道徳教育は仮面の領域?/喜び、崇拝し、祝うこと/副校長が足りない

 仮面、マスクの展覧会を見に行きました。(東京都庭園美術館:六月三十日まで、です。)

 古い、由緒のありそうな、庭園といくつかの巨木に囲まれたいい建物のそれぞれの部屋で、マスクもまたそれぞれに生き返って無言で語りかけてくるようでした。
 橋渡しの役割を担う不思議なものを、人形や音楽もそうですが、人間は昔から必要としていました。あっち側とこっち側の中間に位置するものを体験的に認めながら、生きるための絆は生まれた。マスクは、特に、人間が自分もそれになろうとするから面白いのかもしれません。自分が浮き彫りになって来る。

 乳幼児もまた、あきらかに橋渡しをする存在だと思うのです。
 言葉を発しない、超自然的な領域を身近なものにする、アニミストたち。
 この人たちの存在を否定する、この人たちの存在理由を否定する為政者たち。何に取り憑かれているのか知らないけれど、沈黙が浅い。
 道徳教育は元々、仮面の領域。
 モラルや秩序は、歴史の浅い「教育」や「司法」ではなく、非論理的な体験の領域で本能と重ねて身につけていくもの。
 輪になって踊り、一緒に火を眺め、自分の中にある多様性、多面性と、折り合いを付けること。その儀式。
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  教育現場で、副校長が足りない、教頭の成り手が足りないという新聞報道がありました。保護司、保護観察官も足りないというテレビの報道も見ました。もちろん介護士も足りないし、待遇が比較的いい教職を除けば、子どもにとって最後のセーフティーネットかもしれない養護施設の職員も、数年で辞めてゆくという。入所してている子どもたちの荒れ方がもう以前とは違う、と言うのです。
 保育士が足りないしわ寄せが、子育てに関わるあらゆるレベルで修復不可能な状況を生み始めている。足りないものは足りない。それは、もう、お金でどうこうなることではないのだと思う。
 根本に、幼児というアニミストに対する政府の「心配りが足りない」ことがある。そこから見つめ、考え直さないと、対処するほど崩れてゆく。
 (仕組み上の)「専門家」に「子育て」ができると思うから、こんなことになるのだと思う。
 もともと、すべての人が子育ての専門家になるため、あるいは、なろうとするために、人類の進化と営みがあったはず。そして、学問なんてものが無かった時間の方がはるかに長かったわけだから、子育ての専門家は方法や知識を知る人ではなく、子どもの存在に感謝する心持ちの人。いい親になりたいと思いオロオロする人、そんな心境のことだったのだと思う。この二つくらいの心境があれば人類はそこそこだいじょうぶで、相談相手が数人居て、助け合うことの幸せを知っていればたいていのことはなんとかなった。
 専門学校や大学などの定員割れに怯えている保育者の養成校で、政府やマスコミの言う仕組み上の「子育ての専門家」は育たないのだと気づいて欲しい。
 卒業させ資格を取らせることに四苦八苦で、教える側が、その先にいる幼児たちのことを考えていない。明らかに現場に出してはいけない学生が保育現場に実習に来る。そして、そんな学生に平気で、安易に資格を与えるようになった教育に幼児の存在理由はわからない。勉強ができるとかできないとかいうレベルの話ではないのです。人間性とか精神的健康の問題なのです。絶対に他人の乳幼児の命を預けてはいけないほど不安定な人が、「資格」を持って卒業してくる。これは、養成校が本来の存在理由を自ら放棄したということなのです。市場原理に呑み込まれた社会は、そのことに気づかない。
 社会で子育てなど机上の空論。「子どもの最善の利益を優先する」という保育所保育指針の精神が、「保育は成長産業」とした閣議決定で、養成校の段階ですでに踏みにじられている。
 「なんで、あんな人に資格を与えるのですか?」という真面目な学生の疑問に、誰も答えられないし、答えようとしない。その時点で、子どもを育てる保育者の良心がすでに裏切られているのではないか。教授や理事長、教える者たちによって。
 学問で子育てを考えるから、こんなことになる。
 子育ては仕事ではないし、職業でもない。結果でもない。
 育てる側が、喜び、命を拝み、成長を祝うこと。宇宙を感じ調和すること。持ち主の手を離れても生き続けているマスクたちが、そう語っているように思いました。
 


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 彼らが過去から時空を越えて私たちを育てる機会を用意する本能が、まだちゃんと私たちにはある。それが嬉しい。

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