「マイルス・デイビスと民主主義」

松居和チャンネル第29回は、

「マイルス・デイビスと民主主義」 ~利権と、音楽の狭間で、探し物をした人~

私の音楽人生を振り返りながら、ピアニストのジョー・サンプルとの話から入ります。

黒人ミュージシャンにとっての「差別」の現実。私自身、その中で、闘った記憶。

日本語の、「敬語の使い分け」における「縛り」が、モラルと秩序を支えていること。それが、弱者、特に子どもを優先する社会を維持するのに役立ってきたこと。

そのあたりから、伝説のトランペッター、マイルス・デイビスの音楽と、民主主義の関係について話が進みます。

「自由」の感触に、階級闘争の次元ではなく、「音楽」という手段で、もっとも近づいたかもしれない男が、白人の保安官(シェリフ)の嫌がらせを止めることができない。警察官(ポリス)なら止められたはず。でも、同じ色の車に乗っていても、選挙で選ばれた地元の保安官が相手では、逃げられない。

……皆がそれを知っている。

それが、その国の仕組みでした。

「解放」とは、制度や仕組みの縛りから、古(いにしえ)のルールに戻ること。そう考えた方が、いい。

そのマイルスの、音楽における「探し方」が、畑の中の公民館で、一斉に「解放」された保育士たちの思い出と重なって、私は、今でも彼女たちと、「その瞬間」を体験することができる。

音楽は常に背後に流れていて、彼女たちの「生きる動機」も、変わらない。

「制度」を打ち破る時に必要な、弱者を慈しむ人間の本能は、ずっと存在している。

その秘密について、ぜひ、チャンネルを開いてみて下さい。

制度を支配する理論や理屈を離れる「手段」として、私たちは、すでに「音楽」を手にしている。

道筋を照らす者たち、幼児を授かり続けること、と同じです。

子ども扱いするということは、「神様扱いする」ということ

先日、新潟で行われた神社保育の研修大会で、私の講演の前に、「日々の誓い」が読まれました。
それが、とっても良くて、感動しました。
そう、保育は、子育てです。そして人類は、「子育て」を中心に、日々、生きる誓いを立ててきた。

「日々の誓い」

私たちは次の三ヶ条を誓い、
日々その実践に努めます。

一、  私たちは、
授かった子どもを神さまといつくしみ、
ともに和み(なごみ)つつ
保育にいそしみます。

一、  私たちは、
鎮守の森のすばらしさにふれ、
生命(いのち)の尊さとつながりに
気づかせるようにつとめます。

一、  私たちは、
日本の歴史や伝統を大切にし、
誇りと思いやりをもって
子どもたちに接します。

(ここから私)
「授かった子どもを神さまといつくしみ、ともに和み(なごみ)つつ」、と誓っている。そうだ、保育は、神様たちと「和む」ことなんだ。
もちろん、親もそうでなくては、いけません。

新しく教わったのは、幼稚園、保育園は、「鎮守の森」だということ。人間たちの、魂を鎮め、守るところ。「生命(いのち)の尊さとつながりに、気づかせる」ところ。

そして、保育者たちが「日本の歴史や伝統を大切にする」と誓う。
これは、子ども中心に、子どもを可愛がるこの国の文化、習慣、子どもたちを優先する、利他の伝統を大切にする、ということ。保育指針にも、書いてある。

その「歴史や伝統」を政治家たちが忘れているから、母子分離策が、政府の方針として広がって、いよいよおかしなことになっている。子どもたちと「和む」伝統を、「誰でも通園制度」などと言って、無理に壊そうとする。
そこに、愛国心がない。

その晩の懇親会で、園ごとの「出し物」がありました。
保育団体の懇親会における保育者たちの出し物は、いいんです。気持ちがこもっているんです。真剣で、楽しそう。いつも、園児たちに教えているから、本気で踊ることが習慣になっている。
来賓や、他園の理事長や、神社庁の長官を「踊り」に誘い出す。それが、上手い。私も、講演で使い果たしたエネルギーを搾り出して、一つ、踊りました。
そして、気付いたのです。

人間を、子ども扱いするということは、「神様扱いする」ということらしい……。