「ちくちくことば」#1

  正月に、「ママがいい!」が、Amazonのジャンル別「人気ギフトランキング第1位」になりました。追い風だ。ありがたい。もうここまで来たら、言うべきことは、どんどん言うぞ。松居和チャンネルを始めたこともあって、決意を新たに頑張ります。よろしくお願い致します。

友だちや兄弟姉妹へ、園長先生から保育者へ、学校の先生や校長へ、議員や市長へ、もあるかもしれない。時々、まとまった注文もあるそうです。

「贈る」場面を想像すると、身の引き締まる思いです。

本の内容は、場合によって厳しい言葉になる、不安も、異論もあるでしょう。でも、「社会」を形作っていく過程で、子どもたちの存在意義が中心になってくれればいい。

(夜、保護者に講演、翌日の朝、中学生に話す、というスケジュールも入ってきました。中学生は、緊張します。しっかり伝えなければ。)

X(旧ツイッター)に、メッセージが来ました。

「松居和さんの『ママがいい!』を読んで涙が出そうになりました。ありのままの自分、お母さんがいい!って言われる私を体験すること。それが子育てなんて、誰からも聴いたことのないフレーズだった。」

40年近く講演をし、祖母のような園長たちに、「保育」は祈りですと仕込まれました。「専門性」より、「人間性」、そう教わりました。

いいことをしよう、と一生懸命やってきた保育者たちに、「0、1、2歳はなるべく家族の手で」、政府の施策は雇用労働施策です。子どもたちの願いを無視しています、と言うのは少し辛い。しかし、そうせざるを得ないのは、政府の決めた「保育の存在意義」が、「子どもたちの存在意義」とあまりにも、かけ離れているからです。

この本は、「子どもが可愛い」と思う保育士たち、「長時間保育は可哀想」と言い続けてきた園長たちの心とはぶつかっていない。

「保育士の専門性」を認識すべき、などと学者が言っても、発言は、仕組み上すでに成り立っていない。定員割れしている「資格ビジネス」が自転車操業になり、いま、ギリギリ問われているのは「専門性」ではなく、「人間性」なのです。

「祖母の心」を私に伝えた園長たちが、「言ってください、このままでは、保育界が心を失う」と背中を押す。

 

もうすぐ講演する助産師さんたちの会の方から、こんなメッセージが届きました。

「追伸:松居和チャンネル、拝見しました。

もう面白くて、面白くて!

研修会で多くの助産師に先生の話を直に聞いてもらいたいですし、こども家庭庁の話と松居先生の話を聞き比べ、子育ての根幹の話はどこにあるのか、をそれぞれが深く考える機会にしたいと願っております。」

政府は、「日本再興戦略」(平成二十五年六月十四日閣議決定)で、保育分野は、「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」、「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」と定義した。

母親を「戦力」にしようとする「戦略」が、保育(子育て)をサービス産業化し、親たちの意識を変え、その流れが、義務教育を破綻させる。いよいよ、日本を再興できなくしている。

起業家や学者は、この「残された分野」に足を踏み込むな、と言いたい。彼らの考える「制度設計」は、「子どもたちの成長の原動力」にはならない。

保育のサービス産業化は、保育士に対する裏切り。

政府が、十一時間保育を「標準」と名付けたのは、0、1、2歳児に対する裏切り。

 

人間が損得勘定から離れるために「子育て」はあるのです。子どもたちが、社会の「人間性」を育ててきたのです。

(「男女平等」を標榜し、四割の子どもが未婚の母から生まれ、父親像を求める迷走が、社会の分断を急速に進めているアメリカで、銃の乱射事件が、毎日二件起きている。)

こども家庭庁は、「子ども未来戦略」に、子育てをしていると「人生の幅が狭くなる」と余計なことを書く。そう感じるのは、彼らの「幸せの物差し」の「幅」が狭いから。

0、1、2歳の不思議さは、育てる人間の感性や、幸せの物差しの幅を広くすること。慈悲の心を耕し、絆の大切さを教えること。赤ん坊の、初めての笑顔に夫婦が幸せを感じ、それを守ることに生き甲斐を感じる。ほとんどの親がそうだったから、それが本能だったから、人類は、ここまで進化してきた。数年間、言葉の通じない人たちを育て、心を通わし、女らしさ、男らしさ、が、「親らしさ」に移行していく。

性的役割分担が「利他の心」を得て、昇華していく。

誰に責任があるか、ではなく、誰が責任を感じるか、が「社会」を形づくってきたのです。

(昇華:情念が、より純粋な、一段上の状態に高められること。)

去年、小池都知事が会見で、第二子の保育料を無料にすれば、「子どもが輝く」「チルドレンファースト」とまで言った。まさに意味不明。「女性が輝く」まではまだしも、乳幼児を母親から引き離して「輝く」わけがない。支離滅裂。こんな発言を、黙って報道するマスコミは政治家以上に責任がある。何かが麻痺している。慣れてはいけない「情報」が日常をつくり、乳幼児を眺めない日々が、人類から「感性」を奪っていく。

でも、マスコミや報道が全く触れない本、「ママがいい!」が発売後二年経って、いまだに一位になる。インターネットという新たなコミュニケーションツールが生まれ、人々が、別のチャンネルで生きる動機を探している。この国には、子ども主体に考えようという習慣が、まだ残っている。

最前線で闘っている人から、メールが届きました。

自ら主張できない一歳児たちが、縮こまって、怯え、泣き続けている。

(保育士の告発)

年度途中より保育士として勤務している園のことです。《1歳児クラスでのことです》

 

●お昼前に。友達とトラブったAちゃん。とはいっても、一歳児の成長なりのトラブル。

Aちゃんがいけない。と、ろくに対応することもなく、脇をもって自分の腰の位置くらいまで持ち上げると、そのままに部屋の端に連れていきおろす。

友達の近くに行くと手を出すからここにいなさい。と言うことらしい。

その担任は、その子の横に座ってその子の方は向かない。

怖くて泣き続ける女児に「うるさい!」という。

Aちゃんを散々泣かせて、お昼も食べはじめられないくらい泣いていて、「もう!食べないなら寝な!」って。

それを聞いたパートが同調。更にそこにいた代替えも「えっ!ママがいいの?!食べるの?!どっち!?」と聞く。

こどもは、もう訳がわからないんだと思う。「ママ〰️ママ〰️」と泣く。

「ご飯じゃなくて、ママがいいの!?じゃあ寝なさい」って、担任に布団に入れられた。

担任が部屋から出た隙に、その子をお昼に誘った。

背中を擦って、汁物くらいすすれるかなと、口にそっと当てた。

わずかに口にしたようにみえたが、しゃくりあげてしまって、呼吸が落ち着かず、もう少し時間がかかる。担任にこんな状況を見られたら、この子までまた。怒りを買ってしまう。

するとそこにいた代替えが、

「自分のやり方と違っても、担任の言う通りにするもんだよ」と言い、女児を布団につれて行き横にさせた。

泣きつかれて寝てしまった。

担任が戻ると「食欲ありませんでしたって、お母さんにつたえるから」って。

「こんなに不安定なのは、お母さんが最近よく病院に行っているからだ」と、お昼をあげなかった。

代替え、パート、それぞれ右に習えで同調して、担任の言うことに従うのが一番だと話す。

クラス担任は発達障がいだと思ってる子が、私のところに来たら関わらず、担任に任せること。(私以外の代替えパート、他クラスの保育士は、抱っこおんぶしていても、何も言われない。)

この子に関わらず、抱っこすると皆抱っこしなくてはいけなくなるから、抱っこしないでください。

担任は一年間積み上げたものがあるから、後1ヶ月は、波風立てたくない。その意思を組んでほしい。と。

口いっぱいにつめ込んだものを出してあげる保育観もあるが、全部キレイに食べきってほしいと言うのもその人の保育観。だと。

不適切保育も保育観。当たり前の、人としての関わりも保育観。と言う言葉を使われている。

 

(ここから私です。)

「保育観」、恐ろしい言葉です。

子どもたちを注意深く見ている保育士には、その恐ろしさがわかる。

専門性、という言葉もそうですが、この国の「美しさ」を根こそぎ持って行く、「新しい」種類の言葉。

「こういう意地悪な言葉、『ちくちくことば』(絵本、ふわふわとちくちく、参照)に刺され続けた子どもたちは、いつか犯罪者になるよ」と憤る元園長先生と、最近、少し長く、話しました。社会福祉法人から、いくつかの園の見回りを頼まれている元園長の声が震えます。

「その場所に、母親に連れて行かれるんですよ……。毎日」。

発言が、いきなり核心に迫ります。

そこでは、「ママがいい!」と叫んでも誰も聴いてくれない。

公立の保育園で三十年保育をし、退任後、短大でしばらく教えていたその人は、園長に成り立ての頃、気持ちのこもらない画一的な「保育観」と闘った人。一時、心を病んで、私が慌てて駆けつけ、喫茶店で六時間、話し相手をした人でした。

「ちくちくことば」を、実習に行った先の園で身につけてくる学生たちがいる、と嘆くのです。

「子どもたちを仕切ることが保育だ、と勘違いしているんです。養成校で、そう教えられている」。

そして、「現場における不適切保育のことは教授たちはみんな知っています。実習生に聞きますから。しかも、専門性で子どもを仕切れる、と本気で言うなら、資格を与えてはいけない学生たちに資格を与えているのは犯罪でしょう。本人がすでに愛着障害で、人間性に欠けるような学生たちが、良くない実習園に当たったら、もう最悪です」

「人間としての心得」が、「保育観」という言葉で誤魔化され、政府の「誤魔化しの子育て」が現場で伝承されていく。根底に、都知事の(偽)「チルドレンファースト」、政府の「子どもの未来戦略」がある。ずっと以前、厚労大臣が言った、「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」という、とんでもない発言が、まだ生きている。

「教育で専門家は育つが、人は育たない」と内村鑑三は言い、アインシュタインは、「情報が知識なのではない、体験が知識なのだ」と言った。体験に基づかない学問が、「高度な専門性」などと言っているうちに、保育の質はどんどん落ちて、ただの「経済対策を支える手段」にされていった。

専門性を身につければ、一対二十で「子育て」ができるという「弁明」を繰り返しているうちに、学者たちの感覚が麻痺していったのです。

この時期、子どもの視線は「一対一」の積み重ねで、自分にだけに目を向けてくれる人を探している。「だから親の代わりはできないし、しようとしてもいけない」と私の師たちは、三十年前に教えてくれました。

その保育魂が労働施策と資格ビジネスによって否定され、「皆抱っこしなくてはいけなくなるから、抱っこしないでください」という発言が、「保育観」という言葉で肯定されてしまう。

「ママがいい!」と子どもが叫んだ時、その向こうには、たった一人の「ママ」がいるという「感覚」が、学者や政治家の意識から抜け落ちているのです。

母性から生まれた「保育観」ならいい。現場で、祖父母心(こころ)によって育まれ、保育士たちが、ここなら安心して生きていける、そんな気持ちになれる「保育観」ならいい。しかし、「手法」や「都合」によって、人間性が置き去りにされた「保育観」が現場に持ち込まれると、その「一律さ」が、子どもたちの心に刻印となって刻まれていく。

冒頭の告発者は、自らの人間性で、そこまで見抜いているからその風景が許せないのです。子どもたちの心が、手法の欺瞞を照らしだすから、耐えられなくなる。

「福祉」は、「いい人間性」の代行をするもの。それが欠けることによって、決定的に崩壊してゆく。

自主性、自己肯定感、非認知能力といった親にとってはほとんど意味不明の言葉を、学問が「保育観」に重ねているうちに、十一時間保育が「標準」と名付けられ、無資格者やパートでつないでも構わないという規制緩和がされていった。それが、現実であり、事実です。都合で繋いでいく、雑多な「保育観」が現場を支配するようになっていった。

以前、「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいたのです。愚かな学者は、神社の前に立って、「これは神社に過ぎない」と言っていればいい。しかし、マスコミを使って、現場が受けきれない母子分離を「専門家」のフリをして、時に「平等」などという言葉を使って、正当化するのは許せない。それを許せば、学問自体が、神の意志(幼児の意図)から遠退き、市場原理に組み込まれる。いや、もう組み込まれている。

「平等」に子育てを回避しよう、という流れになっているのです。その道筋が限界を超えている。一体、誰が、どう責任をとるのだろう。国も、親も、子どもも、義務教育からは逃れられないのです。

以前にも、保育科の学生が試験の答案に、「子どもはなるべく親が育てた方がいい」と書いたのを不合格にした有名大学の教授がいた話を書きました。「もっと勉強しなさい」と言ったそうです。こういう授業が、保育界の意識を混乱させ、誰のための保育か、わからなくしていった。親たちの責任意識を薄れさせると同時に、保育士心の質を下げていった。不登校やいじめ、引きこもりの増加、児童虐待過去最多、という数字にそれが、はっきりと現れる。

恣意的に、意図が歪められた「学問」で、学生が感じた「長時間親と引き離しては、子どもが可哀想」という「人間性」が否定される。保育所保育指針と、「子どもの権利条約」が無視される。

子育て(保育)は、子どもを指導することではない。

可愛がること。

現場を体験していない者たち、子どもたちの願いに耳を傾けない人たちが、保育科の「教授」になっていること自体がおかしいのです。他の学科で、自分の主張を教えるのは一向に構わない。しかし、子どもを犠牲に、親たちと保育士たちの対立を招くようなことを「保育科の」学生に教えるのはやめてほしい。現場の疲弊と、より一層の少子化を招くだけ。

「勉強」で得た「専門性」で、幼児たちの目を誤魔化すことはできないのです。

「ママがいい!」と叫ぶ神(たましい)を、仕組みで抑えることはできない。その矛盾が、「ちくちくことば」を生んでいます。

もちろん、保育士による「ちくちくことば」が、まったく聴かれない保育施設もたくさんあります。その風景を許さないことが、保育士の「幸せ」と重なるから、保育士一人ひとりが、自分の幸せを追求すれば、自然に道筋はつくのです。人間の遺伝子が、そうできていますから、そんなに難しいことではない。

「子どもの最善の利益を優先する」という、保育指針の柱(人間性の根幹)さえ守られれば、本来起きないこと。政府の政策に、その柱が欠けているから、保育現場における「分断」「質の差」が一層激しくなっている。補助事業であること、保育士不足が死活問題になっていること、園長が、不適切保育を注意できないことが、二極化に拍車をかけている。

一日保育士体験を取り入れている園、親が参加できる行事が毎週のように用意されている園。親を叱れる関係が成立している園は、大丈夫。いつでも親に見せられる保育をやっている自信と、「可愛がり、寄り添う」姿勢が、家庭と園との信頼関係を育てていく。

成人式に、卒園児たちが晴れ着姿で、親と一緒に集まってくる園に当たれば、一家の人生は確かなものになる。

(「ちくちくことば」#2に続く)

YouTube:松居和チャンネル、第8回をアップしました。(毎週火曜日に新たな一本を加えています。チャンネル登録、ぜひ、お願いします。)

今回のテーマは、

子育ての社会化により、男女(夫婦間)の対立が始まり、分断が進む。「日本は違う道を!」、です。

https://youtu.be/u5J9CNr4eq0