『生命尊重ニュース』への寄稿

「生命尊重ニュース」8月号、に原稿を依頼され書いたのですが、嬉しいメールをいただきました。ブログにも載せます。コピーペースト、拡散などしていただければ幸いです。。

松居 和先生

先生のお原稿はお蔭様にて大変好評を頂き、「『生命尊重ニュース』を10部送って下さい、保育士仲間に送ります」とか、「先生の『ママがいい!』の御著書を10冊購入して配らせて貰いました」等々、たくさんの反響を頂きました上、先生の掲載号は在庫がなくなってしまうほどでした。

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。    『生命尊重ニュース』編集長

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「生命尊重ニュース」8月号

ママがいい!

―宇宙は、なぜ0歳児を与えるのか

音楽家・作家・元埼玉県教育委員長 松居 和

 

私が30年住んだアメリカでは、3人に1人が未婚の母から生まれ、20人に1人が一生に1回刑務所に入ります。少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者と言われています。

25年前、タレント・フェアクロス法案という法案が連邦議会で審議されました。二十一歳以下の未婚の母には補助金を出さず、その予算で孤児院を作り、そこで子どもを育てようという法案でした。まだ起きていない犯罪を裁くこと。これほどの人権侵害はない、と思いました。

孤児院で育てば犯罪者になる確率、虐待される確率も少ない。否決されましたが、当時の下院議長が、「24時間の保育所と考えればいい」と言ったのを忘れません。「福祉」はそこまでいく可能性を持っている。

子育ては親が親らしく、人間が人間らしくなっていく道筋です。そのことを忘れては人間社会は成り立たない。

0歳・1歳・2歳児の存在意義

結婚しない、子どもつくらない若者が増えています。「結婚」は自ら進んで不自由になること。子どもを産むことは、それに輪をかけて不自由になること。そこに幸せがなければ人類は滅んでいる。

なぜ宇宙は我々に0歳児を与えるのか。立ち止まって、考えてほしい。「不自由になれよ」「幸せになれよ」と言って与えるのです。私たちが生きているのは、私たちの親たちが、私たちに自由を奪われることに幸せを感じたから。自由を捧げることに喜びを感じてくれたからです。

生まれて初めて赤ん坊が笑う。それを喜ぶ自分を体験し、人間は、自らの人間性を知ります。その笑顔を分かち合って、社会の土台ができるのです。

赤ん坊が泣く。私は、ある時、1分以内に泣きやむ方法があるはず、と色々試したのです。泣きやんでほしいと思うと、泣きやまない。そこで、赤ん坊を抱きながら1つの風景に集中してみました。アフリカの大草原に、マサイ族が1人立っている。この風景に私が集中すると、1分以内に泣きやむのです。

その話をしたら一人の園長先生が、そのくらいの赤ん坊は、認知症のおばあちゃんが抱くと泣き止みますよ、と教えてくれました。認知症のおばあちゃんと赤ん坊が二人ひと組になって、何かを伝えようとしている。人間のコミュニケーションの次元を深くするのは、一人では生きられない人たちとする体験なのです。

言葉を話せなくても、生きられる。ご飯を食べることができなくても、お母さんがいれば、生きられる。そこに人間としての道が現れます。社会にその風景が満ちていること、それを繰り返し目にすることの大切さを思い出してほしいのです。

 

子どもは誰が育てるのか

「待機児童」という言葉があります。が、実は待機している児童などいない。待機させられているだけ。0、1、2歳は哺乳類。お母さんといたいのです。

去年、「ママがいい!」という本を書きました。

アマゾンのジャンル別で一位になっているのですが、このタイトルを見て涙が出ました、と言う保育園の園長先生がいました。これは「慣らし保育」の時の子どもたちの叫び、ひと月も続くすすり泣きです。母親にとっては勲章なのです。それなのに、私たちを信じようとする幼児たちの願いから、みんなが目を背け、耳を塞ごうとする。保育学者が「社会で子育て」と言い、政府の母子分離策を支える。自己肯定感、自主性、などと訳のわからないことを言って、子育てをわかりにくくする。園長先生はそれに手を貸しているのが嫌になっていたのです。

慣れてはいけないことがある。

「ママがいい!」と主張することを、子どもが諦め、黙った時、私たちは大切なものを失っていく。ひとを信じる心、利他の心、助け合う絆が、営みから抜け落ちていく。少子化であるにも関わらず幼児虐待過去最多、不登校児童過去最多、という現象にそれが現れます。そして、無理難題を押し付けられた、いい保育士、いい教師たちが辞めていく。

これ以上規制緩和しても、仕組みは復活しません。子育てを親に返していくしかないのです。

幼児たちは、誰でもいい、とは言っていない。古(いにしえ)のルールを忘れてはいけない。

七年前、千葉で保育士が園児を虐待し、逮捕された。その時、園長が警察の取り調べに「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言い、新聞記事になった。保育士の資質の問題が、政府の施策の問題に変化している。園長が悪い保育士を注意できないなら、0、1、2歳を預かってはいけない。3歳以上なら「先生に殴られた」と親に言える。乳幼児は言えないから、みんなで心を一つに、大切にする。それが人間社会の出発点でしょう。

国が、11時間保育を「標準」と名付けたのは、子どもの権利条約違反。それを保育学者は指摘しない。そればかりか、「可哀想」と誰も言わない、言えない雰囲気になっている。平等とか、権利だとか、経済だとか、両立だとか、大人の都合ばかり優先され、社会全体が感性を失っていく。

スウェーデンで50%の子どもが未婚の母から生まれるのは福祉が進んでいるから、と良いことのように言った専門家がいました。福祉が進めば家庭は崩壊する。幼児虐待、女性虐待が爆発的に増える。それは欧米の数字を見れば明らかなのに。日本のマスコミや学者は未だに日本は遅れているなどと言い、厚労省がエンゼルプラン、文科省が預かり保育、もっと預かれと保育者たちに言い続けたのです。雇用労働施策で、社会のモラル・秩序が崩れていきました。

保育の無償化は“子育ての社会化”です。これだけ保育士が不足し養成校が定員割れを起こしている状況で、できるわけがない。国の制度と位置付けるには、保育士の当たり外れが酷すぎる。それを知っていて言わない学者たちは、資格ビジネスの維持に必死なのです。

全国で保育者が悲鳴を上げています。これ以上預かったら親が親でなくなる。二十年前、子育て支援は子育て「放棄」支援、と保育士たちは言っていたのです。しかし、マスコミは子どもたちの側には付かなかった。

五日間せっかくいい保育をしても、月曜日また噛みつくようになって戻ってくる。せっかくお尻がきれいになっても、月曜日真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親を作り出しているのは自分たちではないか、このジレンマの中で日本の保育士は30年やってきたのです。今、異次元の少子化対策で、国は就労規定さえ外そうとしています。もう限界です。心ある保育士たちが去っていきます。国の少子化対策(雇用労働施策)で少子化は一気に進んだことを、マスコミを含めみんな知っているのに、保育の質、子どもたちの願いは、後回しにされ、今、学校教育の崩壊という逃げられない「現実」が突きつけられている。

 

幸せのものさし

親が子どもに殺される確率はアメリカの50分の1、犯罪率は欧米の20~60分の1。

この国には、子どもを可愛がる「伝統」がある。欧米に比べ状況は奇跡的にいい。「ママがいい!」ぜひ、読んでみてください。これからどうすべきか具体的に書きました。

0歳児を預けることに躊躇しない親が増え、学級崩壊が手に負えなくなって気づき始めましたが、子育てを自分の責任、生きる動機、喜び、と感じる親が急速に減っているのです。人生の始まりに、「ママがいい!」と叫ぶのを「諦めた」子どもたちが、親になり、教師になり、保育士になっている。

子育てはイライラの原因、預かります、と選挙対策で政府が言えば、結婚しない、子どもを産まない若者は増えるのです。でも、少子化は困る、と言う。滅茶苦茶です。こども家庭庁が、「子ども真ん中」とか言って、小学生、中学生の意見を聴く、と「やったフリ」をしますが、子どもの意見を聴くなら、「ママがいい!」と泣く幼児たちの声をまず聴くべき。人間性を支えるその言葉を無視し、社会から「利他の気持ち」を根こそぎ奪う一層の母子分離を政治家たちは進めている。二人目は保育料無償にする、「子どもが輝く」と最近都知事が言いました。

私が提唱してきた幼稚園や保育園における「1日保育者体験」、一人ずつ親を園児に漬け込むことで、親たちに「感謝」の気持ちが芽生えます。県で取り組むところが四県、自治体や、園単位でも広がっています。父親たちを幼児に混ぜることで家庭内暴力が止まったりします。

アメリカで高卒の2割が読み書きができず、26%が高校を卒業しない。4割の子どもが未婚の母から生まれる。親の半数が子どもに無関心という現実がすでに可能性としてあるのです。子どもたちが「親を育てる」という役割を果たせない。

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と言われた。内村鑑三は、教育で専門家は育つが、人は育たない、と言い、アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識だ、と言いました。

 

父親をウサギにする権利

日本は、“祈ること”を背景にした非論理的な国。『男はつらいよ』という映画は、欲を捨てた時に幸せになれるという仏教の教えが土壌にある。キリスト教も「貧しき者は幸いなり」と言います。親になる事は、損得勘定を捨てること。その利他の道筋が意図的に市場原理によって壊されようとしている。

11時間保育を国が「標準」と名付け8時間勤務の保育士に押し付けた時、朝、預ける保育士と帰りに返して貰う保育士が別人になりました。親身になるな、と言われたようなもの。親たちも、この人に預ける、から、この場所に預ける、という感覚になった。育てる側の心が一つにならない人類未体験の状況が、この時始まったのです。

0歳から園に来ると、保育士は、子どもが初めて歩けるようになる瞬間に出会うのです。そんな時、園長は「親に言っちゃいけないよ。『もうすぐ歩けますね』と言うんだよ」と教えた。「親が見ていないことを許したら、私たちの仕事が親子の不幸に手を貸すことになるんだからね」。これが本当の保育士心。そうやって親たちを導いてきた園長たちが、「保育は成長産業」とした閣議決定でサービス産業化させられ、消えていった。

ある時、保育園で父母に講演したあと、「はい、お父さんたち、ウサギになってくださーい」と、園長先生がウサギのかぶり物を渡しました。1人も断れないのです。驚きでした。園長は、父親をウサギにする権利を持っている。幼児という神様・仏様、精霊の前では、人間は正しい方向に進むしかない。強張っていた父親もかぶって3分もしたらウサギです。父親も、実はウサギになりたかった。(「逝きし世の面影」(渡辺京二著)という本を読むと、150年前、日本の父親たちがいかに幼児と一心同体だったか、欧米人が驚きを持って書き残しています。)

昔、男たちは年に2、3回、祭りの場でウサギに還っていた。自分の中に四歳だった頃の、砂場の砂で幸せになれた自分はいる。それに気づけば、「自分次第なのだ」と確認できる。父親をウサギにして一番喜んでいたのが母親たち。日本の、全ての幼稚園・保育園で、月に1回父親をウサギにすれば、世界平和もあるのではないか、とふと思いました。予算はほとんどいらない。

 

お母さん、どこ

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」/「ここにいるじゃない」/「それはコウちゃんのお母さんでしょ」。弟を抱いた私に、娘は言った。長いまつげの小さな目は、悲しげにも見えたし、何かをためしているようにも見えた。

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」/「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」。娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ。

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」玄関でくつをはこうとする娘の小さな背中を見ていたら、私は夕闇の中で、大切な人に置き去りにされたように、心細くてたまらなくなった。同時になぜか、動揺している自分がくやしくもあるのだった。

娘はふり返って、私が泣いているのを見て、

「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、やっぱりここにいた」と、無邪気な風に言うのだった

 

私の講演を聞いた母親が送ってくれた「詩」です。

三歳の娘に「お母さん、どこ」と聞かれたら答えようがない。でも、このお母さんは、泣く、という、魂に寄り添うやり方を知っていた。教えたのはヒカリちゃんです。

生きる力は、信頼の連鎖に身を置くこと。それを幼児が体現している。

人間は、自分を「いい人間」にしてくれる者たちを自ら産み出すのです。頼り切り、信じ切って、幸せそうにしているその人たちがいれば、私たちは大丈夫なのです。

保育は、他人の子どもを複数、油断なく、心を込めて可愛がること。遠くを見ながら、幸せを願うこと……。生きる動機、天性の資質が問われる役割です。そういう人は、自然界における「伝承」であり「現象」。社会全体に、子どもを可愛がる雰囲気が満ちていないと成立しない。

先進国の中で奇跡的に家庭崩壊が進んでいない日本なら、間に合うかもしれない。

幼稚園や保育園、自主的な集まりでもいい、幼児を使って「親心のビオトープ」を増やして行くのです。親や生徒たちを園児に浸す、家庭での読み聞かせを習慣として広め、耕す。同窓会を繰り返して、みんなで祝えば、園が心の故郷となる。

お互いの子どもの小さい頃を知っている人たちに囲まれ、子どもは育っていくのです。いくつか行事を組み合わせれば、学校が成り立つ絆を復活させることは可能です。

社会を鎮めるために、幼児と過ごす時間を増やすのです。

宇宙は、我々を信じて、0歳児を与えている。伝令役たちを大切に守らなければいけません。

 

PROFILE

まつい・かず

1954年東京生まれ。慶應義塾大学哲学科からカリフォルニア大学民族芸術科に編入、卒業。尺八奏者としてジョージ・ルーカスやスピルバーグ監督などの多数のアメリカ映画に参加。1988年アメリカにおける学校崩壊、家庭崩壊の現状を報告したビデオ 「今、アメリカで」を制作。1990~98年東洋英和女学院短大保育科講師。家庭崩壊や幼児教育のあり方に関する講演を行い、欧米の後を追う日本の状況に警鐘を鳴らしている。2006年より埼玉県教育委員、2009~2010年同委員長。著書に『なぜ、わたしたちは0歳児を授かるのか』(国書刊行会)『ママがいい!』(グッドブックス)他がある。ブログ「シャクティ日記」に連載執筆中。