「女性らしさ」のおかげ

前々回、金沢市での講演会のお知らせの、一つ前に、

「男女平等、日本125位=順位落とす、先進国最下位―国際調査」~政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった~。https://sp.m.jiji.com/article/show/2966296?free=1という報道について書きました。

政治や経済の分野に参加する女性が少ないことを「遅れている」として、それに疑問を抱かせない。マスコミのこうした姿勢が、国全体に欧米コンプレックスを植え付けてきたように思います。

遅れていることがいいこと、とは誰も言わない、

男女平等、日本125位の国が、GDP世界第三位なら、国のあり方としては、逆に良かったのではないか、と考える方が論理的なはず。

しかも、日本の女性の平均寿命は世界一です。

「政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった」と記事が指摘するように、この「国際調査」が示す順位や平等の概念は、「欲」の強さの順位づけであって、利他の幸福感とは真逆にある価値観が働いている。

だから、「子育て」「母性」と対峙するのです。

平等を目指す道筋には、欲を満たす方向性と、もう一つ、欲を捨てる方向性がある。

経済は、前者の物差しで活性化しようとし、成功に安心を求めますが、結論から言えば、例えばアメリカなら数パーセントの人が95%の富を握ることになってしまう。極端な格差を生む。多くの人が不安を抱えて生きる社会になる。アダム・スミスは、その不安と不満が資本主義のエネルギーと言ったのですが、そんな呑気なことを言ってられないほど負のエネルギーは蓄積し、人類は、「欲望の時代」と呼ばれる対立の「時代」に入ってしまった。

一方、仏教など、主要な宗教は、後者の道筋、欲を捨てる方向性を教えの基本とします。「利他」の心構えを、より確かな、万人に可能な、平等への物差しとして勧めてきたわけです。

前者が、獲物を求めて狩りに出る男たちの手法とすれば、後者は、子育てをする母性的な道筋と言ってもいいかもしれない。

古人類学では、男が狩りに出かけ、女が残って子どもを育てるという「性的役割分担」が人類に家族という定義を与えた、と考えるそうですが、言い換えれば、「性的役割分担」が薄れた時、人類は、家族、家庭という定義を失っていくのです。そして、この「家族」という単位が維持できなくなると、個々の欲を鎮めるのが困難になり、「欲の資本主義」にさらに惹かれていく。

子育てに時間を使っている女性を、生産的でない、と見下す欧米の「調査」など無視すればいい、日本の文化と伝統を愛したスティーブ・ジョブスが天国でそう言っている気がします。

保育科の学生が、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いたら、勉強不足、と不合格になったそうです。

私が師と仰ぐ園長先生たちは、言っていました。

「保育は五歳まで。二十歳くらいまで見るなら別ですが、一生続く親との関係が一番大切です。長時間預かるなら、そのことを親に言い続けなければ、保育ではありません」。

「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針の柱が保育科の授業で壊されていきます。福祉はサービス、親のニーズに応えるのが保育、と学生たちが市場原理の一部になるように仕向けられている。

一部の学者が、保育に、ジェンダーフリーという「大人の利権争い」を持ち込んだことで、「女性らしさ」で成り立ってきた保育界が「心の根腐れ」を起こし、混乱している。

子どもたちは「ママがいい!」と毎年、慣らし保育の度に言っている。「子ども真ん中」と言うなら、まず、その願いの尊重からスタートすべきでしょう。

政治家や学者たちは、どうしてその叫びをここまで無視できるのか。それに慣れることは、私たちが幼児に見捨てられることです。

子どもの権利条約に、「できる限り父母を知り、父母によって養育されること」が権利として書かれ、

児童の権利宣言:第六条には、

「児童は、その人格の完全な、かつ、調和した発展のため、愛情と理解とを必要とする。児童は、できるかぎり、その両親の愛護と責任の下で、また、いかなる場合においても、愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てられなければならない。幼児は、例外的な場合を除き、その母から引き離されてはならない」と書かれた。

その権利が、家庭崩壊の流れを「機会の平等における『進歩』」と解釈する学者たちによって、子どもたちから奪われていく。

「もう、そういう時代じゃない」「日本は遅れているんです」、「もっと勉強しなさい」と言って、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いた学生の心が、保育科で教える教授によって、不合格とされる。「社会で子育て」など出来ないことは、すでに結果が証明していて、それが義務教育に連鎖していると報道されているのに、母子分離を目指す政策が止まらない。こども未来戦略会議が言う、「こどもを安心して任せることので きる質の高い公教育を再生し充実させること 」など、もう無理なのです。親に返し、子どもたちが親を育てる力に望みを託すしかない。公教育は、親が親らしい、という前提の元に作られているのです。

権利宣言にある「愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てる」ことは、パートで繋いでいい、五日間で取れる「子育て支援員」の資格でいい、それさえもなくていい、という規制緩和の元で、できるわけないでしょう。それが、わかっていて、

人間性の本質に関わる問題に、一律に「合否の判定」を下す教授がいる。

この仕組みは一体何だろう。時の政権、政策の都合で動くのが学問の常とはいえ、この教授のやり方は傲慢であるだけでなく、稚拙だと思う。

人生は思うようにはなりません。

母親が育てることができない場合もあるだろうし、子育てから離れ、違う道筋を、自らの決断として選ぶ人がいて当然だと思う。ダーウィンの法則の一部でしょう。

しかし、

保育科にくる特別な、と私は思いたい、女性たちの、新鮮な、いわば一年目の母にも似た願いが、一律に「学問」で打ち消されるところを目の当たりにすると、腹立たしくなり、寒々しさを感じる。

「勉強なんかしなくていい」と思わず、教室から連れ出したくなる。

私が尊敬する園長たち(女性たち)の半数は保育資格を持っていなかったと思う。土地を提供することで始まることが多かった草創期の事情で、園長先生に資格は要らなかったのです。オルガンで一曲だけ弾けますよ、と笑う人も居ました。子ども好きな女性が、子どもたちに鍛えられ、親たちを見張り、様々な人生に寄り添い、日々一緒に育っていった。

やがて、その一帯の守り神のようになって、歩いているだけで、親たちが鎮まる、そんな光景にあちこちで出会いました。

その道祖神のような方々が、日本の保育界と「子どもたちの願い」を重ねていたのです。

11時間保育を標準と名づけた上に、就労規程を取り払い、「誰でも入れる保育園」を目指す政府の戦略、慣らし保育なしで最長7日間まで預けられる「子どものショートステイ」(生後60日から十八歳未満対象。育児疲れ、冠婚葬祭でもOK。一泊二千円から五千円)を、「圧倒的に整備が遅れている」と言ってしまう「方針」の背後に、この道祖神たちとは別次元に住む、学問でしか子育てを見ない、子どもに同情しない「専門家」たちがいて、「こども未来戦略」を立てている。

内村鑑三は、「教育で専門家は育つが、人は育たない」と百年前に言いましたが、産業化した高等教育は、すでに市場原理に取り憑かれている。

保育界には、その物差しを持ち込まないでほしい。

 

私が渡米した1980年代前半、米国で刑務所に収監されている女性は二万六千人でした。四十年後の現在、二十三万人になっている。そこから、人類に何が起こっているか感じてほしいのです。

増加率は男性の二倍、そして、母親が半数を超えている。

未婚の母から生まれる子どもが四割、首都ワシントンDCでは、六割の家庭に「大人の男性」がいない。実の父親という言葉はすでに歴史の中に葬られ、父親像を持たない子どもは五、六歳からギャング化する、という研究発表もありました。

仕組みが子育てを代行することで、男たちが無責任になり、心を鎮めるチャンスを放棄してゆく。そして、優しさや忍耐力が社会から欠けていくと、貧困、薬物戦争、性差別、が女性たちを直撃するのです。

そのフィールドに三十年住んでいた私には、そこで起こっていることが、日本の保育現場と重なって見えるのです。

 

「こども未来戦略会議」は、「こどもがいると今の趣味や自由な生活が続けられなくなる」といった背景を指摘するより、平等という言葉に隠された大人たちの「利権」争いが、子どもの人生をどう巻き込んでいくか、アメリカの女性の囚人の増え方から、考えてほしい。

(「自由な生活」が何を意味するか知りませんが、子育ては自由を失うこと。その、自由を失うこと、自由を捧げることに、喜びを感じるのが人間でしょう。それを体験的に知るために、幼児を可愛がる機会を増やしていくべき時代に、この「こども未来戦略会議」は一体何を目指しているのか。この国から人間性をなくしたいのか。)

一人ひとりの欲が、自分の子どもを可愛がることによって抑えられないと、家族という単位が機能しなくなる。福祉や教育では絶対に補いきれない。一時的に経済が活性化しても、自由が手に入ったように思えても、次にあるのは、不満が一瞬のうちに暴動につながっていく、自浄作用を失った社会なのです。

アインシュタインもドラッカーも指摘したように、日本は特殊な、選ばれた国です。

アインシュタインはその民族性を調和の美しさ、と言い、ドラッカーは経済発展にもそれが有効だったと指摘した。しかし、二人は外国人ですから、私たちが知っているこの国の真髄までは感じ取れない。その真髄は、子どもたちとの一体感なのです。そして、この国をまとめる力は、母性、そして祖母の視点だった。

調和の原点が元々そこにあったから、保育という領域で、この国の特殊性は際立ち、「女性らしさ」によって維持されてきたのです。

 

いま、政府が進めている母子分離による経済政策の愚かさは、この国の民族性、美しさと柔軟性を、税金を使って葬ろうとしていること。一度失ってからでは、手遅れになる。

幼児たちは「ママがいい!」と言っている。この子たちの偽りのない「警告」を聴くだけの文化と伝統が、この国には残されているはず。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

日本の魅力を理解する外国人が増えています。アニメやJ-popの影響もありますが、落ち着いた「文化」そのものに惹かれる。風景とか空気感が、世界中の国々と比べて穏やかでバランスが取れているのです。それほど欧米の状況が不安定になっている、ということでもあるのです。欲の資本主義に支配されていない、この国の個性が、世界中の混沌の中で際立ち、人間を魅きつけるのです。

いい国、なのです。

遅れていたって、構わない。この国を大切にしなければいけない。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。