新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。/ 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

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「新しい経済政策パッケージ」の中にこんな文章がある。

「高等教育は、国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を 高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を 一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある 」

 トランプ米大統領が自身についての暴露本の出版に反論し、自らのツイッターで、自分は有名大学を卒業しその後企業経営に大成功した最も精神的に安定した天才だ、と宣言した。その数日後、与野党議員が出席したホワイトハウスにおける移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」shit-houseからではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し大問題になる。マスコミが「露骨な人種差別」を非難し、ハイチで抗議デモが起こっている。しかし、37%という大統領支持率に変化がない。高等教育が普及したはずのアメリカで……。

さらに、「高等教育を受けた、自称精神的に安定した天才」の発言でアメリカの学校教育が混乱に陥っている。

小学校で、白人の生徒が教室で黒人の同級生に、「糞溜め」に帰れ、ラテン系移民の子に、壁の向こうへ帰れ、と言い始めた。人種差別に起因した学級崩壊に教師が対応策を失い、呆然としている。37%のトランプ支持者を親に持つ小学生が、たぶん37%くらいいるのだ。学校の存在意義が崩壊しかねない、大統領主導の人種や格差、主義主張における分断が始まっている。この分断のエネルギーの前で、高等教育は砂上の楼閣に過ぎなかった。

現実はどうあれ、憲法に書いてある民主主義や平等を正しいこととして教えてきた教師たちが、国民に選ばれた大統領の発言とそれに敏感に反応する子どもたちの前で立ち往生している。

(先代の大統領オバマさんは、父親がケニアから来た移民だった。そして、トランプ大統領のオバマ嫌いはなぜか常軌を逸している。そこに憎しみさえ感じる。)

 高校、大学と高学歴者が増えるほど社会がその本来の姿を失う。自己中心的、個人主義的になり、若者が感性を失っていく。家庭中心にまとまることができなくなり、男女間の信頼が揺らぐと、経済活動に必死になる人が増える一方で、根源的な、未来につながる生きる意欲と目標を失い社会全体が殺伐としてくる。アメリカでは数パーセントの人が九割の富を握っている。それが高等教育をベースにしたアメリカン・ドリームの現実なのだ。

先進国社会で起こっている対立や分断の激化、市場原理における混乱を考える時、私は思うのです。高等教育を信じてはいけない。

 

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アメリカで起こった、高等学校の卒業率が上がることによって世代の全体的学力が下がるという現象にもそれが表われている。1980年代、親の世代に50%だった高等学校の卒業率が70%を超え、より多くの人が高等教育を受けるようになったにもかかわらず世代の平均的学力が下がった。国の歴史始まって以来未体験の現象で、目的としたことと反対の結果が出てしまったのだ。1984年当時アメリカ政府はこの問題を「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義して大騒ぎした。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1064

義務養育が普及し、子育てが家庭から仕組みにシフトし、家庭崩壊が始まると、学校教育自体が成立し難くなってくる。

日本でも、似たようなことが起こり始めている。

高学歴社会になり選択肢が増えると、結婚しない若者が増える。高等教育を受けている最中、またはそれを受けた直後に引きこもりが始まる傾向や、引きこもりが長期化していることに表れている。高等教育を受けることの文化人類学的、生体人類学的な負の影響を考える時期にきていると思う。結婚や家族をつくるという種の存続に伴う子育ての「幸福論」が希薄になることによって、人間社会はどのように変化してゆくのか、真面目に話し合う必要がある。「高等教育を、国民の知の基盤にするとどうなるのか」はすでに見えているのだから。

(「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。学校教育の普及を単純に「いいこと」と決めてしまっている状況が生んだ数字です。)

 

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人づくり革命」と言って親子を引き離す施策を進める経済学者たちを見ていると、幼児たちの前で謙虚になれない高等教育は進化に貢献しない、これでは存在する意味がない、とさえ思う。親を親らしく、人間を人間らしくするのは学問ではない。幼児たち(子育て)なのだ。

「家族中心」が「自己中心」になり、「自己実現」などという言葉を使って経済競争を成り立たせるための罠が用意される。その片棒を担がされているのが最近の「高等教育」ではないのか。それに騙され、男女の連帯感は一層薄れていき、家族を持ったとしても、それを維持しようとする能力、動機が非常に弱まっている。その時点で、「夢は、次の世代に託すもの」という進化の原則を忘れている。家庭崩壊を補うためにいくら福祉が子育ての肩代わりをしようとしても、その限界は見えている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2391

(最近、中学や高校で乳幼児と出会う体験をさせる学校が増えてきました。家庭科の授業を使って中学生の保育者体験をする自治体もあります。親の保育者体験も含め、こうした試みを至急、もっと増やして欲しい。高等教育と共存したいのであれば。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=236 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260:中学生の保育士体験)

 

もともと「人類」は幼児たちによって自分の中にある進化するための人間性(動機)を体験的に教えられ、「社会」は幼児たちによってその絆と存在意義を幸福観と重ねた。「経済」と呼ばれるものの存在意義もまた、幼稚たちを優先順位の先頭にすることで、そのモラルと秩序を保つ。

 

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(学校はいいものです。いい仕組みです。)

高等教育の大部分は、ごく一部の人間にしか役に立たない特殊な技術や情報です。微分積分や方程式は多くの人にとって使う機会のない知識であって、物理や漢文、外国語などもそう。しかし、それが「義務」として受け入れられてきたのは、人間社会に、進化する過程の「連帯感」があったからです。

「同じ船に乗っている」という意識があれば、ごく一部の人にだけ役立つものでも、それを一時的に全員が苦労して学ぶことを受け入れることは容易でした。「義務として」習わせ、適度に苦しめ社会全体に忍耐力と連帯感を生み出す、それもまたいいこと。高等教育という位置付けからは外れるかもしれませんが、運動会や組体操などもいい試みです。「輪になって踊る、歌う」は義務教育よりはるかに昔からある人間社会のまとまりの原点です。

そして、学校は、利害関係のない友人を作り、人間関係を学び、恩師に出会い、将来の配偶者を見つける、という役割も果たしてきました。多くの人にとって「学校」は、いまでも素晴らしい場所なのです。

一方、私は不自然で危険な一面だと思っているのですが、高等教育は、「授業」という、聞いていない人たちの前でも平気で話す学者(?)教師を生み出し、話している人の前で眠ったり、私語やスマフォに熱中する学生を放置するというコミュニケーションの異常な状況を日常化する。(全ての授業がそうだと言っているのではありませんが、)お互いの気持ちを想像する感性を蝕み、言葉の向こうにある「心持ちと人間関係を察する」というコミュニケーションの本質を見失わせる役割も果たしている。その結果がこういう政府の施策に表われているのではないか。そのあたりが、思ったよりも社会全体を危うくしている、そうも考えられる。

コミュニケーションの深さが失われていく過程で、知識や技術を身につけることは危険です。武器を持つと闘いたくなる、道具を持つと使いたくなるからです。

 

知の基盤は体験的に学ぶべきものであって、イノベーション(意識改革)は「祈り」を伴って創造されるもの。

人づくり革命」が言うイノベーションの意味がよくわからないのです。「人員整理労働力の再配置 」という意味のイノベーションなのか、「意識改革」という意味なのか。「技術革新」という意味であるならはっきりそう書くべきで、こういう肝心な所に様々に翻訳できる外国語を使うから、あとで学者たちの誤魔化しがまかり通ってしまう。英語を知らなければ理解できなような文章を「国の政策」として書くべきではない。もう少し日本語を大切にするとです。すると逆に見えてくるものがある。翻訳しようとする過程で、欧米的経済論の、幸福論とは重ならない「浅さ」が浮き彫りになってくる。

「高等教育」を受けたはずの学者たちには、人間は「国の競争力を 高める」ために生きているのではない、という「知」の原点に気づいてほしい。

(以前ブログに、こうした学校教育の矛盾や危うさを予見した「大酋長ジョセフ」の発言について書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2453 150年前、学校教育や教会の広まりを拒もうとしたジョセフは、神はすでに在るもの、議論の余地のないものと言った。ここで神というのは宇宙のあり方、不動の真実、大自然、というようなものだと思うのです。学校が先導する西洋的な仕組みや思考を教育しようとした欧米人の意図の本質をついた視点がそこにはある。こういう視点は、いま聴いても嬉しくなります。)

3歳くらいの幼児に、全霊で信じてもらって、これほど確実な信頼の絆はないことに気づいた時に、人生が定まり、人間は楽になるのだと思う。親たちが子どもを授かり、受け入れ、子育てを分かち合い、楽になって、子どももまた不思議に落ち着き、頼りきり幸せそうになる。

子育てにおけるこうした相乗作用が社会の土台となっていないと、不安が、不安を煽り立てて、幼児たちが生き場所を失い始めます。

子どもを育てていると、どうにもならないことがたくさんあります。そのことに守られている気がします。それが自分を体験することなのかもしれません。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf