「第三者委員会」という行き止まり

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少し前のニュースです。

保育園で卒園前に起こった子ども同士のいじめの問題で、市が弁護士らでつくる第三者委員会を立ち上げ調査・検証に乗り出すというのです。当初は、就学前のことであり義務教育ではないのだからと調査を拒んでいた市が、一転母親の要望に応えることになったのです。

いじめの問題は、見逃してはいけない弱者の悲しみ。自制心が曖昧な幼児同士の場合はその場で止めるだけでなく、みんなで寄り添って、いじめられた子が再び自分が生きて行く環境を信じることができるように配慮しなければなりません。それはそうなのですが、本当にこうした「弁護士でつくる第三者委員会が……」、みたいな解決方法でいいのか。このやり方で何が、どう解決するのか、という疑問が湧いてくるのです。

こういう方法、方向で、現場に不可欠な信頼関係がますます失われていく気がする。

いじめが長い間続き保護者は訴え続けていたという報道(リンクを後述)が本当なら、信頼関係にない大人に囲まれて子どもが1年半過ごしていた、という子育てをする環境としてはあり得ない状況こそが問題なのです。子ども同士の問題のように錯覚しますが、ごく初歩的な、一緒に子育てをするのであれば一番初めに解決しておかなければならない「大人たちの問題」なのです。

市の作った第三者委員会が調査し親が納得するなら、それはそれで価値のあることかもしれません。子どもにとって最大の「福祉」は親の精神的健康です。

そして、もし、委員になった弁護士たちが、保育は全員パートでつないで構わない、保育士は一日複数回交代し無資格者がいてもいい、子どもたちの願いに反して11時間保育を「標準」と決めたのだから子どもたちが日常的にイライラしていてもおかしくない、と国の施策にまで行きついて、問題の起こった環境を精査検証してくれるならいいのかもしれない。でも、それはあり得ない。

市の保育所の九割が公立で保育士の九割が正規雇用(地方公務員)だとしたら、市の対応への親の抗議や、その後の市の対応の変化もわからないではない。しかし全国的に見れば、財政削減に伴い公立園の廃止民営化は進み半数以上の保育士がすでに非正規雇用で、現場における一体感や連帯感は、以前よりはるかに希薄になっている。

この年齢の「家庭環境の異なる」幼児を集団にすれば「いじめ」は起こる。毎日親から10時間以上離されれば愛着障害と思われる子どもが増え、喧嘩や、噛みつきも日常的に起こる。いじめを止められなかった保育士たちにも問題はあるのですが、保育指針に書かれている「子どもの最善の利益を優先する」のが難しい仕組みの中で起こっているのだということを把握し、検証しないと逆効果になる。

子育てに関わる責任追及の「やり方」は、多くの子どもたちの将来に関わる「道筋」です。子育ては、当事者たちが「子どもの幸せ」を優先して心を合わせること、それによって乳幼児が人間社会というパズルを信じるに足るものだと認識し安心すること、そこに本質があるという捉え方をしないといい方向には向かわない。この問題に弁護士という法律の専門家(闘う道具)を委員として選んだ時点で、すでに大切な論点が置き去りにされている。この人たちは、子どもが問題を起こす時、それは社会が信頼関係を取り戻すために起こされているのだ、と捉えることができない。(失礼、できる人もいるかもしれない。)

そして、気になったのが報道のされ方です。

追い詰められた市の対応がマスコミで報道されることで、人権という言葉を軸に弁護士たちが論議する程度の問題では済まなくなった。保育士たちの責任に関わる問題になってしまった。確かに、そうなのだと思います。現場の責任だと思います。しかし同様の問題が起こった時に親たちが全国で市を訴え始めたらどうなるのか。それは当然の権利かもしれませんが、現場がそれに怯えて、保護者を「お客様」扱いし遠慮するようになったら、それはもう保育ではない、ただのサービス産業になってしまう。そうなることの怖さを多分親たちは知らないのだと思う。

ニューヨーク州から産婦人科医が消えていった時のことを思い出します。

出産時の事故に対する訴訟が増え、賠償リスクをカバーする保険金高騰で産婦人科医が次々に廃業、移転し他州に行かなければ出産もままならない状況になってしまった。訴訟や不信による持続可能な人間社会の破壊が様々な形で起こっている。

日本における「抱っこしない、話しかけない保育」も似た現象でしょう。

乳児に話しかけるな、抱っこするな、子どもが生き生きとすると事故が起きる確率が高くなる、と保育士に言う園長が現れている。じっと黙っている子どもが「保育しやすい子ども」と言われ、親とのトラブルを避けることが最優先で、知識として知っているはずの幼児期の「子どもの発達」が完全に後回しになっている。トラブルが絆や信頼関係を育むという本来の構図が崩れ、無事に(政府がつくった)仕組みを回すことに必死になり、乳幼児の「心の傷」が人々の視界から遠ざかっていく。その子の人生にその時実際に何が起こったのか、判断しようがないからこそ「信頼」が子育てにおけるセーフティネットなのです。それが、大人たちの保身と都合で後回しにされていく。

国の施策がそうなのですから、当然そうなっていく。

子育てをしている人たちが輝かなければ、子育てはその本質を失う。親身になることで輝く人たちが、この国を支えてきた。それがこの国の伝統文化そのものだった。

第三者委員会が必要なのは当事者たちに解決能力がなく、利害関係における対立と分断が激しくなっているからでしょう。しかし、そのやり方で子育てに必要な「信頼関係」が復活するのか。子育てにおける責任回避、押し付け合いと誤魔化しが進み、仕組みを整えようと法律や決まり文句を振りかざすことで、子どもたちに日々直接影響する現場の心が一層整わなくなるのではないか。

第三者委員会という言葉の響きは、保育の現場には似合わない。法律を拠り所に考える人たちが口を挟めば保育は形だけのものになっていく。形だけの保育は、子どもたちの将来の感性の深さに影響を及ぼし、やがて親から子へ伝承される。母親が子どもを思う気持ちは何よりも尊いと理解した上で、あえて言いますが、こういう争いの次元に保育を持って行ってはいけない。子育ては、第三者が評価するものではなく、当事者たちが共に喜びを見出すことにその目的がある。

 

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市場原理と司法が、絆と人間性の代わりをすることはできません。

 

それに関しては、以前ブログに少し書きました。「村人が通るだけで」だけで校内暴力が鎮まる不思議な話です。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=318 :「村人が通るだけで」・「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」・『先進国社会で「子育て」を奪われた人間たちが孤立している』・嬉しいメール「子育ては自由だから。)

 

いじめを無くすことはできません。まだ新しい命のする選択は予測できないからです。でも、その数を減らすために信頼関係を整えていけば、少なくとも、それが1年半も続くような状況は無くすことができる。しかし現実は、子ども同士の「いじめ」どころか、保育士による「虐待」の問題さえきちんと対処されていない。保育士不足によって、園長が、辞められるのが怖くて(悪い保育士を)注意できない、と言う状況が広がっているのです。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2743

*この件で私が参考にしたネット上の記事です

「法を理由に調査拒まれたいじめ 保育園児が失った時間」:https://www.sankei.com/premium/news/210213/prm2102130004-n1.html 

「大津市の市立保育園に通う園児(6)が約1年半、ほかの園児から暴力や暴言を受け、市や園側も認めたにもかかわらず、いじめ防止対策推進法の対象に園児が含まれていないことから、十分な調査が行われない事態が続いている。母親(35)は今月、同法の重大事態に準じた調査検証や再発防止策を市に要請、『年齢に関係なく、大人が苦しんでいる子供を守るべきだ』と訴えている。(清水更沙)」

「大津市の未就学児いじめ問題 第三者委が初会合」:https://www.sankei.com/affairs/news/210412/afr2104120010-n1.html 

「小学1年の児童(6)が大津市立保育園に通っていた当時、性別に違和感を抱えていることが原因で他の園児からいじめを受けて不登園になったとされる問題をめぐり、弁護士らでつくる第三者委員会が検証に乗り出した。12日の初会合に出席した母親(36)は児童が『たすけて。おねがい』とつづった手紙を提出し、『被害者に寄り添った調査、検証を心から願っている』と語った。」

記事を読んだ知り合いの園長が言いました。

「幼児は、ママゴトを見ていれば男の子だって『お母さん』やりたがりますからね。大人の理屈は通用しない。この委員の弁護士たちに、まず四歳児三十人を8時間保育させてほしい。短時間のパートでつないでいい、と決めておいて、幼児たちに道徳やジェンダーの問題を教えろと言われても無理です。一年半もいじめが続いたというのは明らかに異常で、親と保育士たちとの関係性の問題。こんな現場にしているのは政府じゃないんですか?」

園長の、幼児はほとんどトランスジェンダー、という言葉に、なるほどなと思いました。少し大げさに言っているのですが、幼児期は発達の方向が未だ柔軟な時期で人間として様々な可能性を持っている。だからこそ安定した環境と、緩やかな「常識」が必要なのです。学校教育を成り立たせるために持続可能な保育を現場に求めるなら、親と子どもの愛着関係を三歳までにしっかりつくって、それはつまり子どもたちが「守られている」という感覚を持つということですが、その上でただサービス産業のように預かるのではなく、「保育園とはこういう所ですよ、ここまでは親の責任ですよ、他にも子どもたちがいますからね」と親たちに説明し、保育士たちと親たちが一緒に「子どもを可愛がる」という思いで心を重ねることができるように努力するしかない。

(蛇足かもしれませんが、アメリカに35年住んでいた私が見る限り、日本は伝統的にトランスジェンダーに寛容な国です。法的にどうかは別にして、テレビの番組にこれほどたくさんゲイやトランスジェンダーのタレントが出演して知見を述べる国はない、と外国人が驚きます。「学者や弁護士」よりもはるかに日本的でいいね、と。人間国宝の一人に必ず女形(おやま)の名優がいるのも象徴的です。)

アメリカで黒人男性を殺した警察官が有罪になり、テニスの大坂なおみ選手がツイッターで、「お祝いのツイートをしようとして、悲しみに襲われました。なぜなら、私たちは当然のことを祝っているからです。これまでにあまりにもたくさんの不正義が起きていたために、きょうの評決の結果を私たちが息をのんで待たねばならなかったことが、多くを物語っています」というコメントを書いていました。確信をついたコメントです。警察による不正義、あからさまな人種差別が当たり前にずっと続いてきた国、続いている国なのです。私も、そこで様々な体験をしました。

この判決に対しバイデン大統領が「正義に向かっての大きな前進」とコメントしたのが象徴的です。そして、イギリスの報道が、問題の解決には程遠いと言う、それが現実です。

そして、保守派の巻き返しとも言える「Critical Race Theory」を標的にした混乱。子どもたちにアメリカを人種差別の国と教えるのか、否かで、各自治体の教育委員会で飛び交う親たちの罵声と怒号。現在、「教室で人種差別について討論すること」が禁止されている州が26州にのぼっています。これは私たちに対する強い警告です。そこに見える「民主主義」の危うい道筋から日本は何を学ぶのか。これについては別の機会にしっかり書きます。

前述のの事件後も警察官による黒人射殺が止まりません。それは日常的な警察官(人々)の意識に基づいていて、根源的な視点の改革をしないと止めることはできない、と国民の六割が思っている。信頼関係がそれほど崩れ新たな分断が進む社会で、前大統領の発言をきっかけに、矛先がアジア系市民に向いています。

そうした中、マスターズで優勝したゴルフの松山選手のキャディが、最後にコースに向かって一礼した光景が世界中で評判になり、やはり日本はすごい国だと言われる。これは、嬉しかった。日本では特に話題にもならないはずの「礼」が、アメリカの有名選手から、ゴルフ史上最も美しい風景とツイートされる。その辺りに私たちが誇っていい、大切に守らなければいけない日本の何か、がある。第三者委員会と法律では絶対に生み出せない、論理性ではない、たたずまいがある。

大谷選手の活躍もそうでしょう。成績以上にあれほどの熱狂と盛り上がりを見せるのは、彼の「育ちのよさ」にアメリカ社会がいま最も必要としている指針があるからでしょう。社会全体が憧れる「正しさ」がある。イデオロギーに関係なく、その道筋さえ通っていれば人類の試行錯誤はどこかへ我々を導く。

コロナ禍でより露わになるアメリカという国の苦悩が、私たちに警告します。「市場原理と司法が、絆と人間性の代わりをすることはできない」と。

子どもたちとその未来を眺める園長たちが以前はたくさん居たのです。私はその人たちから色々教わりました。

自分たちの役割の大きさに気づいていた。幼児(園児)たちの存在意義を知っていた。子育てに、第三者はあり得ない。祈り、あるのみ。

私たちは、永遠に幼児たちから信頼されている。それが人間社会を持続可能にしているのです。

(関連リンクです;「いい人になること:『非認知能力』」 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3016  

「教育という視点」 (保育園の背負う重荷が増えています。) http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2406)

(私の関連音楽です:

https://www.youtube.com/watch?v=BoENcI0Dnhw

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “The Dream Walk” and “Red Sea”.