子に、そっと歌を唄う時間を、自らの意思で創り出す。その積み重ねで、社会は、じゅうぶん整っていく。

この国には、「千と千尋の神隠し」を、あれだけ長い間興行収益第一位にし続けた土壌と「伝統」がまだある。それがあるうちに、感性を手放さないようにしないと、と思います。

人間は、生まれた時が「社会進出」です。

それを一番よく知っていた国が、何、騙されているんだ、しっかりしようよ、「教育」など、子育てのほんの一部分でしかないのだから、と思うんです。

生まれてから三年くらいの間に、それは、脳が発達する時期と重なっているのですが、幼児は人間社会を「利他の心」で整えるという、何者にも代え難い役割を果たします。ほとんど自己犠牲のような行いです。普通にやっていれば、「育てあい」「育ちあい」が安心への道筋になる。

可愛がって、食べさせて、世話をして、その過程で言葉が喋れるようになっていく。これは、凄い。

驚くべき体験で、その神秘体験を繰り返すために、人間(魂)は生まれてくる。

 

私は、トイレに入っていた小さな息子に、「どう、出そう?」とドアの外から訊いた時のことを覚えています。

中から、「ビミョー(微妙)」という、いくぶん不安げな声が聞こえたんです。

ああ、息子は、「微妙」という言葉を知ってる。得体の知れない感動でした。人類の進化を見たような、視野が一気に広がっていく感じがしたのです。

魂が、言葉を手に入れていくことを考えると、ドキドキします。それを目撃した「自分の存在」が、嬉しくなります。魂に、言葉を教える時期は、人生における体験としては、教える側、教えられる側、双方にとって、極めて貴重な特別な「時」なのです。部族という単位にまで発展する。

「ビミョー」は、たぶん、私が教えたのではない。でも、ああ、育っている、育ってる、と思う。みんなに育てられている。ムーミンかも知れない。「すべてがむだであることについて」という本を愛読するジャコウネズミが言ったのかも知れない。私たちは、守り合っている。

私が、公園に一人で座っていたら、「変なおじさん」。でも、二歳児と座っていたら、「いいおじさん」なのです。横に座っているだけで、二歳児は宇宙の相対性の中で、私を「いいおじさん」にする。その仕組みに気づき、感謝するために人生がある。

二歳児は、私を「いいおじさん」にしようと思って座っているのではないのです。ただ、座っている。ただ、座っているだけで、これほどのことが出来る。それは、すなわち、宇宙の大原則がそこに座ってらっしゃる、ということ。

すべてが役割を持っていることに気づけば、孤独が人生から遠ざかっていきます。

 

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「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

最近、講演の最後に一曲演奏を頼まれることが増えました。音楽は、不思議ですよね。)

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