言葉、翻訳、古さ、と次元2

 150年くらい前に、日本で,欧米語の翻訳という過程で「社会」とか「自由」という言葉が現れ、使われるようになった時に、本来「ある」もの(語らずともよいもの)が人為的なもの「概念?」になり始めたような気がします。一見広い範囲を持つように思われる「概念」が現実と混同され、TPOまたは趣味と都合によって中身(意味、共通理解)にばらつきがでてくる。宇宙の意識が,人間の意識の枠のなかに治まると思ったのが、解体され、人間の意識を一体に保つ役割りが希薄になってくる。体験から生まれるはずだった「言葉」が一人立ちして、人の意識を支配するようになると、人間は宇宙の意思によって作られたことを忘れて、だから、いまこれほどシステムにこだわるのか。水増しされ膨張しすぎている学問(本来の意味ではない)が加わると、言葉を発しないひとたち物たちとの会話がないがしろになってゆく。

 以前、沈黙との対話が人間の絆を支えていたことが、記憶の中でぼやけてくる。
 フィギアと話し始める若者たちは、ひょっとして人間性を守ろうとしているのかもしれない。

 品川で、誕生日に、プレゼント要らないから、と言って一日保育士体験を親に頼む子どもの話を聴きました。子どもたちは自分の親を自慢したい。親たちに園での生活を自慢したい。その気持ちを大切にすれば,利害関係ではない絆が自然に生まれるはず。

 子どもたちは何か出来るようになるのが嬉しいのではない。出来るようになったのを親に見てもらうのが嬉しい。子どもたちは生きることが、育てることと一体になっている。それに気づいた時に、損得ではない関係の心地よさに親たちが引き込まれていゆく。

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