Gino

 友人に、数年前に亡くなりましたが、ジノ(Gino D’auri)というイタリア系のジプシーの血が混ざったギター弾きがいました。フラメンコのギタリストでしたが、私は彼を一生思い出し続けるだろうし、いまでも一緒に人生を歩いているような気がする不思議な男でした。

 ロサンゼルスの彼の家、家といってもだれかの家の敷地にある倉庫の屋根裏だったのですが、そこで夜、よくスパゲッティーを作ってくれました。第二次大戦でローマがアメリカ空軍に爆撃されたのを覚えていると言ってましたから、私よりも15歳くらい上でしょう。マフィアのコネクションがあって、いいパスタとオリーブオイルがいつも手に入るのだと言ってました。それにジノが遠くまで行って厳選して買って来たトマトとチーズを入れるだけで素晴らしく美味しいパスタになりました。塩を少々。

 お金はあまりないけど、お皿が好きで、メキシコ産の安い民芸のお皿で、これだ、というのを集めていました。それに載せて食べるのですが、屋根裏の居心地のよさが加わってなんともいえないひと時でした。ブーツにも凝っていて、飛行機に乗るときもスエードのブーツだけは手荷物にして抱えていました。

 お腹いっぱいになるとサンブカという酒を二人で少し飲み、オープンリールのテープを聴く。

 音楽家としては、フラメンコダンサーのホセ・グレコと世界ツアーをしたり、スペインでジプシーと洞穴を巡ったり、自転車競争もやっていたし、不思議な経歴があるのですが、やっぱり半分ジプシーだからなのか将来的な欲がない。その日暮らしが好き、というより、仕方ないだろうという気楽な人生でした。ふと電話がかかって来て出かけていくと、こんな契約しちゃったけど大丈夫かな、と私にレコード会社との契約書を見せるのですが、ちょっとまずいな、という感じ。やっぱり、と顔をしかめ一応言い訳をし、しょうがないよね、と言って契約書をソファに置き、サッカーの話題にしばらく興じる。その、ちょっとまずい契約書のおかげで、いまでも彼のアルバムはネットで入手出来るのだから、人生全体を考えると運が良かったんだと思う。絶対に不幸そうではない安心感が、彼の一挙手一投足にはあった。

 黒猫が前を横切ると、車をバックさせて道をわざわざ変えていたし。

 私が出会った頃は、サンタモニカにあるラレスというメキシコ料理屋で週三日、エルシドというフラメンコダンスが売りのレストランで週二日ギターを弾いて暮らしていた。インドのシタール奏者ラビ・シャンカルがロサンゼルスに来ると、呼ばれて弾きに行っていた。誰とも闘わなくていい、自分だけのポジション、居場所を作り上げていて、いつもその温かい場所に戻ってゆく。ミュージシャンに好かれ、時々その筋の人たちに好かれ、そんな男でした。

 パコ(Paco De Lucía)がロサンゼルスに来ると、必ずジノの屋根裏へ行ってセッションをする。

友だちのロビン・フォードというギタリストをラレスに連れて行ったら、マルガリータを作るブレンダーの合間に、「パコは小次郎で、ジノは武蔵だね」と、面白いことを言いました。

 葬式にはいけなかったのですが、いまも、車に乗ると彼のアルバムを聴きながら、話をするのです。ジノはアルファロメオ以外を車と認めず、30万円くらいで中古の危ないアルファロメオを買っては、友だちの修理工にお世話になりながらロサンゼルスの街を飛ばしていました。部品調達用の一台を合わせて二台持っていました。奥さんのDAHADはレバノン人のベリーダンサーで、体は大きいのに子どもみたいな人でした。子どもはいませんでした。


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