保育界の混迷/たぶん誰も確信がない。そして勘違い

 保育士さんたちに、「子育てから生まれる絆」〜幼児が親心を育て、社会に絆が生まれる〜という講演をして、講演のあと園長先生たちに呼び止められました。

 「先日、こども園に関しての説明を厚労省のひとから受けました。小さな会だったので、色々質問もしたのですが、よくわからないんです」と首をかしげます。その時に配られた資料には、先生の書き込みが細かい字でたくさんあります。一生懸命聴いていたのでしょう。

 「これをすると来るお金が増える、文科省と厚労省両方から補助が来るので得なんだと言われたように思います。子どもにも、教育と保育両方が受けられるし、親もニーズに合わせて預けられ、いいことばかりです、0.7兆円来るんです、と言うんです。ホントですか?」そして「私は、どうしても子どもには良いとは思えないんです。だって、保育園は幼稚園とは違うでしょ?」

 それは、違います。本気で取り組めば、ますます違います。子どものニーズが異なります。

 もう1人の園長先生が言います。「保育士は子どもの発達を見ますし、幼稚園の先生は教育が主体でしょ。そして、こども園では、8時間以上、8時間未満で、子どもを分けると言うんです。去年はたしか6時間で区切ってましたよね。単価のことでしょうけど、どうなってるんでしょうか?」

 通常、0、1、2歳を同じ敷地内で保育する保育園では、当たり前のように、「発達」という視点で子どもたちを見てきました。学問の領域とはちょっと違う。長年保育園をしてきた園長と、幼稚園をしてきた園長では、子どもに対する目線が違います。8時間で線を引くという考え方は、保育団体側の主張として聴いた気がする。決定したとは知らないし、こども園に移ると補助金が増えるというのも初耳。この件に詳しい園長の分析では、東京都では認定こども園に移行すれば、補助金が二割減になるのでは、ということでしたから。しかし、それも「たぶん」の話でした。

 私は、園長先生たちに、「全体の予算がどうなるか、誰も知らない状況で進む方向だけが閣議決定され、子ども・子育て会議と役人が迷走しているんでしょう、現時点でされる説明は、あまり意味がないと思いますよ。お金をかけずに待機児童をなくすには潰しやすい小規模保育しかない、それに移行するために保育の概念が崩されようとしているのではないですか。でも、保育士がいないし、こども園は認可保育所の国基準を規制緩和するために利用されているようにも思えるので、気をつけて下さい」と言いました。

 子ども・子育て会議における様々な団体の意見書を読むとわかるのですが、同じ子育てについて論じているはずなのに、委員によって視点が違う。よく読むと、異なった利害がぶつかっている。子育てを論じながら、子ども不在の利益誘導の論戦のようです。政府や学者の言う「市場原理」の体現が、この会議かもしれません。水面下の迷走ぶりを見ていると、園長先生には、

 「とりあえず現場は無理に変えないでほしいです。会議には、保育士が増え、仕事に魅力を感じるような仕組みになることをまず第一に考えてほしいですね」と解説します。

 園長先生たちのいくつかの素朴な疑問に答えられなかった私は、こんな質問をされたんだけど、と若手の論客園長に確認の電話をしました。

 すると、偶然にも同じ説明会に出ていた園長が、それは園長先生たちの勘違いです。短時間長時間保育を8時間で切る、という話も、両方の省から来る予算の話も、とてもわかりにくく早口に説明されていたので、そんな風に聴こえてしまったかもしれませんが、結局はまだ何も決まっていません。幼保一体化を本当に目指すのか、縦割りを省庁の次元でどうするのかも流動的ですね。小規模保育を増やす、ということだけは確かなようですが、と説明してくれました。

 ここで問題なのは、厚労省の役人の説明を、「普通の園長先生がどのように理解するか」です。

 こういう問題が得意で役人の説明に慣れている人には、「ああ、まだ何も決まらないのだな、決まったとしても実現は無理かもしれない」と思えることでも、「ああ、保育はこういう風に変わってゆくのですね、準備をしなければいけないのですね」と真面目に受けとめてしまう人たちが相当数いるのです。私の経験から見ても、乳幼児に関わる仕事を目指す人には、理論派よりも感性の人たちが多く、それはある意味、大切なことなのです。

(過去にも、0才児保育、ステーション保育、11時間開所、病児保育、一時保育など、役人の説明では、それが社会のニーズで、しかも良いことと説明されながら、やってみると、うまく行かず、数年経って、屋根に登ってハシゴを外されたような気持ちに現場がなることがありました。そのしわ寄せが現場に来て、その結果保育界全体の質が落ちてゆく。そして、子どもたちを眺めながら、「結局、子どものためにはなってないじゃない」と悔しい思いをした園長先生たちが沢山いたのです。)


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 思い出すのが、2000年ころだったでしょうか。「ゆとり教育」というのを文科省と政治家が言い始め、幼稚園の教育要領が変わって、それに準ずる保育園の方も、「教えてはいけない、子どもの気づきを大切に」とか、「見守る保育をして、指導してはいけない」という主旨の厚労省の指導があったのです。そして、真面目な園長ほど、「指導しない保育?」をしたのです。

 7、8年経って、学校教育に混乱が現れ、小一プロブレムや学級崩壊が起こり、文科省はゆとり教育の転換を決めました。厚労省も慌てて火消しに走り回りました。その時、ある大きな大会で厚労省の椋野美智子氏が、「それは現場の勘違いです」と言ったのです。

 現場の勘違い、それで厚労省は済ませようとしました。しかし、その時の十年に渡る(一見かっこいい)子どもの主体性を育てる保育で育った子どもたちが、今、たぶん10才から18才くらい。その子たちの人生を考えると、勘違いかどうかは別にして、勘違いするような説明や指導をした厚労省の責任は大きいと思います。

 「社会で子育て」などと言って誤摩化し、個々の直感ではなく、仕組みや学問で子育てをしていると、仕組みや組織が巨大なだけに、「勘違い」が多くの人生に一律の影響を与えてしまう。良い影響もあるでしょうが、人間の多様性や運命の偶然性、そして祈りが、安全網の役割りを果たさなくなるのです。

 

 子どもの主体性に関して言えば、「逝きし世の面影」(渡辺京二著)第十章〜子どもの楽園〜に出てくるような、江戸の末期から明治の初期にかけてこの国全体を包んでいた、「子どもを崇拝する」「子ども主体に大人が生きる」日本的文化・文明・伝統の中で、4、5人の大人たちが1人の子どもを見守るような子育てだったら構いません。

 1人の子どもの命に4、5人の大人たちが感謝する、その積み重ねで社会はまとまります。その不思議なまとまり方を見て、この国を、欧米人はパラダイスと呼んだのです。しかし、1人の保育士が子どもを20人も30人も、一日中見続けなければならないような仕組みの中で、画一的な保育はできたとしても、それぞれの子どもの自主性を尊重するのはほぼ不可能です。単純に「指導しない保育」が広がっていったのです。

 幼児は、野性的で残酷なところがあります。集団にする場合は、しっかり見守っていないと弱者に厳しく、辛い社会をつくることがあります。同年齢の幼児をこれほど長時間集団にすること自体が、実はとても不自然で、人間社会ではあり得なかったことなのです。

 「見守る保育」「気づきの保育」は、本来親や祖父母、兄弟が見守り、家族の絆に気づく「子育て」なら可能だった。

 仕組みよりもまず、子育てに関する意識を「子ども主体」に社会全体で統一しなければと思います。

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