さっき、埼玉のある学校の栄養士さんから、夏の研修会で講演してもらえませんか、というお電話がありました。日程がどうしても合わず受けることはできなかったのですが、嬉しかったので、しばらくなぜ嬉しいのか考えているうちに、これを書いています。学校の現場でも先生や保護者の前で話すことはたくさんあるのですが、栄養士さんたちからの依頼というのは初めてでした。
以前、本に書いた文章を思い出し、それをこのブログにも書いておこうと思いました。
山形の先生たちに講演する前に、しばらく控え室で若い先生と二人っきりになりました。大会のセレモニーをしている間、待ち時間があったのです。その若い先生が入れてくれたお茶が、不思議においしかった。落ち着いた、やさしい味がしたのです。
「何年保育士をやっているんですか?」
「保育士ではないんです。調理師なんです。給食を作ってます。七年目です」
「おかけになりませんか?」
「はい」
「楽しいですか?」と尋ねました。
「はい。とても」と微笑まれます。「でも、三年務めたとき、一度やめようと思ったことがありました……」
先生は、そう言って窓の外の景色を見つめます。「そのとき、園長先生に、もう二年やりなさい、と言われたんです」
「つづけたんですね」
「はい。五年目くらいから、調理をするのが楽しくなりました。私の作った給食を、どんな顔をして園児が食べているか覗いて見るようになったんです……。おいしそうに食べているのを見て、とても幸せな気分になってきたんです。あのとき、やめないでよかったです」
「五年かかったんですね」
「はい」と頷く先生の顔が、晴れ晴れとしています。
一杯のお茶の向こうに園児が見えました。声が聞こえる気がしました。
給食の先生は保育園を眺めています。客観的という言葉は当てはまらないけれど、毎日毎日、繰り返し心を込めて園児の食事を作る人たちは、園のすべてを見ています。おいしい給食をつくる先生に聞くと、その園のことがわかります。
厳しい保育士がいたりすると、お願いだから給食の前にあの子を泣かさないで、と心の中で祈ります。心を込めて食事を作ることが、人間の確かな目を育てます。だから、保育園に給食室は必要です。保育園は子どもたちが育っていく家なのです。屋根があって、門があって、釜戸があって、その釜戸の前で、子どもたちを思う心が育っているのです。
調理師の先生の目が、子どもたちを見守っている。これも大切な保育です。
(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」国書刊行会より)
幼児が育ってゆく不思議な気が活発に動く場所で働くひとたちが、ただ職業として労働として働いていたのでは、幼児たちが、本当の役割を果たせたことになりません。幼児たちの存在が、社会に人間性を育てる。潜在的な役割を含んだ絆を育てる。その絆は、いつどこで役立つのかわかりません。しかし、お互いの意識の中に存在し、育ってゆくのです。