時間どろぼうの罠

人類は、母親無しでは生きられず、その制約は数年間続く。その条件を克服することが、進化の過程で脳の発達をうながし、他の種に比べ、格段に高度な社会性を築いたのだと言う。わかる気がする。

他人には任せられない。でも、一人では育てられない。

生まれて数年、絶対に「自立」できないこと、その先も、子孫を残すためには家族だけではなく、「部族」が必要であることが、大自然の一部でありながら、超自然ともいえる「優位性」を人類に与えたのです。逆算すれば、絶対的弱者たちを「育てる」、「可愛がる」という体験をしなければ、高度に発達した社会を維持するための「人間性」が獲得できないということ。だから、国連やユネスコ、WHOも、人生最初の千日間は、できる限り「親と引き離さないように」と、それを、子どもたちの「権利」として説く。

子どもたちが、親たち(人類)を育てる「権利」と言ってもいいでしょう。:人類の存続は、子どもたちの「承認」を前提とする

欧米先進国で、「家族の形」がこれほどまでに崩れ、責任の所在が曖昧になり、実の「父母」と言う言葉が、いつの間にか避けられるようになってさえいる。「特定の人との持続的な関係」などと言い代えられたりする。これは、優位性を武器に「豊かさ」に溺れた、意図的な「退化」です。

仕組みが、人間の思考を支配し始めている。地球温暖化の原因になった「驕り」(おごり)に似ています。「個人の夢」(主体制)によって、「絆」という持続性が後回しにされ、社会全体が集団としての方向性を見失い、破壊に向かおうとしている。(アメリカは子どもの権利条約に署名していますが、批准はしていない。批准できる環境では既にない。)

先進国という言葉に騙されてはいけない。「多様性」とか「平等」いう言葉で越えてはいけない一線がある。

人間が哺乳類である限り、原点、出発点は「ママがいい!」です。

「第一義的責任」

発達心理学者の草分けエリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある、と指摘し、それは世界中どこへ行っても、ことわざや言い伝えを通して、誰でも知っていたこと。それが最近、日本でも言い難くなっている。

学問も、政治も、マスコミも「市場原理」に操られ、強者の「権利」(利権)が優先され、「子育て」が、「可愛がること」から、「戦力をつくること」にシフトして行った。「体験」であるべきものが、「手法」になろうとしている。保育とか福祉、教育という仕組みで代替できると思い始めていることに、それが現れる。

以前、幼稚園の保育園化を進める政府の「幼保一体化ワーキングチーム」の座長を務めていた発達心理学者が、『保育の友』という雑誌のインタビューに答え、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせない時に社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言ったのです。これには驚いた。一人の学者が、こういうことを言うのは仕方ない。でも、このポジションにいる学者が言うと、仕組みが動く。三歳未満児を長時間預らないと民間の保育が生き残れないように、補助事業の仕組みが巧妙に変えられていったのです。

幼保一体化は、「女性の就業率80%」という数値を目標にしています。そこに至る論理性が、これほど稚拙で、非現実的でも構わない、という政府の姿勢が驚きだったのです。

五歳までしか関われない保育士に、第一義的責任は負えない。毎年担当が変わり、一歳児は一対六、三歳児は一対二十、五歳児は一対三十という条件で、どの保育士がどの子の第一義的責任を負うというのか。

この座長は、ただの(たわいも無い)学問、思いつきで発言している。「第一義的責任」の理解が浅いばかりか、「子どもの権利条約」違反でしょう。こういう学者の軽々しい発言が、言葉から質量を奪い、報道によって、人間の会話から、深みが抜け落ちて行く。法令とか条例を作ることで、社会全体が薄っぺらいものになっていく。

この発言に誰も異を唱えなかった。

報道は、「待機児童」という言葉を使い、むしろ母子分離施策を「権利」として支持した。

一つの園、ひとクラスでも実行できるはずのない空論を「保育の友」で語った学者も、それに異論を挟まなかったマスコミも、政治家も、豊かさの中でポピュリズムと言う「市場」に反応している。親たちが何を聴きたがっているか、嗅ぎ分けている。

子どもたちだけが、正直に、「ママがいい!」と、叫び続けた。

子どもを保育所に置いて行く時に、「いってきます」も「じゃあね」、も言わない親が現れ保育士を悩ませている。荷物を置いていくように、子どもを置いていく。それを叱れない。

親身なコミュニケーションを奪われた「仕組み」の中で、保育士は「子育て」をさせられている。そして、「親身さ」を捨て始めている。

その風景が、日本の教育現場の崩壊を暗示している。

一人では生きられなかった、という「気づき」と、それでも、(母がいれば)生きられた、という「意識」の「相対性」の中に「子育て」(愛)は存在する。

 

講演に行き、幼稚園・保育園での「親の一日保育者体験」をお願いしています。

園で、幼児の集団に一人ずつ親をつけ込むと、遺伝子の動きが活発になって、「親心」が覚醒する。親たちの感想文から、それがわかるのです。希望者のみ、では駄目。実際には無理でも、「全員を目指します」とハッキリ言ってほしいのです。子育てに選択肢はない、という意思表示をしてほしい。選択肢がないから、より深く、内側に、自分自身を発見し、体験する仕掛けだった。そこに、「いい人間」はちゃんといる。宇宙は、私たち人間に、自信を持って0歳児を与えている。

しつこく、当たり前のように、淡々と、「子どもが喜びますよ~」と園長先生が言い続ければ、ほとんどの親がやりますね。特に、父親は、子どもたちに囲まれ喜ばれると人生が変わる。

(やり方は、「ママがいい!」に書きました。中学生たちの感想文と一緒に。)

 

「こども未来戦略がいう『安心感』」

配置基準を変え、待遇を良くしても、政府の意図と宣伝で、乳幼児を躊躇なく預ける親が増え続ければ意味がない。仕組みを良くする以上に、悪くする動きが「子育て支援」「安心プラン」の名の下に進められているから、学校教育への「負債の先送り」が止まらない。

異次元の少子化対策を進めている「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「どのような状況でもこどもが健やかに育つという安心感を持てる」戦略、と書いてある。

しかし、よく読むと、これは、「こどもが健やかに育つという安心感」ではなく、「いつでも誰かに子どもを預けることができる安心感」であって、母子分離が根底にある。知らない人に自分の子どもを預けることを「安心」と結びつける。こんな馬鹿げた論法が、閣議決定で、いつまで通るのか。

戦略の中に頻繁に出てくる「両立」という言葉は、子どもの側からは成り立っていないのです。そればかりか、この十年間、様々な規制緩和で、「保育の質」は著しく下がってきている。

義務教育が「義務」であることが、諸刃の剣となっていく。親の「責任感」が弱まれば、特別支援学級を増やすしかない。それによって教員不足はさらに進む。0、1歳児保育を国策で増やし、それによる保育士不足を規制緩和で誤魔化し、保育界から良心を奪っていった同じ過ちを、国は再び繰り返している。体験に基づかない「戦略」で、「こどもが健やかに育つ」環境は、さらに遠のいていく。

(これまでの経緯については、「ママがいい!」を、ぜひ、読んでみてください。心ある保育士たちは、三十年間、必死に子どもたちを守りながら、政府の母子分離策に抵抗してきた。)

 

 「子育て安心プラン」https://www.kantei.go.jp/jp/headline/taikijido/pdf/plan1.pdf(首相官邸ホームページ)に、こう書いてあります。

「『M字カーブ』を解消するため、平成30年度から平成34年度末までの5年間で、女性就業率80%に対応できる約32万人分の受け皿整備。(参考)スウェーデンの女性就業率:82.5%(2013)」

これが「子育て安心プラン」の正体。

「子育て安心」=「いつでも預けられる」。誰が、どこから、こんな論法を持って来たのか。学者や専門家のお粗末な欧米コンプレックスが原因だとしたら、あまりに情けない。しかし、この論法がいまだに政府の保育施策の中心にある。それでも〇、一、二歳児を手離そうとしない日本の六割の母親に対する苛立ちか、作り過ぎた保育施設と、増設した養成校の延命、生き残りのためか、「誰でも通園制度」(異次元の少子化対策)で、国は、預ける親を増やすことに、いまだに躍起になっている。

(『M字カーブ』解消の「参考」に国が挙げたスウェーデンでは、三十年以上前から半数以上の子どもが未婚の母から生まれている。伝統的「家庭観」が消える一方で、五年前に徴兵制を「女性も含める形で」復活させた。徴兵し、女性に銃を持たせることが本当に「平等」なのか。貨幣で計られる「平等」の行き着く先、M字カーブ解消の正体がそこに見える。

「女性らしさ」が応えようとする「子どもたちの願い」が、いつの間にか価値基準から外されているのです。

外務省、海外安全ホームページの勧告:「犯罪統計によると、スウェーデン国内では、2020年に約157万件の犯罪が報告されています。2020年の日本の犯罪件数は約92万件(犯罪白書)であり、人口規模(日本:約1億2000万人、スウェーデン:約1000万人)で比較すると、スウェーデンでは非常に多くの犯罪が発生しています」。

犯罪率が、日本の二十倍。50年前、「福祉」という概念で家庭崩壊を進めた社会の、これが「結果」です。親子の絆という「安心感」が、教育や保育、学問を過信することで失われていくと、大体こうなる。)

「母子分離との戦い」

「欲の市場原理」に基づいた母子分離を「進歩」とすることで家庭崩壊が加速し、モラルや秩序が失われていく。欧米がたどった道筋について考えると、その向こうに、家族から引き離され、読み書きや、算数や、「所有」の概念を寄宿学校で教え込まれようとしたアメリカインディアンの子どもたちが見えてくる。カナダ政府とアメリカ政府は、ネイティブアメリカンの子どもたちを家族から引き離し、人類普遍の「伝承」を「学校」という仕組みで断ち切ろうとした。(過去、現在、日本も含め、様々な権力によって繰り返された手法です。)

伝承の世界で幸せだった子どもたちに、競うこと、欲をもつことを教え、アダム・スミスが言う資本主義のエネルギー「不平や不満の概念」を植え付けようとした。しかし、親から離された多くのインディアンの子どもたちが戦力にならず、一部は虐待され、学校内で殺されていった。

(カナダでは、1881年から1996年までに15万人の先住民の子どもが政府によって親から引き離され、「同化」を目的にカトリック教会が運営する寄宿学校に送られた。:ロイター)

去年、そのことでローマ教皇がカナダまで謝りに行ったのです。

「カナダを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、かつて先住民の同化政策にカトリック教会が関与し虐待が行われた問題で、先住民らに謝罪しました。」

【ローマ教皇】カナダ先住民への虐待謝罪 「謹んで許しを請いたい」

https://news.ntv.co.jp/category/international/584e91f97f9743f6a4b6592af5597a5e#

 遺体は「1000以上」、暴行、レイプ、……先住民の子どもを大規模虐待、~カナダ寄宿学校の闇

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/109871?display=1

宗教と国策からみの母子分離と、子どもの「遺体は1000以上」という大規模虐待は、それほど昔のことではない。虐待された子どもたちは、まだ生きている。「家族と、暮らしたかった!」と叫び、踊り狂っている。

教皇は、どんな気持ちで飛行機に乗っていたのだろうか、と考えるのです。

カソリック信者にとって、教皇は特別な位置にいる。その人が謝りに行けば、もう、言い訳はできない。しかし、ネイティブアメリカンにとって、「教皇」という地位は意味を持たない。

信仰は、一人一人と神との問題であって、それだからこそ美しいし、尊ばれなければいけない。それを忘れ、宗派とか教会という仕組みの単位で考えると、心の中に領域(テリトリー)が生まれ、必ずと言っていいほど、紛争や争いごとになってしまう。

「ママがいい!」(神がいい!)という声が遠のいていく。

国家や民族という単位、国境線という縛りもまた、人類が、高度な社会性を身につける過程で作られたもの。いつか、乗り越えなければならない縛り。

「Imagine all the people, Living for today」(ジョン・レノン)

だから、と再び思う。強者たちによる「母子分離をベースにした労働力確保」、そこに「教育」が介在する手法は、現在進行形のものであり、危険だということに気づいてほしい。「ママがいい!」という叫びは、どこの国、どんな時代でも、人間が人間であるために尊重されなけばいけない。それが、「古(いにしえ)」のルールだ、ということを忘れないでほしい。

ネイティブアメリカンの子どもたちには、白人の政府が掲げた「基本的人権」は適用されなかった。そればかりか、最近になって、子どもたちの遺体が次々に発見されるまで、その事実が隠蔽されていた。理念としての「自由と平等」を「教育」で押し付けられ、子どもたちは必死に叫んだのです。「ママがいい!」と。

その主張は、大地からの警告でした。

彼らの声が、慣らし保育で日本の子どもたちが言う「ママがいい!」と重なるのです。人類を導く者たち(子どもたち)の「健気さ」、神話を形づくる響きが、その中にはある。母親が、その言葉で輝き、女性たちの「その輝き」を守るのが「社会」(部族)であるべき、その原点が思い出されないかぎり、いまの混沌は収まらない。

人間本来の、「可哀想」という感覚を、強者の自己肯定感(自己中心)で無視しようとする動きを、「異次元の少子化対策」「こども未来戦略」から感じとって欲しい。こんな「戦略」に騙されてはいけない。

この時間が、親子にとって、二度と返ってこない、選択できない「時間」であることだけは確かでしょう。政府の「戦略」で、それが大量に奪われようとしている。「伝承の時間」が盗まれていく。

1980年代に世界中で出版され、映画にもなった、ミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」を思い出します。あの物語りがあれほど支持されたのは、「幼児という存在」を見つめる意味を、誰もがすでに知っているからです。自分自身がエビデンスであることを知る道筋が遺伝子の中には既にある。

(トールキンの指輪物語が二十世紀に最も読まれた文学作品の一つ、と言われ、その遺志、内的欲求は、「トトロ」や「千と千尋」に継承され、支持されている。この巨大な共感が、エビデンスであり、真実だからです。あとは、政府の「戦略」に気づき、みんなで排除していけばいいだけ。)

「伝承」が「神話に過ぎない」と言われても、ああ、そうですか、と言えばいい。本来、神話の世界で人間はコミュニケーションをするのです。人類をその次元に導くために、0、1、2歳との会話があるのです。

親たちが、この時間を守るのです。子どもたちは、親たちを「守る人」に育てることはできますが、「私の人生」が、「私たちの人生」になる、その選択をするのは親たちです。その権利を与えられただけでも、充分に「生き甲斐」になる。

二歳児と二人で歩いていると、すべてが完璧に思える。それは錯覚だ、と誰かが言っても、その錯覚は、確かに二人だけのものだった。

政府の言う「子育て安心」が、「時間どろぼう」が仕掛けた罠だということを理解してほしい。慣らし保育で、子どもたちがそれに慣れても、原因をつくった親たちが、慣れてはいけない。社会全体がそれに慣れてはいけない。

自分が、人間性のビオトープの一員と考えられる仕組み。子どもたちを母親から引き離すのは「可哀想」という気持ちが、ふつうに言葉になり道筋を決める。そんな場所と時間を取り戻さないと、様々な仕組みが、明らかに限界に近づいているのです。

幼稚園、保育園が、幼児たちの存在意義が宣言される場所、親心を耕すビオトープになって欲しい。政府や学者が、自分たちの失敗を覆い隠すために言う「現実」とは別の現実が確かに存在すること、そこで「古」(いにしえ)のルールが働いていることを、遊んでいる幼児たちから学んでほしい。砂場の「砂」で幸せになれる者たち、頼り切って、信じ切って、幸せそうな人たちが、人生の「目的」を大人たちに教えることができる場所を増やしていってほしい。

よろしくお願い致します。

(この文章を、友人であり、笛の仲間でもある、Douglas Spotted Eagle=スポッツに捧げる。)

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」を、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。「武器や道具にされたくない」「時間を盗まれたくない」という願いが、伝わり始めているのかもしれない。

親の1日保育士体験をやっている公立園の園長先生が嬉しそうに報告してくれました。一人の女の子が、「お誕生日プレゼントいらないから、来て」と母親にお願いしたそうです。自分もお母さんを自慢したい。園長先生にとってその言葉は、自分たちが「いい保育」をしている、という証しでもありました。部族の勲章です。

国という時間どろぼうに奪われた「時間」を取り戻す方法はあります。エンデさんの書いた「モモ」を読んで、時間どろぼうたちの存在に気づき、幸せそうに生きる若者たちが増えてくれれば、と思います。みんなが、「時間」を自分のものにするために、モモは、いつも身の回りにいる。

私の家の居間には、エンデさんが座ったソファーがあります。

ちょっと自慢です。)