「人材の流動性」、幼児の成長と発達には、実は致命的な言葉です。

人材の流動性

 

保育界で起こっている状況に、「リスクが高すぎる。人材の流動性も高くなる一方。」というツイートが返って来ました。

3歳未満児の保育は日々命を預かること。保育士の責任感と経験が未熟だと危ない。少ないベテランを3歳以上児にとられ、未満児たちには新人を当てるか、資格を持っていても3歳以上児はとても保育できない保育士をあてざるを得ない状況が全国で起こっています。

未満児だけ預かる保育所も増え、ただ預かっているだけ、保育をしていない園もあります。そういう保育所から来た子どもは預かりたくない、責任が持てない、他の子どもたちの保育に影響する、とあからさまに言う認可園もあるのです。

保育士不足が決定的で、これからますます安全性が脅かされ、リスクが高くなる。

それがわかっていても見ぬ振りをする「業者」の保育参入をどうやって止めるのか。特に小規模保育に名を借りた規制緩和は、国からの補助が旧認可保育園並みになり、儲けるなら保育だ、というビジネスコンサルタントの浮ついた言葉をネット上に溢れさせているのです。

「条例をつくっても、市の計画に入れなければいいのです」と行政の人から言われました。保育にサービス産業が入ってくることに違和感を感じる行政の人、市長はまだいます。国の施策がおかしいと思えば、保育課長が市長を説得し、市政の段階で阻止することもまだできます。でも、それさえも選挙を挟んで限界に近づいている。

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『全く向いていない人が保育士となる。預ける側にはそれはわからない。大切な我が子を安心しては預けられない状況なのですね。』というツイートに、

『昔から確実に少しそうでした。その可能性が突然広がりますます増えている状況です。しかし同時に「大切な我が子を安心して預けられる」ことはどんな状況でもできないわけで、その安心を信頼関係で補い、得ようとするのが人間社会の絆だと思います。』と私がツイートを返します。

 

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園によっては毎年、2、3割の保育士が辞めてゆく。交代してゆく。危機管理のために必要な一体感が職員たちの間になくなってきている。こんな、派遣会社に頼らざるを得ないような方向への「保育」の広まりを、10年前、一体だれが予測したでしょうか。

 

「人材の流動性」、幼児の成長と発達には、実は致命的な言葉です。

幼児期、「育てる人たち」がほぼ数人で、一定している状況で、つまり、家族、親族、もう少し広げて村人や部族という一定の人々に囲まれて人間の遺伝子は何万年にもわたって進化してきたのだと思います。そうであること、は幼児期の人間の成長や発達に確実に影響があった。その環境で遺伝子が進化してきた。だからこそ、国連の子どもの権利条約にも、幼児期の安定的な人間関係を「家族」という単位をベースに守るべきことがうたわれているのです。

最近の政府の保育施策を見ていると、政治家や学者がこの「育つ環境」を完全に忘れているように思えるのです。保育を「飼育」のように見ている。保育士が入れ替わり立ち替わりでも、誰かが見ていればいいんだ、と言わんばかりの規制緩和と業者に都合のいい市場原理の導入が続きます。一番大事な子どもたちの「日常」がどういうものかイメージできていない。

いま、「ひとつの園に長く勤めるよりも、派遣の方が気楽です」と言う保育士さんが出てきて、もうそれは止められないかもしれない。看護師さんの働き方において、よく言われることだそうですが、幼児の成長にこれほど直接的に関わる「保育」と「看護」は人生に影響する深さが違うと思うのです。

一人の保育士が、5年間同じ子どもたちを、その成長を眺めながら一喜一憂し保育できなくても、乳幼児期を世話した保育士が、卒園式の日にその園に居るかいないかで、保育という仕組みの空気が変わってくる。それによって、家庭の代わりをしなければならない保育園の存在理由がギリギリのところで保たれる。派遣会社の参入を許し「社会で子育て」などと言う政治家や学者たちはそのあたりのことをまるで理解していない。

保育園や幼稚園という人類にとって非常に新しいまだまだ実験的な仕組みは、社会というより、ある程度「家庭」「家族」というものに似せておく必要があったのです。保育園の場合は特にそうだった。子どもたち目線から考えれば当然なのですが、以前、この国の保育に対する考え方はそうだった。保育指針にも、家庭と園が「心をひとつにする」ということの大切さがいまだに謳われているのを読めばわかります。

一人では絶対に生きられないから家族がいる。家族だけでは生きるのが難しいから村がある。そんな時代を何千年も経て、いま、村がなくても生きられる、家族がなくても生きられる、一人でも生きられる、という感触が、幼児を育てることの意味を忘れさせようとしている。だから、保育園や幼稚園という、村単位の絆さえ補えるかもしれない可能性を捨ててはいけない。その可能性にしがみつく時。ただの仕事場にしてはいけない。

 

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