NHKの視点論点・子ども・子育て支援新制度の原点

保育者たちの研究会で、子ども・子育て支援新制度について講演を頼まれました。現場は、新制度が始まって二年目で追い詰められています。保育士不足による保育の質の低下、何より、11時間保育を「標準」と名付けられたことが致命的でした。新制度の出発点、原点にあった「新システム」が民主党政権下、進められようとした時に保育誌に書いた文章を中心に現在の状況を加えながら、どういう発想が原点にあり、この流れが始まったのか、ざっとですが振り返ってみました。

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視点論点

以前、いまの「子ども・子育て支援新制度」が三党合意で民主党から自民党に受け継がれる前、NHKの視点論点という番組で、「子ども・子育て新システム」について、幼保一体化を中心に専門家が順番に意見を述べたことがありました。大日向雅美氏(大学教授)、山村雄一氏(大学教授)、普光院亜希さん(保育を考える親の会)の3人で、現場で保育に関わっている人が意見を述べなかった、その機会を与えられなかったことが残念でした。この施策が決まっていく過程を象徴しているようでした。

保育界は幼稚園、保育園という分類があり、新制度が始まり内閣府が関わり始めるまでは、文科省管轄、厚労省管轄に分かれていました。そこに、私立、公立、旧認可、旧認可外、新しい形の小規模保育、家庭的保育事業、子ども園、そしてその全てに「子ども主体に考える人、親へのサービスと考える人」が居て、その立場や仕組み、思い入れにによって問題点がずいぶん異なります。つまり「現場の代表」が誰なのか、が難しい。だからこそ、学者にはしっかりと様々な状況を考えて「研究」し、現場の状況を学んでもらわなくては困るのです。

山村氏は、新システムが「子どもの思いを受け止めていない」、と一番当たり前のことを警告していました。つまり、その動機と「筋」が悪いということです。保育士の「良心」をこの仕組みが成り立つ要素(係数)に加えれば、とても重要なことでした。とくに0、1、2歳児の保育にとっては、保育士の精神的健康と子どもの最善の利益を優先する姿勢は一番重視されなければならない必要条件です。

普光院さんは「こども園が、幼稚園と保育園のそれぞれの機能を弱くするのではないか」という論点で、新システムに反対しました。これもまた現実的です。現在の幼稚園型認定子ども園における、幼稚園型の親と、保育園型の親の生き方の違い、それが園運営の障害になってきている状況、そして慢性的な保育士不足を考慮すれば、3歳未満児の保育をこれ以上進めると、保育全体の質が低下してゆくのは明らかでした。

(新システムの根底にあるのは、当時民主党政権下、25万人3歳未満児を保育所やこども園で預かることによって労働力を確保しようという経済学者主導の雇用労働施策でした。新制度として自民党が実行した時は、それがさらに増えて40万人という目標を掲げました。)

大日向さんの発言は、公共放送で「(当時の)新システムを進める政府の委員」によって国民に説明されたという意味で、とても重要な発言でした。施策を進める政府の考え方を述べるという位置付けと、そして、こうした学者の意見が施策を作り出しているという責任は大きかったはずです。

 

大日向さんは番組で、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」とまず述べるのです。

当時すでに保育園や学校で起っていた保育士と保護者、教師と保護者間の摩擦や軋轢を考えれば、非常に抽象的な、机上の空論のように思えました。保育園や学校に子育ての責任を依存しようとする親が出始めている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」ことができるはずがない。綺麗事に過ぎる、深く考えれば、人類史上かつて一度もあり得なかった社会、独裁政権でも作らないかぎりこれからもありえない社会です。似たような試みがイスラエルのキブツや、ソ連の共産主義的仕組みの中で国家事業として進められたことがありました。カナダのケベック州が試みた「全員保育」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2314は州単位の試みですが、これもうまくいかなかった。範囲を広げれば中国の「一人っ子政策」などもそうですが、国家が家族という仕組みに介入してくると、モラルや秩序が育たなくなってくる。

部族という社会単位であれば可能かもしれませんが、子育ては、夫婦(親)を中心とした「家庭」主体で行われてきたのです。その家庭を支えるための「社会」だったわけです。この順番は絶対に忘れてはいけない。

大日向さんは、当時の「保育の友」九月号でも、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と発言していた。

これは人類の進化にかかわる発言と言ってもいい。遺伝子の組み替えでもしないかぎり無理でしょう、と思います。ただの学者が学生相手の授業で言うならいい。でも大日向さんは、当時政府の保育施策の中心にいた人だったのです。この安易な、一見容易い方向転換のように聞こえる発言の先に、いまの保育士不足や保育の質の低下、「保育園落ちた、日本死ね!」などという言葉があるのです。

(この発言は実は同時に、幼稚園教育要領と教育基本法を否定することでもありました。「幼稚園教育要領、第十条: 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」私は、本来こういう人間性の根源にかかわることは法律などで言うべきでないと考えていますからこういう矛盾を突くような論法は避けたいのですが、幼保一体化ワーキングチームの座長による発言でしたから、幼保一体化の意味と意図を明確にするためにあえて書きます。保育界を迷走させる明らかな矛盾がそこにはあった。そして、厚生労働省が抱える「厚生」と「労働」の矛盾が、幼児が日々を安心して過ごす、という日本の未来を政府の選んだ学者の言葉が脅かしている。)

この「保育の友」における発言に出てくる「社会」の意味が曖昧で怖いのです。このインタビューでは「保育所」とキャプションがついていましたが、通常は誰もはっきりと定義しない。NHKの視点論点でも、「社会皆で支える」と簡単に言っています。でも、これは具体性に欠ける明らかな誤魔化しです。新システムのことでの発言です。「システムで支える」と正直に言うべきです。

よく使われる「女性の社会進出」という言葉の意味さえ、実はあえて誰も定義しない。経済競争という意味でしょうけれど、経済競争はよく考えれば社会のほんの一部でしかない。祈ること、祝うこと、踊ること、歌うことも「社会」です。そのことが明らかになるのが嫌で、誰も「経済競争」と、はっきり言わない。

 

別の番組、NHKのクローズアップ現代でも大日向さんから同様の発言がありました。その時も「社会」が何を意味するか明確な説明はありませんでした。こういう曖昧にして「社会」という言葉を使うひとたちは、いつでもその意味をもっと幅広い、「家庭を含む」「隣近所のおじちゃんおばちゃん」まで広げて逃げる準備をしています。ところが、子育てを「社会化」(システム化)すると、地域の絆どころか、夫婦揃ってやる子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れてゆく。3割から6割の子どもが未婚の母から生まれる欧米先進国がいい例です。そして、家庭崩壊が始まると児童虐待と女性虐待が広がり、老人の孤立化も加わり「社会」(システム)を支える福祉の財源が枯渇してくる。

夫婦が、子育てによりお互いのいい人間性を確認し、それを育てあい、信頼関係を築いてゆく。人間たちが、愛とか忠誠心といった「損得を離れた絆」を社会に育み続けるために子育ては存在するのです。

 

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以前頻繁に使われていた「介護の社会化」という言葉を思い出します。その結果孤立する老人が急増し、無縁社会といわれる状況にまで進んでしまった。(福祉で絆の肩代わりをしようとした北欧で、20年前に起ってしまった現象とほぼ同じです。)親身な関係を生むための助け合いと育ちあいを「社会化」することによって、人間性が社会から失われていく。そして、福祉で人間性を補うことは不可能です。

選挙と結びついた福祉と、市場原理が背景にあるシステムの変革が、人間の意識や本能が支えていた社会の構造を加速度的に変えて行く、人類史上かつてない過渡期に私たちは直面しています。

 

以前から指摘されていたのですが、背後に「保育は成長産業」という閣議決定がある現在の子ども・子育て支援新制度が、介護保険制度と似ている。これほど「無縁社会」を推し進めた介護保険を、厚労省は財政削減につながったとして、「成功」と見ているふしもある。誰のための「成功」なのか、見極めなければいけない。保育制度の場合、「誰」の主役は「幼児」であることを見落としてはいけない。

 

大日向さんは、「働き方の見直しと、子育てと仕事の調和を目指す。何よりも、子供の健やかな成長を議論の大前提としている」と付け加えます。

「子どもの健やかな成長のために」というなら、子育てと仕事の調和を目指す前に、子育てを中心にした家族の調和を目指すべき。(百歩譲って、保育士不足の問題をまず先に解決すべき。)

最近の児童虐待やDVの増加を考えれば、家庭の中心に子育てが優先的に存在しないと、社会全体の調和が崩れてくる。それを保育で肩代わりしようとしても限度、限界がある。肩代わりしようとすることが、なお一層児童虐待やDVの増加を進める。

「調和」には親と子の両方が成長する「時間」と「環境」が必要なのです。ゆっくりと流れてゆく、言葉を発しない赤ん坊と過ごす時間が「絆」の出発点として大切で、それは人類史の上で常に存在していた。幼児と親はなるべく引き離さない、その方向へ保育施策を考えないと、調和が、希薄な偽物になってしまう。

引き離さずに、親子を育てる、そんな役割を保育界が担うようになればいいのです。

 

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いま、鳥取県が始めようとしている、自分で育てる親に月額三万五千円を給付をする、そういう方向の方が「健やかな成長」(子どもにとっても親にとっても)につながるはずです。未満児を持つ父親の残業を制限する、父親の一日保育者体験を広め、早いうちに父親の感性を育てる。そして、この時期(人生の始めの3年間)だけでも母親が子育てに集中できるように仕組みを組み替えてゆく。それをしないと保育という仕組み自体が崩れてゆく。難しいことではない。子どもの願いを中心に「子育てと仕事の調和を目指す」べきなのです。

そして、認可保育園や幼稚園に子育て支援センターを作って、既存の保育施設が役割的にも財政的にも健全に存続できるようにする。

 

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新システム(新制度)は始めから「雇用・労働施策」と定義されていて、現場を無視した数値目標が始めにある。しかし、保育士の数が決定的に足りない。これでは、小学校も含めて「現場」は追いつめられるばかりです。早く、方向転換しないと傷はますます深くなる。いまの保育者養成校の学生の質を考えれば、いますぐ政府が方針を変えても、10年は立ち直れないかもしれない。

(ただ、資格者を増やせば「保育」ができると思っている政府やマスコミも想像力に欠けていますが、世間知らずの経済学者ならまだしも、養成校で教えている保育の「専門家」たちの中にも、「社会で子育て」などという人たちがいて、その人たちは、簡単に無責任に、たぶんビジネスだから、保育資格を現場に来てはいけない学生たちに与え続けている。)

 

今、全国ほとんどの地域で、保育士に欠員が出たら埋めるのが大変です。それでも政府は規制緩和、市場原理を使って無理にでも進めようとしている。実は「子どものためではない」と知っているから、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」などと言ってごまかそうとする。自己主張できない子どもたちに対して、これほど白々しい嘘はありません。手ひどいしっぺ返しが社会全体に返ってきます。

だからこそ、未満児たちを毎日見つめている保育士たち、そして、母親たちが子どもたちのために立ち上がらなければならないと思います。本気でいま、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と声を上げなければならない。

 

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大日向さん:「なぜ新システムが必要か。子育て、働き方に関するこれまでの考え方や制度が、時代の変化と共に人々の生活スタイルや価値観に合わなくなっているから」。

人間性が失われてもかまわないなら別ですが、あきらかに現代社会はシステムが子育てを引き受けることによって、つまり親が親らしくなくなってくることで起こる新たな多くの問題を抱えています。時代の変化に対応することによって、「生活スタイルや価値観」が大人中心のものになってきている。

児童養護施設や乳児院が、親による虐待が主な原因で満員になっています。(定員に満たない施設もありますが、人材不足・財源不足による定員割れです。これは介護でも保育でも同じことが起っています。)

いじめや不登校、モンスターペアレンツといった問題を抱え、学校の先生が精神的に限界に近づいています。埼玉県で6割、東京都で休職している先生の7割が精神的病です。引きこもりの平均年齢が30歳を越え、信頼関係を失った人間たちに生きる力がなくなってきています。

(公立保育園中心にやってきた自治体で、0、1歳を預ける親が急増しています。保育を理解していない役場の保育課長が、とりあえず、3、4、5歳に当てていた加配保育士たちを0、1歳に回している。いまの、4、5歳児を保育士一人で30人毎日世話するのは無理です。保育に教育的要素を、などと言っても学者の空論、できるわけがない。質の悪い保育士によるしつけは、簡単に虐待につながってゆく。3、4、5歳児の部屋で収拾がつかなくなり、そこで保育された子どもたちが4月には小学校に入るのです。そんな状況が全国で一気に進んでいます。)

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日本とは一桁違う欧米の犯罪率を見れば、親が親らしくなくなること、特に父親が未満児との体験を持たないことは、人間社会からモラル•秩序が欠落していくことだとわかります。百歩譲って、価値観に合わなくなったからシステムを変えるべきならば、その度に変えなければなりません。すでに20代の女性で専業主婦を望む人は増え始めている。経済競争だけが人生ではない。経済競争だけが社会でもない。日本人は気づき始めている。欲を捨てることに幸せへの道がある、と説いた仏教の土壌がまだ色濃く残っている国なのです。

大多数の人間が子育てに幸せを感じることができなかったら、人類はとっくに滅んでいます。ごく最近まで、人類は幸福感の第一を「子育て」に見ていたもです。損得を忘れることができるからです。発展途上国の貧しい農村へ行くと、村人たちの表情に心を洗われる、と海外へ経済援助に行って来た人たちがしばしば言います。人間は「子育て」を取り巻く信頼関係に幸せを感じ続けてきたのです。

 

 

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大日向さん:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少して社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」

この辺りに、今度の保育改革が進んだ学者と政治家の「本音」がある。しかし、日本の少子化の大きな原因は結婚しない男が現在2割、十年後3割に増えようとしていること。貧しい国々で経済状況が日本より悪いもかかわらす、人口増加が問題になっていることを考えると、これは性的役割分担の希薄さが原因で、経済問題ではない、という考え方もできます。

男たちに「責任を感じる幸福感」がなくなってきている。ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、性的役割分担がはっきりしてきたときに人類は「家族」という定義を持つようになった、と言います。性的役割分担が薄れた時に、人類は家族という単位で生きようとしなくなる、ということかもしれません。それでいい、という考え方もあっていい。しかし、それは人類が数万年拠り所にしてきた、頼りあう、信じあうという「生きる力」を土台から失うことでもあります。男女間の絆と信頼関係を失ってゆくことになるのです。

 

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大日向さん:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

経済的理由で、と言いたいのだと思います。社会(保育所)が育ててくれれば産むのだ、ということでしょう。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする日本の美学ととらえることもできる。この考え方の方が、自然だと思います。日本人は、欧米とは違った考え方をする人たちなのです。

自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれません。全国各地で役場の担当の人が「0歳児を預けるのに躊躇しない親が増えた」と顔をしかめます。「保育園落ちた、日本死ね」という言葉の裏には幼児と母親という二つの人生がある。それが心情的に重ならない。

大日向さん:「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、更には近年の経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている。」

心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって対策は違わなければなりません。仕方なく希望しているのであれば、子育てを心の中では希望している女性のニーズに応えていくべきです。それであれば幼児たちのニーズとも重なります。頼ろうとする、信じようとする、そのことこそが社会参加の基礎であることをもう一度学び直さなければなりません。

子育てが家庭のかすがいであって、子育てが育む信頼関係が人間社会を支えてきたのだ、という意識を強くもてば、子育てを親のもとに返してゆくことは財政的にも充分可能です。欧米社会で起ってしまったモラル崩壊の流れを考えると、それによって抑えられる犯罪率や児童養護施設や乳児院、裁判所や刑務所にかかる費用を想像すれば効率的にもいいはず。子育ての社会化を防ぎ、親たち、祖父母たちの手に出来るかぎり子どもたちを返すことは、財政だけではなく、この国の魂のインフラにかかわる緊急かつ最重要問題だと思います。

 

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大日向さん:「依然として職場環境は厳しく、仕事か家庭かの選択を迫られている」

子供が乳幼児の場合、家庭(子ども)から離れる仕事と家庭(子育て)は本来両立出来ません。だから選択を迫られているのであって、選択を迫られるのは生き方の選択を迫られること。どちらがいいとは言いませんが、女性だけが選択を迫られるのは不平等というなら、そういう論議にするべきで、「すべての子供たちのために」と言う誤魔化しは使うべきではない。

大日向さん:「更に、安心して子供を預けられる環境の整備が遅れている。」

その通り。本来「安心して子供を預けられる環境」がある、と親に思わせることがおかしい。自分の親に預けたって心配です。国のやっている仕組みだから安心、という考え方は人間的ではない。いまの、ほぼどんな学生にも資格を与えてしまう養成校の状況を考えれば、学者のペテン、思い上がりです。規制緩和で、規則が曖昧なため百人規模の「家庭保育室」がすでにあります。資格者は半数でいい、という小規模保育が増えています。親へのサービスを主体に考える市場原理に基づいた保育をしようとする園長設置者が参入して来ています。そして、犠牲者が出ています。新制度は、さらにこれを進めようとしています。

保育は市場原理では機能しません。なぜなら、保育士たちが「良心」を持った人たちだからです。日々、子どもたちに「心」を磨かれている人たちだからです。だから実は私は、新制度なんか怖くない。いい保育士が辞めていくことでブレーキはかかります。しかし、それが進められ、やがて市場原理が成り立たなくなる過程で、子どもたちがどういう体験をするか、ということを考えると恐ろしくなるのです。

「子どもの健やかな成長」は、「その子の命に感謝する人を増やす」ことです。そういう人がまわりに数人いれば、子どもは見事に生き、その役割りを果たします。

 

大日向さん:「都市部では深刻な待機児問題が続いている」

その深刻さは、待機児童が増えていることではありません。そこにどのような理由があろうとも、子どもを保育園に預けようという親が増え続けていることが深刻なのです。

待機児童は減らそうとすればするほど増える、現場で親を知る保育士たちは10年前からすでに予言していました。

保育は親たちの意識の中で、権利から利権になりつつあります。

横浜市では待機児童が一番多かった頃、その倍の数の欠員がありました。待機児童の問題は単純ではない。最近目立ってきた偽就労証明書、偽装離婚、偽うつ証明書などの問題を、新制度を進めようとしている人たちはどうとらえているのか。気づいていないのか、いずれ仕分けするつもりでいるのか。覚悟のほどを聴きたい。

 

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大日向さん:「保育所を整備すれば問題は解決するかというと、必ずしもそうではない。むしろ、修学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」

ここに、幼保一体化に対する大日向さんの考え方の原点があります。簡単に言えば、働く女性にとって不公平だということです。

この文章は論点が飛躍しすぎています。なぜ幼稚園と保育園にわかれることが「子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける」ことを妨げるのかがわからない。

幼稚園に行く子どもと保育園に行く子どもとは一般的に家庭の事情、親の意識が違う。わかれる方が健やかな育ちを守る、と考えるのが自然です。しかもそうしてきた日本が、欧米に比べ、経済だけではなく、モラル•秩序、犯罪率、幼児虐待やDVという幸福に直接かかわる問題でははるかに状況がいいのです。

5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変です。

「大きな問題」が誰にとってのどのような問題なのか。保育所に「預けたい」人にとっての問題なのでしょうか。それでは子どもがかわいそうです。幼児をシステムに10時間も毎日預けるのであれば、それなりの不安やうしろめたさを感じるのが普通です。

(新制度では、11時間保育を「標準」としたために、様々な問題が起きています。加配相当の発達障害を持った親が、「私も、標準にします」と言ったとたんに、園全体の保育の質が影響を受ける。)

大日向さん:「幼稚園は学校教育法に位置づけられているが、4時間保育を中心としているために、事実上、専業主婦家庭の子供しか利用できません。その結果、幼稚園は入園希望者が減り、特に地方では減少の一途を辿っている。幼稚園の無い自治体は2割、人口1万人未満の自治体では5割に及んでいる。」

幼稚園のない自治体が2割、これは主にその自治体の歴史がそうさせてきたのであって、幼稚園が親の生き方の変化によって淘汰されたのではありません。もともと、そうだったのです。そういう自治体では、役場の指導で親が偽就労証明書を書いていた。でも、四時には保育園は空になった。だいたい、そんな仕組みだったのです。

幼稚園が選択肢としてあるところでは、例えば埼玉県や横浜市では幼稚園を選ぶ親と保育園を選ぶ親の比率は7:3、自分で育てたいと願っている親の方が多い。

自分で育てる、そういう本能が人間の遺伝子に組み込まれている。本能から来る願いが幸せにつながっていた。それを優先することが、社会に人間性を保つ。その願いは子どもたちの願いと一致する。親子がなるべく最初の数年を一緒に過ごすことができるように、この国は施策を進めるべきだと思います。多くの親子が何を望んでいるか、という視点が「新システム」(新制度)には決定的に欠けています。

 

 

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大日向さん:「保育所は、働く女性の数が増え、保育所の整備が追いついていません。女性の社会進出は経済成長を支える鍵でもあり、保育所の果たす役割は、今後も更に大きくなっていきます。保育所は、幼児教育をしていないという、誤解が一部にあります。子供を幼稚園に通わせるために、仕事を辞める女性もいます。」

「女性の社会進出は経済成長を支える鍵」と言う根拠がない。この論理が正しいのであれば、女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいるヨーロッパ諸国の経済状況がなぜこれほど悪いのか。社会進出して稼いでも、加速度的に福祉に吸い取られ、家庭崩壊によるモラル•秩序の崩壊に国の予算が対処しきれなくなっているのが現状でしょう。EUの経済危機が「家族」という概念の崩壊に根ざしていることを、なぜ日本の学者は理解しないのか。しようとしないのか。

終戦直後の混乱期を除けば、ヨーロッパの国々が一度として経済的に日本を上回った時はない。親が子どものために、子どもが親のために頑張ったから高度経済成長があったわけですし、先進国の中では奇跡的に家族という定義がまだ色濃く残っている日本が、なぜアメリカや中国という大国に続いていまだに世界第三位の経済大国なのか。実は、家庭や家族がしっかりしている方が、経済成長につながるのです。絆が安心感の土台になり、家族のために頑張るのが人間だからです。人間は自分のためにはそんなに頑張れるものではないのです。本来、頼りあう、支えあう、信じあうのが好きなのです。

アメリカという資本主義社会を代表する国で、家庭観を発展途上国で身につけ、教育も発展途上国で受けた英語も満足に話せない移民一世が、二世や三世よりも経済的に成功する確率が高いのです。家族がいて、子育てが中心にあると、人間は、生きる力が湧いてくるのです。

民主主義も学校も幼稚園も保育園も、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとに作られています。人間らしさを失ってくると、人間の作ったシステムは人間に牙を剥き始める。地球温暖化と似ています。

子どもを幼稚園に通わせたいという親たちは、教育を求めてというよりも、子供の成長を自分の目で長く見ていたい、という本能的な気持ちが出発点にあるのではないか。子育ては、この国では、未だに仕事よりもはるかに幸せの原点になっている、人生の華なのです。

大日向さん:「これはあきらかな誤解です。保育は、養護と教育が一体となったもの。保育所は幼児期の教育を十二分に行っている。」

幼稚園によっては意識的に教育的保育を避け、子どもたちの「遊び」を尊重する保育をやっています。幼稚園よりもっと教育的保育をやっている保育園もあります。どちらでもかまいません。しかし残念ながら、ここ10年くらいの間に、規制緩和により保育資格のない保育者を増やし、認証保育所や家庭保育室、保育ママを行政が薦め、園庭のない一部屋保育や駅中保育、短時間のパートでつなぐような保育園が意図的に増やされている状況で、大日向さんのこの発言は事実ではありません。公立保育園の非正規雇用化が進み、自治体によっては九割が非正規雇用という市もあります。まず、保育とは何か、どういう役割りを社会で担っているのか、その意識を整えなければならない段階なのです。

 

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新規参入を奨励する新制度を進めようとしている人たちは、全国的に起っている大学や専門学校の保育科の定員割れをどう考えているのか。願書さえ出せば入学でき、ほぼ全員国家資格がとれるような仕組みの中で、子育てを任せられる保育士を確保するのは急速に難しくなっています。実習に来る学生たちの態度の悪さに驚愕している園長たちに話を聴けば、とても「社会で子育て」などと言えないはず。

新システム(新制度)は、客観的に見て、保育園のさらなる託児所化と、幼稚園を雇用労働施策に取り込むことによって託児を兼任させることを目指しています。

自治体が、財政上の理由で規則をゆるめ、罰則規定も整備されていない状況で、財政難+新システムでは、「大人たちの都合で」ますます保育は旧認可外に近い形に移行するかもしれません。

 

大日向さん:「政府の推進体制、財源を一元化する。これまで、幼稚園は文科省、保育園は厚労省、財源も制度ごとにばらばらでした。新システムでは、こども園給付を創設して、財政と所管を一元化して二重行政の解消をめざす。就学前の子が過ごす場が親の生活状況によって幼稚園と保育園に別れて60数年です。幼保一体化は、多くの関係者の悲願でした。」

30年にわたって保育の現場を見、多くの関係者と話をしてきましたが、「幼保一体化は多くの関係者の悲願」ではない。政府の幼保一体化ワーキングチームの座長が、公共放送で問題の本質に関わるまったく事実ではないことを言うことに、保育団体は、政府に正式に強く抗議するべきだと思います。

業界的考え方をする経営者の一部が地方の幼稚園の生き残り策として望んでいたかもしれない。しかし絶対に幼稚園関係者全体の希望ではなかった。全国の私立幼稚園が進めた幼保一体化反対署名運動の広がりを見ればあきらかでしょう。

保育園で保育士が幼保一体化を望んでいた、という話も聴いたことがありません。預かる人数を増やし、しかも支出を抑えたい行政が望んでいたかもしれない。ジェンダーフリー的考え方をするひとたちが差別感を解消するために望んでいたかもしれない。幼稚園を厚労省管轄にし、雇用労働施策に取り込むことによって労働力を確保しようという財界が望んでいるのかもしれない。しかし、当事者である親や子供たちがそれを望んでいるという調査結果はないはずです。

 

大日向さん:「子供の今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を実現すべく、恒久財源を確保して時代に即した、新たな歴史を築いていくことが必要と考えます。」

子どもの今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を否定し、保育の質を上げるために恒久財源を確保し、人間性に即した、子ども中心の保育を築いていくことが、必要なのです。この新システムを議論することによって、保育の大切さ、それがこの国の土台を支えているのだ、という意識が高まることを期待します。

 

子ども・子育て新システムの出典?

小宮山洋子著「私の政治の歩き方」(すべての子どもたちのために)という本があります。著者は、元厚生労働大臣です。

本の副題が新システムのサブタイトルになっていて、新システムはこの本から出発したのではないか、とも思えます。だから、民主党はこの人を厚生労働大臣にしたのでしょう。けれども、本の中身も新システムも、出発点から「子どもたちのため」になっているとは思えない。「子どもたちのために」と繰り返し、繰り返し書かれていますが、大人たちのために考えられている。

児童虐待が増えたから、それを守るために社会が育てなければいけない、というのですが、子育ての社会化によって人間性が失われると、人間は孤立化しよりいっそうモラル•秩序が希薄になり、それが犯罪率に反影するのです。家庭という概念が希薄になり、子育ての社会化が進んだ欧米で、犯罪率(たとえば傷害事件)を比べれば、アメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍です。日本がなぜこれほどまだ良いのか。子育てによって培われる弱者に優しい「心」が残っているからです。0才児を預ける親は一割以下なのです。男女が協力し子どもを育てる姿勢が、欧米に比べ奇跡的に残っている。子どもを生み育てる、という大自然が我々に課した「男女共同参画社会」が、この国には根強く残っている。アメリカで3割、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれています。欧米で「男女共同参画子育て社会」(つまり家庭)がこれほどまでに崩壊してしまった今、日本が、「子育て」という男女共同参画の根本にある人間性を維持していけば、いつか人類の大切な選択肢になるはずです。

  1. :子ども・子育て応援政策」にこう書かれています。

「就学前のすべての希望する子どもたちに質の良い居場所を。==幼保一体化など」

私は、言い続けるしかない。子どもたちは希望していない。

待機児童のほとんどが未満児(0.1.2歳)です。未満児は希望を発言できない。だからこそ、未満児たちが何を希望しているかを想像するのが人間性。未満児は、親と一緒にいたいと思っています。(老人だって、孫や子どもと一緒にいたいと思っています。)

自ら発言できない人たちの希望を想像することは宇宙のエネルギーの流れを知ろうとすること。注意深く、感性をもって行わなければなりません。なぜなら、それは自分の生き方を決定づけることになるからです。

「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」

人類の歴史を考えれば、子どもたちの希望は家庭に居場所があることです。それがまわりにない状況ならば、だいたい親の人間性と社会の絆の欠如の問題です。家庭以外の場所に意識的に子どもたちの居場所を作ることは、家庭という居場所が減る動きにつながります。もし、子どもたちが親と一緒に過ごすことを希望しなくなってきたとしたら、希望するように親が変わらなければならない。社会の仕組みが変わらなければいけない。

それが、人類が健やかに進化し、自分を「いい人間」として体験するための道です。

「最近では、働いていなくても、子どもと接する時間の長い専業主婦に、育児不安などで子どもを虐待してしまう人が多いのです。このことからも、保護者が働いていない家庭の子どもにも、質のよい居場所が必要なことは、おわかりいただけると思います。」

育児不安の原因になる子どもを家庭から取り除いても、子どもが園から帰ってくれば、そこにいるのは育児不安になりやすい親に変わりはありません。

「子育て」は、子どもが親を人間らしくするためにあるのです。親たちが忍耐力や優しさ、祈る気持ちや感謝する姿を、育児を通して身につけ、頼りあい、助け合うことに生き甲斐を感じ、絆をつくり、社会に信頼関係を生み出す。そのためにあるのです。

母親の不安は夫の育児参加が足りていないことや、孤立化から起っているのであって絆の欠如の問題です。子どもに新たな居場所を作っても問題の解決にはなりません。

孤立化や絆の欠如に福祉や教育で対処しても、やがて財政的に追いつかなくなります。親心や親身さに福祉や教育が代わることはできません。

いま、こういう時代だからこそ「保育」の大切さを保育界や教育界が認識し、うったえなければなりません。週末48時間親に子どもを返すのが心配だ、と保育士が言う時代です。せっかく五日間良い保育をしても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってくる、せっかくお尻がきれいになったと思ったら、週末でまた赤くただれて戻ってくる、家庭と保育園が本末転倒になってきています。

母親が、妊娠中に預ける場所を探し始めるという行為が、人間にとって実はどれほど不自然か、社会全体が気づかなくなっています。

ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変です。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたり、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

救われている

子どもたちに許され、愛され、救われて私たちは生きていきます。子どもたちは、見事に信じきって、頼りきって私たちを見つめます。その視線に、私は感謝します。

子どもたちによってすでに救われている、そう感じた時に、人間は安心するのです。

 

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子育ての社会化が、子育ての仕組みへの依存につながる。ここで言う仕組みとは、様々な福祉、保育園、幼稚園、学校ということですが、その親による子育て依存が、やがて子育て放棄や家庭崩壊につながってゆく。この「子育て放棄」と「家庭崩壊」は、どちらが先がいろいろなのですが、夫婦にとって、社会にとって「子はかすがい」ではなく「子育てかすがい」だったことを政治家が忘れ、仕組みの充実を図ろうとすると、社会から親身な絆が薄れてゆく。そうなった時に、福祉や教育は限界を超える。子育てを受けきれない。すると、市場原理に逃げ道を探そうとする。すると、子どもが大人の都合でやり取りされる、売り買いとまではいきませんが、それに近い状況が起こってくる。それを政府が「違法」にすることがもはやできなくなる。

BS世界のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」。映像が伝えてくる「警告」は恐ろしいほどリアルで、人間社会の可能性を示唆しています。https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263