変わらないものへの憧れ

高校生、中学生、小学生に、夏休みを利用して三日間の保育士体験をさせていた園長先生の話です。
保育園は夏休みもやっていますし、〇歳児からいるから都合がいい。変わらないものへの憧れが、風景と共に、自分の中ではっきりとしてくる。
一昔前になりますが、ふだんはコンビニの前でしゃがんでタバコを吸っている茶髪の悪そうな高校生が、園にくると園児に人気が出て、生き返るというのです。
心が園児と近いと生きにくい世の中になったのかもしれません。だからこそ一人でしゃがんでいたのかもしれません。

駆け引きをしない人に人気が出るということは、本物の人気。高校生も、本能的にそれを知っていて、自分が宇宙から認められた気分になる。それでいいんだ、と宇宙から言われ、不良高校生たちの人生が変わる。自分が自分であるだけでいい、という実感が「生きる力」になる。

それまで、信じることのできない相手からいろいろと言われてきて反発していたのに、そのままでいい、と一番信じられそうな人に言われ、命に対する見方が変わるのです。そして、自分もこうだった、ということに遺伝子のレベルで気づく。幼児を世話し、遊んでやって、遊んでもらって、弱いものを守る幸せが新鮮なことに思えるのでしょう。駆け引きのない人間関係の楽しさ、嬉しさに感動するのですね。
どんなにひねくれた高校生でも、どんなに苦しそうで危機に陥っている人でも、一歳児に微笑みかけられると嬉しくなる。微笑み返します。幼児とのやりとりは、人間に、自分は本質的に善だ、ということを憶い出させてくれる。
赤ん坊と母親が家庭科の時間に学校にきたり、中学生が保育園に出向いたり。親の1日保育者体験もそうですが、こうした幼児たちとの直接的体験の積み重ねが、いつか社会に生きてくる。

ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、保育園に来て、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意して上がらなかったズボンが、三才児が注意すると三秒で上がる。
三才児は無心に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。
高校生は、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が必要なのです。