市、虐待疑いの母 確認せず保育士に採用

堺・9歳暴行死:市、虐待疑いの母 確認せず保育士に採用 

堺市で今年2月、小学3年生の長男、福本陽生(はるき)さん(9)を殺害したとして両親が殺人容疑で逮捕された事件で、市は2日、大阪府警から虐待の疑いを指摘されたのに、本人に確認しないまま母親の裕子容疑者(34)を保育士として採用し、こども園で勤務させていたことを明らかにした。(毎日新聞)https://mainichi.jp/articles/20180803/k00/00m/040/194000c

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もう、限界は来ています。保育士は、ただの働き手、保育はただの仕事、就労支援とみなされている。人間性が問われていない。少なくとも幼児という絶対的弱者に日々関わる者としてのチェックが行われなくなっている。人選にほとんど注意が払われなくなっている。市の行政でさえそうなのです。募集しても倍率が出ない保育士不足が、資格さえ持っていればいい、という状況を生んでいて、現場は人を選べなくなっている。実は、数年前から公立の保育園でも起こっていたこと。私立では十年以上こういう状況が続いてるのです。

(千葉で保育士が警察に園児虐待で逮捕され、園長が取り調べに、「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言ったのが5年前、新聞の一面の記事になっていたのです。園長が悪い保育士を注意できなくなったら、家に帰って親にちゃんと報告できない3歳未満児を預かってはいけない。少なくとも、それを政府が奨励してはいけない。そういう危険性があることは伝えなければいけない。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=779)

幼児の存在、願いだけではなく、安全性を無視して雇用・労働施策を進める政府や政治家、経済学者の保育施策に対する姿勢によって、行政も含め、現場が完全に追い込まれている。

子ども思いの保育士にとって、「大阪府警から虐待の疑いを指摘されたのに、本人に確認しない」行政の姿勢に対する、あきらめに近い失望感が、全国に蔓延してきています。

子どもに対する行動に疑問のある人を職場の同僚に抱えて保育をするということがどれほど辛いことか。見て見ぬ振りをせざるを得ない保育士の悲しみや、園児たちを守れない辛さが、幼児の日々の一瞬一瞬にどれほど影響しているか。幼児たちの日々が、この国の将来にどれほど影響するのか。ちょっと考えればわかるはずです。

そうした人間の心の動き、見えないところを想像し、乳幼児の願いを汲み取ろうとする能力が社会全体から欠け始めている。事故が起こらなければいい、表沙汰にならなければいい、親にバレなければいい、という問題では絶対にないのです。

人間社会が存続するために必要だった弱者を守ろうとする意識、社会というものを作ろうとする「意図」が変質してきている。

こんな状況を知らなかったとは、もう誰も言えない。

24時間型保育所を増やす、などと言っている東京都の知事も、現場が保育士不足によってこれほどにまで追い込まれている、ということは知っているのです。知らないとしたら、あまりにも勉強不足。保育施策を語る資格なしです。

この子どもを虐待し、殺害した容疑に問われている母親は保育資格をもっていたのだろうか。持っていたとしたら「資格」の意味が問われる。持っていないとしたら、誰でも保育士として雇うことができる仕組みの危うさが問われる。

以前、ある厚生労働大臣が「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と私に言ったことがある。「専門家」という言葉で誤魔化そうとする政治家、「専門家」という言葉に誤魔化される親たち、「専門家」という言葉に頼ろうとする一部の親たち、幼児たちの存在意義が見失われてゆく。親を育てる専門家(幼児)たちが、その役割を果たせなくなってゆく。

「専門家」が「専門家」を作り出すように見えてしまう学問や教育の普及が、本来の「人間としての感性、判断能力」を社会全体から失わせ、「人間としての成長」を危うくしている。絆をつくる役割分担から「心」を奪っていく。

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