「1人の子どもを育てるには、一つの村が必要」

「1人の子どもを育てるには、一つの村が必要」

米国大統領選の最中ということもあって、CNNやCBSニュースをよく見ます。すると、「回教徒は、なぜか知らないが、私たちを憎んでいる。その理由がわからない限り、入国を拒否すべきだ」と大統領候補者が演説で言ったりする。

日本の「保育園落ちた、日本死ね」が大したことでないような気がします。むしろ可愛らしくさえ思えます。(でも、こっちの方が実は人類にとって根源的問題なのですが。)

回教徒やメキシコ人に対する差別的な発言だけではありません。トランプ候補のあからさまな女性蔑視発言は、今までのアメリカのスタンダードからしても「えっ!」それを言ったらお終いでしょ、というひどさです。それでも支持率が上がる。共和党の幹部たちが不支持を表明しても支持率が落ちない。この妙なエネルギーが怖い。全世界で何かが起きている。人類の心がバラバラになってきている。そんな感じです。

「米疾病対策センター(CDC)は27日までに、米国内における薬物の過剰摂取による死亡者数が昨年、計4万7055人の過去最高を記録したと報告した」

社会で子育て、の方向に向かった国で、絆を失った人たちが苦しんでいる。

強盗殺人、テロ、警察と黒人の対立、相変わらず非人間的な事件が多いのです。

子どもを殺された母親がインタビューに答えて「1人の子どもを育てるには一つの村が必要だけど、1人の子どもを殺すには、たった1人の犯罪者しかいらない」と先日CNNのニュースで言っていました。

「It takes whole village.」久しぶりに聴くフレーズでした。

 

この言葉を自著のタイトルに使ったヒラリー・クリントンは、村を福祉や教育に結びつけ「社会で子育て」を主張し、当時、共和党はそれに反対して「家族」の大切さを施策の中で強調しました。政治家はとりあえず「対立」する(馬鹿馬鹿しいですが!)。その頃米国ではすでに、三人に一人の子どもが未婚の母から生まれ、18歳になる前に親の離婚を体験する子どもが40%、家庭と言う定義があまり意味をなさなくなっていました。

二十年前の話ですが、いま日本はアメリカの30年位前の状況に差し掛かっていると思うので、丁度参考にすべき議論・論点だと思います。

共和党の肩をもつ気はまったく無いのですが、現在のアメリカの家庭崩壊や幼児虐待の増加、格差の広がりを考えれば、アメリカやヨーロッパが選んだ「社会で子育て」という道は、私たちが躊躇するべき危険な選択肢だと思います。しかし、共和党が主張した「伝統的家庭の価値観を取り戻す」という主張は、政策としては完全に手遅れでした。家庭が存在しなければ、その価値観を取り戻すことは出来ないのです。どちらが経済発展にいいか、という両党の対立した議論の陰に人間の幸福論が長い間埋もれてしまった結果だと思います。

「1人の子どもを育てるには一つの村が必要」。

日本人はこのことわざの持つ元々の意味を理解するのです。特別保守的とは思わない私でも、「だから保育士が1人で20人の子どもを育てるなんておかしいでしょう」という方向に結びつける。そして、「村人」や「社会」という定義が保育や福祉という仕組みにすり替えられることを危惧するのです。

村人は、昔から「親身」であることを条件とし、一定の共通した常識や価値観を身につけていて、それは福祉という仕組みでは補えなくなると本能的にわかっているから危惧する。このことわざが語られた場所で、「村」というイメージにはそうした説明の難しい、本能的な運命共同体としての温もりがあると理解する。こういう共通認識(もちろん例外もあるのですが)はこの国の財産だったと思います。いくら国連から指摘されようとも、経済競争で「平等」を計るようなことはしないのです。(少なくとも、今までは。)

私は、1人の赤ん坊が村人たちの心をひとつにすることに「奇跡」を見る。

母親は自分の赤ん坊を見知らぬ人に抱かせない、そんな次元の、進化の中で培った本能的な常識が、まだこの国では生きている。

安倍首相は去年国会で、もう40万人保育所で預かれば女性が輝く、ヒラリー・クリントンもエールを送ってくれた、と言ってしまった。日本の首相がこれを言えば、この国から大切な価値観、少なくともこの国の「個性」と思われるものが消えてゆくのです。

これほど子育てを囲む事態が複雑にこんがらがってくると、「1人の子どもを育てるには一つの村が必要」を言った人たち(アフリカ説とアメリカ先住民説など色々ありますが、たぶん日本にも同じようなことわざがあるはずです。)は、いまごろ一斉に顔をしかめているでしょう。

幼稚園や保育園が「村」の役割を果たしてゆくしかないのではないか、と思っています。一つ一つの園で、親たちに講演しながら、伝えれば伝わる状況にあることに感謝します。いくつかの行事を組み合わせることで、「村」のような仕組みができる、親心がまとまってくるのがわかります。

子どもを育てるということは、やはり育てる側が心を一つにすることだと思うのです。そして、それは人類が苦境の中にあっても、なんとか輝くやり方だと思うのです。

(講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com松居までどうぞ)

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