「政財界の甘えと無自覚」

「政財界の甘えと無自覚」

 

政府の「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf は、子どもの側には立っていない。愛が感じられない。

母子分離、「共働きを前提とした平等論」で、結果的に少子化を進めてきた「政策」にいまだに固執している。

この人たちは、「キャリアと子育ての両立」という言葉が、心情的にも、仕組み的にも、幼児の側からは成立しないことが理解できていない。

日本中で毎年聴こえる「ママがいい!」という叫びと、自分たちの思惑を切り離し、それが「子どもの未来」とは無関係だと思っている。元経済財政諮問会議の座長が、「〇歳児は、寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。誰が世話しても同じ、「飼育」くらいにしか思っていない。だから、子どものために仕組みの質を整えるより、女性の労働力を確保すれば、それが国のためなのだ、と思っている。そして、人間は皆、損得勘定で動くと計算している。悪い人ではないのは、話していてわかりました。でも、何かが極端に欠けている。

義務教育という歴史の浅い、未知の試みと言っていい巨大な仕組みは、親が親らしい、という前提のもとに作られている。親が、子どもを可愛がる、または、可愛いと思うこと、が自然で一般的だった時に作られている。それを忘れると、仕組みが新たな「常識」を作り出し、「人間性」との間に、不一致を生み出すことなってしまう。

預けられた一歳児が、お昼寝の時間に、ふと起き上がり「ママがいい!」とつぶやく。それを聴きながら、保育士たちは、ドキッとするのです。ここに来るようになって、数ヶ月経っているのに、夢を見たのだろうか……。隣にいた子どもが、その声を聴いたかもしれない……。つられて、しくしく泣き出す男の子もいる。

その風景の中で、一歳児たちの脳が育っていく。

そして時々、「進化」を止める。一日10時間、年に260日。人類未体験の不自然な状況で、子どもの未来が決まっていく。国連も、ユネスコも、WHOも、「乳幼児期の、特定の人間との愛着関係が、子どもの将来に影響を及ぼす」と繰り返し言っているのです。

それを知っている保育士たちには、その風景の中で、小さな「歯車」が一つ、二つ、と欠けていくような不安がある。一人ひとり、丁寧に相手をしなければいけないのに、それが許されない仕組みの中で、困惑するのです。

大人たちは、「男女共同参画社会」という言葉のトリックで誤魔化せても、子どもたちには、通用しない。納得しない。

「ママがいい!」と本気で、掛け値なしに、叫び続ける。

「誰でもいい!」とは、絶対に言わない。

 

戦略会議は、「性別役割分担意識からの脱却」を「働き方改革を正面に据え」実施していく、と宣言しているのです。「常識」が思考から欠落している。子どもたちの願いが、はじめから視野に入っていない。

「性別(性的)役割分担意識」なしで人間社会は成り立たないのです。

結婚が、人生の主目標から外れてくるし、子孫を作ろうとする意欲は薄れる。しかし、この会議は、「それは困る、少子化は困る」という会議なのです。そして再び、「子育て」の苦労を減らしてやれば産む、として母子分離を薦め、それを懲りずに、「異次元の少子化対策」と呼ぶ。論理が破綻している。

でも、放っては置けない。こういうやり方を許したら、保育園、幼稚園、学校という、この国の生活に不可欠な、いわば逃げられない「仕組み」が共倒れになり、壊れていくから。

 

分かりきったことですが、芸術も、音楽も、文学も、演劇も、人間が楽しむものの中心に性的役割分担「意識」が存在していて、そこから、喜び、悲しみ、苦悩が生まれ、様々に表現されてきました。想像力というコミュニケーションの領域で花開き、次世代に伝授されてきた。

「祭り」は、その意識を陰陽の法則における「調和」への道筋とし、祝います。それは、生命の持続性を賛美することでもあって、人間たちの魂は、それを見て、震える。

「ママがいい!」、この言葉は人類にとって、はじまりであり、勲章なのです。

 

本気で「性的役割分担」を批判し、時代遅れと言う学者がいると、

阿波踊り、とか、リオのカーニバル、小学校の運動会や、中学の合唱コンクールでもいい、何かを感じてくれ、遺伝子をオンにしてくれ、と言いたくなります。「鯉のぼり」や「ひな祭り」、「七夕祭りは、いずれ廃止ですか?」と尋ねたくなる。

「千と千尋の神隠し」やトトロ、「男はつらいよ」もそう。こうした、祭りや儀式、映画がなぜ支持されるのか、「性別役割分担意識からの脱却」と軽々しく言う前に、戦略会議は、一度、なぜ子どもたちは「ママがいい!」のか、真面目に考えてほしい。

「父親の育児参加」、これはいい。進めてほしい。しかし、「共働きを前提とした」平等論では、本当の対応にはなっていないのです。子育てに、平等はない、そこをちゃんと理解し受け入れないと、子どもに真剣に向き合ったことにはならない。共働きを薦めるための「父親の育児参加」では、動機の段階で本末転倒なのです。(結果、オーライのような気もしますが。)

確かに、人間社会は、理不尽な役割分担に満ちています。

歴史的に見て、男たちの傲慢さは目に余るものがある。是正すべきことがたくさんあるにもかかわらず、アラブや、インドや、アフリカの現状を見ていると、「慣習」では済まされない差別が権力と武器を手にしている。民主主義の脆さが、次々と露呈している。先進国といわれる国でも、平等論を利権争いに巻き込むことで男女間の対峙は拡大しているように思えます。子どもたちを置き去りに、家庭という「愛着関係の行き場」が急速に失われていく。

「性的役割分担」は人間にとって、生きる「動機」です。それを対立のきっかけにしていくのは、非常に危険です。

災害やストライキが簡単に暴動となって広がる「欧米の犯罪率」もまた、私たちに強く警告している。

地球温暖化で乾き切った山林が、あっという間に山火事になるように、犯罪の広がり方や、その質が人間性を逸脱し始めている。母子分離によって乾き切った人々の心は、いつ火がついてもおかしくない枯れ草の下生えとなって社会に溜まっていく。

前回、1980年代前半に、二万六千人だった米国で収監されている女性の数が、四十年後、二十三万人になり、増加率は男性の二倍、母親が半数を超えていることについて書きました。同じ時期に、親による虐待で重傷を負う子どもが六倍になり、ホームスクールで教育を受ける子どもが百倍になっているのです。

一方、日本では、こんな声が保育現場から聞かれるようになっていました。

「週末、四十八時間子どもを親に返すのが心配です。五日間せっかくいい保育をしても、月曜になると、また噛みつくようになって戻ってくる」

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。四十八時間オムツを一度も替えない親たちを作り出しているのは私たち(保育士)ではないでしょうか」

週末を挟んで現れるこうした兆候が、将来の児童虐待や犯罪、いじめや不登校の広がりを示唆していることに保育の現場は気づいていた。当時の子どもたちが、いま親になり、保育士や教師になっている。最近よく言われる、長続きしない保育士や教師の多くは、二十年前、保育士たちが違和感を感じた、長時間の母子分離の結果ではないのか。もし、そうだとしたら、教師不足は止まらない。加速していく。

子どもたちは、誰を育てるのが自分の役割か本能的に知っています。

その子たちを、少しでも納得させたいなら、(キャリアと子育てを、少しでも、両立させようと思うなら)、保育士たちの「女性らしさ」、園長先生の「祖母らしさ」に「頼る」しかない。そこで行われる女性から女性への「利他の幸福」の伝承に依存するしかなかったのです。

この時期の子育ては、理論でも理屈でもない。可愛がること、寄り添うこと。それに幸せを感じること。

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。

 日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。

それを自覚していない。

その無自覚さが、強者たちが、自分で自分の首を絞める現象を生んでいる。

(続く)

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

幼稚園、保育園単位で「親心のビオトープ」を作ることは可能です。やり方は、「ママがいい!」に書きました。心強いのは、一度回りだすと、それが、嬉しそうに回ること。一学年ずつ卒業していくので、代々引き継がれ、伝承が行われていくこと。)