こういう仕組みには感謝しなくてはいけない

Take 2: Session.

https://youtu.be/e95y8ZnM6LI

もう一つ、ディジュリドゥと尺八のセッションをユーチューブにアップしました。上記のアドレスで視聴できます。

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このテイク#2では、ノブ君がディジュを通して般若心経を上げます。私は以前、彼がジョン・レノンのイマジンをディジュを通して唱えるのを聴いたことがありますが、なかなか不思議でした。

私は相変わらず上を舞っている感じで演奏します。音楽の中でも、このタイプのセッションはなかなか珍しく、興味深い組み合わせだと思います。生き物のする行いとしては、と言えば不思議さが際立つでしょうし、銀河系で起こることとしては……、と考えれば、人類の存在意義が、このあたりの謎を秘めた行為の中にあるようにも思えてきます。ぜひ、聴いてみてください。

 

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阪神淡路大震災から四半世紀、この国も欧米化を進め、自立という掛け声のもと、多くの人たちが親身な相談相手を失い、経済中心に、意欲で争う社会になりつつあります。しかし、この国の人々は、まだ自粛という言葉を受け入れることができる。それを長く保つことができる。家族という単位があれば、人間は、籠ることに耐性がある、本来、小さな幸せに目を向ける方法を知っているのです。

だから、状況はまだまだいい。常識としての信頼関係の崩壊がまだ欧米ほどではない。だから感染が、欧米から「奇跡」と呼ばれるほどに抑えられているのかもしれません。

コロナウイルスによる死者の3割が入所者というアメリカにおける介護施設の崩壊、そこで放置されていた引き取り手のいない遺体のニュースを見ていると、同じ人間として、恐ろしくなります。

ウイルスに感染した老人を病院や他の施設が引き受けてくれない。どこも手一杯になっている。介護施設の職員が身の危険を感じ離職していく。以前から福祉施設における人手不足と人材の質の問題は危機的でした。職員の補填ができない。感染者、死者がますます増えていく、コロナ以前からすでにあった福祉における負のスパイラルが増幅し、止まらないのです。いずれ、何らかの方法で止まるとは思いますが、今は止まらない。

そこまでは理解できたとしても、遺体の引き取り手がこれほどまでにいないという状況が、アメリカにおける家庭崩壊、弱者の孤独、絆の崩壊を物語っています。

入所するのにある程度の財力が必要な、そこそこの施設で、遺体が積み上げてあったり、引き取り手も職員もいないようなことが起こっている。年金制度の恩恵を最も受けた世代、金銭的には老後の心配をしなくてもいい人たちが、死を前にして、引き取り手のない遺体を目の当たりにしている。絶望的な孤独を感じている。

そのニュース見て怯える人たちの三人に一人が、銃と弾丸を持っている。自由とか平等という言葉に踊らされ、先祖とか子孫という言葉が意味を失い、弱者が一層孤立していく。

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もう一度「子育て」を中心に置いて成り立つ、家族、家庭というものの重要性を考える時期に来ているのだと思います。特に、乳幼児という言葉を話し始める前の人たちが、人間の本質的なコミュニケーション能力を育ててきたのだということ。そこから耕しが始まっていたのだということ。

今回の自粛、隔離、休校、休園、きっと幼児たちと居ることの楽しさに気づいた人がたくさん居ると思います。

子どもたちは私たちを信じてくれたし、それによって親たちは、自分の価値が驚くほど高まっているのがわかったはず。親たちも、子どもたちを頼りにしていいのです。

こういう仕組みには感謝しなくてはいけない。わかればそれでいいのだ……。

スキップをするような走り方に、心の中で拍手を送り、一日側に居てくれただけで沢山のことに納得がいったはず。この日がなかったら、自分の人生をどこから説明できるだろうか……。

 

(四年前のブログです。)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=293