ひたちなか市、宇都宮、茅野市

 日曜日、茨城のひたちなか市で梶山ひろし代議士主催の講演会で、600人の主に年配の女性の方たちに話しました。子どもをもっと眺めよう大切にしよう、と熱い思いで会場全体が一体になり、ずっと日本を守ってきたひとたちの前に立っているような気がしました。人間は自分のためにこんな風に一体になれません。子どもたちのため、孫たちのため、他の人の子どもであっても、幼い命のためだから心を一つにできるのです。言葉の話せない0歳児のために、想像力を働かせ、みんなが共感しなければなりません。

 エンゼルプランなど、結構、過去の自民党の施策の批判もしたのですけれど、日本の利他の幸福論は、子育てをしてきた女性の中にちゃんと生きている、通じる。この女性たちの世代で親心・祖父母心が途切れてしまったら取り返しがつかないことになる、と思いました。たくさんの笑顔とエネルギーをいただきました。梶山先生も最前列で聞いてくれ、2時間の陳情のつもりで話しました。具体的な方法として、一日保育士体験が常識になりさえすれば、いいのです、とお願いしました。
 参加してくれる予定だった熊本の金子代議士は台風で飛行機が飛ばず、残念ながら来れませんでしたが、国会でほんの少しでも理解者がつながっていると知るのは心強いことです。民主党では、私の説明を聴いて「これは国家戦略の問題だね」と言ってくれた長島昭久議員が梶山さんの友人だそうです。それを知ったのもこの日の収穫でした。
 帰りに強い風の中、ひたちなかの港を見ました。

 月曜日、宇都宮で栃木の保育士たちに話しました。二度目三度目の保育士たちも居ます。民主党の子ども・子育て新システムにはみなが反対しています。そこを聴きたい、詳しく説明して下さい、と言われます。まず基本にあるのは、五年以内にあと25万人三歳未満児をあずかれ、という雇用・労働施策です。これをやるには保育士がいません。資格を持っていて働いていない保育士が90万人居る、と厚労省は言うのですが、その人たちのほとんどが未経験のペーパードライバー。現実は、いまのままでも、公立私立を問わず保育園で保育士の欠員ができると埋めるのが大変なのです。資格を持っていないパートの保育士でさえです。それを、保育の国基準を緩和して無理に進めようとしている。現場は、もうこれ以上水増し保育は許さない、子どもたちの毎日の生活を犠牲にしないでほしい、という気持ちでまとまってきています。雇用・労働施策で子育てを考えるのはもうやめにしないと、この国から人間性が失われていきます。
 大学や専門学校の保育科があちこちで定員割れを起こしている状況で、保育士の青田買いが進みます。学校丸ごと買い占め、なんていう話もを耳にします。企業保育や派遣会社が保育界に市場原理を持ち込んでいる。母親の近くに子どもたちが居る、という視点で、企業保育自体はけっして悪くない。しかし、日本の保育はただの託児ではありません。保育士たちが長年にわたって勉強し、検討し話し合いを繰り返し、学校教育の準備を担うところまですでに進化しています。確かなリーダーや経験者なしにすぐに進められるような簡単な仕組みではありません。もし、保育界が「ただの託児でいいんだね」ということになって匙を投げたら、すでに危ない所にきている学校教育が急速に疲弊していくでしょう。日本のモラル?秩序を支えていた次世代育成能力が根本から崩れて行きます。
 小泉・竹中路線が押し進めた市場原理・競争原理の裏にあるのは、サービス産業の論理です。保育にこれを当てはめようとすると、必ず「親へのサービス」になっていってしまう。しかし、保育は「子どもたちのために」まず存在しなければならない。10年前に私立保育園の定款に「サービス」という言葉が入れられた時に、園長先生たちがどれほど違和感を感じ傷ついたか、行政も政治家も学者もわかっていない。この違和感は、親心の崩壊の流れに気づいている園長たちの、それはもう直感的なものでした。
 国基準を規制緩和することで、予算を増やさずに待機児童をなくそうとしている。しかし、保育界の市場原理はかならず行き詰まる。なぜなら保育は常に幼児たちの目にさらされているからです。現場で良心を捨てなければ、この大人優先の市場原理は成り立たない。
 待機児童はなくそうとすればするほど増える。政府はそれを目指しているのですからその通りになりつつあるということなのですが、一連の現場を知らない施策の弊害が保育界を蝕んでいます。
 保育士の補充がこれほど困難になっているということは、明らかに保育の現場に居てはいけない保育士を園長が排除出来なくなってくるということなのです。一度、園長や主任が、保育の現場であってはならない光景を故意に見過ごすと、保育界から良心が欠け落ちてゆく。保育の現場は、言葉のしゃべれない子どもを相手にする、本質がイマジネーションの次元にある育ちあいの現場なのです。人間たちの意識が問われるフィールドです。心ある保育士があってはならない光景に耐えられずに辞めていく。そんな風景が日本全国で頻繁に起こっている。そして、犠牲になっているのは子どもたち。この現状を、なんとか予算をかけずに食い止めるには「一日保育士体験」しかないのかもしれない。「育てる側が心を一つにしようとする」ことを子どもたちは望んで産まれてきたのです。茅野市の保育士たちが「一日保育士体験」にすぐに賛同してくれたのは、いつでも親に見せられる保育をしている、という自信があるから。そのことだけでも茅野の親たちは恵まれている。茅野の保育士たちが作って来た伝統に感謝してもいい。感謝が、育てる者たちの心を一つにします。
 認可保育所を増やさずに待機児童をなくそうとするため、都市周辺では認可外保育所がどんどん増えています。家庭保育室という名で、60人規模の保育所がゆるい規制のもと参入している市もあります。『「おおむね」とか「のぞましい」という言葉で子どもを守れるわけがありません』と、規則を守らせる立場の市職員が嘆いています。
 火曜日、台風一過、きれいに空気が澄み山の緑の濃淡が美しい中央道を運転し、茅野市で最後の2園で話しました。市長、教育長、教育委員、市議、も一緒に聴いてくれました。これで、17園すべてで話し終わりました。役場の担当の方たちは17回聴いて、まだ聴きたい、と言ってくれました。一回一回違う母親たちとの一体感が気持ちいい。出会いを感じるのです。子育ては人間たちが出会うために
ある。もう、同士といってもいい仲になりました。寂しいですね、また来ます。お土産をたくさんいただきました。これから企業に、親たちの一日保育士体験への協力を呼びかける手紙も、出来上がっているのを見せてもらいました。
 隣町から園長先生が一人聴きにきてくれました。町長が良い事をしているつもりで福祉を進め、三人目の子どもは保育料を無料にしたので、0歳児が急に増えてきたそうです。保育が利権になり始めている。
 なぜ、町長は園長の話に真剣に耳を傾けないのでしょうか、なぜ政治家は現場の声に耳を傾けないのでしょうか。本当に子どもたちのことを考えているのは誰なのか。真実を語っているのは誰なのか。人間が安心して本音で話し合うことができるだけで、方向性は必ず見えてくるはずなのです。優先順位が見えてくるはずです。
 市長に、育休に入っている学校の先生が、赤ちゃんを生徒に毎月見せに来るのもいいですよ、という話をしました。小学生、中学生の保育士体験はやはり三日がいいです。寂しさや、別れる悲しみが生まれます。それが感性を育てる。高校生の保育士体験は、少人数で男女の生徒が混ざって、幼児の前にいるお互いを盗み見るのがいいのです。男女がいい人間だと確認しあうために幼児がいるのです。そうすればきっと少子化対策にもなります、と伝えました。
 みんなで幼児を眺める、その目線が人間社会の基本にあれば、大丈夫です。そんなに難しいことではないのです。
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 シスターとシャクティの踊り手たち、今月末アメリカへ行きます。アメリカの独立記念日に踊ります。私も演奏して下さいと招待する団体から誘われたのですが、山口で保育士たちの大きな大会が入っていて帰国が間に合わず残念ながら参加出来ません。でも、踊り手たちがアメリカで踊っている姿をイメージするだけでワクワクします。別の道を行きながら、意識の世界で一緒に旅をしている、そんな感じがいいのでしょう。
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 日本のために祈りを捧げてくれているひとたちがいます。毎日日課のように、祈ってくれている踊り手たち。

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