先日、道ばたで母親がイライラしながら三歳くらいの息子を叱っているのを聴いたのです。
「そんなこと言ってると生きていけないよ!」と母親が叫ぶように言いました。
その時の違和感の意味を考え続けています。声の調子、その瞬間伝わって来た「気」の問題だと思うのですが、それだけではない、なんだろう。いまの社会状況と重ね合わせハッとしたのか、あまりにも法的、論理的(言語的)になりすぎている人間関係を背後に感じたのか、生きてゆくことの本質が崩れてゆく音を感じたのか…。(子どもが生きてゆく条件に、親をイライラさせないことが加わって来ているのだとしたら、生きることの意味が逆転している。)
ずいぶん前に佐渡の園長先生が、保育園で三歳児が「死んでやる!」と言ったのでびっくりした、と話してくれたことがあります。
ふと、そのことを思い出したのですが、たぶん、三歳児の特別な役割りが人間社会の中で少しずつずれて来ているということでしょう。三歳児と人間の関係というのは典型的な人間性を育てあう関係だと思うのです。三歳児が、私たちをつなごうとしているものから離れ、自らが発した言葉に支配されているのか。
彼らに見捨てられたら人間は道を間違える。
ある園長先生が教えてくれました。三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは、安心の土台がない。新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもは、新しい体験がチャレンジになって壁がその子を育てる。
(保幼少連携といわれる施策の多くが、連携により子どもたちの進む道を平坦にしようとしています。壁をできるだけなくそうということです。本当に大切なのは安心に支えられた挑戦です。一家が挑戦で心を一つにすれば絆が育つのです。)
無心に生きている者に向かって、「生きていけないよ」と言い始める。その者に許され、救われ、守る立場にある者が…。
その違和感だろうか。生きるということの意味が教育によって浅くなってきたのか…。
教える者は、すなわち伝える者。翻訳者であり通訳者でなければならない。ツリーオブライフに何かヒントが隠されているような気がする。もう一度見た方が良いかもしれない。
この年齢で、私が一人で公園のベンチに座っていたら「変なおじさん」です。でも、三歳児と並んで座っていたら、「いいおじさん」です。一緒に座っているだけで宇宙の相対性の中で、三歳児は私をいい存在にする。その繰り返しが、主体である人間にも影響を与えてきた。
三歳児をわかちあう感覚、これが人類をささえる感覚だろうか。「わかちあうこと。輪になって踊ること」とシスターは言った。
「分かち合うこと。」 http://youtu.be/SUaQXFUp1_M
三歳児はまぶしすぎて、生きていけないよー!