フィクションを信じる力・「AI」と進化の道筋

経済財政諮問会議の委員を務めた経済学者が「0歳は寝たきりなんだから」と園長たちの前で言ったことがある。その小さな集まりに私も参加していた。この人は、本当にそう思っている、と気づいた時、高等教育や学問の恐ろしさ、それを中心に回っていく社会制度に対する危機感を身近に感じた。横にいた園長の肩が怒りに震えていた。学問と子育ては、今これほど離れたところにある。

21年前、毎日新聞(98.12.18  東京本紙朝刊)の経済欄にこんな記事が載った。「保育所整備は社会にとってもオトクですよ」というタイトルだった。

 「経済企画庁の研究会『国民生活研究会』は17日、保育所整備は社会にとっても、保護者、市町村などにも「得」との分析結果をまとめ、働く母親支援策として提言した。子どもを6歳まで預ける場合で、母親の可処分所得(手取り収入)が約4450万円増え、市町村などの税収も約1700万円増加し、それぞれの費用を大きく上回る。」

この『国民生活研究会』の座長が前述した経済学者だった。それが本当に社会にとって「お得」だったのか、保護者にとってお得だったのか、市町村にとってお得だったのか、検証されないまま(検証を無視して)同様の趣旨の施策が、新エンゼルプラン、「生産性革命と人づくり革命」、「新しい経済政策パッケージ」と続いていく。

保育所整備を税収増や労働力増という観点でしか見ない経済学という学問の中で、人間が、自分の人間性を体験していない。幼児たちの存在意義と彼らの意識が離れることによって、社会全体が感性を失い、想像力を失っていく。市場原理や自由競争という言葉に社会全体の思考が操られつつある。勝者になる人間が限られているという仕組みの宿命が、子どもたちを追い込む。追い込まれた子どもたちが、保育士や教師、やがて親たちを追い込む。

三党合意で現政権が受けついだ旧子ども・子育て新システムを進めていた前政権の厚労大臣が、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と私に言った。国の「子育て」の問題を仕切るトップが、あっさりとこれを言う。「任せておけばいい」と言う「専門家(保育士)」たちの心が萎えていく規制緩和と、「親や企業の利便性」を争う自由競争を保育界に強いておいて、これを言う。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=208

そして、首相が国会で、もう40万人保育所(受け皿)で預かれば女性が輝く、と言ってしまっては、子育てが女性が輝かない原因というイメージが育っても無理はない。ただでさえ高等教育や学問によって子どもたちの感性は押さえつけられている。これ以上幼児たちと過ごす時間を奪われては、男女ともに一層自分の遺伝子の成り立ちを体験できなくなる。先進国社会で人間性が退化しようとしている。

絶滅したネアンデルタール人と生き残ったホモサピエンスの能力差は、フィクションを信じる力だったという。想像の世界で心を一つにする能力が、より強い人間「社会」を構築していった。皮肉なことに、それが高等教育の普及で退化し始めているのだ。人間の想像力や理解力は、0、1、2歳児という特殊な人たちとの会話、言葉を超えたコミュニケーションによって培われてきた。この人たちを、夫婦という単位から始まり、家族、そして集団で守ろうとすることにより、人類はコミュニケーションが言葉を超えることを実感する。0、1、2歳児という半分「あちら側」に居る人たちと無言の会話をすることによって、人類固有の能力と絆が、人類固有の次元で育まれる。誰かの気持ちを「理解しようとすること」で社会は整っていく。「理解すること」ではない。

祈り、は子育てから生まれた。

最近話題になる「AI」が人間の進化の道筋に関わり、前述した元経済財政諮問会議の委員や、元厚労大臣や首相の視点を「情報」としてインプットされたら、人類は危険な状況に追い込まれる。インプットされる他の莫大な量の情報が、こういう視点の正当性を「非現実的」と打ち消してくれるとは思うが……。

AIは「平等」という概念を受け付けないはず。ジェンダーは理解しても、「平等」を非現実的と選択肢から排除するはず。「平等論」はパワーゲームの裏返しで、それを目標とすれば、人類は無限の争いに導かれることを、仮想現実の中での試行錯誤でAIは理解すると思う。フィクションを信じ、調和を模索すると信じたい。それともAIは、まだ戦うための道具にすぎないのか。

役場の保育課の窓口の人たちが、「0歳児を預けることに躊躇しない親が、突然増えている」と不安そうに言う。それ(受け皿)を提供している人たちが、自分たちのしていることに怯えている。財源的にも目処が立たないし、人材的に「無資格者」と「素人経営者」を増やしていくしか打つ手がない。自分たちが政府の「雇用労働施策」を進めるほど、子どもたちの日常の質が落ちていくのが見える。親子関係の希薄化が、妊娠中からすでに進んでいる。親子の絆が育ちにくい家庭が増えていけば、就学前の保育、その先にある義務教育の崩壊が学級崩壊という形で連鎖していく。もうそれははっきり見えているでしょう、と保育者たちは叫んでいる。それでも、学者たちの暴走は止まらない。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2822

小学校の教員の応募倍率が下がり教職員の質の低下が進んでいる。保育園の4、5歳児から始まり小学校5、6年まで、ちょっとしたきっかけで集団の秩序が崩壊してしまう。並行して、親たちの「社会で子育て」に対する要求はますます激しくなっている。

自分たちの責任ではない、と投げてしまう主任や園長もいる。市長の方針だからと言って、保育現場の要望や苦言(悲鳴)に耳を傾けない保育課長や福祉部長もいる。「閣議決定されたのだから仕方ないでしょう。内閣を選んだのは国民でしょう」と言う厚労省の役人もいた。その通りだと思う。「社会で子育て」は、とっくに「仕組みで子育て」、つまり「責任転嫁」になっていて、人間たちの手から離れようとしている。

子育ての第一義的責任が宙に浮き始めている。そして、相談相手が家庭に居ない子どもたちが、 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の中に「絆」や「助け」を探し始めている。

潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見る経済学者や政府によって、人間の生きる動機が「次世代の幸せ」ではなくなろうとしている。少なくとも仕組みはそうなってきている。その結果、未来の安心が、信頼ではなく、お金で量られるようになってきた。月に十万円保育料を払うようなセレブ保育園では保育士による虐待も、子どもを叩く英語講師もいないはず。https://www.youtube.com/watch?v=kKWuZfSFKDI

老人介護施設もしかり。

でも、高額の保育料や介護費を払えない人たちのほうがはるかに多いのです。

経済学者が「0歳は寝たきりなんだから」と言うことによって、格差が急速に広がり、弱者がその本当の役割を果たせなくなっていく。

保育や子育ての問題がもっと真剣に、この国の存続に関わる緊急課題として語られなければなりません。マスコミの取り上げ方が、まだまだ足りないと思う。子どもはしつける対象ではなく、可愛がり、その存在をみんなで祝う、感謝する対象でなければいけない。それがこの国の伝統だったはず。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1047

i mages-9

images-12

保育士不足で現場に負担感? 認可保育園で虐待、背景は:https://www.asahi.com/articles/ASMCD5X1RMCDUTIL04S.html

隠れた“虐待”保育園が消えない理由…おぞましい実態、背景に保育士の過酷な勤務:https://biz-journal.jp/2019/10/post_125014.html

認可保育園でも幼児虐待。叩く、突き飛ばす、転ばせる…実際に働いていた女性に話を聞いた:https://news.yahoo.co.jp/byline/osakabesayaka/20180828-00094721/

東京・亀有の認可外保育施設で虐待 「しつけ」と称して:https://www.youtube.com/watch?v=TNXW6-I4iuk

認可外保育施設でカナダ人講師が幼児虐待 動画で発覚:https://www.youtube.com/watch?v=kKWuZfSFKDI: