遠藤豊先生のこと

2011年5月

今週,埼玉で学校の先生たちに二度講演しました。

保育という仕組みの問題点は、幼児という特殊な人間の存在意義を確認するという原始的な人間の遺伝子に関わってくる根源的な問題なので説明しやすいのですが、学校教育はそれとは違った側面を持っていて、それはたぶん、ほとんどの人間の人生にとって役に立たないことを子どもたちに大量に教えることが人類全体の可能性をのばしてゆく、というかなりしっかりとした絆意識がないと持続出来ない目的が、学校教育の普及とともに進む家庭崩壊によって見えにくくなってくる、という面倒な説明をしなければならない点にあり、そこで私も苦労しているのです。

それを一時間半でうまく現場の先生たちに説明出来るほどに私がまとめきれていないのだと思います。授業とは何か、役に立たない事を子どもに教える過程で何が大切なのか、を考えていたのがきっかけで、遠藤先生のことを懐かしく思い出し、考えました。

 

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 遠藤豊先生は私の小学校5、6年生の時の担任で、のちのち自由の森学園というかなり斬新な学校を創った人です。

 

とにかく素晴らしい授業でした。授業というものにあれほどの充実感を感じたことはそれ以後一度もなかったような気がします。いまの私の考え方は、自分で考えよ、基本的な情報以外の情報には惑わされるな、自身の体験を考える柱に必ず置く、というあたりが特徴なのですが、明らかに遠藤先生の理科と数学の授業が影響していると思います。

五年生の時、電気について一学期かけて考えたことがありました。電気は明るい、熱い、から始まり、「明るい」とは何か、熱いのはなぜか、と進み、電気が流れるとはどういうことか、まで続いていくのです。数学でいくつかの定理を学んだ時、先生は、その定理を発見した人の苦しみと楽しみと驚きを100分の1でも小学生に感じさせようとしていた。その定理を覚えることより、その定理が生まれた時の感動や苦悩を知ることの方がはるかに重要だと考えていたのです。

 兄の担任が無着成恭先生で妹の担任が寒川道夫先生でしたから、当時の教育界ではかなりのメンバーです。私は、その当時の自由教育を、受ける側で体験した人間として、今話している講演でも、「自由」という言葉に捕われることの危険性を常に言います。実は「自由」という言葉が「不自由」を創造する言葉であることについて話します。
 人間は自由にはなれないし、古代ギリシャの「自由人」は20人の奴隷を持って労働から解放された人のことを言った、多くの場合「自由」という言葉を使う争いは、階級闘争の中の利権争いに過ぎない、というようなことも言います。
 遠藤先生が自由の森学園を創設した時に、すでにそのようなことを私は講演し、本に書いていました。親が乳幼児に自由を奪われることに幸福感がなければ人類は滅んでいるはず、不自由になること絆をつくることに人間の幸福の原点があって、それを義務教育の普及が人間に忘れさせる、夢は多くの場合「欲」に過ぎない、というような論旨でアメリカの家庭崩壊と義務教育の崩壊の関連を実例に挙げ話していたのです。にもかかわらず、先生は学園創設前の先生たちの勉強会で私に講演をさせました。自由の森学園の創設に集まって来た教師たちに向かって、私は、「これは学園ではなくて楽園を目指しているのではないか。それでは子どもが将来苦労する」「子どもたちを使って、教師がこういう実験をしてはいけないのではないか」「こういう所に子どもを入学させることを『子育て』と勘違いする親がでるのではないか」などずいぶん強烈な論陣を張ったように思います。
 私の本を既に読んでいて、そういうことを言うだろうとわかっていて、あえて私に講演を依頼した遠藤先生は、私という生徒が自分の教え子の代表選手と思っていたふしがあるのです。これは嬉しかった。小学校の担任の前で、私はのびのびと論陣を張ったのです。5、6年生の時の授業のように。そして、第一回の入学式で尺八の演奏をしました。
 「鶴の巣ごもり」という禅宗の曲でした。親子の愛を表現した珍しい古典本曲を吹きました。その後、自由の森学園の生徒たちにも講演させてくれました。
 先生は、教育の現場で「自由」という言葉と心中したような気がします。
 私は先生に小学生の時に、二度ほどげんこつでガツンとやられました。今でもよく覚えています。理由も覚えています。しかし、自由の森を創った頃には、先生はもうすでに自分で手足を縛ってしまっていた。
 そんなことを長野に車で往復しながら考えました。そして、私の恩師の行った道を、自分がちゃんと受け継いでいることに気づいて、ちょっと笑ってしまいました。緑の山々の中に、あの懐かしい遠藤豊先生の顔が見えました。

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