学童保育と児童館/自治体の財源と人材不足/それでも新制度は前倒しで進んでいる/教育再生

 

学童保育と児童館、量的拡張に追いつかない人材不足
 

 

 

 美術館や公共施設が次々と指定管理制度に移行し、平行して児童館や学童保育の民営化/民間委託が急速に進んでいる。公的機関も様々で、そうすることで来館者、入場者が増える場合もあった。児童館も民営化が必ずしも悪いわけではなかったのだが、保育士不足に象徴される慢性的な「子育て」に関わる人材不足で、いい指導員を定着させることが極めて難しくなってきた。企業が運営しながら利益を出そうとすれば、待遇面で今以上のことをするのはほぼ不可能だと思う。それが出来たとしても人材不足を解消するような根本的な解決にはならない。(政府の保育士の待遇改善が年に十万円のボーナス。月に十万円増加して、やっと全国の平均給与になるというのに。しかも、そのボーナスでさえ、消費税が上がらなければ飛んでしまう話かもしれないのです。)

 学童の現場では、待機児童解消の掛け声で進む「子育ての社会化」が急速に進むことによって、子どもに対する親の関心が薄れ、より親身な、より経験を積んだ指導員を必要とする不安定な子どもが日々増えている。しかし企業側は、子育てに関わる利権の争奪戦が激しさを増す昨今、指定管理を外されることを恐れ、そうした無理な現状を率直に行政に訴えることが出来なくなっている。市場原理の狭間で、親、指導員、企業の管理職、行政といった育てる側の意思疎通が希薄化し、組織の心がバラバラになり危険な孤立化が進んでいる。利益を出す継続的運営と指導の質の間に軋轢が起っている。

 保育を成長産業と位置づけた閣議決定は、子育ての様々な分野に営利を目的とした株式会社の参入を許した。そして、制度に食い込むビジネスにより、児童館員、学童の指導者の非正規雇用化が急速に進んでいる。閣議決定が主導する「質より量」の流れが、親たちの政治家や行政に対する要求にもそのまま重なり始めている。待機児童解消が目的で、目的を達した後の子どもたちの生活の質が二の次になっている。

 最近、なぜか児童館の職員や学童の指導員に講演することが増え、男性職員が結婚を考えて辞めてゆくのに出会う。真面目に結婚を考え、または結婚して子育てをしている、責任を果たそうとしている人たちにこそ指導員になってほしいのだが、そういう人ほど数年で辞めてゆく。学童の場合は勤務時間が押さえられているとはいえ、十五万円程度の収入では、ボランティア精神がない限り長くは続けられない。子育ての社会化で家庭崩壊が進むいま、小・中学生の放課後の過ごし方、その時誰と出会うかは将来の社会の安定にとても大切で、切実で、現場では学校の先生以上に心ある優秀な、相談相手として経験を重ねた指導員を必要としている。「誰か」との愛着関係を求めている子どもが集まってくるケースが増えてきている。

 ブラック企業や「名ばかり店長」という言葉で、若い労働力が酷使され始めている社会で、実は子どもと関わることに幸福感を求めようという若者は確実にいる。意欲の萎えていない、経験豊かな館長や指導員もまだまだ居る。しかし、認可外のブラック企業的な保育園でいま起っている「名ばかり園長」の現実が、児童館や学童保育の現場にも迫ってきている。一度失ったら二度と戻って来ない大切な人たちが辞めてゆく。

 子どもの放課後の大切さを理解し、親身に声を掛けられる人たちが次の世代の指導員を育てられなくなると、現場の良心を頼りに、いままで当たり前のように存在して来た「子育てに関わる」この国の不思議な仕組みが再生不能になっていく。社会の土台を作っていた信頼関係が根こそぎ消えてゆく。それがいかに大きな損失だったか、あとで気づいてももう取り返しがつかない。保育園も児童館も学童保育も、数値目標を達成する仕組みではなく、人間たちの日々の「営み」なのだということを絶対に忘れてはならない。

 家庭的保育事業、家庭保育室、小規模保育などで資格の規制緩和を進める手段として、「子育て支援員」制度を国は作ろうとしている。20時間程度の研修で保育や学童保育にも関われる資格を新たに設けるのだ。しかし、その主旨の根底には人材不足と財政削減があり、子どもたちの本当のニーズが後回しになっている。いま家庭まで踏み込んで行ける人材、それを許す信頼関係こそが社会に求められているのに、経済施策にのみ込まれ、付け焼き刃のごまかしで「子育て」に関わる施策が進められている。

 「子ども子育て支援新制度」のパンフレットの表紙にある「みんなが子育てしやすい国へ」という言葉が虚しい。税収を増やすために母と子をなるべく引き離し、実は、子育てを非正規雇用で補いそのつけを未来に先送りしている。子育て施策の最後の安全ネットであるべき児童養護施設でも待遇の問題もあって人材不足が著しい。善意で頑張って来た人たちの顔にあきらめの表情が浮かんでいる。民生員や保護司の後継者がいない。この国独特の利他の心、人間性で保たれていた希有の仕組みが急速に限界に近づいている。「みんなが子育てしやすい国へ」という掛け声で、共倒れ現象が始まっている。

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首相の所信表明演説から
 
「子育ても、一つのキャリアです。保育サービスに携わる「子育て支援員」という新しい制度を設け、家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくりを進めます」
 
(私の考え:五歳までの子育ては一つのキャリアではなく、ほとんどの人間が「自分のいい人間性を体験し、男女がそれを確認しあう」、遺伝子に組込まれた、人類にとって不可欠の作業です。ほとんどの人間が体験することによって人間性の偏りに自然治癒力が働き、集団としての自浄作用が生まれる。幼児との対話で繰り返し次元を越える体験をすることで、社会という仕組みのバランスが保たれてきた。社会は想念から生まれるものであって、政府が作るものではない。)
ーーーーーーーーー関係資料
 

「子育て支援員」資格新設、主婦も20時間で保育従事者に 2015年度から

政府は2015年度から「子育て支援員(仮称)」資格を新たに設ける方針を固めた。育児経験がある主婦などが対象で、20時間程度の研修を受ければ、小規模保育を行う施設などで保育士のサポートにあたることができる。528日、女性の社会進出などを議論している政府の産業競争力会議で、厚生労働省などが提案した。時事ドットコムなどが報じている。

背景に不足する労働力

政府がこのような制度を設置する方針の背景には、保育人材の不足がある。政府が2015年年度から施行する「子ども・子育て支援新制度」では、保育所や小規模な保育施設、学童保育施設を増やすとしている。事業の拡充に伴い人材の確保が必要となるが、保育士不足は現状でも深刻な状態が続いている。

このため政府は、子育て支援員資格を整備することで、担い手を確保する仕組みを整えると同時に、子育て中の女性や、子育てが一段落した主婦の社会進出を後押ししたい考え。

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園長たちの人生の道筋
 

 

 

 保育士という仕事はどういう気持ちで人生を生き抜くかということで、それだけにある種の覚悟を要求される。最初の覚悟は、高校時代の進路選択の時にされるのかもしれない。お金持ちになれるわけではない。子どもが好き、という資質は利他の精神を持って生まれて来たということ。そして現場に出て、毎日のように、他人の人生に親身にならざるを得ない場面に遭遇する。見ぬふりをするとやがて幼児の目線に立ちすくむ瞬間が来きてしまう。だから続けていればその葛藤の中で人間が育っていった。

 最近保育士の人生が馴染んでいない園に出会うことがある。ちょっとした絵本のコーナーや生き物の飼い方に、子どもと重なった目線の年月を感じる機会が減ってきた。園における保育士たちの人生の伝承が行われなくなってきたのだろうか。親たちが、子どもを誰かに預けてゆく、その誰かの人生の重なり合いが感じられなくなってきた。鏡となる親の人生と交わらなくなってきたのだろう。一緒に子を育てながら、意識、心のやりとりが減ってきたのだと思う。

 子どもを預けてゆく親たちの日々の繰り返しが、競争に巻き込まれた世間の早い流れに埋もれ、取り残され、誰の目にも留まらなくなると、子どもたちの日々が社会のどこにも積み重ならなくなってくる。幼児の未來の道筋が見えないのは親たちの育ちを感じられないからで、園長たちに、自分の人生の道筋が見えなくなってくる。

 



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  無責任な宣伝文句がネット上に踊る。これを書いた人たちは、三歳未満児の子育てを経験した人たちなのだろうか。単純にビジネスチャンスと捉えているだけで、体験の伝承をしようとしている人たちではない。保育は、宣伝文句にあるような、「何から、どう始めていいかわからない」人、「今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方」、「不安でいっぱい」の人、がマニュアルを読みながら始める仕事ではない。子どもの将来にある程度の責任を持つこと、日々子どもの命を守ること。それが単純に、政府の新制度を利用して「オーナー様」に「開業」が薦められる。保育士がいないのに。

 こんなことが市場原理として政府によって推し進められている。閣議決定で40万人子どもを保育園で預かる施策を役人に進めさせることは、政府が40万人の子どもの子育てに責任を持つということという意識がない。成長産業と位置づけ、ビジネスコンサルティング会社に火をつければ財政削減になる、ぐらいにしか考えていない。。

 

振り込め詐欺の被害額が過去最高

 振り込め詐欺という犯罪が成り立つ国は、今のところ世界中で日本だけかも知れない。欧米先進国社会では、自立という名で、通常とっくに親は子との、子は親との関係を見限っているし、成人していれば自分の子どもが窮地に陥っても助けることを躊躇するか、すでに不信に満ちた社会で育っているからひっかからない。発展途上国では仕組み的に「振り込み」が出来ない場合が多い。振り込め詐欺は、日本で、信頼関係で成り立つ社会と欧米型競争社会(不信で成り立つ社会)が最後のせめぎ合いを起こしている現象だと思う。振り込め詐欺は犯罪だし、道徳観の欠如という意味では最悪の行為なのだが、アメリカの競争社会を30年間体験した視点から見ると、それがまったく成り立たない社会がどれほど不幸か、ということも同時に考えてしまう。「最後のせめぎ合い」があらゆる分野で起っている。

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(考察)

  幼児と過ごす時間は胎児との時間も含めて、進化の時間、宇宙とのやりとりを体験すること。それが「善的」で自然で、理にかなっていたことを見つめる時間なのでしょう。貧しさの中で、人間は調和しなければ生きていけなかった。それを憶い出す。そのことを感じる。

 産業革命以降かもしれない、義務教育が普及し豊かさの中で人間はかなり偏った自分を体験し続けることになる。経済とい言葉で表される何かが幸福論にすり替わり、本来の部族的つながりを離れ、人間性を必要とする、人間性を耕す営みから道筋が外れ始める。

 先進国社会における大人同士の駆け引きや裏表を偏って体験することは、豊かさ後の人間同士の欲望によって発達した罠を知ること。振り返るための体験。

 六歳で線引きされる学校教育以前と以後を、例えば「義務教育の普及+産業革命」以前と以後と考え、そこまでの進化を宇宙の理にかなった進化、それ以後を人間の意図をベースにした進化と捉えるとわかりやすいと思う。4歳でほぼ完成する人間性(一人では生きられないが、頼り切り、信じ切り、幸せそうな人類が集団として進化する形を司る性質)は、家庭という宇宙の理の中で育まれる。故に「善」なのだ、と私は定義し、それ以降の教育と経済優先の志向を「悪」とは言いませんが、かなり「危険な」道と位置づけているのだと思う。

 豊かさを体験したあとの老人たちの孤独と不安を考えてみればいい。育てない人間が見える不安、理にかなった、宇宙に守られた進化の部分を繰り返そうとしない人間を見ることで、自分の中の「善」が壊れてゆく感じがするのだと思う。「孤独と孤立」が広がってくる。


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に文章を書かせていただきました。
 

 

■育てること、育つこと


 松居和(元埼玉県教育委員長)

kazu Matsui2松居和氏

松居:最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

 

 

 (抜粋)来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。
 
 保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。
 
 実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

 

 十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

 先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。  

 

 厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

 



 01歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

 「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。


園児は騒音?/保育公定価格試算ソフトの混乱/「保育園開業・集客完全マニュアル」

 園児は騒音?

 保育園建設に反対する住民たちのことがNHKのクローズアップ現代で報道されていました。保育園の幼児たちの声は騒音だと老人たちが言うのです。確かに、幼児をこんな風に集団にするのは不自然なのです。しかし、幸せそうに生きる子どもたちを「騒音」と感じるような社会にしてしまっているのは一体誰なのか、何なのか。戦前の道徳教育を受け、ある時期「絆」を強く感じ合う体験をした人たちが、なぜこんなことを言うようになったのか。社会全体の幼児を見る視線、視点、意識が変わってきているのです。それが世の中の空気感を変えている。最近よく道徳教育という言葉が言われますが、道徳とは社会の空気感の中で主体的に維持されるもの、またはその空気感そのものではないか、と思います。流動的で、常に作用反作用で動いてゆく、人々の意識の連動のような気がします。

 子どもを40万人保育園で預からないと女性が輝けない、と政府が言う。

 親を育て、人間性が共感する次元を整え、社会に絆を生み出すために存在する子どもたちを、大人を輝かせない障害と見なすようになっている。その奇妙で不自然な視線が少しずつ重なりあって、今の社会全体の意識を作ろうとしている。確かに新生児は人間から自由を奪うために産まれてきます。自由を奪われ、自由を捧げ、絆をつくり、人間は一人では生きられない自分に幸せを感じ成長した。そこで育まれる「利他」の心が、社会にモラルと秩序を与えてきた。

 本来幼い子どもたちをたくさん集めて一緒に生活させることは不自然なのですが、その音が不快に思えるようになってきた。マスコミとか政治家とか、社会の意図を左右する仕組みが、弱者の役割りとその願いを理解しないから、その無理解が意思となって伝わって行き、「弱者の幸せ」が騒音に聴こえるようになる。夏の蝉の声は苦痛ではないのに、深層心理の次元で「幸せの音」が苦痛になってきている。

 一日保育者体験をした親たちの感想文を読むと、たった8時間幼児たちに囲まれることによって人間の感性がずいぶん変わることがわかるのです。遺伝子がオンになってくる、という感じでしょうか。言い換えれば、それまでどれだけオンになるべき遺伝子がオンになっていなかったかがわかるのです。

 

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 筑波大名誉教授の分子生物学者、村上和雄氏の「生命の暗号」という本に、遺伝子がたくさんオンになるほど良い研究が出来る、感性が磨かれる、と書いてあります。そして、遺伝子をなるべくオンにするには、感謝すること、Give&Giveの気持ちで生きること、その典型が乳児を育てる母親、と書いてあるのを読んで、感動したことがあります。

 

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 男が授乳できれば結構遺伝子がオンになるのでしょう。そんな風に考えたことがあります。しかし、それは宿命的に無理なのです。男女は陰陽の法則のなかで助け合うために相対的、必然的発達障害の関係にある。今の世の中、昔は当たり前だった、父親が乳幼児を日々抱いて遺伝子をオンにする時間が極端に短くなっています。だから年にたった一日、八時間でもいい。父親を人間らしくする一日保育士体験を薦めています。

 「親心を育む会」のホームページに父親たちの感想が数百載ってます。人間が変質する瞬間が見えます。とても、効き目があります。

 経済競争というパワーゲーム(マネーゲーム)に組込まれた子育ての社会化が、親らしさで心を一つにする(男女の差異を調和に発展させる)部族の定義を揺るがしています。

 最近陰のベストセラーになっている「逝きし世の面影」渡辺京二著の第十章、(子どもの楽園)を読むと、150年前、幼児を崇拝し眺めながら楽しそうに生きていた日本人たちの安心感と笑顔が、それを書いた欧米人の魂を揺さぶった瞬間が見えてきます。インドや中国をすでに見て知っている欧米人が、なぜこの国を「パラダイス」と書き残したか。貧しきものは幸いなれ、と言った聖書の言葉が、幼児を中心に生きることでいとも簡単に具現化されることに気づいたからだと思うのです。

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 第十章だけでもいい、生きる力を失いかけている中学生、高校生に本当の日本の歴史を知らせるために読んであげて欲しい。男たちがこれほど幼児と一体となって暮らしていた国はない。百五十年前にこの地に来た欧米人が時空を越えて私たちの本質を知らせようとしています。

 貧しい人たちも輝いていた。これが誇るべき、自慢すべき、日本の姿のはず。この章と保育体験の組み合わせで、きっと生徒たちには伝わるはずです。生きることの意味が。

 

 子育てに幸せを感じ、心を一つにし、人々が安心すると、競争が止まり今風の経済は減速するのかもしれない。しかし競争の対極にある幸福観を持つのがこの国の個性ではなかったのか。

 

保育公定価格試算ソフトの混乱

 

 消費税を上げるのか上げないのか、政府が揺れ始めている。進むも地獄、返すも地獄と報道されていましたが、保育界は過去例がないほど混乱しています。そんな中、コンサルティング会社が元気です。仕組みの抜け穴を読み解きコンサルティング料を取って、保育でいかに儲けるかを指南しています。子どもたちのための保育が、ビジネスチャンスとしての保育に変えられ、そして「保育園開業・集客完全マニュアル」(後述)なるものまで現れる。今まで積み上げて来た保育の伝統とは何だったのか。ここまで来ると新規事業の最前線では、乳幼児の命、そして子どもたちの人生を左右するはずの幼児期の子育てが変質し、保育の無法地帯化が始まっている。

 

 来年四月から始まる子ども・子育て支援新制度は消費税が10%に上がる前提のもとに「前倒し」で進んでいます。消費税を上げるためのスケープゴートに使われたのかもしれない。保育園、幼稚園、認定こども園各種、小規模保育、家庭的保育事業、一号認定、二号認定、三号認定、何人ずつ子どもを預かればどれだけの補助が出るのか、計算するソフトが内閣府のページからダウンロード出来るのですが、6月のバージョンには問題があって8月に新たなバージョンが出来、それを使いながら園長設置者たちが本当はよくわからないまま損得勘定で決断を迫られ、十月の募集に間に合わせるために役場も条例の改定、市議会での決議、と五里霧中、指示されるままに進んできてしまいました。

 そしていま、国の「子育てしやすい国づくり」が「待機児童の解消」=「保育園を増やすこと」とする考え方に、日本人が違和感を覚えなくなっている。

 

 だから、「子育て」に直面している保育士が自己矛盾を感じ始める。(そして、園児が騒音と見なされるようになっている。)自分たちが、一歳児なら園児6人に保育士1人、4、5歳児だと30対1でやるのが本当に「子育て」なのだろうか。そして、「子育てしやすい」の「しやすい」という言葉の中身を考えて立ちすくみます。自分たちが頑張ることが、「子育て放棄しやすい」を意味しているのではないか。その疑問と葛藤が保育の現場の根本に芽生えたから、新制度はいくら継ぎはぎの修正をしても、迷走を続けるしかないのです。

 

 幼稚園と保育園は仕組みの成り立ち、意図が違います。安易に一体化しようとしても、民主党の「子ども・子育て新システム」から続く主旨の姑息さが必ず現れる。いくら計算ソフトの改訂をしても、紆余曲折の後、結局は、長年かけて作られた仕組みに戻るしかなくなってくる。いま意識の転換をしても、どこまで戻れるがわからりませんが、しかし、これを前倒しで進めている政治家と行政は意地でも戻ろうとしない。

 

 少し専門的なテーマになってしまいますが、

 私立の90人定員の保育園がこども園に移行し、一号認定(幼稚園並み保育時間)の子どもを15人にすると、地域やこれから決まる公定価格によって多少差がありますが年間二千万円くらいのプラスになります。いくつかの自治体に試算をしてもらいましたが、15人という数字がマジックナンバーになっている。この仕掛けを知っている園もあれば、知らない園もある。気づいた役人は震え上がり、知らない役人もいる。

 こども園に移行させるために、ここまで税金をインセンティブに使う政府の理念と哲学が見えません。介護保険のように市場原理で財政削減に結びつけようとしているのか、保育園と幼稚園の間にある子育てにおける差別感をなくそうとしているのか、単なる設定上のミスなのか、いずれにしても子ども優先の施策ではない。こんなやり方は明らかに財政的に続かない。自治体が負担分に耐えられなくなる。

 東京都は元々国の補助以外に保育園には多額の手当が出ていて結果的に加算にはならないので関係ありません。公立も一般財源化されているので無関係。2号3号ですでに待機がいる地域では一号認定を加えようとしても市の認定が降りないのかもしれない。しかし地方の、待機児童がいなくて幼稚園がないような地域(全国で2割、人口一万人以下の自治体では5割)では、園児の3割くらいが本来は一号認定に入るべき子どもたちで、在園児の15人に一号認定になってもらいこども園に移行することは充分可能です。これをすれば保育士一人月額5万円くらいの加算になるかもしれない。こども園という「幼稚園のいいところと保育園のいいところを合わせて」という政府がいまだに言い続ける仕組みの理念は、保育士不足の現実から考えると机上の空論だとしても、保育士の待遇の悪さに心を痛めている園長・設置者にとって年二千万円は魅力です。この加算の仕組みが、もし一部の人たちにだけ意図的に知らされていたとしたら、保育施策を覆すスキャンダルです。

 

(関連して、ある市の課長から)

 当市では、子ども・子育て支援法第28条第1項第2号の「特別利用保育」を利用する子どもの受け入れを決定していますが、国からの情報がありません。保育所の公定価格試算ソフトに特別利用保育の項目を入れる等の対策を講じていただかなければ、認定こども園と保育所の比較を正確に行うことは困難です。至急対応いただきたい課題です。

(「特別利用保育」は保育園に一号認定の子どもを入れてゆく仕組みで、もともと幼稚園が無いような自治体で、いい課長が「子どもは親と過ごしたがっている」と考える時に、従来疑わしい就労証明書で受けていた子どもたちを本来の一号認定に戻してゆく場合に有効な手段です。この市では公立保育園がほとんどなので、条例を作り市の指導でこういう施策が可能です。私立保育園が予算獲得のために認定こども園になり一号認定を十五名入れれば大きな加算となるのに、公立保育園が、親の必要な時間だけ預かるという保育園の本来の姿に立ち返るために進める良心的な手段における補助金の算定が公定価格試算ソフトに入っていない。付け焼き刃の施策の盲点や矛盾点、バグがますます明らかになってきます。)

 

 

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 家庭の問題を理解し親身にならざるを得ない園長先生は、卒園式の日に園児をそっと送り出す。祈るような気持ちで...、背中を押す園は子育てをしている。子どもたちにとって家庭であって、ただ預っている場所ではないから、その気持ちが親に伝わらないことに傷つく。

 良くない事件が起こると、どこかに身を凍らせている園長を感じる。

 

 

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(保育行政を超えて児相や児童養護施設まで関わり、凄い行動力で、親身に動き続ける女性の役人からメールが着ました。児童虐待を止めるために、家の前で張り込みをするような女性です。)

 

こんばんは。

あすは、市長と市議選のダブル選挙です。

保育園のお迎え時間に、門扉の前でビラ配り。節操のない状態に心が痛いです。

これまで保育に全く関心のなかった市議でさえ、初当選から保育の問題を説いてきた!と言います。(これを偽りと云わずして何を偽りと云うのでしょう)

どんな結果になっても、保育を政治的な判断で決めない人であってほしいと思います。

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松居様

 

いつもTwitterを拝読しております。

私は都内北区在住の3歳と1歳の男の子を持つ母親です。

松居様のTwitterを知り、ご本も読んで勉強させて頂いております。

本日の日本経済新聞夕刊一面に、

「都立公園内に保育所・東京都が待機児童解消策」と言う記事がありました。公園を潰して保育所を建てるとあるのです。悲しみと同時に薄気味悪さを感じました。子供達が、母子が集う、近隣住民の憩いの場を潰して保育所を建てると言うのです。そこまでして母子を引き離そうとする薄気味悪さ..もし可能ならば松居様のTwitterなどにご意見を発信して頂きたい

そう思い、非礼とは思いましたがメールさせて頂きました。

私は会社員で、3歳の長男を一歳から保育所に預けました。育児休暇は一年間。預ける事になんの抵抗もありませんでした。当然と思いました。ですが次男の育児休暇の今、とあるブログをきっかけに思いを改め、そして松居様や長田先生のご本を読み、変わりました。仕事を辞め、子供を自分で育てようと言う考えに変わりました。今は、このままでは日本の母親は産んだ子供は保育所に預けるのが当たり前になってしまうのではと、怖くなります。今日の様な記事を見ると

自分の事しか出来ない一般人の私です。松居様に日本のお母さんに気付きのきっかけを作って頂きたい。そう思い、メールさせて頂きました。どうかよろしくお願い致します。

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 お手紙ありがとうございます。とてもよくわかります。社会全体が、何か肝心なものを忘れて、当たり前のように、後戻り出来ない方向へ進んで行きます。

 必ず母親たちの心のブレーキがかかると信じて、書いたり、講演したりしています。そうするしかありません。ですから、こういうお手紙をいただくと嬉しいのです。少しずつ、気づけばいいだけなのだ、と思います。

 仕組みの状況に関しては、どの部分から変わり始めるのか、どの部分から手を付けられるのか、ちょっとわからないほど保育界全体が追い込まれている。虚しいくらいの状況ですが、頑張ります。もし、私にできることがありましたらおっしゃって下さい。講演でよければ行きます。大切なのは、母親たちが声を上げることだと思います。幼児のためにはそれが一番自然で、効き目があると思います。

 

松居

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(ある役場の人からのメール)

消費税の引き上げと子育て新法案について

今年の4月から、消費税が8%になっことに伴い、臨時特別交付金及び子育て世代特例給付金が支給されました。このロジックに国民は騙されてはいけません。お金をばら蒔いて、誤魔化してるとしか思えないのです。介護保険がはじまった2000年、その前年の1999年、当時の小渕内閣が行った地域振興券。これは、15才未満を持つ世帯に金券千円をこども一人あたり2万円分支給したもの。40才から介護保険料の負担を強いる前にバラまいたとしか思えません。消費税10%引き上げを目前に控え、またバラまき政治と思えるのは私の歪んだ感性からでしょうか?

 介護保険法と子育て三法案。

おなじ厚労省がやっていることとはいえ、ロジックが似すぎています。介護保険料は5年おきに改定。国民の負担は増えるばかりです。これも最初から引き上げねらいでしたから、あくどいですね。子育て政策も、今はおいしい事をいっても、梯子をはずされるのは目にみえています。保育園・幼稚園経営者の先見の明を望みます。

追伸

今月臨時国会で可決した「女性活躍推進法」()について。ゆっくり和先生とお話ししたいです。

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(園長先生からのメール)

船井総研に次いで、どしどしビジネス保育の営業が増え始めましたね。安易に保育を始め、事故や問題おきたら逃げてしまうんでしょうね。事故というより刑事事件であることも理解しないままに。

 http://www.info-studies.com/hoiku-top/

 小規模保育がターゲットだそうです。

 

(内容は)

「保育園開業・集客完全マニュアル」

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*独立・起業を考えているが、何から、どう始めたらよいかわからない。

*自己資金がなくてもできる起業を探したい。

* 自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいだ。

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起業をしたいと思ったときがチャンスです。ネットビジネスも儲かるのでしょうが、やはり安定した収入は確保したいものです。しかし、単に「起業」と言っても、何をどう始めたらよいのか、どんな手順を踏んで、どんな書類を用意しなければならないのか、わからない方がほとんどです。

そこで、「保育園開業・集客完全マニュアル」をあたなにお届けいたします!

1つのご提案として、本マニュアルには、今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方にも一からご理解いただけるようにわかりやすい手順が説明されています。保育園開業・集客完全マニュアル」をお読みになった方は、そのほとんどが興味を持たれ、開業されたオーナー様も多くいらっしゃいます。勇気をもって新たな一歩を踏み出すお手伝いをさせていただければ本望です!

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(私の意見:保育は「何から、どう始めていいかわからない」人、「今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方」がマニュアルを読みながらやる仕事ではないはず。こんなことが市場原理として政府によって推し進められているのです。だから保育園が騒音に聴こえてくるのです。)

六年前の状況から新制度へ/塩・味噌・醤油(天才保育士)/「子育て支援員

以前にもブログに書いたのですが、6年前に著書「なぜ,私たちは0歳児を授かるのか」に「閉じ込められるこどもたち」という章を書きました。当時認可外保育園で儲けようという動きが全国展開を始めていて、フランチャイズ料と指導料で大きく稼ぐ会社が衛星チャンネルやインターネットで宣伝を打っていました。しかし、その内容は、子どもたちの安全性、保育の質を考えると継続性が見込めない、非常に危ういビジネスの形でした。お金を儲けるための親支援、子どもたちの気持ちなどほとんど意識しないやり方でした。

当時「厚労省の資料を調べると、平成十九年度に新設されたベビーホテルが全国で193カ所、廃止休止が177カ所。認可外保育施設は594カ所が新設され492カ所が廃止休止です。」

大人の都合優先の方向が洗練され大規模になり、変えられずに進んできた先に「子ども・子育て支援新制度」があります。そして、また先月、川崎の認可外小規模保育園で小さな命が宿泊保育中に亡くなっているのです。正直、やりきれない思いです。

乳幼児を預かれば事故は起きるでしょう。乳幼児は弱者です。特別注意を払っていても人間は完璧ではありません。子育てをしていれば仕方のないことです。でも、認可外保育園で事故が起る確立は乳幼児だけを比べても認可の8倍と言われます。保育士の人材確保が困難な状況で、小規模保育や家庭的保育事業には安全性という観点からは無理があることはこのブログにも書きました。それを国の新制度は、来年の四月から補助をより手厚くし増やそうとしている。大手コンサルタント会社がそれを知って、小規模保育でどう儲けるかという宣伝を全国展開で煽っている。しかし、保育士の待遇改善は微々たる物。経済対策が優先し子育てにおける倫理観が欠如してきています。

その国が一方で「道徳教育」と言うのです。「道徳」の定義はよくわかりませんが、親が子を慈しみ、子が親に敬意をはらう、始まりはそんなことではないでしょうか。国の「子育てに関わる」施策がその両方を壊している。学校における「道徳教育の推進」などと言って誤摩化しても、国全体のモラルや秩序は国の保育(子育て、親育ち)の軽視で、ますます疲弊してきています。

40万人保育園で預かれ、しかもそれを成長産業と位置づけ、そこでその時子どもがどういう体験をするかということに対する配慮がまったく感じられない。国の成長戦略の中で「子どもの成長」と「親の成長」が無視されている。そして、結局将来の戦力/人間力が弱まってゆく。

人類の歴史から考えて、男女が共同して参画する行為の第一番が「子育て」だったはず。その機会を、国が施策で取り上げようとする。しかも男女共同参画社会という言葉を使って。現在の政府にとって「社会」は経済競争でしかない。そんなやり方でいいのでしょうか。言論の自由はまだ確保されているのです。マスコミや報道の見識が問われているのだと思います。

(六年前の文章です。)

閉じ込められる子どもたち

 

フランチャイズ制の認可外保育施設を全国展開している会社が、保育施設の経営を保育の経験がない人たちにまで勧めています。私の講演を聞いた人から、保育園をやって年収八〇〇万円くらいになるのですか、とメールをもらってびっくりしました。開設費や指導料を最初に計三〇〇万円払い、フランチャイズ料を月々五万円払う仕組みだそうです。規制緩和に乗じて大元の会社が指導料で利益を上げているような気がしてなりません。

「一人保育士がいれば、あとはパートでいいんです」「三つ経営すれば月100万円になります」と言われたそうです。利用者向けの宣伝には、「母親に代わり知育・徳育・体育をします」と書いてあります。開設をすすめるパンフレットの人件費の計算書は、時給八五〇円×七時間×二五日×保育士の人数。時給八五〇円で六人の子どもの母親に代わり知徳体の子育てができるのだったら、文科省も厚労省も苦労しません。

厚労省の資料を調べると、平成十九年度に新設されたベビーホテルが全国で193カ所、廃止休止が177カ所。認可外保育施設は594カ所が新設され492カ所が廃止休止です。こんなビジネスに、自分の意思では過ごす場所も決められない幼児を年に250日も預けていいのでしょうか。ベビーホテルの95%に立ち入り調査が実施されていますが、70%が指導監督基準に適合せず、認可外保育施設の77%に立ち入り調査が実施され、半数が指導監督基準に適合しない。

いままで規則で守られていた保育界を、民営化の名のもとに利益を追求する会社が参入できるように「改革」したのは、これまた保育に素人の、いや私に言わせれば「人間に素人」の経済学者と政治家たち。福祉はサービス、親のニーズに応えますと言って票を集め当選し、国の予算が破綻してくると福祉の予算は簡単に減らされ「民営化」です。選択肢のない子どもたちが泣いています。女性の社会進出で税収を増やそう、という切羽詰まった目的を、サービス産業には競争原理を持ち込めば質が上がる、という安易な経済論でカモフラージュして進めているのです。以前、女性の社会進出で税収を増やそう、という目的が、女性の人権というカモフラージュで進められたときと似ています。

しかし、子育てのサービス産業化はいずれ社会全体のモラルと秩序の低下を招きます。人間は子どもをないがしろにしたときに、自ら良心を捨てるからです。人々の心に疑心暗鬼が広がります。離婚が増え、経済はますます悪くなり、いずれもっと深く大きく破綻するでしょう。必ずどこかで誰かにつけが回ってくる。地球温暖化と似た構図です。

私は六割の結婚が離婚に終わるアメリカの状況を考えていて、これが地球温暖化の原因の一つでは、と思ったことがあります。一つの家庭が分裂すれば、釜戸が二つに、冷蔵庫も二つになります。電化製品メーカーにはいいでしょうが、温暖化ガスの排出量は二倍です。輸出に頼ってきた日本には一時的によかったのかもしれません。しかしその結果、私たちは人類として大きな代償を払わなければならなくなってきているのです。

すでにこうした無認可のフランチャイズ制の託児所が、全国に何百カ所も作られています。子どもたちが毎日「親らしさを放棄しようとする仕組み」を体験し育っていくのです。とりかえしのつかない未来への負の遺産です。

私が見に行ったところは、25畳くらいの部屋に40人前後の子どもが預けられている保育所でした。異年齢が一緒に受ける「混合自由保育」を売りにしていますが、一部屋ではそれ以外にはできません。一番私が耐えられなかったのは、この状態だと一日中「静寂」がないことです。異年齢の子どもを一斉に静かにさせることは不可能です。〇歳児と一歳児が偶然眠ってしまったときに、二歳児三歳児にひそひそと読み聞かせをし、四歳児五歳児に静かに遊んでもらう。そんなことは天才保育士でも不可能です。

静かな時間がない環境で、保育士と子どもたちが一日八時間以上、年に250日過ごす。園庭がないと、反響板の中に常に閉じ込められている感じがします。逃げ場がないのです。

もう一つ気になったのは、保護者会がないこと。これをやると園児が集まらない。親へのサービスが第一なのです。週五日預けている親に、「土曜日も夫婦で遊んできてください。お預かりしていますから」と言うそうです。こうした小規模園では親に対するサービスが死活問題になのです。

認可外保育所は二人に一人が保育資格を持っていればいい。そのうち、資格を持たない男性のパートを安易に入れるようになったら、と考えると恐ろしくなります。

アメリカで30年ほど前に、保育所や幼稚園における男性職員による性的いたずらが社会問題になりました。訴訟が怖いから、と保育士に「なるべく園児に触らないように」という指示を出していた園長先生を思い出します。男性保育士がいけない、と言うのではないのですが、ある日本の女性園長が、「保育士は毎日何度もオムツを替えます。娘さんが知らない男性に毎日オムツを替えてもらって、あなたは平気ですか?」とおっしゃった言葉には、真理と洞察があります。男女平等という弱者をも競争に巻き込もうとする争いよりはるかに深い、人間の性、修羅にもとづいた直感的なルールが人間社会にはあるのです。

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(そして今)

 当時のことを鮮明に憶い出します。六年経って、子ども・子育て新システム、新制度、混乱の中で「子育ての社会化、市場化」は確実に急速に進み、その結果としていい保育士が大量に辞めていきます。いまごろ保育士の時給850円で始まった保育園はどうなっているのでしょうか。多くが辞めていったとして、その過程で子どもたちはどういう日々を送ったのでしょうか。そして、六年前市場原理で始まった危うい動きが閣議決定で「保育は成長産業」と位置づけられ、後押しされ、国規模で進められようとしているのです。働く親たちが安心して子どもを預けられる環境などもう望めなくなっている。

小規模保育が自転車操業に陥った時に、「預かっていますから、週末夫婦で遊びに行ってらっしゃい」という言葉が平気で園長の口から出るようになるのがサービス産業。少子化の現実の中で、営利を目的とした小規模保育ほど経営の先行きが見えない自転車操業に陥りやすいのです。毎年3月に、4月に何人保育士を確保したらいいかわからない状況になる。呼び込みのような事実とは異なった宣伝が始まる。その宣伝がまた次の事故を生んでいる。(http://kazu-matsui.jp/diary/2014/09/post-210.html)

そのずっと以前に園長は親(客)に小言も注意も言えなくなっている。園を継続させるなら、心を閉ざすしかないような事態になっている。(http://kazu-matsui.jp/diary/2014/10/post-217.html)

子どもの未来につながる園での幸せが、今日・明日の経営に埋もれてゆくのです。当時、良いことをしようと脱サラまでして貯金をはたいて始めた夫婦の事業が、アッという間に、幼児の最善の利益を優先しない危ない保育産業になってしまうのを見ました。

そんな環境の中で、客の顔色をうかがうサービス業には向かない、一見要領の悪い、けれど心の温かい保育の天才たちが一年くらいで辞めていきました。いい園長先生が数年時間をかけて、伝承が生きる良い環境の中でしっかり育てればきっと長く続くいい保育士に育った人たちが、「保育とは呼べない保育ビジネス」を1、2年体験し去ってゆきました。そして、彼女たちは二度と戻って来なかった。自分の子どもを保育所には預けなかった。天命の職場には戻らず、家庭に入っていった。

親たちに対するサービス業に向く人と、乳児・幼児に好かれる生まれながらの天才保育士は異なる素質を持った人たちです。親の要求を仕事として受け入れられる人たちと、子どもの幸せを願って暮らす人たちは、相容れない人生観と才能を持った人たちです。子どもに話しかける声のトーンが違います。見つめる時の笑顔の質が違います。

だから保育界では、ビジネスに向く管理者はいい保育士を引き止めることができないのです。

いま株式会社系の大手保育チェーンが必要な人数の三割増しくらいの求人をするのは、毎年三割程度の社員が現場を去ってゆくことを知っているからです。でも、彼らが知らないのは、そういう保育士たちの中に保育界の将来の宝がいた、ということ。三歳未満児を「あなたは愛されている」「だからだいじょうぶ」「生きることは美しい」と包み込む、30年後には道祖神園長になったかもしれない、両親や祖父母、まわりの人たちに可愛がられ手塩にかけて育てられた気持ちのやさしい人たちがいた、ということ。

塩・味噌・醤油

ある園長先生が話してくれました。

養成校の教授に信頼されているその園長は保育士を育てるのに定評があります。ある年、保育士に欠員が出たため4人の卒業生を推薦してほしいと教授にお願いしました。

四人を選んでくれた教授が園長に笑いながら言いました。「二人は、将来現場でリーダーとなってゆく優秀な学生たちです。もう二人は、学業には向かないけれど天才的な保育士です……」

園長は一応形式的に筆記試験をしました。栄養の三要素は何ですかという問いに、天才保育士の1人が「塩、味噌、醤油」と書いたのだそうです。

園長はそこで大笑いをし涙ぐみながら私に言うのです。「この塩、味噌、醤油が、本当に、本当に保育の天才でした」

昔、ある園長が私にささやきました。「明るくって、元気がよくて、何でもできる保育士ばっかりだったら、子どもは疲れちゃうんだ。五人に一人くらいは暗くてやさしい保育士がいなくちゃね」。子育てとか家庭はバランスなんですね。それぞれが役割りを持っている。

また、ある園長が私に言いました。「園長がしっかりしていたら、主任は少し暢気なくらいがいいんですよ。主任がしっかりしていたら、園長はのんびりしているといいんです。両方のんびりしていたら困るけど、二人ともしっかりしていたら、保育士も子どもも息がつまってしまう。色んな家庭から来た子どもを大勢預かっているんですから、園の雰囲気といいますか、バランスがとても大切なんです。年月が必要なんです」

こうしたことはなかなか学校では教えてくれません。家庭という形に正解が無いように、園という形にも正解はありません。でも、0才1才2才児を預かる時、彼らが園であったことをちゃんと家で報告できない、ということだけは忘れてはいけない。私は毎年これだけたくさんの園を25年間に見てきて、そこで時間を過ごしてきて、あってはいけない風景や、それを体験した保育士と出会い、それを無くすことはできないけど、減らさなければいけないと思うのです。

どんな母親でも、まわりに数人相談相手がいればかけがえのない母親になれるように、学業には向かなくても書類づくりはまるで駄目でも、天才的保育士はいい園長に当たって数年で一人前の保育士、園という家族の一員に育っていったものです。少しの忍耐力と優しささえあれば、かけがえのない園の一員に育っていきました。

毎年、株式会社や派遣会社で2、3割の保育士が辞めてゆく話を聴くと、いい園長に出会っていれば、数年で、ときには20年くらいかけて、立派な保育士に育った子たちがその中にいたんだろうな、と思ってしまいます。

 

首相の所信表明演説から

「子育ても、一つのキャリアです。保育サービスに携わる「子育て支援員」という新しい制度を設け、家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくりを進めます」

ーーーーーーーーー関係資料

「子育て支援員」資格新設、主婦も20時間で保育従事者に 2015年度から

政府は2015年度から「子育て支援員(仮称)」資格を新たに設ける方針を固めた。育児経験がある主婦などが対象で、20時間程度の研修を受ければ、小規模保育を行う施設などで保育士のサポートにあたることができる。5月28日、女性の社会進出などを議論している政府の産業競争力会議で、厚生労働省などが提案した。時事ドットコムなどが報じている。

背景に不足する労働力

政府がこのような制度を設置する方針の背景には、保育人材の不足がある。政府が2015年年度から施行する「子ども・子育て支援新制度」では、保育所や小規模な保育施設、学童保育施設を増やすとしている。事業の拡充に伴い人材の確保が必要となるが、保育士不足は現状でも深刻な状態が続いている。

このため政府は、子育て支援員資格を整備することで、担い手を確保する仕組みを整えると同時に、子育て中の女性や、子育てが一段落した主婦の社会進出を後押ししたい考え。

■保育士の給与を引き上げにくい理由

厚生労働相の資料によれば、2017

年末には保育士が約7.4万人不足するとされており、政府は対応を迫られている。保育士確保の対策として、保育士の資格を持っているが現在は保育士として働いていない「潜在保育士」の掘り起こしや、離職者を減らすための研修実施などが挙げられているが、給与面での保育士の待遇を改善することも喫緊の課題だ。しかし、なかなか保育士の給与を上げにくい状況がある。保育士の給与を上げるためには、その元手が必要だが、行政が保護者が支払う保育料の上限を設定しており、その上限を超えると行政から補助金が下りなくなるのだ。保育所が預かることができる子供の人数は、保育所の広さや保育者の数で、決められるため、ひとつの保育所が得られる収入には限りがある。そのため保育士の給与を上げるためには、「保護者が支払う保育料の上限を引き上げる」、「ひとりの保育者が、預かることができる子供の人数の規定を増やす」、もしくは「行政が支払う補助金の額を引き上げる」などの対応が必要になる。政府は「子ども・子育て新制度」の予算で、保育士の処遇改善を行う予定だった。しかし、新制度の財源が不足するとわかったため、保育士の給与アップについては、当初の最大5%増から3%増にとどめることになった。政府の子ども・子育て会議は現在も、保育所に支給する補助金の額や、利用者の支払う保険料について議論が行われており、今後保育士の処遇についても算定するという。

■准保育士は何のために生まれたのか

実は、准保育士の話が出たのは今回が初めてではない。2007年の第1次安倍内閣時にも、当時の規制改革会議の中で登場している。なぜ、このタイミングで准保育士は再び議題に上がったのか。当時、准保育士の提案を行ったのは、人材派遣事業を展開するパソナ。保育士の受験資格を規制緩和することが目的だった。大卒や短大卒であれば専攻の内容にかかわらず、実務経験がなくても保育士の試験を受験できるのに対し、中卒や高卒の人は実務経験がないと試験を受けることすらできない現況をおかしいと考える人が、同社の社員や登録者に多かったためだ。同社が行ったアンケートによると、「気持ちと熱意のある方には資格や知識は必要だと思うが学歴は関係ない」という意見や「専攻にフィルターがかかっていないのであれば学歴は意味が無い」などのコメントが寄せられたという。2007年当時は、実務経験についても児童福祉施設に限られており、その児童福祉施設も採用自体が少なかったことから「最初からシャットアウトされているのではないか」とのコメントも出ていた。

当時、パソナに派遣社員として登録する人のなかには、子育てが一段落した30代、40代の人もおり、自分が子育てで経験したことを、社会貢献のひとつとして活かすために時給800~900円でもやりたいと考える人がいた。しかし、資格が無いために保育の現場には派遣しにくかった。そこで、准保育士などの資格を作り、保育所で補助的な仕事をしながら実務経験を積んだ後、正規の保育士としての受験資格を得るような道筋がつくれないか、という提案が行われたのだ。

「失敗しない保育園選び」??

 ある園長先生からこの記事が送られて来ました。
 こんな記事を読んで、子どもの気持ちを優先に保育する園長たちが辞めてゆくのだと思う。http://diamond.jp/articles/-/59676
 今年は特にそれが多い。待機児童を無くせという合唱が「保育/子育ては国がやるべき当然のサービス」という姿勢を一部の親たちに植え付け始めている。本当にそれでいいのですか?
 こういう苦言を呈してくれる人たちが実は子どもの成長にとって現場で重要な役割りを果たしてきた。保育士にも苦言を呈し、若い保育士を育ててくれた。乳幼児の安全に欠かせない人たちだった。その人たちをこんな風に扱っては保育自体がその本質を変えざるを得ない。そのしわ寄せは義務教育の方にも確実に着ています。アメリカほどではないですが、子どもの気持ち考えられない親たちが学校教育を疲弊させている。
 「子育てはなるべく保護者が汗をかいてやるべきという、悪しき根性論」こんなことを正論のように「実用ライフスタイル雑誌」という出版物に「失敗しない保育園選び」と題して載せる人たちがいる。保育士側からすれば、「子育てはなるべく保育士が汗をかいてやるべきという、悪しき経済論」とも言える。一緒に子どもを育てている、心をひとつにするべい人間同士がこんなことを言い合う仕組みなどもうやめた方がいい、と思ってしまう。いったい幼児の気持ちはどうなるのだろうか。

東京保育園ランキング by ダイヤモンドQ

世田谷区の保育園を大胆にランキング!
はっきり分かった”株式会社”の高評

http://diamond.jp/articles/-/59676

我が子を保育園に入園させる道は長くて険しい。大都市では女性の社会進出に伴う保育園不足が深刻であり、保育園に関する情報が少ないためにどこを選べばいいのか分からないという保護者も多い。そこで、実用ライフスタイル雑誌「ダイヤモンドQ」編集部が、「失敗しない保育園選び」のために実用的な情報を紹介しよう。第1回は、最も待機児童が多いことで注目されている世田谷区の保育園事情を明らかにする。

「子どもが通っている世田谷区が経営している保育園では、子どもの昼寝用布団のシーツは保護者がかけることになっています。夏になるとクーラーがかかっていない熱い部屋で汗だくになってシーツ掛けをさせられ、とても嫌な気分になります。ほかにもスーパーのレジ袋を提げて行ったりするだけで、園長や保育士から怒られます。買い物に行く時間があったら、1分でも早く子どもを迎えに来なさいということなのでしょう。子育てはなるべく保護者が汗をかいてやるべきという、悪しき根性論がはびこっており、時代錯誤もいいところです」

 世田谷区営の保育園に子どもを通わせているこの保護者は、前近代的な経営方針や考え方に嫌気がさし、ついには別の保育園に転園したという。こうした保護者の悩みは実はよく聞かれる話だ。公営の保育園が昔からのやり方に固執するのに対して、株式会社経営の保育園はサービスが充実していて柔軟な対応ができると一般に言われてきた。 

 ダイヤモンドQ(創刊準備1号)の特集「失敗しない保育園選び」では、利用者が安心できる保育園の視点でランキング「東京ベスト保育園594」を作成した。各保育園を100点満点で評価し、市区町村ごとに点数の高い順に並べた。その結果、公営と株式会社経営では、主に保護者からの評価に大きな差があることが判明した。

本邦初の東京保育園ランキング
上位594保育園を点数で評価した

 ランキングは東京都内の認可保育園・認証保育園を対象に、サービス内容、利用者尊重の姿勢、不満・要望への対応、組織運営力などを点数化。特に保護者の声を重視した点数配分にした。今回の調査は昨年度、第三者評価を受けており、情報開示に積極的で業務改善に意欲がある保育園だけを対象とした「ベスト保育園」なので、都内のすべての認可保育園、認証保育園をカバーしているわけではなく、各自治体で最下位の保育園が必ずしも本当の最下位の保育園ではないことをお断りしておく。その結果、世田谷区のランキング結果が非常に興味深いものとなった。

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  毎日自分の子どもを育ててもらっている園に対してこういうひどいことを言う親は昔から少しはいた。子どもの日々の生活がどこでどのように行われているか、保育士たちが人間としてどんな目線を小さい子たちに注いでいるか、想像出来ないし、しようとしない。それについては失望するしかない。しかし、この親の発言を読めば、園長先生と親と、どちらが本当に子どものことを考えているか、常識的にはわかるはず。しかし、この親の発言を肯定するようなことをマスコミが印刷して広げることはまた別問題で、マスコミが想像力や常識を失ってしまっては、ただでさえ心のこもらない保育士が増えている保育園を決定的に追い込むことになる。保育園はサービス産業、成長産業と位置づけてしまった閣議決定が背後にはある。しかし、人間社会の一般常識として、子どもの面倒はできるかぎり親が見るべき、それが親子の将来にとっていいのだ、とする園長先生の視点は学校教育や福祉をこの先成り立たせるためには絶対に必要な視点、人間性の原点と言ってもいい。それは前近代的な視点ではなく、幼児と接していれば自然に生まれる人間性だと思う。

 この記事は、けっこう話題になっているようで、保育や児相での現場、家庭崩壊の最前線で頑張っているある市の行政の女性から、こんな記事があるのですけれど、ご存知ですか?と同じ記事について連絡をいただいた。驚くのは、女性の上司でもある管理職の女性から「だから公立の保育園は駄目なのよ」と言われたというのだ。管理職の人は保育現場の経験がない、保育現場でどのように心が動いているか、まったくわからない人だった。ましてや預けられている幼児の気持ちなどは遠過ぎて考えもしない人なのだろう。こんな風に仕組みは作られている。その中で、日々、幼児に直接接する人たちが心を病んで辞めてゆく。

 この記事が推薦する株式会社系の保育園で、毎年何割の保育士が辞めてゆくか、出版社はしらべるべきだと思う。そして、良い保育園を選ぶ時に、他の親の意見だけではなく、実際に現場に居るひとたち、居たひとたちの意見を聴いてみればいい。その人たちの方が子どもたちの気持ちを代弁してくれるはず。一見不親切に見えることに大切な意味があったりする。親へのサービスは子どもたちへのサービスにはならないし、年輩者や経験者の意見にはひとまず聴いてみるべきだと思う。とくに、子育てに関しては。

江戸川双葉幼稚園のブログから「お弁当について」/七月、認可外保育施設の宿泊保育で女児死亡/シャクティからの手紙

 小さい頃に、人間の本質は自然に輝く。その繰り返しが波のように続き、生きる力になった。まわりがそれを見つめ、可愛がるほど力が輝きを増し強くなる。そして、全員が輝いていた。なぜなら、1人では生きられなかったから。

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 保育も教育も、家族という体験に代わることは出来ない。家庭での子育ては学校教育がなくてもなりたつ。何千年もの間だいじょうぶだった。学校教育は家庭での子育てがなければなりたたない。学校と家庭は、その意味、目的の次元が異なります。「子育て」と「教育」が混同されると次元の違いが見えなくなる。歴史の長さが違うことを常に意識するべきです。


 江戸川双葉幼稚園の菅原久子先生とは父の代からもう30年くらいのお付き合いで、何度か園にも講演に行きました。久子先生は保育界では論客で、何度かお互いの文章が隣り合わせになることがありました。私が衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をした時には、お願いして、後ろに座っていただきました。

 先日江戸川区の幼稚園教職員の全体研修会で息子さんの創先生にお会いしました。給食のある幼稚園を探していた親が、創先生の書いた園のブログから「お弁当について」の記事を読んで、「お弁当の意味」に納得し、子どもが入園してきたそうです。講演をしていて思うのですが、便利なことは必ずしもいいことではない。特に幼児を育てている時は、知らないうちに親の「思い」がおもわぬ瞬間に子どもに伝わっていたり、毎日のちょっとした努力の積み重ねがとても大切なものを育てていたりする。丁寧に説明すればたいていの親は理解してくれる。

 (政府が保育施策を「親の利便性」と「労働力確保」でやっているから、スマフォやゲームに平気で長時間子守りをさせる親が増えるのです。でも、どういう園に当たるか、で一家の人生はずいぶん変わる。そんな時代になりました。)

 


江戸川双葉幼稚園のブログから、お弁当について

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http://blog.goo.ne.jp/futaba_kindergarten/e/ff7ba42e15b022a6ca46da572da80ad8

「ここの幼稚園はお弁当ですか?」

 幼稚園を見学に来られる保護者の方から、必ずと言っていいほど聞かれることです。

 ふたば幼稚園のお昼ご飯はお弁当です。保護者の方々にとって、お弁当よりも給食の方が楽であることはわかっています。わたし自身、以前は給食を出す幼稚園にいましたが、幼稚園にとっても経営的にかなりプラスになります。でも、やっぱり幼稚園はお弁当の方がいいと思います。それはなぜだと思いますか?

 子どもたちは、給食をよく残します。親御さんは、給食なら嫌いなものも食べられるようになるだろうと期待しますが、幼児期の子どもは、まず食べることはありません。毎日そんな感じですので、かえって残すことが当たり前になってしまいます。教師たちは、食べ残しを捨てることに心を痛めながらも、誰が何をどれだけ食べ、何をどんな理由で残したかを把握することは不可能です。

 子どもたちは、お弁当は残しません。毎日親御さんが何を作ってくれたのかを楽しみにしてお弁当箱を開け、嬉しそうな顔をして全部食べます。もちろん、時には全部食べられないこともあります。しかし、残すには残す理由があります。教師は親御さんに残したときの様子などをお帰りの時に伝えます。親御さんは、残菜やお子さんの顔を見て、また前後の経緯を思い浮かべて考えます。例えば、昨日夫婦げんかを見せてしまった翌日、お弁当を残してきたとか、お弁当を残して帰ってきた日の夜、熱を出したとか。そういうことの繰り返しを通して、子どもたちの言葉にならないサインを読み取ることができるようになっていきます。

 このようにして、子どものことをしっかり理解して育てるというのは、とても大事なことだと思います。このプロセスを通じて、親は子どものことを感覚的に理解できてしまうようになります。このようにしてできていった親子関係は、一生続きます。

 みなさんも記憶があるはずです。お子さんがまだ赤ちゃんだった時、泣いている理由がわからず苦労したはずです。おっぱいかな?眠いのかな?うんちかな?最初はわからなかったものが、だんだんわかってきたはずです。新生児の泣く理由って、4種類ぐらいしかないんですけどね(笑)。でも、最初はわからないものなのです。

 子どもが成長し世界が広がってくると、またわからないことが出てきます。2歳の子どもの情緒は10種類ぐらい、3歳になると数十種類になると言われています。そして、いやなことがあっても泣かないことも出てきます。どこまでわかっていたら十分なのか。それが、幼児期までの子どもの心です。ここまでしっかりつかんでいれば、それ以降は多少ルーズにしていても大丈夫です。

 子育ては、幼児期以降もまだまだ続きます。思春期になると、どんな子どもでもそれなりに不安定になります。子どもが荒れた時、子どもの荒れる理由が感覚的にわかる。そういう親子関係だったら、子どもはすぐに落ち着くでしょう。しかし、親が全然理解できなかったら、子どもは救われません。

 では、しっかりした親子関係を作っていくには、どうしていったらよいでしょう。

 幼稚園のお弁当は、その方法の一つです。これがすべてではありませんが、これに代わるものもありません。この特別な時期だけでも、ちょっと頑張ってみませんか?

 

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悲しい出来事がまた起きました

宇都宮の認可外保育施設で宿泊保育中に女児死亡


 (産経ニュースから、前略)愛美利ちゃんが死亡した施設は、児童福祉法が定める保育所に該当しない認可外保育施設。市保育課によると、こうした施設は市内に19カ所あり、設備やサービス内容などを記した運用状況報告書の提出が義務付けられているほか、年に1回立ち入り検査を実施しているという。

 施設では、パンフレットやホームページで24時間預かりや夜間保育をうたい、「看護師がおり、嘱託医とも提携しているので病気の場合も迅速な対応が可能」などと宣伝していた。

 だが市に提出された報告書には、一時預かりのみで夜間保育などは行っていないと記載され、看護師も常駐していなかった。嘱託医として名前が挙げられていた医療機関は、両親の問い合わせに対して「そんな事実はない」と否定したという。

 市は、愛美利ちゃんが死亡する以前に報告書の内容と宣伝内容が違っているのを把握し施設側に指摘。施設側は「対応する」と返答していたが、「事故」は起きた。

 市の担当者は「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と明かすが、両親は「違反車両を認識していたが、そのまま取り締まらずに走らせておいて死亡事故を起こしたようなものだ」と話している。

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 死亡事故にまでつながることは稀ですが、乳幼児の安全を確保出来ない状況が現在進行形で全国に急速に広がっています。子どもの安全が守れないような、子どもが大人を信じなくなるような、心ない保育が政府によって前倒しで、少しずつ確実に広められているのです。それは国家の存続に関わる最重要問題・危機であり現実なのですが、政治家たちは気づこうとしない。気づいていても選挙優先、政権維持優先、経済優先で真面目に向き合おうとしない。国の成立以前からの自然の法や摂理を国が無視しては、国自体の存続が危うくなる。こういう乳幼児の死亡事故は事故ではなく、仕組みの欠陥であって、それは政治家が作ったもの。そのくらいの自覚は持ってほしい。一体何を考えているのだろう。
 乳幼児の安全に責任を持たなければいけない市がすでに「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と言っている。この市だけで19カ所、その状況の下で乳幼児が日常的に繰り返し預けられている。なぜそれが出来るようになったのか、よく考えてほしい。
 こうした、様々な形の小規模保育の状況を市が監督・指導できない状態はもう十年以上放置されている。監督しようとしても罰則規定がないから取り締まれない。(取り締まれば「待機児童対策」が進まないから罰則規定を作らない?)その現実を私も本に書きました。政治家にも機会のあるたびに伝えました。厚労省の局長にも言った。知らないとは言わせない。知らなかったら政治家の資格はない。
 その現実を知りながら、今の内閣は来年始まる子ども・子育て支援新制度で、「すべての子どもたちが、笑顔で成長して いくために」とパンフレットに書き、もう40万人保育園で預かることを目標に掲げて施策を進める。犠牲者が出るような規制緩和で保育の質を下げておいて、まだ歩けないうちから親と離され「すべての子どもたちが笑顔になる」はずがない。たとえ園庭で笑顔になっても、いい保育士に当たって笑顔になっても、それは父母や祖父母と視線を合わせる笑顔とは違う。
 たくさん預かれば女性が子どもをもっと産む、などという政府の考え方は人間性に対する暴言だと思う。日本はそういう国ではなかったはず。幼児の気持ちを優先するのがこの国の伝統文化だったはず。いまでも、幼稚園に子どもを預ける親のほうが保育園に預ける親よりも子どもを多く産む。まだ伝統は生きている。

 新制度では、労働力確保を目的に、保育資格者が半数でいい小規模保育を自治体に奨励し、家庭的保育事業は資格がなくても2週間の研修で誰にでもできるようになる。その研修を誰がするのか、中身をどうするのか、待ったなしの無理な施策を押し付けられた県が右往左往している。4月の実施に合わせ11月には研修を始めなければならない。小規模保育が監督できないのに、より細分化された規制緩和・家庭的保育事業を市町村が監督できるとは思えない。何かあったら誰が責任をとるのか。それさえも曖昧なのだ。
 国は、自治体を使って、今まで以上に保育界を市場原理という無法地帯にしようとしている。一体何人の小さな命が失われればこの動きをやめるのか。
 保育界が追い詰められ、乳幼児の安全がすでに確保出来なくなっていることをマスコミがなぜもっと厳しく書かないのか。待機児童を無くすことばかり報道するマスコミの姿勢は「働く女性のため」のように見えるが、実際は先の見えない経済論に振り回されているだけではないのか。本当に懸命に働いている、保育が必要な親子のための保育が壊されてゆく。
 
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シャクティからの手紙
 南インド、タミルナード州、シャクティ・センターのシスター・チャンドラから手紙が着ました。新しいホームページが出来ました、と書いてある。
 私の作ったドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の映像がうまく使われています。NHKの国際テレビのインタビューもありました。
 冷蔵庫も洗濯機も水道もない村人たちが、より良い生活を求めて娘たちをシャクティセンターに預けます。歴然としたカースト制の続くインドで、女性の地位向上は中々思うように進みません。経済成長の名のもとに貧富の差がますます広がっています。犯罪が増え、センターでも停電になる回数が増えたそうです。
 でも、シスターは一歩一歩、歩いていきます。一人一人、教え、導きます。時々顔をしかめますが、笑顔で日々の努力を続けます。そして、みんなで踊ります。
 そのエネルギーの源は、貧しいけれど,親が子を思い、子が親を思うダリットの村人たちの助け合う姿勢、笑顔なのでしょう。助け合わなければ生きていけない。貧しさと子育てが絆を育てます。それがあれば、人間は自分の欠けている部分、良くない資質を抑制することができるのです。絆の安心感が薄くなると、社会から笑顔が消えます。そして、不可解な犯罪がより一層不安をかき立てるのです。
ドキュメンタリーの中でシスターが言いました。

Unity, Equality, Harmony.
"We all come out of the oneness."
"There should be no divisions, hi caste, low caste, rich, or poor, No. We are one."
-- Sister Chandra
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 毎年会いに行こうと思いながら、今年はまだ行けていません。
 でも、あっちとこっちで、二人で頑張っている感じはしています。今年は二人で還暦になりました。
Dear Loving Kasuzan,
How is yoko san and Ryo san
How is your health. Are you ok kasuzan.
Sorry we could not mail to you for long time.
But we very often talk about you and our friends.
are you very busy
Can you not make a trip to visit us
We are eagerly waiting to see you
Now we have created a new website.www.sakthifolk.org 
The previous one we could not update.so it will not open.
waiting to hear from you.
Love to yoko ,Ryo and all our friends.
Love from all our sakthi dancers.
With much love,
Sr.Chandraand felci


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三歳児神話について。/NHKニュースから・報道の仕方について

 三つ子の魂百まで、ということわざがあります。キリスト教の聖母子像もその一つの象徴ですが、ネイティブアメリカンの民話、インドのラーマヤーナなど、様々な文化や宗教の中で三歳までの親子の関係に人間は特別な価値や意味を見いだしてきた。そして、生きる術として次世代に伝承してきた。その時期の親子の「双方向に向き合い、育て、育てられる関係」は人間性の基盤を育て、その場で育まれる「情」は人間社会のセイフティーネットだったと思う。

 大自然の法則とも言うべき選択肢のない関係と制約が気に入らないのか、「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいました。だから保育園でもっと預かっていい、大丈夫、という論旨で使われたのですが、最近、「三歳児神話は正しいと言う論説はあるのですか?否定的な論説はたくさんあるのですが」とある町の保育行政の方から質問を受けたのです。

 一応、学者のフロイト、分析医のエリクソンとかユネスコの子ども白書、国連と結んだこどもの権利条約、脳科学者の発言などをいくつか例として挙げてはみましたが、この問題は論争自体がおかしいのです。

 神社に向かって「この神社は、神社に過ぎない」と言っているようなもの。それは、そこにあるもので、こういう物が人間の(実存はしない)過去と未来をつないでいるのです。その存在理由を学問が問うなら、なぜほとんどすべての家に人形たちが居て、人間と一緒に住んで居るのか、そこで人形たちは何をしているのか、太古の昔まで振り返って考えてみるといいのです。いまさら「人形は、人形に過ぎない」と言う人はいないのです。世界中にこれだけたくさんの人形たちが、それぞれ長い歴史を持ち、様々な文化の中でほとんどの家に住んでいるということは、過去と意識を共有する道具として、自らの意識を重ね未来に伝える伝達手段として、やはり人間には必要な者たちなのです。人形も0才児も人間が自らいい人間になろうとして作り,生み出してきたもの。俯瞰的に見ればそれ自体が生命体と呼んでいい存在となりうる……。

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 雛祭りは雛祭り、土俵入りは土俵入り、トーテムはトーテム、音楽は音楽にすぎない。しかし、学問が神話と対峙する時、神話とか神社の正しさより、その存在理由を文化人類学的に振り返り、現代社会における役割りのさらなる正当性を調和という次元で問うべきだと思う。

 聖書のノアの箱船の話を嘘だと言っても、ほとんど論争にはならない。(戦争にはなるかもしれない。)

 法華経の序章を、あり得ないこととその真偽を追求する人も居ないでしょう。聖書も法華経も人類の歴史や進化の一部としていまだに未来のために存在する。歴然と存在する。

 最近困るのは、神話は神話に過ぎないと馬鹿なことを言う連中の発言を真に受け、政治家が国の成り立ちであるはずの「子育て」の本質を経済優先で変質させようとしていること。利用しようとしていること。なぜ、そう言う人たちが出たか、その流れと意図を把握した方がいい。これは日本という一つの文明の終わりの始まりなのかも知れないのです。

 神話は本来政治に利用されるべきものではない。それが、三歳児神話においては、否定することで政治的に利用されている。

 神話はいつでも生活の中に生きている。

 音楽におけるメロディーや、砂場で遊ぶ幼児たちの想像力は神話と同次元で、(実存しない)過去と未来を存在させ、それを楽しむ。人間は実存しないそれらのものを共有し体験していればいい。子育ては親が自分の人間性(遺伝子)に感動すること。そのためにも、過去と未来は常に意識されていたほうがいいのです。

 

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 保育園が四つしかない町で三歳児神話の正当性を私に尋ねた保育課の人は、一日保育士体験を始めようとする感性を持った人だった。政府の保育施策を進めながら、何かおかしいと感じるから自分のやっていることに正当性を見出したかったのだと思います。私も、三歳までの親子関係の大切さは言いますが、三歳未満児保育をなくせとは主張していない。保育という制度が、どういう「心持ち」と共になら生き残れるのか、荒れてゆく社会にどう対応出来るか、という話をその町の保育士たちにしたのでした。

 神話とともに生きるのか…?

 別の言い方をすれば、三歳未満児を平均十時間、年に260日、後ろめたさを感じながら預けるのか、そうでないのか。それがいま過去の人間たちの体験が育んだ神話(意識)によって問われているのだと思います。断言できるのは、三歳児神話を多くの親たちが身近に感じていないと、いい保育士がいなくなるということ。そして、本当に預けなければならない人、辛そうに預ける親の子どもたちの保育環境がどんどん悪くなっていくこと。その流れはすぐに学校教育に影響し、すべての子どもたちの環境になってゆくということ。

 こうした一連の流れや連鎖は、いままでは神話の領域で語られ、戒められてきたことですが、自然科学の分野で証明され始める一つの法則/原則でもある。だから、今の時代が大事なのだと思う。日本という、先進国でありながら欧米の文化とは一線を画す不思議な国が役に立つ時だと思う。

 

 ことわざや言い伝え、一般常識も含め、数々の神話的なものを軽んじるようになると、待機児童が2万1千人しかいないのに、一国の首相が経済対策で乳児を保育事業でもう40万人預かれと言い始めるのです。そして、マスコミがそれをほとんど疑問を抱かずに報道する。主張出来ない子どもたちの願いがいつからか聴こえていない。刹那的な競争社会に翻弄され、喋らない乳児の存在理由が見えなくなっている。

 歴史の浅い「学問」や「経済的成功者」の意見に頼り過ぎているからそうなるのだと思います。4才児、という一番幸せそうな人たちの生き方から社会の核になる「幸福論」を学ばなければいけない。その人たちを眺めることによって、人間の心はどう成長し一つになってきたのか、意識を司る思考回路のどの部分がどうセットされるのか。それは間もなく科学によって明らかにされるでしょう。

 学問や経済的成功者の歴史は浅いが、幼児の集団を眺める歴史は古い。

 学問は、しばしば神話を否定することによって成長して来ました。しかし、それではうまくいかなくなってきた。

 何千年にも渡って、母親が知らない人に乳児を手渡すことはなかった。それが保育施策における発想の原点にあってほしい。

 以前、ある経済学者が「0才児は寝たきりなんだから」と私の目の前で言った。小泉政権の経済財政諮問会議の座長をやっていた有名な学者だった。その時、私の隣に座っていた共励保育園の長田先生が拳を握りしめ、もう片方に座っていたなでしこ保育園の門倉先生が肩を震わせた。園で、たくさんの幼児たち、太古からの伝令者たちと毎日過ごしている人たちが、「こんな連中がやっているんだ」と怒りに震えた。

 

 四月から始まる子ども・子育て支援新制度は、8時間保育を短時間11時間保育を標準時間と名付けました。11時間を長時間と名付けるなら、まだわかる。子どもにとって、親から11時間離れることは「標準」ではない。それが標準だったら人類は進化出来なかったはず。それを決めた政府の意向の根拠は心を忘れた保育施策、神話を忘れた経済論でしかない。伝達手段が発達した現代において言葉は注意して使わなければいけない。特に「政府」という、仕組み全体に影響力を持つ「力」が「標準」という言葉を使う時に、遺伝子とか歴史、文化や伝統に照らし合わせなければ、社会からモラルや秩序が消えてゆく。

 11時間が標準、これによって今まで、「子どもを迎えに来てから買い物に行きなさい」と親を叱っていた園長たちの立場が崩れてゆくのです。こうした年長者、園長たちの忠告や進言をパワハラとまで言う親が現れる。http://news.livedoor.com/article/detail/9242868/ 保育士たちの子どもを思う心が萎えてゆく。子どもの最善の利益を優先する、という保育所保育指針が空洞化してくる。

 子どもたちは神話なくしては生きられない。子どもたち自身が神話の源で、子育てから「祈り」が始まるのだから。

 最近「愛国心」という言葉が聴こえてくると思う。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる「調和」だったはず。国の概念が曖昧なまま、愛国心という言葉を愛する人たちが、言葉でまとまってもやがて限界が来る。心は、共通の体験を伴う調和だと、神話が言っている気がする。

 

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NHKニュースから)

 厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で2万1371人で、去年の同じ時期より1370人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、ことし中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。(以上)

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 「四年連続で減って来ている、現在2万1371人の待機児童を解消するために40万人の保育の受け皿を確保する」これはよく考えれば変なのです。それは政府の目論見であって、人々の願いではない。望んでいる社会の姿でもない。それをマスコミはきちんと指摘してほしい。こういう言葉や数字がテレビのニュースで流れてくるのを繰り返し聴いているうちに、「待機児童は解消しなければいけないもの。それはまだ40万人居る」という印象が人々の記憶に刷り込まれていくのです。こうした仕掛けのある刷り込みを誘導する「経済優先の支配者になろうとする想念」は確かに人間性の一部ではあるけれど、それは、常に「絶対的弱者を育てるという利他の土台」が対極にあって抑制されていた人間性なのです。子育ての社会化が進むとこの対極の抑制が効かなくなり、人々は一層競争に駆り立てられる。待機児童を解消することは実は三歳未満児を母親と引き離すことでもある、という記憶が薄れてゆく。

 「受け皿」という言葉も、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」と言わずに「子育ての受け皿」というべき。そう言えば、気づく人はいる。家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、と。

 保育の新制度、実は、待機児童解消が目的ではなく、子育ての本質を曖昧にすることによって女性の労働力を増やすのが目的です。だから保育園を増やしても待機児童は解消されない。40万人を目指しているのだから労働力と待機児童はまだまだ掘り起こされることになる。マスコミは数字を見て深刻な状態と言うのですが、本当に深刻なのは「子どもたちの過ごす時間の質」が下がっていること、「親の心が社会に育つことの大切さ」を政府が考えていないこと。そして、こうした報道の繰り返しで「子どもは仕組みが育ててくれるべきもの」という考え方が少しずつ日本人の心に刷り込まれてゆくこと。それが取り返しのつかない痛手となってこの国に残ってゆく。そういう思いを持った親たちがある一定の数を超えれば仕組み自体が成り立たなくなる。

 「計画通りに保育所の整備が進めば七万4000人の保育士が不足する見通し」。これは現在進行形のとんでもない状況なのです。政府はその意味がよくわかっていない。1万人不足であろうと、5000人不足であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。悪いことを子どもにする保育士を素早く解雇できなくなる。その状態こそが子どもにとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても「深刻」なのです。

 潜在保育士60万人と、これもまた単純に数値で言いますが、相当数が一度も保育を体験したことのない言ってみればペーパードライバーか、実は過去にふるいにかけられた保育士、自らこの仕事に向かないと気づいた保育士たち。このひとたちを掘り起こして採用すれば、園の空気が淀んで来る。保育は、ただ人数を揃えればいいという話ではない。仮に運よくいい保育士を掘り起こすことが出来ても、たぶん今の保育の状況を体験すれば,昔を知る保育士ほどあきれ顔で再び辞めてしまうでしょう。

 十年遅い話ですが待遇改善はもちろん必要です。でもよほど意識を変え、リニア新幹線をやめるとか防衛費を削るとかしないかぎり、現状で四千億円不足しているという試算があり、このままでは焼け石に水です。すでに派遣保育の時給が去年の倍以上に高騰している状況で根本的な改善が出来るのか。どう考えても無理な施策です。

 養成校に来る学生の質、国家資格取得のあり方、小規模保育における規制緩和を加えて考えたら、ちょっとどうしていいかわからない。「一日保育士体験の薦め」でこつこつと、やっていくしかありません。頑張りますけれど。

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 人生は自分を体験すること、しかも、たった一度だけ。それなら、過去の人間たちの意識を重ね合わせることによって、より深く体験できる。

 多くの人間が選択肢無しに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり付き合うこと。それを楽しむこと。それは、人類にとって重要なことだと思う。

 

 

 


 

 

 

 
 

園長からの手紙:厚労省と政治家は心の耳を傾けてほしい。

松居和様

 横浜市にある小学校にて先生の講演を聞かせていただきました。たぶん年寄りは2名しかいませんでしたね。その一人です。

 お久しぶりです・・と言っても先生の記憶にはないものと思いますが、4年前に先生に講演を申し込んだ保育園の園長をしているものです。

 私の保育園は横浜保育室です。園庭もなく、ビルの一階にある保育園ですので、松居先生や長田先生に言わせると、なんていうところだと思われるかもしれません。私はK市で32年間保育士をしていました。30年の流れの中で、子どもが変わった、親が変わった、社会も変わった、休みでも簡単に預けてしまう、自分の生活には立ち入らないでほしいと、都合の悪いことはすぐに市長への手紙が行く時代。

 ゆったりと子育てを楽しむ気持ちが薄らいでいるこの時代、母子関係の希薄さに危機感を覚えました。

 自分の子育てをしながらいろいろな子ども達を見てきました。いじめ、不登校、リストカット、小中学生のいろんな問題を見ればなぜ子ども達が気持ちよく育たないのだろうと、疑問を持つ日々。先生は公立園の園長をよく御存じですが、私のいた市では、園長会で園長たちが滾々と教え込まれてきたマニュアルを、子どもにとってどうかと考える前に保育士にただ受け入れろ、余計なことは言うなという体制をとる方が多かったと思います。

 子育ての大事なことを伝えられなくなっていることに、これではだめだ、もっと親のそばに立ち、一緒に子育てをしながら子どもの声を代弁していかなくては、母子関係が成り立たない、そう思い本当の子育て支援をしたく早期退職し、自分で保育園を作ったのです。私にはこれが精いっぱいの保育園でした。

 見学に来る保護者の方には、この保育園は、いいのいいのと何でもやってあげる保育園ではなく、本当に大事なことを伝えます。時には大変だと思うこともあるかもしれないけれど、この乳児期が一番大切なのだと、丁寧にお話をしています。ここがいいと言って多々ある保育園の中から選んでくださる方も多いです。その中のおひとりが今回の小学校での講演会を企画した一人です。

 この地域には3つの小学校があります。現状として学級崩壊状態のところもあったり、いじめが子供だけでなく保護者同士であったり、その親の偏見が子供のいじめを助長させているところもあるようです。具体的には保育園出身か幼稚園出身かで差別が生まれたり、親の最終学歴を聞いてくる方もいて、それでグループができるなど。これが子供に影響しないわけがありません。

 その状態に心を傷めていた方が先生の講演を聞き、ぜひとも自分の小学校へ呼んで先生のお話を聞かせたいと、発案されたのです。学校始まって以来の保護者会主催の講演会、これを実現させるまでにかなり頑張っていました。私も実現できたことを本当に嬉しく思っています。

 なぜこんな手紙を書いているかと言うと、今の保育情勢に大変危機感を覚え、それを誰にも言えない苦しさから、ぜひ先生に聞いてもらいたいと思ったからです。

 認可保育園もたくさんできました。

 方針は確かに立派なことが書いてあり、素敵ですが、それぞれの企業で、いろいろな教育をうたっております。その教育が問題なのです。

 先日当園で昨年の卒園児と在園児の交流会があり、認可保育園や幼稚園の情報などを教えてもらいました。その中の一人の話を聞いて、私は怒りがこみ上げてきました。

 その保育園ではなんとかと言う横文字の教育、お勉強をさせているということです。3歳児の子どもにプリントをさせる。4月2日生まれのその子は、クラスでも一番小さいでしょう。

 うちの子は何だかついていけてないみたいで、プリントをこんなにいっぱい持って帰ってくるんですと。家でやりなさいと宿題です。でも、なかなかゆっくりも見てやれないし・・と。

 3歳児で「できない」「やらない」「できなくてもいいや」と挫折感を味あわせるのか、無気力、無関心を育てているのか。3歳でそんなことを味あわせてほしくない。やらせるのであれば、分からない子をすくい上げてほしい。小さな子に教育を行うのであれば、その責任は大きい。お勉強の前にもっともっとたくさん満足感、達成感を味あわせてほしいのに。

 認可は役所で申込み、保護者は選べないのです。どんなことをしていても、子どもはいっぱいに埋まる。保育の質も反省も何も関係なく。このような子ども達がどんどん作られているとしたら、今後この国はどうなるのだろうか。乳幼児のうちから挫折感を味わい無気力、無感心な子ども達が小学校へ送られる。上手く育つはずはありません。

 保育園を開園してから5年目を迎えた私。

 地域を作ることから始めなくてはと思いながらどこから始めようか、誰に声をかけたらいいか様子見の2年間。いろいろな場で私の意見を言っているうちに地域プラザの方が、私に声をかけてくださり、地区の子育てを考える会に呼んでくれました。これまで老人に対しての対策に取り組んでいたケアプラザでしたが一段落したのでこれから子育てに力を入れていきたいと、私と、保護司の方と話し合いを持ち、この地で何ができるのか草案を作りました。

 まず、小学生の登校下校時間帯に年寄りたちに町に出てもらおう。最初から難しいことを始めるのではなく、声掛けからと。常に大人の目があることを子供たちに知らせたい。井戸端会議があちこちであるようなところがいいよねと。少しずつですが何かが動き始めたようで、本当に嬉しいです。

 そんな活動をしながらも、子育て新システムとやらが本当に親子にとって良い物なのか。小さいうちは自分で見たいとか、短時間の仕事でいいから少しでも子どもといたいという親心が潰されてしまうのではないか。保育園に入るために育休も取らない、削って0才児から入れてしまう。今まさにそれが始まっています。配偶者控除も取り上げられ、ますます拍車がかかるのではないか。不安、焦り、怒りさえ感じます。でも、これだけのことを話しあえる園長はなかなかいません。

 他園のことをなんだかんだ言うことはできません。

 誰にも言えないけれど、子どもの育ちを考えると、辛くなります。

 横浜保育室、29年には認可にならなくてはなりませんが、空いている土地がなければどうにもなりません。やらなければならないことがいっぱいあるはずなのにこのまま潰されていくかもと言う情けなさと、あまりにひどい現状からもういいか・・と投げ出したくなる気持ちと。

 お金があれば4月に一度に5個も10個も認可を作り上げていく大企業。中身が伴えばいけれど・・。

 自分はやるぞ、と思って立ち上げた保育園ですが、本当にやりたくても小さなところにはその余裕がない。情けないです。

 保護者が、先生、私たちが署名をすれば役所は認可を認めてくれますか?と言いました。

うちの園は今のところでも障害者トイレを作れば認可にはできます。でも園庭がありません。別の場所で作ろうにも土地がありません。広い敷地の園で育つ子は幸せ、でも都会の真ん中で生きていかなければならない子供もいる。その子どもにどれだけのことがしてやれるのか、それも大きな課題なのです。

 なるようにしかならないけれど、最後まで頑張るつもりです。

 先生、お話させていただきちょっとすっきりしました。

 長田先生の本は保護者用貸出しの本の中にしっかりと入れてあります。

 これからも先生のご活躍を遠くから応援しております。長々連ねてしまいましたが読んでいただいてありがとうございました。

 無認可の枠組みに入れられてしまっている横浜保育室ですがこんなところもあるんです。

 保育園ものぞいてみてください。

http://www.yakou-tsubomi-hoikuen.com/

 園長ブログでは子育てについてもいろいろ発信しております。

 大事な子ども、しっかりと育ってほしいと願うばかりです。

私の返信:

ありがとうございます。
とても、よくわかります。
本当に、多面的な問題が一気に出て来ました。その多くが、以前から保育界に内在していた問題には違いないのですが、いくつかの常識や習慣と子どもたちの笑顔の中で、長い間何とか治まっていたのです。それが、いま収拾がつかない形で噴出して来た感じです。
内閣が、根本的なところで視点を修正してくれないと本当に恐いですね。

松居

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 私の師匠たちの中に何人か、既存の保育のやり方に疑問を持ち、認可外から自分で保育所を立ち上げた方がいる。始まりが30年前だと良い流れにのって、いまでは三つの認可保育園を運営し、地域で「鬼と呼ばれている」名物園長もいる。1人の保育士が、これではいけない、と子どもたちのために立ち上がることに変わりはないのだが、いまの時代、子どもを優先に考える園長・設置者は、保育を成長産業、雇用労働施策の一部と考える政府や行政の方針に逆行している無力感、虚しさを感じることになる。もう一度、こういう保育者の心の叫びに政府は耳を傾けて欲しい。

 園長が指摘する保育の中に教育を取り込むことの難しさ。子どもたち、親たちをしっかり見極める力が保育士にないと、その子に合わない無理な「教育」が、大切にしなければいけない芽をあまりにも早い時期に摘み取ることになりかねない。そんな気持ちでひとり1人の子どもを見つめる保育士たちの視線が、目的だけの保育で曇り始めている時に、「保育と教育の両面を併せ持ち」などと暢気な机上の論理を冒頭に書く「子ども・子育て支援新制度」。政府も学者も何もわかってはいない。

「閣議決定」と公正取引委員会の介入/広い園庭(園長は考える)/K市保育連盟からの手紙/

「閣議決定」と公正取引委員会の介入


 最近の政府の動きがわからない。いよいよこの国を根幹から壊すようなことをする。以下、市場原理で保育を考える公正取引委員会の調査報告の冒頭部分ですが、十年前、経済財政諮問会議が「保育園で子どもを預かり女性が働けば、それで得られる税収の方が保育にかかる費用より大きい、お得」とした発想がいまだ続いている。潜在的欧米コンプレックスなのか、欧米並みに女性が働くこと/子育ての社会化が先進国の道と決めた経済学者が政治家に薦めた過去十五年間の保育施策は、実際、少子化対策にも、増税対策にもならなかった。子どもも増えないし、家庭崩壊に起因して福祉全体の予算が増すだけで、増税対策にもならなかった。それを認めず、子ども・子育て支援新制度で、政府はいまだにそれを実現させようとする。今回の公正取引委員会を使うやり方は、いよいよ力ずくのようで恐ろしい。

 保育士不足と資格を取る学生と園長設置者の質の低下で、すでに保育界がこれほど追い込まれ、子どもに寄り添う保育士たちが次々と去り、現場における保育の定義さえ揺らいでいるのに、意地なのか面子なのか、政治家は経済優先で一度決めた道をあきらめようとしない。この調査報告書を読むと、公正取引委員会を使って、保育園が託児所化されてゆく過程がよくわかります。こども園化によって、幼稚園も引き込まれるかもしれない。斜体が報告書からの引用、括弧内は私のコメントです。

 

(平成26625日)保育分野に関する調査報告書について(概要)http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h26/jun/140625.html

平成26625日 公正取引委員会

1 経緯(報告書第11

 我が国の少子化の要因の一つとして,仕事と子育ての両立の難しさが挙げられている。特に都市部では,保育の需要に対して子供を預かる保育施設が不足しており,待機児童の発生が大きな問題となっている。


(仕事と子育ての両立は出来ない。どちらかが犠牲になる。その現実から目を逸らし「両立」を目指しても、社会のあちこちに歪みが生れ、いつかそれが全体の負の遺産として返ってくる。幼児の要求に感謝し、応えることで人間社会は心を一つにしてきた。子育ては目的ではなく、親子がたがいの人間性を体験する「喜び」がその中心だったことを忘れてはいけない。そこに選択肢がないからこそ覚悟が問われる通過儀礼のような人生体験。ほとんどの人間がその道を通ってきた。この常識的な覚悟の所在を曖昧にすることで、秩序を保つために不可欠な連帯感と自制心が先進国社会から消えてゆく。

 「待機児童の発生」という言葉に違和感がある。待機児童は発生するものではない。児童の意志と無関係なところで人為的に作られた名前にすぎない。主張出来ない、でも実は親と一緒にいたい子どもの気持ちを常態的に政府が無視していると、こういう感性に欠ける言い方をする役人が現れる。悪意はないのだろうが、子どもの気持ちという大切な視点が欠落している。)


 保育分野については,平成248月に子ども・子育て関連三法が成立し,平成274月に予定されている同法に基づく子ども・子育て支援新制度(以下「新制度」という。)の施行に向けた準備が国・自治体双方で行われているほか,「待機児童解消加速化プラン」(平成25419日内閣総理大臣公表)に基づき,平成29年度末までに待機児童を解消することを目指して種々の取組が強化されてきている。 また,「日本再興戦略」(平成25614日閣議決定)では,保育分野は,「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」,「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」とされている。さらに,国の成長・発展等への貢献を目的に,「規制改革実施計画」(平成25614日閣議決定)においては,保育の質を確保しつつ,待機児童の解消を目指し,改革に取り組むこととされている。


「日本再興戦略」の「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」,「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」という文言に問題がある。保育の質は、保育士の心。それがわかっていない。質を問うのは子どもたちであって、親たちの利便性が基準ではない。「日本再興戦略」で保育がただの仕事・労働と位置づけされている。これは日本を欧米化させていることであって「再興」させているのではない。いまこの国がその存在意義を守るために一番大切な、保育士や子どもの気持ちを政府が考えない。だからそれに反発するように危機的な保育士不足が起っている。それが、いつまでたっても理解されない。

 新制度が巻き起こしている今の保育界の混乱と疑心暗鬼、そして養成校の学生と授業の質にまで影響を及ぼしている保育士不足、それらが重なりあって進んでいる園長設置者の心の質の低下は、小規模保育の現状を見ればわかるはず。「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」と国のあり方を主導すべき政府が言うことは、あまりにも短絡的で、今までの保育界が担って来た「子育て」という功績に対する暴言と言ってもよい。これが本当に閣議決定されたのなら、内閣は、この国の将来の展望を考えていない。子どもの幸せより現在の市場を優先に施策を考えていることになる。

 保育は日々の「子育て」なのだ。保育施策が、国の将来を決定づける魂のインフラ政策なのだという自覚に、政治家は欠けるような気がする。

 20年間繰り返し伝えているのですが、保育士が「良心」を持っているかぎり、「保育の質を確保しつつ,待機児童の解消を目指すこと」は不可能です。


 保育士の資質は子どもたちの幸せを願うこと。「待機児童の解消」は親子を引き離すという現実を抱えているので、保育士の良心と基本的に相容れないのだ。認可外では半数が資格を持っていればいい、保育士不足から、明らかに現場に居てはいけない保育士を解雇出来ない、という状況が広まり、現場の保育士の質が急激に落ちているいま、良心捨てるか、保育士辞めるか、いい保育士ほど追い込まれている。横浜市でそのことはすでに証明されている。横浜市では、すでに派遣に頼らないと認可外保育が成り立たない。募集しても、園庭も無いような保育所では誰も応募して来ない。突然職員が辞め、派遣で良い保育士をすぐに獲得しようとすれば、たぶん時間2500円派遣会社に払わないと保育士を確保出来ない。市の補助では、運営は無理。国の方も、計算してみたら四千億円不足していた、と言っている。これが国の言う市場原理で、それを公正に、公正取引委員会が仕切るのだとしたら、もうどうしようもない。

 派遣頼りの、職員が毎年換わる職場で、子育てに必要な保育士たちの連帯感が消えてゆく。子どもを無視した市場原理が働くことによって心ある保育士が現在進行形で消えてゆく。)

 

 このように,保育分野は,需要の充足が求められているだけではなく,我が国の成長分野となることが期待されている分野である。 公正取引委員会では,事業者の公正かつ自由な競争を促進し,もって消費者の利益を確保することを目的とする競争政策の観点から,保育分野の現状について調査・検討を行い,競争政策上の考え方を整理することとした。競争政策は,事業者の新規参入や創意工夫の発揮のための環境を整備することにより,事業者間の競争を促進し,これによって,消費者に良質な商品・サービスが提供されることを確保するとともに,消費者がそれを比較・選択することを通して,事業者に商品・サービスの質の更なる改善を促すことを目指すものである。 このような競争政策の観点から保育分野について考え方を整理することは,保育サービスの供給量の増加や質の向上が図られることにつながるとともに,ひいては,同分野を我が国の成長分野とすることにも資すると考えられる。

 公正取引委員会としては,上記のような競争政策の観点から保育分野について検討を行うに当たっては,[1]多様な事業者の新規参入が可能となる環境,[2]事業者が公平な条件の下で競争できる環境,[3]利用者の選択が適切に行われ得る環境,[4]事業者の創意工夫が発揮され得る環境が整っているかといった点が重要であると考えられることから,主にこれらの点について検討を行った。

 

(「消費者に良質な商品・サービスが提供されることを確保するとともに,消費者がそれを比較・選択することを通して,事業者に商品・サービスの質の更なる改善を促すことを目指すものである。」ここまで書かれると、もはや子育てを国の根幹と考える側としては虚しい。市場原理における「公正さ」を基準に、公正取引委員会の指導で保育が商品・サービスと正式に見なされた時に、消費者は「親」であって、子どもたちではない。現在進行形の規制緩和を見る限り、公正取引委員会が管轄する「取り引きに」に、園庭の広さや園長の試行錯誤、保育士の笑顔が加味されていない。最近の親らしさの急激な変化の傾向を見れば、こうしたサービスという考え方が、子育て放棄や児童虐待の増加につながったり、子育てを分かち合わない男女間の信頼関係の欠如がDVや犯罪の増加に繋がっていることは、現場の保育士たちの声を聴けばわかるはず。子育ては誰かがやってくれるもの、という意識が子育てをイライラの原因にする。「子育てしやすい環境」を「保育園を増やすこと」と政府やマスコミがこれだけ言い続ければ、そういう認識が新しい世代に広がっても不思議ではない。その認識が保育を疲弊させる。事故が起っても不思議ではない。

 閣議決定をした内閣が何も知らずに学者や専門家、経済界の言いなりになっている人たちなら仕方ない。ですが、私もこういう主張を始めて25年。内閣の中に5人私が保育の大切さと現状について説明した人たちがいる。一人反対すれば閣議決定は出来ないという。ある大臣は以前「地震で乗っていた新幹線が一晩止まってしまった時、近くに幼児がいたんです。その子がいたおかげでみんなの心が一つになって、楽しかった。ああ、これが松居さんが言っていたことなんだな、と思いました」と言ってくれた人。

 政府という仕組みは一体どうなっているんだろう、と最近戸惑うことが増えました。誰が動かしているのか。立場を賭けて国を愛する人はいないのか。人間ではなく経済という仕組みが動かしているのだとしたら危険です。学問が動かしているのだとしたら、社会から人間性が消えてゆく気がします。)

(今まで社会福祉法人であることを利用して、良くないことをしていた人たちが保育界にもいて、それが市場原理の中で「公正に」競争しているひとたちから見れば「ずるい」と思われても仕方がない、それは事実です。だからこそ、公正取引委員会まで引っ張り出して、競争を公正にしようとしているのでしょう。でも、そういう悪いひとたちをどうにかしようということと、保育界を市場原理にさらすことでは次元が違う。いま保育界に安易に市場原理を持ち込むことは、この国の守るべき良心を市場原理にさらし、この国の「子育てと言ってもよい親身な保育」を失ってゆくことになる。

 公正取引委員会はその役割を果たしているだけで罪はないのだと思います。日本人のほとんどが知らないうちに「閣議決定」された方針に従って「公正」を目指す主旨で判断を下しただけでしょう。そして、この「判断」は「判断例」となって一人歩きを始める。幼児の意志とは無関係のところで。

 以前、民主党が、今回の新制度の元になった「子ども・子育て新システム」を施策とした時、その危うさを子どもの立場から理解する厚労省の役人が、「でも、閣議決定されたら仕方ないでしょう。内閣を選んだのは国民ですよ」と私に言ったのを思いだす。子どもを見つめる目が社会を構成する、という原点が狂い始めている。すると、すべてが狂い始める。

 欧米諸国で3割から6割に達している未婚の母から生まれる確率が、まだこの国は1%台。現状を見るかぎり、子育てを国の成り立ちと見て大事にするという点では、人類の進化に大きな役割りを果たすかも知れない希有の国だと思う。内閣はこの国の本質を競争原理などで変質させてはいけない。経済論で子育てを計るやり方は所詮無理なのだから、あきらめないと、本当に経済が立て直せなくなる。)

  

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広い園庭

 公正取引委員会には見えない次元の話を一つ書きます。いま、こういう人たちが保育の現場から減って行く。政府の施策、役場の指示に自らの感性を封印されて。

 講演に行った先の幼稚園の園長が言いました。

 「最近は、昔から居た少し変わった子、思うようにいかないとパニックを起こす子、自分の個性を押さえられない子に、『障害』の診断をし過ぎるように思います。障害が認定されると、障害児支援センターは指導の過程で、子どもがパニックを起こさないようにします。カードで指示を出したり、とても変なんです」。

 落ち着いた環境を作るのはいいけれど、将来1人で生きていけるわけはない。園でしっかりパニックを起こさせて、まわりがそれに反応し、学び、切り抜けてゆく力をみんなでつけていかなければ駄目だと園長は言うのです。

 障害児支援センターは、子どもの起こすパニックを「その子の問題」として対処しようとしている。しかし、園長先生は長年の経験から、「みんなの問題」として受け入れようとしているのです。大人が子育てを分かち合い、みんなでしっかり見守っていれば、その子がいることで他の子どもたちも社会の一員として育ってゆく、他の子たちがその子を受け入れる柔軟性を持つことが将来この国にとって大切、という視点があるのです。保育園に比べ、幼稚園の方ではまだ気持ちに余裕がある園が多い。その園長の園では、親たちが保育に参加すsる行事を積極的にやっている。親たちを園の重要な一員と考えているのです。

 毎日二時に親が迎えに来る、幼稚園という親子が過ごす時間が比較的確保されているかたちの中で、「家庭」という密な関係を土台に保育をしてきたからそういう考え方になるのでしょう。母子関係という継続的に向き合う基盤があれば社会は常に柔軟に変化成長し、その柔軟性の中で、時々パニックを起こしてしまうその子が本来の役割りを果たせる。言い換えば、みんなが継続的に向き合わなければ「問題」が輝かない、ということです。

 保育園で0才児から8時間以上も母親から切り離すことを政府が奨励する時代です。5歳までの幼児期に、幼稚園も含め、これほど親子が離れ離れになることはかつてなかった。乳幼児期に愛着関係の土台が出来難い、という人類の歴史始まって以来の突然の環境変化に、対応出来ない子どもが増えてきて当たり前なのです。障害児支援センターは、まず、一対一に近い時間を増やし、子どもを安心させることから入るしかありません。しかし、専門家がいくら頑張っても、それはその子の人生にとっては束の間のことでしかない。何年も続く一対一の関係ではない。親子や家族の関係に代わることは出来ません。忘れてはいけないのは、子育ては、学問の領域ではない、祈りの領域だということ。その自覚が社会に生まれるかどうか、が目的なのです。

 薬物で落ち着かせるか、絆で落ち着かせるか、全国で選択を迫られるケースが増えています。

 専門家か神社のお守りか。教育か祈りか。結果か体験か。そんな次元の選択肢があることを忘れないでほしいのです。乳幼児を見ていれば人間たちは次元の違う選択肢を憶い出す。特に0歳、1歳児との言葉を超えた会話が人間社会には必要なのだと思います。

 その子がいることに感謝する人と、感謝する時間を少しでも増やす。それが本来の姿です。

 園長の言葉を、その広い園庭が聴いている。そして、一緒に考えている。

 新しい園舎と広い園庭が出来たら、噛みつきがなくなった、という保育園のことを思い出しました。ゆとりのある景色に、保育士が落ち着き、無愛想だった親たちが毎朝自然に挨拶するようになる。風景が生み出す心のゆとりが、風景の一部なった集団としての人間を支える。言葉でも理屈でもない。まさに0才児の居る風景です。

 親子という選択肢のない関係を受け入れるゆとりが、夫婦や社会の自然な育ちあいを生む。寄り添うことを覚えた集団の行為が、連鎖して地球の向こう側の紛争をなくすのかもしれない。

 

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松居先生

 ご無沙汰をいたしております。お忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。

 その節は長時間にわたって、私どものわがままなお願いを快くお受け頂きまして本当に有難うございました。

 ようやく研修報告が出てまいりまして、事務局も驚くほどの一日保育士体験への期待が大きい感想が多く寄せられ、とてもうれしく思っています。事務局から、間もなく先生の許へもお送りすると思いますが、有難うございました。

 資料にあれだけ様々な地域の実践報告のアドレスが表示されているにも関わらず、会員が個々には動こうとしない様子がうかがえましたので、とりあえず、こどものとも社さんにお願いして、市内の連盟加盟園に私から大修館書店の「一日保育士体験のすすめ」をプレゼントすることにしました。

 保育課の方も、聴講者の反応に満足してくれてさっそく主任会で検討を始めてくれるようです。

 私の自園では毎年、この六月の一週間
保育参加の行事を行って、保護者が見たい活動に参加することをやってまいりましたが、先生の「ひとりずつ八時間乳幼児の中に親を漬け込む」発想には至っておりませんでしたので、保育参加のあと、今年度中をかけてすべての保護者に「一日保育士体験」へと発展させていこうと話し合っております。

 さらに市全体で先生のお話を聞いてもらえるように、市会議員、幼稚園連盟、家庭教育委員等々かかわりのある団体に是非先生をお招きしてくれるようことあるごとに依頼しています。

 ご報告が遅くなりましたが、とりあえずこんな状況でございます。とりあえず、講演会後の経過をご報告させていただきました。私どもの会の折にも感じたのですが、余りにもハードなスケジュールに先生のお体がとても心配です。

次世代を担う子供たちの安心のためにくれぐれも御身お大切になさってくださいませ。

                                    k市保育連盟


 同志からの、元気が出る手紙。一日保育士体験は保育士たちにも面倒くさいことかもしれない。それをして補助が増えるわけでも待遇が良くなるわけでもない。それでも、駆け引きや利益に関係なく、子どもたちの幸せを願って、親たちの幸せを願って、こうして現場で動いてくれるひとたちがいる。こういう方たちが、本当の意味でこの国を守っているのだと思います。

 

松居和、講演依頼、メール

最近chokoko@aol.comのアドレスに送信していただいたたときに稀にですが送信出来ずエラーになることがあります。役場や保育園からの講演依頼のメールに、何件かありました。ご迷惑をおかけしました。こちらからの返信が行かないこともありました。フィルターとかサーバーの相性の関係かもしれません。もし2、3日中に私からの返信がない場合は、こちらのアドレスをお使い下さい。matsuikazu6@gmail.com 

ファックスの場合は03−3331−7782にお願いします。


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「シスター・チャンドラとシャクティーの踊り手たち」上映会の御知らせ

 5月25日(日)四時から、私の制作したドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティーの踊り手たち」の上映会があります。

 「ガンジスの水・アートミーティング」という展覧会で、会場はアート・プラットフォーム:東京都杉並区天沼3−10−4セーヌハイツ102です。無料です。
 上映会のあと松居監督を交えて軽食、飲みもの付きがあって、こちらは会費500円だそうです。インドのこと、シャクティのこと、「集まること」「わかちあうこと」などについて話し合います。小さな会場ですが、ぜひおいで下さい。
 主催は,女性アート作家グループのやまんばプラニングチームです。
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