一杯のお茶

一杯のお茶

ずっと以前、8時間保育が11時間開所になった頃、保育士たちがみんなで一緒にお茶を飲む時間がなくなったことを嘆いた園長先生がいました。長野県の公立園で親たちに講演し、職員室に座って、先生が漬けた野沢菜をつついていた私に、空になった園庭を眺めながら、園長先生が呟いたのです。

「保育が終わって、みんなで静かにお茶を飲む時間がなくなったんですよ」と。

一瞬、時間が止まったように感じました。

「Feel it!」と、誰かが私に囁きました。

公立園は職員の異動があり、園長先生には定年がある。六十歳は、本当に早すぎますね。

私立園とは、ずいぶん違った仕組みです。それでも、保育は子育て、大人たちが日々、心を一つにしなければやっていけない。情報を交換し、ときに愚痴をこぼし、慰めあう。ホッとして、感謝し、静けさを分かち合う。そういう時間が、とても大切なのです。家庭から伝わってくる喜びや悲しみを話し合い、噛み締めて、子どもたちの毎日を、できるかぎり笑顔で満ちたものにしていく。

繰り返し、繰り返し、「その日のうちに」みんなで祝わなければ、保育は、その形(かたち)を失ってしまう。

私に、そう教えてくれたのは、祖母のような園長先生たちでした。全員、女性でした。

(先日、高野山保育連盟の集まりで南紀白浜で講演した時、藤岡佐規子先生が亡くなられたことを聞きました。保育士会の会長もされ、国と渡り合うことができる、すごい方でした。二十年以上前に、「話したいだけ、話してください」と、講演時間を4時間用意してくださったことがありました。

先生の記事があります。

 「無償の愛が必要なときに愛されないと、人は育たない」https://www.asubaru.or.jp/92288.html 

ぜひ、読んでみてください。

横浜の瀬谷愛児園の九十歳で現役だった尾崎千代先生もそうでした。私のことをあちこちで推薦して下さり、「いいのがいる」。「どんな先生ですか?」という質問に、「先生じゃないんだよ。いいのがいるんだよ」と言ってくれました。

この世代の女性園長たちは戦争を体験し、戦後すぐ、女性解放を目指して、働く女性のために立ち上がった人たちです。女性の教員の産休が三ヶ月で、それでは辞めざるを得ない、という仕組みに決起した人生です。その人たちが、一つの苦言に行き着くのです。

「もしも、保育園や保育士が親の代行業になってしまえば、子どもにとってこれほど不幸なことはない。子どもがいちばん求めているのは親であり、親の無条件の愛、無償の愛が必要な乳幼児期に愛されないと、人は育たないんです」(藤岡佐規子先生)

国の母子分離政策に引き込まれた親たちの意識の変化が、これほど子どもたちに寂しい思いをさせ、急速に保育界を疲弊させるとは、戦後の民主主義に女性の自立、地位向上を重ね、夢見た人たちには驚きだったのでしょう。

前回のブログに書きました

 「働く女性を助けようとする人たちと、働く女性を増やそうとする人たちとでは、その動機があまりにも違う」

藤岡先生や尾崎先生の晩年の葛藤を思い出して書いたのです。自分たちは利用されたのではないか、という忸怩たる思いがあった。この人たちの精神が、おひとり様の女性学や、保育をビジネスチャンスと宣伝する連中に汚されるのは耐えられない。

私は、矛盾と葛藤を背負った女性園長たちの、厳しい目を常に意識し、そのエネルギーとその視点に仕込まれ、守られているつもりです。

「藤岡先生、『ママがいい!』という本を出しました。7冊目になります。大変です!」と心の中で報告しました。)

(福島の上石先生、新潟の長尾先生、島根の三加茂先生、奈良の竹村先生、はとり幼稚園の石川先生、千葉の御園先生ほか、道祖神園長の皆様。まだ、諦めませんから。😀)

 

保育施策を経済のために考え、操作している人たちは、保育園という仕組みが、どうやって整っていくか知らない。幼児を育てることは、同じ「福祉」でも介護とは違う。人数や予算、学問や手法で子どもたちの信頼を勝ち取ることはできない。「11時間保育を標準とする」など、あまりにも馬鹿げている。それを、政府や行政は、ただ、

「シフトを組めばいい」と言った。

その瞬間に、この国の大切な心臓部に近いところに亀裂が入ったことを、彼らは知らない。

 

千利休は、一杯のお茶で、人間社会(宇宙)がどう整っていくか理解し、人生を作法に昇華して権力にさえ立ち向かいました。

損得から離れることで権力と対峙する、日本の文化の象徴的存在でしょう。

その人からつながってきた「作法」が、保育園の職員室で受け継がれ、確かに生きていた。その伝統が、経済界の都合、政治家の選挙対策によって壊されていった。

「この人に預ける」が、「この場所に預ける」になり、「共に育てる」という保育の本質が失われ、仕組みが形骸化していった。

親子の双方向への体験が土台となって、人生が支えられるように、幼稚園や保育園は、本来、卒園児と卒園児の親たちの思い出の中に永遠に建ち続けるものでした。それが、「保育は成長産業」という「閣議決定」の中に消えていったのです。

日本の保育は、「逝きし世の面影」http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 に描かれる、子どもを泣かせないこの国の伝統と土壌から生まれた、世界で唯一無二のもの。この国の良心が、最もいい形で発揮された領域。子どもの存在を賛美する。「女性らしさ」が領域を支配し、年配への敬意が家長制度のように機能していた。そこに行けば、いい「日本」が見えた。男たちも、行事や儀式をきっかけに引き入れられ、自分の「優しさ」を取り戻すことができた。

保育は、心でするもの。

その教えを、利他の心と、幼児に向き合い心を一つにする「作法」が支えてきた。私が招き入れられた、多くの園ではそうでした。給食のおばさんたちにまで、その姿勢が行き届いていました。

乳児への声かけ一つに親身さが欠けていれば、保育室は突然その色彩を失います。人間社会のモラルや秩序の土台となる動機の伝承が、保育園の職員室で行われないと、保育はその心、「母性」をつないではいけない。この伝承に、みんなで静かに飲む「一杯のお茶」が、大切な役割を果たしていたのです。

 

「幼稚園、保育園を、親心(利他の心)のビオトープに」と、私は講演して歩きます。

それが出来ている園が残っているうちに、親たちが、そういう幼稚園、保育園を選び、大切にしてほしいと思います。祖母の心で親たちを見張っている園長先生たち、その遺志を受け継いでいる保育者たちに感謝し、その人たちを守って、次の世代に渡してほしい。

卒園してからも園児たちとの縁を大切にし、園が一家の故郷(ふるさと)になっている園があります。成人式の日には、晴れ着姿の卒園児たちが、親たちと嬉しそうに集まってくる。その子たちを世話したベテラン保育士たちがまだ残っていて、またはその日園長に呼び出されて、涙を流す。そんな故郷(ふるさと)を手に入れた家族の人生は、彩り豊かで、確かなものになるのです。

日本の保育の伝統を守るのは「親たち」なのです。よろしくお願いします。

保育がその魂を取り戻せば、この国はまだまだ輝き続けるはず。

一杯のお茶、が大事な役割を果たしていた、という園長先生の教えが、蘇えってくることを祈ります。

(コロナが明け、幼稚園、保育園での講演が増えました。二年以上中止になっていたので、親たちを巻き込む「行事」、親たち自身の伝承でビオトープのように回っていた催しを復活させるのは、なかなか大変です。講演をきっかけに、もう一度エンジンをかけ直そう、と呼ばれる。十五年ぶり、二十年ぶりの「師匠」「同志」との懐かしい「再会」があります。

保育の草創期に、「祖母の心」が保育界を支配していた頃の「言い伝え」「教え」をつないでいかなければならない。

録画してもらい、来なかった人たちに回覧してもらい、園のホームページに上げてもらいます。

園長先生たちの尽力で、近隣園の保育者や役場の人、助産師さん、校長先生、理事長の説得で、市長や教育長が来てくれたりする。先日は、知事も大会に来てくれました。控え室で話をし、本を渡します。読みます、と言ってくれました。

「ママがいい!」という、子どもの気持ちを優先すれば、様々な仕組みが再び整ってくる。

幼稚園、保育園が主導する、親心のビオトープは一度回り出せば大丈夫。人間が幸せに成りたい、と思う気持ちが原動力になって、年長さんの親から、年中さん、年少さんの親へと伝承され、回り続けるのです。その作り方、を実例を挙げて「ママがいい!」に書きました。子育て支援センターや、学童、放課後子ども教室や学習塾でも、ビオトープは作れます。親たちがそこで一生の相談相手を見つければ、それが社会の土台となっていきます。

お互いの子どもの小さい頃を知っている、それが「安心の最小単位」なのです。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。小学校のPTAからも依頼が入りますが、感想文に、十年前にこの話を聴いていたら、とよく書かれます。)

 

俊先生に描いてもらった「とら」。

第十章「子どもの楽園」だけでも、読んでほしい。本当の日本が見えてくる。

 

「子育て」という神秘体験

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。それを自覚していない。

だから、母子分離を雇用施策の中心にして、少子化を進め、自らの首を絞めるようなことをしている、と、前回書きました。

日本の女性の「女性らしさ」が、とても自然に存在してきたので、気づかないのか、幼児の子育てを経験しなかったためか、政財界には、人間として大切な感性が(たぶん後天的に)欠落している、幼児との切っても切れない関係性において、想像力と感謝の念が足りない。

それとも、ただ単に男たちの集まりだからなのか。

「女性の社会進出」という言葉が象徴的です。

経済活動をしていない「おんなこども」は社会の一部ではないという視点が見え隠れする。子どもたちの日々が、「社会」という概念から置き去りにされている。「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)を読めば分かります。

それがさらに進んで、学校教育や、時には法律など、様々な手法を使って、「女性らしさ」の価値を下げようとする。そうすることで、自分たちの足元、この国の「利他の伝統文化」を壊していることに気づいていない。

ジェンダーフリーを言う人たちと、経済界が、本当は心の中ではバラバラなのに、「利権争い」という次元で一体になっている。それでもいいんですが、双方とも、「ママがいい!」という言葉からは、絶対に逃れられない。

子どもたちに、パパはどうなんだ、と言っても通用しない。

私が三、四十年前、保育について色々教わった園長先生たちは、皆、年配の女性でした。

「祖母の心」で保育を見ていた。「戦略」という言葉など絶対に使わない人たちだった。

戦いの土壌で子育てを考える人たちではなかったのです。戦う人を育てるつもりもない、楽しそうな子どもたちに喜びを感じる、「教育」と「子育て」の違いを理解していた人たちでした。

祖母の心は、小さい子の気持ちを優先します。

ああ、早くいい人にならなければ、という人生の動機があって、子どもの幸せを願えば、「親たちを育てなければいけない、自分は長くない」と、次世代に「託す」気持ちが生きがいになっていた。祈りの世界ですね。

ちょっと考えれば、誰にでも分かりますが、経済競争だけが「社会」ではないのです。

初めての笑顔を喜び、泣きやませようとオロオロし、はじめの一歩を祝うこと、輪になって踊ることの方が、よほど大切な「社会」だった。日本人は、その小さな「やりとり」に「宇宙」を感じ、敬い、愛で、表現するのが好きなのです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

欲得に縛られると、本当の世界が見えなくなりますよ、気をつけなさい、という警告が常に存在していた。

「古池や、蛙飛び込む水の音」

二十代の頃、この俳句を、アメリカ人の友人に英訳した時、「だから、どうなの?」(So, what?)、と言われ、笑ってしまいました。日本の文化は、「だからどうなの?」という次元を密かに楽しみ、受け入れ、共有する。損得勘定から離れることに、自由の広がりを見る。

(私なんか、母校が甲子園に出て、勝って、テレビから校歌が流れたりすると、もう泣きそうになるんですね。馬鹿だなぁ、とは思うんです。たかが野球でしょ。でも、そんな「魂が震えてしまう」瞬間が、好きなんですね。けっこう音楽が絡んでくる。

ベートーヴェンの第九を生で聴いたりしたら、もう涙が止まらなくなって、ただただ、「人類は、凄い!」と心の中で叫びます。この曲を、いつでもヘッドフォンで最高の音で聴ける時代に生きている人は、それだけで、感謝すべき、と思うことがあります。

甲子園に話を戻すと、どういう仕掛けで、どの次元のコミュニケーションが交錯すると泣いてしまうのか、考えていたんです。すると、あの頃、つまり高校生の頃、私の一番の相談相手は、可愛がっていた犬だったんです。喋れない。でも、いつも寄り添って、優しい目をして。ふざけようとしたり、一緒に走ったりして、いまでも心の片隅で相棒です。

サトクリフの児童文学「太陽の戦士」に、その辺のことが詳しく書いてあります。石器、青銅器、鉄器、と道具や武器が進化する過程で、人間が順番に失っていくもの、「古(いにしえ)のルール」、みたいなことが書いてある。戦う武器、教育もそうですが、競う道具、が進化すると、「優先順位」に変化が現れるんです。その時失うもの、失ってはいけないものに気づくために、喋れない相談相手がいる、そんなことが書いてあって、私には哲学書です。〇歳児は、人類の相談相手なんだ、と気づく。もっと遡ると、私の相談相手はクマのぬいぐるみでした。

そして、行き着くのは、「おなじ阿呆なら、踊らにゃ、そん、そん」という、掛け声なんですね。社会とは、人間が大自然と踊ること、踊りに、踊らされることで成り立つ。魂を震わせ、その後に、鎮まる。)

そろそろ「社会進出」という言葉の「罠」に気づくべきです。

共働きを助けるための施策と、共働きを広めるための施策は、違います。

動機、出所が違う。「動機の違い」を見極めないと、母子分離を「欲の経済学」の中心に置く連中に加担することになる。

共働きを助けようとする人たちと、共働きを広めようとする人たちとでは、その「生き方」に決定的な違いがあるのです。

 

「子育て」という神秘体験

眠っている幼児を眺める時間の大切さを思い出すときが来ています。

そういう時間から、注意を逸らすものや、仕掛けが溢れているから、意図的に、義務教育なんかで、その大切さを子どもたちに伝えていくべきです。もし、もう一歩進みたいなら、眠っている我が子に、そっと歌を唄う時間を、自らの意思で創り出す。その積み重ねで、社会は、じゅうぶん整っていく。

この国には、「千と千尋の神隠し」を、あれだけ長い間興行収益第一位にし続けた土壌と「伝統」がまだある。それがあるうちに、感性を手放さないようにしないと、と思います。

人間は、生まれた時が「社会進出」です。

それを一番よく知っていた国が、何、騙されているんだ、しっかりしようよ、「教育」など、子育てのほんの一部分でしかないのだから、と思うんです。

生まれてから三年くらいの間に、それは、脳が発達する時期と重なっているのですが、幼児は人間社会を「利他の心」で整えるという、何者にも代え難い役割を果たします。ほとんど自己犠牲のような行いです。普通にやっていれば、「育てあい」「育ちあい」が安心への道筋になる。

可愛がって、食べさせて、世話をして、その過程で言葉が喋れるようになっていく。これは、凄い。

驚くべき体験で、その神秘体験を繰り返すために、人間(魂)は生まれてくる。

 

私は、トイレに入っていた小さな息子に、「どう、出そう?」とドアの外から訊いた時のことを覚えています。

中から、「ビミョー(微妙)」という、いくぶん不安げな声が聞こえたんです。

ああ、息子は、「微妙」という言葉を知ってる。得体の知れない感動でした。人類の進化を見たような、視野が一気に広がっていく感じがしたのです。

魂が、言葉を手に入れていくことを考えると、ドキドキします。それを目撃した「自分の存在」が、嬉しくなります。魂に、言葉を教える時期は、人生における体験としては、教える側、教えられる側、双方にとって、極めて貴重な特別な「時」なのです。部族という単位にまで発展する。

「ビミョー」は、たぶん、私が教えたのではない。でも、ああ、育っている、育ってる、と思う。みんなに育てられている。ムーミンかも知れない。「すべてがむだであることについて」という本を愛読するジャコウネズミが言ったのかも知れない。私たちは、守り合っている。

私が、公園に一人で座っていたら、「変なおじさん」。でも、二歳児と座っていたら、「いいおじさん」なのです。横に座っているだけで、二歳児は宇宙の相対性の中で、私を「いいおじさん」にする。その仕組みに気づき、感謝するために人生がある。

二歳児は、私を「いいおじさん」にしようと思って座っているのではないのです。ただ、座っている。ただ、座っているだけで、これほどのことが出来る。それは、すなわち、宇宙の大原則がそこに座ってらっしゃる、ということ。

すべてが役割を持っていることに気づけば、孤独が人生から遠ざかっていきます。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。拡散、シェア、コピーペースト、転載でも構いません。どうぞ、よろしく、お願いします。

「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

最近、講演の最後に一曲演奏を頼まれることが増えました。音楽は、不思議ですよね。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。(#ママがいい)

 

「政財界の甘えと無自覚」

「政財界の甘えと無自覚」

 

政府の「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf は、子どもの側には立っていない。愛が感じられない。

母子分離、「共働きを前提とした平等論」で、結果的に少子化を進めてきた「政策」にいまだに固執している。

この人たちは、「キャリアと子育ての両立」という言葉が、心情的にも、仕組み的にも、幼児の側からは成立しないことが理解できていない。

日本中で毎年聴こえる「ママがいい!」という叫びと、自分たちの思惑を切り離し、それが「子どもの未来」とは無関係だと思っている。元経済財政諮問会議の座長が、「〇歳児は、寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。誰が世話しても同じ、「飼育」くらいにしか思っていない。だから、子どものために仕組みの質を整えるより、女性の労働力を確保すれば、それが国のためなのだ、と思っている。そして、人間は皆、損得勘定で動くと計算している。悪い人ではないのは、話していてわかりました。でも、何かが極端に欠けている。

義務教育という歴史の浅い、未知の試みと言っていい巨大な仕組みは、親が親らしい、という前提のもとに作られている。親が、子どもを可愛がる、または、可愛いと思うこと、が自然で一般的だった時に作られている。それを忘れると、仕組みが新たな「常識」を作り出し、「人間性」との間に、不一致を生み出すことなってしまう。

預けられた一歳児が、お昼寝の時間に、ふと起き上がり「ママがいい!」とつぶやく。それを聴きながら、保育士たちは、ドキッとするのです。ここに来るようになって、数ヶ月経っているのに、夢を見たのだろうか……。隣にいた子どもが、その声を聴いたかもしれない……。つられて、しくしく泣き出す男の子もいる。

その風景の中で、一歳児たちの脳が育っていく。

そして時々、「進化」を止める。一日10時間、年に260日。人類未体験の不自然な状況で、子どもの未来が決まっていく。国連も、ユネスコも、WHOも、「乳幼児期の、特定の人間との愛着関係が、子どもの将来に影響を及ぼす」と繰り返し言っているのです。

それを知っている保育士たちには、その風景の中で、小さな「歯車」が一つ、二つ、と欠けていくような不安がある。一人ひとり、丁寧に相手をしなければいけないのに、それが許されない仕組みの中で、困惑するのです。

大人たちは、「男女共同参画社会」という言葉のトリックで誤魔化せても、子どもたちには、通用しない。納得しない。

「ママがいい!」と本気で、掛け値なしに、叫び続ける。

「誰でもいい!」とは、絶対に言わない。

 

戦略会議は、「性別役割分担意識からの脱却」を「働き方改革を正面に据え」実施していく、と宣言しているのです。「常識」が思考から欠落している。子どもたちの願いが、はじめから視野に入っていない。

「性別(性的)役割分担意識」なしで人間社会は成り立たないのです。

結婚が、人生の主目標から外れてくるし、子孫を作ろうとする意欲は薄れる。しかし、この会議は、「それは困る、少子化は困る」という会議なのです。そして再び、「子育て」の苦労を減らしてやれば産む、として母子分離を薦め、それを懲りずに、「異次元の少子化対策」と呼ぶ。論理が破綻している。

でも、放っては置けない。こういうやり方を許したら、保育園、幼稚園、学校という、この国の生活に不可欠な、いわば逃げられない「仕組み」が共倒れになり、壊れていくから。

 

分かりきったことですが、芸術も、音楽も、文学も、演劇も、人間が楽しむものの中心に性的役割分担「意識」が存在していて、そこから、喜び、悲しみ、苦悩が生まれ、様々に表現されてきました。想像力というコミュニケーションの領域で花開き、次世代に伝授されてきた。

「祭り」は、その意識を陰陽の法則における「調和」への道筋とし、祝います。それは、生命の持続性を賛美することでもあって、人間たちの魂は、それを見て、震える。

「ママがいい!」、この言葉は人類にとって、はじまりであり、勲章なのです。

 

本気で「性的役割分担」を批判し、時代遅れと言う学者がいると、

阿波踊り、とか、リオのカーニバル、小学校の運動会や、中学の合唱コンクールでもいい、何かを感じてくれ、遺伝子をオンにしてくれ、と言いたくなります。「鯉のぼり」や「ひな祭り」、「七夕祭りは、いずれ廃止ですか?」と尋ねたくなる。

「千と千尋の神隠し」やトトロ、「男はつらいよ」もそう。こうした、祭りや儀式、映画がなぜ支持されるのか、「性別役割分担意識からの脱却」と軽々しく言う前に、戦略会議は、一度、なぜ子どもたちは「ママがいい!」のか、真面目に考えてほしい。

「父親の育児参加」、これはいい。進めてほしい。しかし、「共働きを前提とした」平等論では、本当の対応にはなっていないのです。子育てに、平等はない、そこをちゃんと理解し受け入れないと、子どもに真剣に向き合ったことにはならない。共働きを薦めるための「父親の育児参加」では、動機の段階で本末転倒なのです。(結果、オーライのような気もしますが。)

確かに、人間社会は、理不尽な役割分担に満ちています。

歴史的に見て、男たちの傲慢さは目に余るものがある。是正すべきことがたくさんあるにもかかわらず、アラブや、インドや、アフリカの現状を見ていると、「慣習」では済まされない差別が権力と武器を手にしている。民主主義の脆さが、次々と露呈している。先進国といわれる国でも、平等論を利権争いに巻き込むことで男女間の対峙は拡大しているように思えます。子どもたちを置き去りに、家庭という「愛着関係の行き場」が急速に失われていく。

「性的役割分担」は人間にとって、生きる「動機」です。それを対立のきっかけにしていくのは、非常に危険です。

災害やストライキが簡単に暴動となって広がる「欧米の犯罪率」もまた、私たちに強く警告している。

地球温暖化で乾き切った山林が、あっという間に山火事になるように、犯罪の広がり方や、その質が人間性を逸脱し始めている。母子分離によって乾き切った人々の心は、いつ火がついてもおかしくない枯れ草の下生えとなって社会に溜まっていく。

前回、1980年代前半に、二万六千人だった米国で収監されている女性の数が、四十年後、二十三万人になり、増加率は男性の二倍、母親が半数を超えていることについて書きました。同じ時期に、親による虐待で重傷を負う子どもが六倍になり、ホームスクールで教育を受ける子どもが百倍になっているのです。

一方、日本では、こんな声が保育現場から聞かれるようになっていました。

「週末、四十八時間子どもを親に返すのが心配です。五日間せっかくいい保育をしても、月曜になると、また噛みつくようになって戻ってくる」

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。四十八時間オムツを一度も替えない親たちを作り出しているのは私たち(保育士)ではないでしょうか」

週末を挟んで現れるこうした兆候が、将来の児童虐待や犯罪、いじめや不登校の広がりを示唆していることに保育の現場は気づいていた。当時の子どもたちが、いま親になり、保育士や教師になっている。最近よく言われる、長続きしない保育士や教師の多くは、二十年前、保育士たちが違和感を感じた、長時間の母子分離の結果ではないのか。もし、そうだとしたら、教師不足は止まらない。加速していく。

子どもたちは、誰を育てるのが自分の役割か本能的に知っています。

その子たちを、少しでも納得させたいなら、(キャリアと子育てを、少しでも、両立させようと思うなら)、保育士たちの「女性らしさ」、園長先生の「祖母らしさ」に「頼る」しかない。そこで行われる女性から女性への「利他の幸福」の伝承に依存するしかなかったのです。

この時期の子育ては、理論でも理屈でもない。可愛がること、寄り添うこと。それに幸せを感じること。

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。

 日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。

それを自覚していない。

その無自覚さが、強者たちが、自分で自分の首を絞める現象を生んでいる。

(続く)

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

幼稚園、保育園単位で「親心のビオトープ」を作ることは可能です。やり方は、「ママがいい!」に書きました。心強いのは、一度回りだすと、それが、嬉しそうに回ること。一学年ずつ卒業していくので、代々引き継がれ、伝承が行われていくこと。)

 

「女性らしさ」のおかげ

前々回、金沢市での講演会のお知らせの、一つ前に、

「男女平等、日本125位=順位落とす、先進国最下位―国際調査」~政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった~。https://sp.m.jiji.com/article/show/2966296?free=1という報道について書きました。

政治や経済の分野に参加する女性が少ないことを「遅れている」として、それに疑問を抱かせない。マスコミのこうした姿勢が、国全体に欧米コンプレックスを植え付けてきたように思います。

遅れていることがいいこと、とは誰も言わない、

男女平等、日本125位の国が、GDP世界第三位なら、国のあり方としては、逆に良かったのではないか、と考える方が論理的なはず。

しかも、日本の女性の平均寿命は世界一です。

「政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった」と記事が指摘するように、この「国際調査」が示す順位や平等の概念は、「欲」の強さの順位づけであって、利他の幸福感とは真逆にある価値観が働いている。

だから、「子育て」「母性」と対峙するのです。

平等を目指す道筋には、欲を満たす方向性と、もう一つ、欲を捨てる方向性がある。

経済は、前者の物差しで活性化しようとし、成功に安心を求めますが、結論から言えば、例えばアメリカなら数パーセントの人が95%の富を握ることになってしまう。極端な格差を生む。多くの人が不安を抱えて生きる社会になる。アダム・スミスは、その不安と不満が資本主義のエネルギーと言ったのですが、そんな呑気なことを言ってられないほど負のエネルギーは蓄積し、人類は、「欲望の時代」と呼ばれる対立の「時代」に入ってしまった。

一方、仏教など、主要な宗教は、後者の道筋、欲を捨てる方向性を教えの基本とします。「利他」の心構えを、より確かな、万人に可能な、平等への物差しとして勧めてきたわけです。

前者が、獲物を求めて狩りに出る男たちの手法とすれば、後者は、子育てをする母性的な道筋と言ってもいいかもしれない。

古人類学では、男が狩りに出かけ、女が残って子どもを育てるという「性的役割分担」が人類に家族という定義を与えた、と考えるそうですが、言い換えれば、「性的役割分担」が薄れた時、人類は、家族、家庭という定義を失っていくのです。そして、この「家族」という単位が維持できなくなると、個々の欲を鎮めるのが困難になり、「欲の資本主義」にさらに惹かれていく。

子育てに時間を使っている女性を、生産的でない、と見下す欧米の「調査」など無視すればいい、日本の文化と伝統を愛したスティーブ・ジョブスが天国でそう言っている気がします。

保育科の学生が、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いたら、勉強不足、と不合格になったそうです。

私が師と仰ぐ園長先生たちは、言っていました。

「保育は五歳まで。二十歳くらいまで見るなら別ですが、一生続く親との関係が一番大切です。長時間預かるなら、そのことを親に言い続けなければ、保育ではありません」。

「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針の柱が保育科の授業で壊されていきます。福祉はサービス、親のニーズに応えるのが保育、と学生たちが市場原理の一部になるように仕向けられている。

一部の学者が、保育に、ジェンダーフリーという「大人の利権争い」を持ち込んだことで、「女性らしさ」で成り立ってきた保育界が「心の根腐れ」を起こし、混乱している。

子どもたちは「ママがいい!」と毎年、慣らし保育の度に言っている。「子ども真ん中」と言うなら、まず、その願いの尊重からスタートすべきでしょう。

政治家や学者たちは、どうしてその叫びをここまで無視できるのか。それに慣れることは、私たちが幼児に見捨てられることです。

子どもの権利条約に、「できる限り父母を知り、父母によって養育されること」が権利として書かれ、

児童の権利宣言:第六条には、

「児童は、その人格の完全な、かつ、調和した発展のため、愛情と理解とを必要とする。児童は、できるかぎり、その両親の愛護と責任の下で、また、いかなる場合においても、愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てられなければならない。幼児は、例外的な場合を除き、その母から引き離されてはならない」と書かれた。

その権利が、家庭崩壊の流れを「機会の平等における『進歩』」と解釈する学者たちによって、子どもたちから奪われていく。

「もう、そういう時代じゃない」「日本は遅れているんです」、「もっと勉強しなさい」と言って、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いた学生の心が、保育科で教える教授によって、不合格とされる。「社会で子育て」など出来ないことは、すでに結果が証明していて、それが義務教育に連鎖していると報道されているのに、母子分離を目指す政策が止まらない。こども未来戦略会議が言う、「こどもを安心して任せることので きる質の高い公教育を再生し充実させること 」など、もう無理なのです。親に返し、子どもたちが親を育てる力に望みを託すしかない。公教育は、親が親らしい、という前提の元に作られているのです。

権利宣言にある「愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てる」ことは、パートで繋いでいい、五日間で取れる「子育て支援員」の資格でいい、それさえもなくていい、という規制緩和の元で、できるわけないでしょう。それが、わかっていて、

人間性の本質に関わる問題に、一律に「合否の判定」を下す教授がいる。

この仕組みは一体何だろう。時の政権、政策の都合で動くのが学問の常とはいえ、この教授のやり方は傲慢であるだけでなく、稚拙だと思う。

人生は思うようにはなりません。

母親が育てることができない場合もあるだろうし、子育てから離れ、違う道筋を、自らの決断として選ぶ人がいて当然だと思う。ダーウィンの法則の一部でしょう。

しかし、

保育科にくる特別な、と私は思いたい、女性たちの、新鮮な、いわば一年目の母にも似た願いが、一律に「学問」で打ち消されるところを目の当たりにすると、腹立たしくなり、寒々しさを感じる。

「勉強なんかしなくていい」と思わず、教室から連れ出したくなる。

私が尊敬する園長たち(女性たち)の半数は保育資格を持っていなかったと思う。土地を提供することで始まることが多かった草創期の事情で、園長先生に資格は要らなかったのです。オルガンで一曲だけ弾けますよ、と笑う人も居ました。子ども好きな女性が、子どもたちに鍛えられ、親たちを見張り、様々な人生に寄り添い、日々一緒に育っていった。

やがて、その一帯の守り神のようになって、歩いているだけで、親たちが鎮まる、そんな光景にあちこちで出会いました。

その道祖神のような方々が、日本の保育界と「子どもたちの願い」を重ねていたのです。

11時間保育を標準と名づけた上に、就労規程を取り払い、「誰でも入れる保育園」を目指す政府の戦略、慣らし保育なしで最長7日間まで預けられる「子どものショートステイ」(生後60日から十八歳未満対象。育児疲れ、冠婚葬祭でもOK。一泊二千円から五千円)を、「圧倒的に整備が遅れている」と言ってしまう「方針」の背後に、この道祖神たちとは別次元に住む、学問でしか子育てを見ない、子どもに同情しない「専門家」たちがいて、「こども未来戦略」を立てている。

内村鑑三は、「教育で専門家は育つが、人は育たない」と百年前に言いましたが、産業化した高等教育は、すでに市場原理に取り憑かれている。

保育界には、その物差しを持ち込まないでほしい。

 

私が渡米した1980年代前半、米国で刑務所に収監されている女性は二万六千人でした。四十年後の現在、二十三万人になっている。そこから、人類に何が起こっているか感じてほしいのです。

増加率は男性の二倍、そして、母親が半数を超えている。

未婚の母から生まれる子どもが四割、首都ワシントンDCでは、六割の家庭に「大人の男性」がいない。実の父親という言葉はすでに歴史の中に葬られ、父親像を持たない子どもは五、六歳からギャング化する、という研究発表もありました。

仕組みが子育てを代行することで、男たちが無責任になり、心を鎮めるチャンスを放棄してゆく。そして、優しさや忍耐力が社会から欠けていくと、貧困、薬物戦争、性差別、が女性たちを直撃するのです。

そのフィールドに三十年住んでいた私には、そこで起こっていることが、日本の保育現場と重なって見えるのです。

 

「こども未来戦略会議」は、「こどもがいると今の趣味や自由な生活が続けられなくなる」といった背景を指摘するより、平等という言葉に隠された大人たちの「利権」争いが、子どもの人生をどう巻き込んでいくか、アメリカの女性の囚人の増え方から、考えてほしい。

(「自由な生活」が何を意味するか知りませんが、子育ては自由を失うこと。その、自由を失うこと、自由を捧げることに、喜びを感じるのが人間でしょう。それを体験的に知るために、幼児を可愛がる機会を増やしていくべき時代に、この「こども未来戦略会議」は一体何を目指しているのか。この国から人間性をなくしたいのか。)

一人ひとりの欲が、自分の子どもを可愛がることによって抑えられないと、家族という単位が機能しなくなる。福祉や教育では絶対に補いきれない。一時的に経済が活性化しても、自由が手に入ったように思えても、次にあるのは、不満が一瞬のうちに暴動につながっていく、自浄作用を失った社会なのです。

アインシュタインもドラッカーも指摘したように、日本は特殊な、選ばれた国です。

アインシュタインはその民族性を調和の美しさ、と言い、ドラッカーは経済発展にもそれが有効だったと指摘した。しかし、二人は外国人ですから、私たちが知っているこの国の真髄までは感じ取れない。その真髄は、子どもたちとの一体感なのです。そして、この国をまとめる力は、母性、そして祖母の視点だった。

調和の原点が元々そこにあったから、保育という領域で、この国の特殊性は際立ち、「女性らしさ」によって維持されてきたのです。

 

いま、政府が進めている母子分離による経済政策の愚かさは、この国の民族性、美しさと柔軟性を、税金を使って葬ろうとしていること。一度失ってからでは、手遅れになる。

幼児たちは「ママがいい!」と言っている。この子たちの偽りのない「警告」を聴くだけの文化と伝統が、この国には残されているはず。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

日本の魅力を理解する外国人が増えています。アニメやJ-popの影響もありますが、落ち着いた「文化」そのものに惹かれる。風景とか空気感が、世界中の国々と比べて穏やかでバランスが取れているのです。それほど欧米の状況が不安定になっている、ということでもあるのです。欲の資本主義に支配されていない、この国の個性が、世界中の混沌の中で際立ち、人間を魅きつけるのです。

いい国、なのです。

遅れていたって、構わない。この国を大切にしなければいけない。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。

 

 

父の遺品と言葉

 

 

先月13日の読売新聞夕刊に、去年逝った、父の遺品と言葉が載っていました。
「母親が自分に読んでくれると言うのは、子どもにとって最高のことです。」(「私の言葉体験」から)

妹、「わにわに」の小風さちさんが、「人形に、幼い頃の自分と母親を重ねていたのかもしれません」とコメントしていました。
絵本も、児童文学もそうですが、何度も何度も読んでもらえる、繰り返し読めるのは、それが「体験」だからです。情報だとしたら、一度でだいたい覚えてしまうし、話の筋も、会話も知っている。
何度も読めるのは、生きた「体験」だからなのです。
私も、ドリトル先生などは、一冊につき5、6回は読みました。「秘密の湖」のあの神秘的、哲学的深さは、いまでも肌触りとして残っています。長靴下のピッピもそうですし、「飛ぶ教室」「太陽の戦士」「農場の少年」「トムは真夜中の庭で」「カラスが池の魔女」、私が思考する中核に、繰り返し読んだ児童文学の体験がはっきりとあります。
児童文学をたくさん読んでいれば、大人の誤魔化しには騙されない、そんな感じです。

アインシュタインが、情報は知識ではない、体験が知識なのだ、と言いました。わかる気がする。

その体験の根っこに、母親に読んでもらう(もちろん父親でもいいのですが)読み聞かせの体験があって欲しい、と父は思っていたのです。
こういう時代だからこそ、もう一度「読み聞かせ」を復活させてほしい。幼稚園、保育園で、親たちに薦めて欲しい。「一日一冊読んであげても、十分くらい。それが母親の言葉として記憶に残っていくんですよ」と教えてあげてほしい。それを、毎日積み重ねていくと、親子でした「体験」の土台が作られていく。こんなに便利な「道具」はないのです。

この時期の体験は、この時期しかできない体験です。お母さん、お父さんも新米で、子どもは、もうキラキラして親を信じている。そういう時に、人間社会の基本が出来上がっていくのです。

 

講演会のお知らせです。

石川県の金沢市て行われる、日保協青年部の研修会です。

対象者限定ではありますが、「県内外の各施設の施設長・園長、副園長、主幹保育 教諭、現場の保育士など 」となっています。申し込みが必要ですが、無料です。ぜひ、ご参加ください。

日保協の青年部が動いてくれるのは嬉しい。二代目三代目の若手園長たちに、母上、祖父母園長からの伝言を伝えるのは、四十年前から様々に教えを受けてきた私の役割りのような気がします。

今、保育界は政府の「保育は成長産業」とか、「誰でも保育園」とか、パートで繋いでもいい、11時間保育が「標準」などという規制緩和で揺らいでいます。

この仕事の「心」を、伝承しなければなりません。

子どもの最善の利益を優先する、という保育指針ならびに国連の子どもの権利条約を真ん中に置いて考えれば、混乱している保育界に必ず道筋が見えてくる。園と家庭が一体になって子育てができるように、子どもたちのために、保育士たちのために、現場が、立ち上がってほしいのです。

(講演依頼は、matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。)

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日本保育協会石川県支部青年部研修会

   ママがいい! ~園と家庭の相互協力を目指して~

令和 5 年 10/6(金)15:00~16:30 

金沢市文化ホール二階 大集会室 〒920-0864 石川県金沢市高岡町15 

県内外の各施設の施設長・園長、副園長、主幹保育 教諭、現場の保育士など 100 名

https://forms.gle/txkW8xYQwnraeYgG7 :1 名につき 1 回お申し込みください 

 

日本は遅れている?

日本は遅れている?

 

「男女平等、日本125位=順位落とす、先進国最下位―国際調査」~政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった~」https://sp.m.jiji.com/article/show/2966296?free=1 という報道がありました。

政治や経済の分野に参加する女性が少ないことを、「遅れ」とし、疑問を抱かせないように報道する。

順位を落としている事実から、日本の女性たちの意志、選択の自由を読み取ろうとはしない。

この手の報道を目にする度に、マスコミや経済学者は、意図的に、「女性らしさ」という個性を、経済競争の活性化・「一億総活躍」のために見下し、失わせようとしているように思えてならないのです。

それに気づき、本当に、それでいいのか、という素朴な疑問が、「順位を落とす」という現象に現れているのではないか。

日本の女性たちは、政府が主導する無謀とも思える保育の量的拡大から、その真意に気づき始めている。「ママがいい!」という言葉を覆い隠すための規制緩和を容認、追認してきた学者や専門家たちの不誠実さを見抜き、不信感を持ち始めているのではないか。

そうであってほしい。

立ち止まる、としたら、今しかない。

 

近頃、欧米を覆う、異常とも云える家庭崩壊と、それに伴う児童虐待、簡単に火がつき暴動にまで発展する「犯罪率」、格差の拡大を考えれば、「遅れていること」は良いこと、と思っていい。 子どもを守るとしたら、自分しかいない、という気構えが、日本の母親たちに戻ってきているのだとしたら、この国は、独特に踏みとどまるかもしれない。

そもそも論ですが、「男女平等、125位」の国が、世界第3位の経済大国なら、それが良かったのでは、と分析する学者や、エビデンスに基づきその視点を報道をする記者が、一人、二人は、いてもいい。

性的役割分担が、この国を経済大国に押し上げたと理解している学者は、たぶんいるはず。しかし、「報道されるか、されないか」で思考の価値、社会の流れが決まってくる時代がしばらく続いたのです。

それが最近、ネット上の新たなコミュニケーション手段によって、変化し始めている。

私の本、「ママがいい!」は、SNS、口コミなど、自発的な情報拡散に支えられています。

タイトルのせいか、マスコミは一切、書評も載せないし、報道もしない。しかし、園長先生たちから、「タイトルを見て涙が出ました」と感謝され、「やっぱり自分の決断は間違っていなかった」と心が揺れていた母親からメールをいただき、一年間で、5刷りまで来ました。図書館で順番待ちになっている、と聞きます。

幼児たちとの時間は、駆け引きのない輝かしい時間で、それに応えることは、人生を形づくる「活躍」なのだ、と、この国は気づき始めている。

 

話を戻します。

世界第3位の経済大国である上に、日本の女性の平均寿命は世界一です。

「夢を持ちましょう(欲を持ちましょう)」という言葉に騙されず、人間が一番幸せになりやすい方法を見極め、「子どもを可愛がる」、「子どもを優先する」という「利他の本筋」を選ぶ女性が先進国の中では奇跡的に多い、それが、精神的にも良かった、と考える文化人類学者がいていい。

この国には、世阿弥や芭蕉が種を蒔き、宮沢賢治や手塚治虫が耕し、宮崎アニメまでつながった「欲に、静かに背を向ける」文化と土壌が確かにまだある。最近、アニメなどを通して、世界の若者たちの憧れにもなって、惹きつけている。

そこまで考えると、「男女平等、125位」、しかも「順位を落としている」という日本の女性の意志と選択が、人類の持続性の鍵を握っているようにさえ思えてくる。

 

政府の、こども未来戦略会議の「こども未来戦略方針」https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf の冒頭に、基本的考え方として、

「急速な少子化・人口減少に歯止めをかけなければ、世界第3位の経済大国という、我が国の立ち位置にも大きな影響を及ぼす」と書いてあるのですが、母性はこういう考え方をしない。「我が国の立ち位置」より、我が子の「はじめの一歩」に驚きと、喜びを見出す。そこに宇宙の動機を感じる。

しかも、この「急速な少子化・人口減少」は、今まで政府がやってきた、現場の保育士たちの人間性さえ追い詰める、利他の幸福論を無視した、母子分離策(少子化対策)が原因なのです。

乳幼児を抱っこする時間の価値が貶められていった結果です。

アインシュタインが、美しさ、と評したこの国の性的役割分担に基づいた「調和」が、実は経済面でも「平等」に勝る道筋だったと主張する経済学者は、いつになったら現れるのか。「こども未来戦略」の中には、その兆候さえ見えません。

学者たちの「欧米コンプレックス」が根本にあるのでしょう。「平等」という言葉に縛られ、思考停止になっているのかもしれない。

ネグレクトの勧めとも言える(慣らし保育なしの)「子どものショートステイ」を、「圧倒的に整備が遅れている」と言う人たちです。保育士が足りなければパートで繋げばいい、と規制緩和をする人たちが、「戦略」(策略)を練っている。

経済競争から「作法」が消えれば、ただの「喧嘩」です。その風景が、世界中に広がっている。

そのことに気づいてほしい。

(「ママがいい!」、それは、子どもたちだけではなく、現場からのメッセージでもあります。その言葉に救われ、人生を見る視点が変わった親たちのことを、本に書きました。ぜひ、友だちに薦めてください。子どもたちの願いを拡散してください。)

 

講演会のお知らせです。(西東京市です)

 「市内在住者、及び市内幼稚園の保護者対象」なのですが、西東京市に住んでいる方は参加可能のようです。また、一般の方が参加できる講演会がありましたら、フェイスブックやブログに載せてお知らせします。
 「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。アインシュタインやスティーブ・ジョブスだけでなく、日本の魅力を理解する人たちはたくさんいます。私たちも、この国の「子どもを可愛がる」個性と伝統を信じて、仕組みを立て直す時なのです。
 子どもの悲しみは、大人の責任、そう自戒し、子どもの成長に人生の生き甲斐を見出すことは、人類の生き方としては、「王道」でした。
 その道を選ぶことに関しては、日本は、先進国の中で最も平等な国です。半数近くが未婚の母から生まれる欧米に比べ、父親がまだ家庭にいる確率が非常に高いのです。背中をちょっと押してあげれば、男たちが、幸せになるチャンスをまだ持っている国なのです。
 政府や行政がやらなくても、現場の保育者一人ひとりの決心で出来ることがたくさんあります。子どもにとって、保育は、常に一対一、守ってくれる人は、目の前の人。
 コロナが明け、幼稚園、保育園での講演が増えました。
 二年以上中止になっていたため、親たちを巻き込む「行事」、親たち自身の伝承で、ビオトープのように回っていた催しを復活させるのは、なかなか大変です。幼稚園や保育園のいいところは、全員がいっぺんに卒園するわけではないところ。やった方かいいいよ、というアドバイスが口伝となって、親の育つ歯車が回り始めることです。
 私の講演をきっかけに、もう一度エンジンをかけ直そう、と呼ばれるのです。録画してもらい、来なかった人たちに回覧してもらい、園のホームページに上げてもらいます。
 園長先生の尽力で、役場の人、助産師さん、近所の学校の校長先生、民生委員の人、理事長の説得で、市長や教育長が来てくれたりします。
 一緒に聞いてくれると、地域に筋が通るような気がします。親心のビオトープの大きさが、ひと回り大きくなるのです。
 講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。小学校のPTAからも依頼が入ります。感想文に、十年前にこの話を聴いていたら、と書かれます。

「安野先生の不思議な学校」

夏季特別展「安野光雅美術館コレクション
安野先生の不思議な学校」特設展示
があります。

明石市立文化博物館

7.22 sat – 8.27 sun
この巡回展において、明石市では、
「松居直 と 松居和 、そして その学校 」という枝分かれした企画展があります。
〜本展は、夏季特別展「安野先生のふしぎな学校」のごあいさつにある 「(安野光雅の)教え子の父であり、福音館書店に勤務していた松居直と の出会いをきっかけに、42歳の遅咲きではありましたが、絵本作家とし てデビューを果たしました」に着目し、教え子である松居和、教え子の父 である松居直、そして出会いの場となった学校について紹介します。 〜
小学校での授業と、家にたくさんあった児童文学、そして、その後のインドの村での生活は、今でも、私の考える原点になっています。安野先生とのお付き合いは、六十年間続きました。

 「ママがいい!」、5刷りになったようです。口コミ、SNSが頼りの拡散ですが、図書館でも順番待ちだそうです。ありがとうございます。まだ、間に合うかもしれない、と思います。よろしくお願いいたします。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。小学校のPTAからも依頼が入ります。感想文に、十年前にこの話を聴いていたら、と書かれます。)

(お知らせ)
 フェイスブックのフォローという仕組みがオンになっていないようです、というご指摘を受け、やっとオンにできました。アドバイス、ありがとうござました。

こども未来戦略

発表された、政府のこども未来戦略会議の「こども未来戦略方針」(令和5年6月13日閣議決定)、https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf  に、こんな文章がありました。

 「今後、インド、インドネシア、ブラジルといった国の経済発展が続き、これらの国に追い抜かれ続ければ、我が国は国際社会における存在感を失うおそれがある」。

そんなことどうでもいい。こういう「動機」を保育施策の冒頭に書く、この会議の無神経さ、馬脚を表すとはこのことです。

「国際社会における存在感」など「架空」の現実。この国の保育、教育の混乱を考えれば戯言(たわごと)に過ぎない。

「それどころではない!」。

幼児たちが、その存在感を失おうとしているのです。

人類規模で見れば、この西洋的な「競争意識」が原因で、家庭に対する弾圧、迫害、人類史上最悪と言われる「一億人を超える難民」の問題が生じているのです。子ども中心のミクロの現実が肌触りを失い、経済や情報中心のマクロの欲と利権に押し潰されようとしている。

「利他」の幸福論が希薄になっていく。

「国際社会における存在感」のために、「ママがいい!」という子どもたちの願いが存在感を失い始めている。

「こども未来戦略」には、子どもたちが可哀想、という人間的な意識がまるでないのです。「可哀想」という言葉が、保育界で禁句になっていったように、経済主導で、社会から「人間性」が失われていく。

母子分離が原因と思わざるを得ない「学級崩壊」で教師たちが病み、職場から去っていく。そんな中、「二人目は無償、そうすれば子どもが輝く」という、意味不明な発言が、都知事の口から飛び出した。母子分離で「子どもが輝く」それが「チルドレンファースト」なのだという。この荒唐無稽な論理の飛躍を、マスコミがそのまま報道する。

「急速な少子化・人口減少に歯止めをかけなければ、世界第3位の経済大国という、我が国の立ち位置にも大きな影響を及ぼす」。(こども未来戦略方針)

経済財政諮問会議がこれを言うのはいい。言わせておけばいい。赤ん坊を抱き、じっとその顔を見つめる時間の価値、深さなど、わからない人たちなのだから。

しかし、現場で最前線に立つ保育士たちに読ませる「こどものための、国の未来戦略」に、これを書けば、何を言ってるんだ、あんたたちの「子育て放棄」につながる「少子化対策」が急速な少子化を生んだのでしょう、あんたたちがこの国の立ち位置を崩したんです、自業自得でしょう、と園長たちは思う。

(「ママがいい!」を読んでみてください。現場と政府との「子どもたちの扱いを巡る」闘いは、30年前から始まっている。政府の子育て支援は、「子育て放棄支援」だと、園長たちは言い続けてきたのです。)

いい保育をしても、週末二日間家庭に返すと、月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる。やっとお尻が綺麗になったのに、真っ赤になって戻ってくる。48時間、オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは、自分たちなのではないか、そのジレンマの中で保育士たちは、30年やってきました。現場の気持ちに対する無知さが、仕組み上の「空白」と「軋轢」を生み出し、巡り巡って、保育士や教師たちのやる気を削いでいったのです。

この「こども未来戦略方針」の中に、「ショートステイは年間約 0.05 日、圧倒的に 整備が遅れている」という文章を見るとき、その「非認知能力の欠如」に愕然とするのです。

厚労省が10年以上広めようとしている、「子どもショートステイ」。慣らし保育もせずに、子どもを養護施設などで預かる宿泊保育制度は、最長七日間、冠婚葬祭、出張、育児疲れでもOKだという。

人間は普通、そういうことをしない。色々事情はあっても、国が、こういうことをしていいんだ、と言うべきではない。私はそこに「一億総活躍」の残像を見るのです。ネグレクトの入り口になりかねない、まるで罠のような仕組みです。〇歳児保育の推進、「生産性革命と人づくり革命」の核心がそこに現れる。彼らにとって保育、「人づくり」は、「労働力人口」づくりに過ぎない。

子育ては、可愛がること、大事にすること、その幸せが社会に根付くこと、という本質が微塵も感じられない。

対象は生後60日~18歳未満、一泊三千円~五千円。「年間約 0.05 日しか利用していない」という日本人の良識にホッとしますが、それを「圧倒的に 整備が遅れている」と結論づけた戦略会議の思惑が、あまりに露骨で、稚拙です。

いま、起こっている、それを受ける側の人材の質の低下を考えれば、子どもたちが未来の時限爆弾になるかもしれない体験、出来事、扱いが、この「仕組み」の中で起こる可能性は十分にある。現場の整備、人材の質の向上など不可能な状況で、「思いつき」を既存の施設に丸投げする。その手口を習慣化したのは、政府の「母子分離に基づく、一億総活躍」政策です。

政府のこういう扱いが、体験として乳幼児の脳にどう刻まれるか、まるで考慮していない。閣議決定した政治家も含め、この「会議」の見識の無さに驚きます。「圧倒的に 整備が遅れている」のは、「圧倒的に現場を知らない」、「ママがいい!」という言葉に耳を貸さない政策集団の質と、感性でしょう。

「戦略」に

「どのような状況でもこどもが健やかに育つという安心感を持てる」ようにする、と書いてある、その手段の一つがこのショートステイなのです。

「どのような状況でもこどもが健やかに育つ仕組みなどあり得ない」、そういう基本的なことを言っても理解しない人たちです。

初めて笑って、初めて歩いて、その姿を周りの人たちが眺めて、一生の絆が生まれていかなければ、健やかに育ったことにはならない。安心感という言葉の意味をわかっていない人たちが、「戦略」を立てている。

国連の子どもの権利条約には、「親(特定の人)を知り、その人と十分な時間を過ごすことの大切さ」が、「権利」として書かれます。ユニセフの『白書』には、三歳までの、親や家族との経験や対話が、のちの学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、とあります。WHO(世界保健機関)は、「人生最初の千日間」がその時期に最も発達する人間の脳にとっていかに大切かを言い続けている。

人権侵害とも思える子どものショートステイを、「圧倒的に整備が遅れている」と言う人たちが、「子どもの育ち」と「親の利便性」をすり替え、「こども誰でも通園制度」を進めているのです。現場が引き受けられないことを政府が約束し、親の責任回避を煽り、子育ての第一義的責任をますます曖昧にする施策を作っている。国中で、そのことに気づいてほしい。(マスコミがやらないので、シェア、リツイート、コピーペースト、お願いします。もう時間がない。)

こういう政府の姿勢、経済主体の「一億総活躍」の流れが、保育現場における虐待、教師による生徒いじめ、介護施設や精神病院による非人間的行いを生んでいる。

「ママがいい!」という言葉を直接受け止め、心を痛めている保育士たちは、「無理なものは無理!」と決起してほしい。11時間、子どもを母親から引き離すのは、可哀想だ、と、もう一度強く思ってほしいのです。保育者たちが人間性を取り戻せるか、そこが、子どもたちの最後の砦となっている。

配置基準を(75年ぶりに)、1歳児は6対1から5対1へ、4・5歳児は 30 対1から 25 対 1 にしても、親たちの意識の変化を考えれば30年遅い、まったく手遅れ。乳児からの母子分離推奨によって、愛着障害と思われる子どもが増えすぎているのです。

もちろん、やった方がいい。でも、その分、保育士が必要になる。少子化で相殺されても、0、1歳の園児数を減らさない限り、実質効果はない。親の責任、という意識が復活してこない限り、保育士たちは納得しないし、健全な保育環境は還ってこない。11時間保育=「標準」に始まり、保育はパートで繋いでもいいなど、ここ数年間に行われた、国の規制緩和は、「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針を読んだ保育士たちに対して、全く説得力がないのです。

保育の質を軽んじる「規制緩和」と、弱者に「ママがいい!」と言う機会さえ与えない異常な母子分離施策、そして保育のサービス産業化が、

「新任教諭の退職、公立校で相次ぐ。精神的な不調、東京では理由の4割」https://www.asahi.com/articles/ASR6N4TFKR5YUTIL00R.html

という現状を生んでいるのです。

経済財政諮問会議の元座長が、「〇歳児は寝たきりなんだから」と私と園長たちの前で、言ったことがあります。この人たちは、保育を飼育くらいにしか考えていない。

「子どもたちの気持ち」を考慮しない「戦略」で、これ以上、学校を追い込むのはやめた方がいい。

 

世界第3位の経済大国だったら、もうそれでいいでしょう。インド、インドネシア、ブラジルが私たちを抜いていったら、良かったね、うまくやるんだよ、と祝ってあげればいい。

上にいるのはアメリカと中国という、絶対に真似してはいけない二つの国。何度も数字をあげてブログに書きましたが、日本は、子どもを大切にする、安心して育つ環境という点では、悪くなってきたとはいえ、先進国の中で一番いい国です。

今年になって、世界第1位の経済大国アメリカで、四人以上が撃たれる乱射事件が、毎日二件以上起こっている。毎年養子となった子どものうちの2万5千人が捨てられている。「捨てられる養子たち」NHK BSドキュメンタリー:https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263 をぜひ、見てください。人間社会は、ここまで行く可能性を持っている。

一位になどならなくていい。

「戦略」を読むとわかりますが、政府は、子どもたちが可哀想、と思う気持ちを社会から消したいのです。

学者や政治家は、母子分離が経済発展に必要だ、と、頑なに思っている。それを「平等」という言葉で覆い隠し、「利権と欲」が操る「一億総活躍」という戦略に、母親を引き込もうとしている。

彼らにとって、子育てをしている母親は、「活躍」していないのです。「労働力人口」の定義にさえ入っていない。(祖父母の気持ちも、「子どもの未来戦略」からは見事に消えている。)

母親たちが、人間社会のバランスを保ち、人生の価値を浮き彫りにしてきたことがわかっていない。慣らし保育で、なぜ、ほぼ全ての子どもが、「ママがいい!」と言うのか、母親を選択するのか、子ども未来戦略会議は理解すべきです。慣らし保育の現場に足を運び、そこで子どもたちの叫びを聴き、自分の人生と、この国が失った幼児との時間を体験的に、感じるべきです。

経済重視に偏りすぎた、子育ての仕組みを、作り直す時です。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。シェア、リツイート、コピー、拡散、よろしくお願いします。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。推薦してください。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。政府や行政が、身勝手な「戦略」を立てても、現場の保育者一人ひとりの決心で出来ることがたくさんあります。子どもにとって、守ってくれる人は、目の前の人。よろしくお願いいたします。)