「花束を贈ろう」・宇多田ヒカルさん・不思議な次元のコミュニケーション

花束を贈ろう

NHKの番組で「人間・宇多田ヒカル、今、母を唄う」を見ました。終わってしまいましたが、朝ドラ「ととねえちゃん」の主題歌「花束を君に」を歌っている歌手で、母君は、私たちの年代には印象的な藤圭子さん。

亡くなった母の存在、そしてその意味を語る真摯な姿と、歩んだ道、作詞で磨かれた選ばれた言葉と語彙にも素晴らしく、感動しました。作詞と音楽という次元も重なり、母子関係というものをこれほど端的に、感性の世界から深く語った光景を見るのは初めのような気がしました。

インタビュアーが、お母さんの存在は巨大ですね、と聞いたのに答えて、巨大なのは母親だからです、と間髪入れず答えた表情に、何か、通り抜けてきた人を感じました。

そして、人格や人間性が形成される乳児期、そこから自分の人生や行動が生まれているはずの、謎のような闇のような時間、自分が覚えていない人生の最初の2、3年を、自分の子供を育てることで体験する、たぶん自分の行いとか悩みの源になっているはずのその闇さえもそこに感じて、腑に落ちた、と言ったのです。凄い人だなと思いました。

母になった娘だから体験できた、母親と一体になって、アーティストとしても伝えている伝言が歌の中に聞こえました。

女性でなければ体験できない、男性が体験すべきでない伝承があるのでしょう。よしもとばななさんの小説に、その辺のことが書かれているのを読んだ記憶があります。読んだだけですけど。こうした不思議な世界を知ろうとする時、宇多田さんの表現は、文字に加え音楽も重なるから、次元が広がって説得力があります。

全てを包み込む何かに納得した、という風に聞こえたんです。それを単純に「感謝」という言葉に表したのですが、そこへ到達するまでの自分が産んだ子ども、乳児との日々の積み重ねの中に「腑に落ちた」一体感があったんでしょうね。母親との。

だから、「どんな言葉並べても真実にはならないから、今日は贈ろう 、涙色の花束を、君に」という歌詞が生まれたんでしょうね。

6年間、歌手生活を休業していて、その間にお母さんが亡くなって、そのあと妊娠・出産していなければ活動をまだ再開できていなかったかもしれない、と言っていました。

言葉では無理だから、「花束を贈ろう」・・・。それが、いつか、すべてのことの答えになってほしい。当たり前なのですが、こういうやり方は、人間にしかできない。不思議な行為だということにあらためて気づくのです。言葉を話さない乳児との会話が、こういう次元のコミュニケーションに気付かせるのです。

命がつながってゆく景色を見た気がしました。感謝です。

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