「翻弄される『子どもたちの人生』」

今回の松居和チャンネル第21回は、政府の「子育て政策」とそれに抵抗してきた現場の発言、気持ち、実態との食い違いについて、一例を挙げて話しました。

タイトルは、

「里親制度と神の采配」

副題は、     ~ポスター貼ってお仕舞いです~

(7年前の記事です)

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、「里親への委託率」を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞

この子たちのために発言してくれる人、親が側にいない。その多くが親戚にも見放された子どもたちが対象で、誰も、その決定に反論してくれない子どもたちの権利、すでに虐待を受けたり、困難だった人生が、政府と、その背後にいる学者の机上の「政策」によって翻弄されていく。施設入所がいいのか、里親を探すのがいいのか、場合によっては、実の親との関係を見限るような判断を、役場が負うことになる。

ポスター貼って、お終いです、と役場の課長が憤る施策が、確かに、全国にその時告知されたのです。真面目に取り組もうとする「課長」も、いるかもしれない。

子どもたちの未来に関わる道筋を役場が決める、こういう状況は。実は、福祉政策の中で様々に行われてきた。乱暴な「規制緩和」だけでなく、公立園の場合、園長、主任だけでなく職員も異動がある。どの保育園に行くかで、その子の人生が変わる時代になってきている。現場を知らない市長の「選挙公約」が踏み込んでくることもある。しかし、この「未就学児の施設入所原則停止」には、人類未体験の、行政主導による「里親制度」という「家族の見つけ方」が絡んでいる。その「委託率」を現在の2割未満から、7年以内に75%以上とする、という、とんでもない数値目標が掲げられていたのです。

この数値目標は、単なる、学者の欧米コンプレックスの結果のはず。それが、簡単に国の施策になることが、一番の問題なのです。この「数値」を決めている連中は、「責任の重さ」がわかっていない。

「エンゼルプラン」や「子育て安心プラン」と名付けられた「雇用労働施策」と同じで、子どもたちの「将来」を優先的に心配する気配がない。(首相が国会で「あと40万人預かれば、女性が輝く」と言った時の待機児童は2万人だったのです。)

記事の最後に「家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い」とある。ここで、私の怒りは、沸点に達する。

「それだったら、11時間保育を『標準』とするな!」

記事から七年、どうなりましたか、という私の質問に、児童養護施設で働く友人から、

「現場では、以前と変わらず就学前児童も入所しています。里親に関しては、微増ですが依然として二割程度。七割を越えるなど、国の暴言、官僚の妄言、『絵に描いた餅』です。」

と返事が来ました。

良識ある課長が、「ポスター貼ってお仕舞い」と言った数値目標が、国の方針としてまかり通るところに、「専門家会議」や政治家の「エビデンスに基づく目標設定」の「いい加減さ」、市場原理の恐ろしさが垣間見えるのです。仕組みに翻弄される「子どもたちの人生」が見える。

「幼保一体化」や「十一時間保育:標準」施策は、多くの地域で幼稚園という形を形骸化させ、親の「子育て」意識は、仕組み依存に傾いて行った。その皺寄せが、保育士たちに押し付けられていった。その結果、児童虐待や不登校が過去最多、保育士不足、教師不足にも歯止めがかからない。

当時、幼保一体化を進めた発達心理学者が、「子育ては大変よね。苦しかったら何でもいいから仕事を見つけて保育園に預けなさい。その方が親も子も幸せになるわよ。三歳児神話なんて、うそよ」とテレビで発言し、世論もそのように動いていった。

その学者と並んで、衆議院の、税と社会保障一体化特別委員会で公述人をしたことがある。そこに、もう一人居たのは横浜の女性市長だった。(衆議院のホームページに画像が載っています。)

民主党政権で幼保一体化ワーキングチームの座長を務めていたその学者が『保育の友』という雑誌で、

「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせない時に社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言った。

そういうことを軽々しく、可能なことのように言う学者が、政府のワーキングチームの座長になっていた。それが三党合意で自民党政権に受け継がれていった。

この国の将来のあり方を決定づける、教育基本法や子どもの権利条約、人間社会の持続性を根こそぎ否定する発言が、保育士たちに向けて、保育雑誌の誌面で放たれた時、一体、保育学者や社会学者たちは何をやっていたんだ。

学問で「子育て」を考える連中は、保育は「資格」があれば出来るものだと思っている。

そうではない。幼児たちは、周りの人間たちの「人間性」を問い、存在する。

(先週、岡山の小さな街で、中学生全員に講演しました。体育座りで、私の話に一生懸命耳を傾けてくれました。

「結婚というのは、自ら進んで不自由になること。子どもを作ることは、結婚に輪をかけて不自由になること。不自由になることに幸せがあって、それを『絆』と言うんです。」

「子どもを可愛がっていれば、自分がいい人だと実感できる。それが人生。みんなが幸せになれる方法が、あるんです」

前日親たちに話した話を、身の引き締まる思いで、もう一度繰り返しました。彼らは、真剣に聴いてくれて、体育館を出るまで、拍手を続けてくれました。

ありがとう。

頑張るからね。)