マザー・テレサの言葉・死を意識すること・専業主夫歴13年の方のツイート・メール二通、と返信

この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、「自分は誰からも必要とされていない」と感じる事なのです。~マザー・テレサ~

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(幼児を育て、全身全霊で信じ頼ってくれることに感謝していれば、それが実感できる。)

 

死を意識する

以前、インドの村に居て感じました。いまほど豊かでもなく、医療も発達していない状況の中で、幼児に頼られ、信頼され、親心という人間性を育てられた親たちは、自分はいつ死ぬかわからない、ということを強く意識するようになる。そして、自分が死んでも子どもが生きていけるようにまわりに、信頼関係の絆を作るのだと思います。人類が進化してゆくための本能の絆です。

「死」が「生」に貢献する。人類はこうして、「助けあう絆」「頼りあう絆」「信頼しあうきずな」を常に日常生活の中で育てながら一緒に生きて来ました。その出発点に、乳幼児から私たちに向けられた無心の信頼があった。

 

親たちが、子育てを自分でしなくなってくると、この人間が信じあおうとする本能が働かなくなってくるのです。

 

専業主夫歴13年の方のツイート:本当にそうですね。

『子供は親の笑顔を見ることが幸せ』という言葉をよく聞く。私はこの言葉が好きではない。何故なら『親が好きなことをやるのが子供にとっても幸せ』と解釈する人が多いから。子供が親の笑顔を好きなのは『一緒に笑いたいから』なんだ。そして時には『親と一緒に泣く』ことだって子供にとっては幸せだ。

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自分自身を体験する

男性園長に、いやいや一日保育士体験を命ぜられた体育会系の父親が、お昼寝の時間に、寝付かせようと娘の背中をトントンしていて、ふと「おとうさん、ありがとう」と言われて、涙し、「やってよかった」と言って園長に言って帰っていった。父親が、自分のいい人間性を体験する。子育ては、親たちが自分の良い人間性に感動すること。こういう体験を積み重ねて、人間社会は成り立っている。

 

メール二通、と返信

講演会を聴講させて頂いたM.Hと申します。

先日は、茅野市立北部中学校での講演をありがとうございました。実は、私は松居さんの講演は、2回目でした。茅野市立北山保育園に子供が在園中にも一度聴講させて頂いておりました。

最後に本当は質問がしたかったのですが、あの場でこういった質問をしてよいものか疑問に感じた為、松居さんのホームページから、質問させて頂く事にしました。

夏休み明け前から、全国的に中学生などの自殺のニュースなどが飛び交っていました。

学期始めなので、不登校などいろんな問題が起きる時期ではありますが、日にちが変わろうとする前のニュースの最後に「明日学校へ行きたくないと思った君たちへ」(すみません、おそらくタイトルは違うかもしれませんが、このようなニュアンスの題名でした)といった感じで、何らかの理由で不登校になってしまった子供たちへ向けたメッセージが流れていました。「学校へ行きたくなければ、行かなくていいです」と言う内容がとてもひっかかりました。

 

ある図書館の司書の方が、学校へ行きたくなければ図書館へいらっしゃいとおっしゃっていらっしゃいました。図書館なら、一日居ても誰も何も言いませんと。私は子供が一人で学校へ行く時間に、違う場所に居たら、声を掛けるべきだと思っていたので、そのメッセージもしっくりと来ませんでした。他人様の子供であっても、悪い事や危ない事をしていれば、少なからず注意をしたいと常日頃考えていて、やってきました。

これらのメッセージが「今ある辛い事から逃げる事は決して悪い事ではないよ。今見えている世界が世の中全部の事ではなく、生きていれば違う世界だってあるんだよ。」という事が言いたいのだろうな…、という事はなんとなくは分かるのですが、学校を無断で休むことはいけないと言う認識の中で教育を受けて来ている私の様な親や子供たちに、「学校へ行きたくなければ行かなくて良いのだよ。」と、突然言われても、その認識を取り去る事が出来ない限り、罪悪感に襲われる事は間違いないと思うのです。

私の様な親は考えが古くて、不登校の子供を傷付けてしまうのかもしれませんが、わたしはやっぱり不登校は原因が学校の中にあったとしても、一番は家庭の、家族の問題なのかなぁ…と感じてしまうのです。

学校へ行かずに逃げて、また次の所でもうまくいかずに逃げて…結局、立ち向かう事を学ばないで大人になった時、苦労するのはその子供自身なのではないかなぁ…と感じてしまいます。

だから酷な事だとは思っても、自分の子供には立ち向かう事をついつい、勧めてしまいます。

パパもママも一緒に戦うよ!と。

もちろん、自分の子供が加害者になる事だってあると思っているので、その時の事も考え、子供とそういった事も話したりします。

友達にそういった事を話すと、「でも、子供によって強くいえる子と、そうでない子も居るから、一概に立ち向かえ!と言うのは難しいよね…」と言われ、自分が子供に教えている事は子供には酷な事なのかなぁ…と、感じる事もあります。

話が長くなってしまい申し訳ないのですが、松居さんはこの子供たちの自殺問題や世の中の対応の仕方について、どの様に感じ、どの様な考えをお持ちでしょうか?

お時間のある時で構いません。お聞かせ頂けたら、有難いです。最後までお読み頂いてありがとうございます。そして、講演をありがとうございました。

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M.H様

ご指摘の違和感、私も感じていました。

大人たちが、懸命に対処しようとしているのはわかりますが、子どもたちの悩みは質も深さも種類も様々で、一律にこうすればいいのでは、ということは出来ません。だから私は、「子育ては親がオロオロしていれば、だいじょうぶ」といういい方をします。「オロオロ」に無限の可能性と余韻を求めて…。

最近、多くの人々がどこかに正解があるように教え込まれ、それを仕組みの中に探そうとします。それをマスコミが、とにかく色々報じようとする。ところが、親たちだけでなく、仕組みも混乱している。

(学校に行きたくなければ図書館があります、という語りかけは、元々アメリカで始まったものですが、アメリカの公教育ではイジメも暴力事件も日本とはその規模と次元が違います。都市部では、殺された友人が居る、と答える高校生がクラスで半数という学校があります。そういうことも同時に報道されるといいのですが。)

学校教育ははじめからかなり不自然な仕組みで、それを絶対的に認めてしまうと永遠に答えは出ない。その対処が、逆に問題を大きくしてゆく場合が多い。特に、学校教育や福祉といった人間性を補う最近出来た仕組みは、親が親らしいという前提のもとに作られているので、それを忘れると負の連鎖に入ってしまいます。

私には「親がその子の幼児期、本質を知り、本気で心配していれば、どういうやり方でもいい」、という答えしか出ない。子どもにとっての環境は主に他の子供たち。すなわち、他の子どもたちの親たちがどういう親か、が「環境」です。ですから、親たちが幼児期の自分の子どもになるべく接し、成長をみんなで「祝う」機会を復活させてゆくのがいいと思います。

幼稚園や保育園の卒園式に来る父親が増えています。みんな気づき始めている、求め始めている、と考えるようにしています。

不登校の問題に関して、親が子どもに何をどう薦めるか、は親にとっては「賭け」のようなところがあって、やってみて「祈る」しかない。昔からそうだったと思います。この「祈り」が通じるためにも、子どもが生れて数年間親はその子の成長を『祝い』続けなければならない、そんなことが隠された法則のような気がします。

そして、もし親が児童文学に興味があれば、時々「長くつしたのピッピ」(リンドグレーン作)や「農場の少年」(ワイルダー作)を読んで、学校の位置づけを思い出すといいのかもしれません。いい児童文学は子どもの視点を憶い出させてくれます。読み聞かせると、感性をシェアすることができます。

少し書きにくいのですが、自殺について。

太宰、川端、三嶋、ヘミングウェー、未遂も含めれば、シューマン、チャイコフスキー、ベートーベンも危うかった。

「感性豊かな子ども」を教育が求め、自殺の多さを問題視するのは、たしかに矛盾していると思うのです。その辺に、「教育」のごまかしや浅さ、限界を感じます。もし真剣に生きなければ、感受性が強くなければ、そこまで追い詰められることはないかもしれない。いい加減に、適当に、鈍感に生きていれば、そんなことにはならないかもしれない。

知恵として、手段として、時々「いい加減に、適当に、鈍感」になることは大切だと思うのですが、そういう言い方はあまりしない。

学校に行きたくない、というのは、学校の不自然さに社会全体の感受性や責任感のなさが加わった現在の環境に対する、感性ある、ある種のことに敏感な子どもたちの「反応」なのだと思います。私たちの育った時代とは、すでに学校の雰囲気や、人々の心の中での学校の位置づけが違うのだと思います。だから、それをリアルに体験していない者としては、助言がとても難しい。

ただ、多くの子どもたちが新学期を楽しみにしているわけで、そのことに対して親たちがもっと感謝すれば、それが一番いいことなのだと思います。

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松居 和 様

 

早速のお返事ありがとうございます。松居さんに頂いたお返事を、先日の講演会に一緒に参加した主人と共に読ませて頂きました。

感受性豊かな子供達が、今の社会に敏感に反応している…ずっと閊えていたものが一瞬にして消えました。

そうですね。確かに。

繊細が故に、沢山の事を想い感じ、考え、自分で苦しくなっていってしまう。

松居さんのお話を受け、主人と話したのですが、やはり親の在り方が一番おかしくなり、それに応えようとおかしな仕組みが出来、子供ではなく自分達を守らなくてはいけなくなった学校の在り方もおかしくなった。学校の先生はどんどんと追い込まれていき、先生方も苦しい環境に考え方がおかしくなる。表面上では親も、先生も、学校も「子供」を守るとしているものの、蓋を開けてみれば子供は守られていない。まさしく、松居さんのおっしゃる負の連鎖ですね。

私の中学時代も今とは異なるものでしたので、時々子供に話はするものの、時代背景が違うので言葉や内容を選びながら話す事が多々あります。

私は部活は剣道部に所属し、とにかく稽古がきつかった。部員全員が一致団結していないと、精神的に崩れてしまう様な気がして、とにかく部員の絆は深かった。顧問の先生はとにかく「怖い」という印象しかなく、先生が用意した遠征試合などに「行きたくないなぁ…」などという態度が少しでも見られれば、頬をビンタされていました。礼儀と志についてはとにかく厳しかった。皆で、「絶対にあいつ(顧問)には負けない!」という思い一心で中学の三年間を過ごしたのが懐かしいです。

それでも、顧問の先生は夏休みの10日間を除いて、毎日の朝、午後の練習、土日の練習、そして公式試合が試験期間に近ければ、親に向けて稽古の承諾書と、試験期間は子供たちの勉強は自分が見ますというお知らせを書いてくれ、試験前、期間中の部員の勉強は集中して2時間稽古をした後に、お弁当を食べ、顧問の先生と一緒に試験勉強をするなど、とにかく剣道と子供たちにずっと目を向けていてくれました。

「私たちが一生懸命に剣道に打ち込めるのは理解してくれる親御さんが居るからだ!だから、お前たちが剣道の練習量のせいで学業の成績を下げるという事は許されない。」という事を三年間ずっと聞かされていました。

そして、親もそういう状況に物申さず、承諾してくれてお弁当を作ってくれたり、朝早く送り出してくれたりと、私達子供に目を向けていてくれました。顧問の先生はそれを私達子供にだけ「やれ!」という形ではなく、自分が子供達と一緒になって苦労する事をしてくれていました。剣道で怪我をすれば、病院へ連れて行ってくれたり、どうやったら怪我が少しでも早く治るかなど考えてくれたり…。おそらく、親よりも長い時間一緒に居た様な気がします。

そして、学校の先生方全員が、生徒の色んな情報を共有してくれていたのも覚えています。怪我や病気をすれば、学年の違う先生から声を掛けられたり、けがをした時に、病院へ付き添ってくれたり、剣道部では無いのに、手が空いていれば学年、部活の垣根を越えて生徒の為に、他の先生の為に動いてくれていたのだと思います。だから本当に大嫌いな顧問でしたが(笑)愛情を感じていて、高校生になっても中学校へ足を運んでいました。もちろん、親に反抗もしましたが、何かあれば親がついていてくれる…という安心感が心のどこかにずっと有った気がします。そして感謝しています。

現在、顧問の先生は神奈川県の中学校で副校長先生をやられていると伺いました。

卒業する時に、「君たちはこの三年間、この厳しい稽古に耐えて来られたのだから、これから先ちょっとやそっとの事でへこたれる事は無いと思う。恐らく、大学生位までは大丈夫なはずだ。だから、やって来た事に胸を張って前に進んで行きなさい。」と言われたのを今でも覚えています。ですから、本当に子供時代は幸せだったと感じています。

今はこういった経験を子供たちにさせる事はほぼ出来ないので、自分達親がこういった環境を作ってやろうね…そんな風に夫婦で話しています。

またニュースの話になりますが、2020年の東京オリンピックに向けて日本の「おもてなし」を子供達にもしっかり学んでもらおう…という事で、各小学校に、おもてなしのプロフェッショナルを迎えて講義をして頂く…というのがやっていました。一瞬で終わったニュースでしたが、疑問がいっぱいです。

本来ならそんなもの親が教えていくもの。近所の人達で教えていくもので、「元気に相手の目を見て挨拶をする」なんて事は、小学生に上がる前にはできる事だったはず。

それを税金を使って全国教えて回るなんて、一体何事だろうと…。

親の存在は一体なんなのか?

子供の前に、親を教育する必要があるのではないか?

日本には「おもてなし」の心が有ると、オリンピック招致スピーチの時にプレゼンしたはずなのに、おもてなしの心は日本に浸透していないではないか…。後付けの内容で呆れてしまいました。世界中に嘘のスピーチをしたのも同然です。こんな世の中であっても、望みを捨てずに講演を続けていらっしゃる松居さんに感謝しています。

松居さんの講演を聞いての、学校の先生方の意見や感想も親としては聞いてみたいなぁ…という思いが有ります。そして、松居さんの講演は学校関係者だけでなく、命の産声が上がる、医療機関の方々にもぜひ聞いて頂きたい内容だと強く感じています。

私自身、どちらかというと白黒つけなくては気が済まない性格が災いする事が有るので、子供達にも少々その気があるな…と、感じ反省する事もあります。中学生の娘には、自分の事を棚に上げて、「こうでなければいけない!と常に周りの物事に対してイライラしていると、自分が苦しくなってしまうよ!」なんて助言をしたりしています。

私も、「オロオロ」して子育てに、自分育てに奮闘します。

「長くつしたのピッピ」や「農場の少年」、私も購入して読んでみます。

以前、スウェーデンへ訪れた際に、長くつしたのピッピは本当に国内中に溢れていて、国民に愛されているのだなぁ?という事を感じました。私は子供の頃読書はあまりせず、得意ではありませんでしたが、自分たちの子供には小さな頃から絵本の読み聞かせをしてきました。そしたら親の半面教師でしょうか…本が大好きな姉弟になっています。おもちゃやゲームの類はほとんど買いませんが、本は財産になるから良いよ…と、家族で共有しながら本を楽しんでいます。

お時間を作ってお返事を下さり、本当にありがとうございます。

H.M

 

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松居和様

 

いつも「シャクティ日記」を拝読し、参考にさせていただいております、大阪市在住のK.I.と申します。

今年に入ってから、なんとなく手に取った「愛着障害」についての本をいくつか読み、ネット上でも「愛着障害」について色々検索していく内に「シャクティ日記」と出会いました。

私は子どもを0歳児から保育園に預けて働いていましたが、愛着障害についての本や「シャクティ日記」に出会ったことをきっかけに、先月末で退職して現在2歳4ヶ月の子どもと、家で過ごしています。保育園では概ね楽しく過ごせていたようで、大好きな先生方やお友達を作ることができました。私と二人だけで過ごしていては経験できなかったことも沢山ありました。

保育園に通わせているお母さん方の中に、「子どもと家でずっといるのは私には無理」だとおっしゃる方が沢山いて、経済的な理由で預けていらっしゃる方の方が少ないのではないかと思いました(厳密に言うとうちもそうです)。

また、専門職で、子どもを産む前からその分野で社会貢献することに強いこだわりのあった先輩もいて、現在二人目を出産したばかりですが、子育てだけに「縛られる」ことは良くないと考えていらっしゃるようです。

私自身、仕事を辞めるにあたって相当悩みましたが、結局何が正解なのか見えてこず、人によって外で働くことでバランスが取れているのであれば、それはそれで間違った選択肢ではないように感じています。

でも、あくまでもこれは身近な現実のみを見て感じていることなので、このままでは将来、松居先生が危惧されているような事態が起こってくるのでしょうか?

末筆ながらますますのご活躍をお祈り申し上げます。

K.I

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お手紙ありがとうございます。

とてもよくわかります。

保育園で0歳から育ったから、必ず子どもがこうなる、ああなるということではないのです。たぶんもっと不自然な環境で、例えば貧困とか、戦争とか、不慮の事故とか、思いもよらない環境で立派に育つ子どもはいくらでもいました。でも、それは社会にそうした状況を補いあう人間関係があれば、ということだった気がします。

いま先進国社会で起こっている状況、特に親心の希薄化が原因になって起こる保育の質の低下はブログに繰り返し書いている通りで、そういう保育士の当たり外れが激しくなっている状況を知れば、三歳未満児は預けない親たちは相当数いると思うのです。社会全体の変化のことを言えば、カナダで行われた調査などを見ると、やはり保育施設の普及による愛着関係の不足は、社会全体が荒れてゆく大きな原因になっているのだと思います。

http://itsumikakefuda.com/child_Quebec.html

私の視点は、どちらかと言うと、子育てを、子どもがどう育つかということより、「親たちの体験」と捉えて、子育てとキャリアの両立ということはあり得ない、その体験をするか、しないか、であって、出来ることなら乳幼児とのこの体験だけはなるべく多くの人たちがした方がいいのではないか。そういう空気が感じられる社会であってほしい、ということなのです。

確かに、子どもとずっと二人きりで一緒にいるのは、不自然だし、無理と思っても普通だと思います。3、4人の大人たちが一緒に、または入れ替わり立ち替わり、見守る、それが人類の歴史だったと思います。子育て支援センターを中心に、親子を引き離さない施策を中心にやっていけばいいのだと思います。そういう方法で、幼児たちの願いを優先して未満児保育を行って行けば、保育はまだ成り立つ可能性を持っていると思います。

このままでは、家庭も保育も学校も、共倒れのようになってゆく。それだけはなんとか防がないと、という気持ちでやっています。

二歳四ヶ月、羨ましいです。

松居

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(親たちにハッキリ発言し始めた、ある下町の園長から)
昨日、全体保護者会・父母会を行ったのですが、参加が出来なかった数人の親御さんから「参加できずにすみませんでした。」との言葉を初めて頂きました。
保護者会では家庭にとって厳しい話もしましたが、「我が子のため」が伝わると皆さんうつむきからうなずきに変わりました。
父母会では、ただただ親御さんのご苦労と感謝の意、加えて大人の繋がりが子どもの安心に繋がる話を述べさせて頂いたら、今年度の役員を受けてくださる方が直ぐに決まりました。
27年度の利用者アンケートでは、初めて不満が0になりました(もちろん細かい部分でのご意見は頂いていますが(笑))
和先生と出会い、JCを通じて一緒に事業を行い、平行して園の組織改革を行い、親心を喚起する意識を職員に植え込み、親御さんには敢えて入園前に厳しいことを伝えさせて頂くことで、子育て環境(家庭と園との両輪関係)がこんなにも変わるんだということが実感に繋がっています。
先生には本当に感謝しております!
今後ともご指導のほど宜しくお願い致します。

(サンキュー、嬉しいです。現場のちょっとした積み重ねで、ずいぶん国の空気が変わってくるのだと思います。よろしくお願いいたします。)

 

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