一昔前なら、「禁じ手」

 

幼稚園、保育園で保育者、保護者たちに講演する機会が戻ってきました。

保育士の勉強会や幼稚園教諭の研修会、各園から役員の保護者が集まってくる県大会もあって、園長先生たちと毎週のように意見交換します。

四十年前に私の講演を聴き、ずっと親の保育士体験やってます、という高齢の園長先生に会ったりすると、時間と空間が、子どもたちを通してつながっているようで、嬉しくなります。

講演前後の会食や、前泊しての懇親会に期待している先生たちもいて、その場でさらに突っ込んだ意見と情報分析を求められます。

幼稚園、保育園、こども園、こども園の場合は1号と3号の割合、施設補助をどの程度受けたか、正規職員と非常勤の割合、など、二十年前ならあり得なかった様々な要素が絡み合います。そこにぶら下がりの小規模保育や企業型保育も加わる。

幼稚園の七割がこども園になっている地域もあれば、一つもなっていない市もあります。幼稚園が一つもない自治体もありますし、ほとんどの子どもたちが、公立幼稚園を卒園する市もある。(公立幼稚園は、全国的に見れば絶滅危惧種。親にサービスをしないことによって、親たちの強い絆が育つ。私の好きな形です。無償化で、一気に消えて行きましたが。)

そこへ、いま「保育バブルの崩壊」と言われる状況が起こっている。少子化や、園児の奪い合いによる撤退、損得を賭けた買収、M&Aが起こっている。市場に見切りをつけた廃園も相次ぎ、子ども優先という人間社会の「柱」が置き去りにされ、揺らいでいる。

事情の異なる地域で、現場の状況を考慮せず変更されていく「制度」と、「親たちの意識の変化」、その両方に直面し、方向性を見失っている園長先生、「生き残り」と「いい保育」の板挟みになり、それでもパズルを一生懸命解こうとしている理事長先生たちがいます。

昼食会で女性の園長先生たち、懇親会では主に男性の園長・設置者たち、みたいになることがあって、保育に対する姿勢の違いにちょっと笑ってしまいます。ざっくり言えば、子どもを主体に考えるか、経営者的立場が先に立つか、子育てをテーマに、女性らしさ、男性らしさが現れます。どちらが正しいということではないのです。私はとにかく、園で、親心をどう育むか、ということ、「園を親心のビオトープにしてください」と、お願いする。

子どもと一生付き合っていくのは親たち、その人たちの「子育て」に対する関心が薄れるのが一番怖い。義務教育は、受けきれない。仕組みの中で、密かに、確実に、親たちに「子育て」を返していくこと。幼稚園・保育園でしかできないこと、その大切な役割りについて話します。(「ママがいい!」にそのやり方が書いてあります。園で貸し出したりして、親が理解すると、難しいことではない。)

保育に関わる人たちは、幼児に日々囲まれている人たちで、根っこはいい人たち。混沌から抜け出すには、まず、納得できる目標と、やり甲斐が必要なのです。私は、時空を越えた伝令役となり、情報収集をするのですが、生き残るために保育が「親サービス」になっていくこと、それだけは止めなければいけません。

国は、「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ようにする、と書く。

子どもを預けないと、夢が追いかけられない、人生の幅も狭まる、確かにそうかもしれない。しかし、そんな趣旨を、わざわざ書いて閣議決定すれば、子どもが邪魔者のように思えてくる。そこで政府の思惑通りに母子分離が広まれば、次世代に「夢を託す」という、人間社会に不可欠な「利他」の動機が社会から消えていく。

六割の女性たちが、0、1、2歳を預けようとしないことに、政府も経済学者も苛立っている。だから、こういう失礼な閣議決定をするのです。

しかし、実は、この辺りの誘導、安い労働力を確保するための閣議決定で促される社会全体の意識の変化が、保育の質、小中学校での教員の質を下げていく。

今年、「二人目は無償、そうすれば子どもが輝く」という、意味不明な発言が、都知事の口から飛び出しました。それが、「チルドレンファースト」だという。以前、首相が国会で言った、保育園でもっと預かれば女性が輝く、までは、欲の資本主義の範疇かもしれない。しかし、母子分離で、「子どもが輝く」「チルドレンファースト」と言われると、唖然とするしかない。

この荒唐無稽な論理の飛躍を、マスコミが反問することなく報道してしまうから、「ママがいい!」という子どもたちの必死の願いに日々対峙する保育士たちは、たまらない。

 

公立保育園を抱え、現場と政府の「戦略」の間で板挟みになっている行政の課長や係長が講演会に来ます。先日講演会を主催してくれた園長先生から、メールをいただきました。

「保育課の職員も講演後私のところに来て『素晴らしかったです!時々胸にグサッ!ときましたけど大変勉強になりました』と感想を述べておりました」。

現場と行政が一緒に聞いてくれるとありがたい。そこが心を一つにできないと、いつまで経っても問題は解決しない。

単体の保育園や幼稚園でも、市議や市長を「この講演だけは聴いてほしい」と引っ張ってきてくれる園長先生がいます。園長先生たちは、保護者や卒園児の親たちという票を持っている(感じがする)ので、選挙が近いと政治家は結構来ます。市長が来ると、一緒に教育長や福祉部長が来たりします。

親たち、保育者、行政、議員、市長、みんなで一緒に聴いて、その地域で「子どもたちのために」心を一つにして欲しいのです。

大きな大会では、知事や市長と控え室で話す機会があります。

そんな時は、義務教育の将来が、「今、保育施策で何をするかに掛かっています」と危機感を伝えます。園長先生たちが前もって「ママがいい!」を渡してくれていたり、レクチャーしていて、私の講演会に顔を出す首長は、すでに保育の重要性に気づいています。

 

「保育バブルの崩壊」は、不動産バブルや介護保険の時と違い学級崩壊につながります。児童虐待や、児童養護施設、学童、特別支援学級の混迷と混沌にも直結する。だからこそ、保育界に必要なのは、何より、その安定性だった。それが、政府の思惑や、母子分離によって生じる利権争いを絡め、失われている。

その中心に、

「保育分野は、『制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野』」(「日本再興戦略」:平成二十五年六月十四日閣議決定)という閣議決定があった。

都市部では0歳児に、すでに欠員が出て、地方では、幼稚園はもとより、保育園でも定員割れが起こり、(政府の母子分離政策が主導している)少子化は、止まる気配を見せない。募集すれば園児が集まる園でも、いい保育士が揃わないという理由で定員を減らしたり、精神的に持たない、と廃園を模索する園が出始めている。

良くない保育士を一人雇うことが致命傷になることがある。保育とはそういうもの。信頼関係や、ゆとりを失ったら「いい保育」はできないのです。

人員不足は、学校でも切迫した問題になっていて、役場も事情は理解する。「いい保育士が見つかりません」と言えば、受け入れるしかない。

人生における様々な「物差し」が交錯し、混乱している様子を見ていると、ミヒャエル・エンデの書いた「モモ」がふと頭に浮かびます。「時間どろぼう」が暗躍している。

 

「禁じ手」

コロナで講演ができなかった間に、国の母子分離策は進み、保育園はパートで繋いでいい、と規制緩和がされました。常勤の保育士を確保できなくなってきたのです。それを「短時間勤務の保育士の活躍促進」(新子育て安心プラン)と名付けた国のネーミングには呆れます。

一昔前なら、「禁じ手」だった。

幼児期、特に長時間預けられた三歳未満児は、誰と愛着関係を結ぶのがいいのか、保育士でいいのか、そうだとしても「一対三の担当制がいいか、三対九の複数担任制がいいか」、不完全な仕組みが宿命として抱えた、子どもたちの将来に影響する永遠の課題だったのです。そうした親身な悩み、心遣いを、国は「短時間勤務保育士の活躍促進」と言って、簡単に踏みにじる。一億総活躍もそうですが、この人たちは「活躍」という言葉で誤魔化す。矛盾だらけの「安い労働力確保のための政策」を押し通す。専門家会議に出ているはずの保育学者たちは、一体何をやっているんだ、と腹が立ちます。

一方で、長く、多く、預かる街が「子育てしやすい街」という図式が受け入れられていく。子ども好きの保育士からすれば、「子育て放棄しやすい街」に見える。その矛盾が学級崩壊やいじめ、教師の質の低下に連鎖し、すでに限界を超えているのに、気づかないのか、気づこうとしないのか。

首長の選挙対策と、正義を装い、親の利便性を守ろうとしてきた報道を介して、母子分離という形の「福祉」が利権として定着していった。

「ママがいい!」という、幼児たちの願いを根こそぎ、無視しておいて、「子ども真ん中」と言うのは、もう辞めてほしい。

 

(『ママがいい!』Amazonジャンル1位に復活しました、と、出版社グッドブックスの良本編集長から、Facebookに報告がありました。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4793

じわじわと読まれている。口コミとSNSが頼りです。今、なるべく多くの人に読んでもらいたい。気づいてほしい。拡散、どうぞ、よろしくお願いいたします。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。(#ママがいい)