赤ん坊が泣く意味と「国際会議」

赤ん坊は、泣いたら抱きしめられて、安心し、泣きやむ。

それでも泣き止まない時は、5分、10分抱っこして歩き回るといい。自分の気持ちを落ち着けて、鎮まるように先導する。それでも泣き止まなければ、親はオロオロ考える。誰かに相談する。この繰り返しの中で「絆」という環境を察知し、人類(赤ん坊)はニューロンネットワーク、「思考のあり方」の取捨選択をしてゆく。

オオカミに育てられた子や、アメリカで地下に閉じ込められ幼児期にほとんど人間と接触を持たなかった子どもに、いくらその後に人間らしさを教えようとしてもできなかった、という記事を読んだことがあります。

そのことを考えると、アメリカで以前発表された、赤ん坊が夜泣きをしても親が自分の感情を抑え、我慢し、抱きにいかなければ、赤ん坊は学習して泣かなくなる、という研究が恐ろしく思えてきます。こうした一部の学者の仮説がマスコミによって流布され、「教育」と「子育て」の混同と勘違いが進んでいった。結果や成果で測ることで生まれた「両立」という言葉が、愛着関係の希薄化に繋がり、犯罪社会となって具体化する。

このレベルの脳の発達は、この時期に限定されていて、やり直しが効かない。「ママがいい!」と子どもたちが言ったら、それは、古(いにしえ)のルールが働いている、ということ。泣きやんでほしいと思う心は、宇宙が私たちに与えた進化するための心。そして赤ん坊が泣きやむこと、これが人間関係を調和へ導く原体験なのです。

 

以前、神戸国際会議場で、第四九回小児保健医学会で基調講演をしたときのこと。https://www.jschild.or.jp/academic/343/

私の講演のあと、海外の学者を招いてパネルディスカッションがあったのです。学者やお医者さんに混じって、音楽家は私だけでした。

パネルディスカッションで司会をした東京女子医大の仁志田先生とは長いおつきあいでしたし、小児科医学会会長の前川先生は私の本を読んで、東京フォーラムで行われた第一〇〇回記念大会で基調講演を依頼した方。ステージで私を紹介してくださった中村先生は「母乳の会」の会長さん。学問ではなく、人間を見つめてきた人たちです。

困ったのは、パネルディスカッションのもう一人の司会者、アメリカのサラ・フリードマン博士が、二カ月も前から電子メールで何回か私の履歴書を送るように求めてきたこと。

ほかのパネリスト(イスラエル、イギリス、インドネシア、中国、ネパールの学者)は早々にそれぞれの履歴書を送っていて、私のところへも転送されてきます。どこの大学で学士、修士、博士号をとり、学会誌にコレコレの論文を発表し、大学で教えていて、行政とはこういう仕事をしている、著書はコレコレ、と細かく書いてある。英語で。

私も当時、アメリカのレコード会社が作った英語の履歴書があったのですが、スピルバーグの映画やジョニ・ミッチェルのアルバムで尺八を吹き、CDを十四枚出し、プロデューサーとしての作品は100枚を越え……、など、小児保健学会ではまるで意味がない。よっぽど、「音楽家」とだけ書いて送ろうかとも思ったのですが、それも失礼な感じです。フリードマン博士はアメリカ人の女性で、私はたぶん、基調講演でアメリカのことをかなり批判的に言ってしまう。学会が始まる前に気分を害してはまずい。仁志田先生や中村先生は、私が本に書き、ふだんから講演している内容を欧米の学者にぶつけたらどうなるか、に興味があるはず。手抜きはできません。結局、何も送らずにその日がきてしまいました。

「節度と場所柄」と自分に言い聞かせつつ、世界の子どもの幸せを願って、私は、やっぱり三人に一人が未婚の母から生まれ、少女の五人に一人、少年の七人に一人が近親相姦の犠牲者で、生まれた子どもの二〇人に一人が刑務所に入るアメリカ社会の現状を、「まともな人間社会じゃない」と講演で言い切ってしまいました。同時通訳の人が、ヘッドホーンの中で、どう英訳したかは知りません……。

イスラエルとイギリスの学者が、共通して「長時間保育がいかに悪い影響を子どもに与えるか」というテーマで研究発表をしていたのが印象的でした。世間で言う「両立」は、実は子どもの側からは成り立っていないのではないか、ということ。当たり前のことなのですが、子どもに信用されない社会は殺伐としてくるということです。

日本でも厚労省は二〇年以上前に白書で似たようなことを言っていますが、当時は、それでもまだ八時間保育でした。それが、経済論に押し切られ、さらなる長時間の保育が義務付けられていった。補助事業という現実に保育界は引きずられ、保育学者たちが、「社会で子育て」とか、「欧米では」とか言って、政府の経済優先の施策を支えていた。

イギリスは、伝統的家庭観を取り戻そうと必死にもがいていました。すでに未婚の母から生まれる確率が四割を超え、義務教育が荒れ始めていた。中学、高校で退学者を増やし、家庭に子どもを返すことで親の責任を喚起する方策は、退学させられた生徒の七割が犯罪者になる、という結果を招き失敗していました。その失敗の原因を、こんどは長時間保育(母子分離)に見出そうとしたのでしょう。子育てと幸福感を重ね、家庭という定義を取り戻さない限り、何をやっても良くはならない。元々、保守的な気質を持った国ですから、そのあたりのことは、実は、わかっている。

イスラエルでは、子育てを仕組みが担ういう実験が、キブツという、大きな枠組みを使って終わっていました。学者は、ビデオを使いながら、政府に管理され、保育が仕事や作業のようになることで保育者の質がどう低下していくか、保育所での虐待や放置の現状を映像と数字を使って報告していました。

泣いている子どもに声をかけるまで、親なら平均何秒、保育者なら平均何秒。子どもの喧嘩を仲裁するまでに、親なら何秒、保育者なら何秒、という具合です。人間の本能と人工的な仕組みを比べ、その差が子どもの発達にどう作用するか、というのがテーマです。しかし、エビデンスということからすれば憶測の領域にとどまっていて、主として育てる側の変化に発表は集中しました。「子育てと保育の関係」については、エビデンスが揃ってからでは遅い。それが宿命です。だからこそ、日常的に子どもの未来を想像しながら自分の感性を磨くこと、それが子育てであって、そのために人間は喋れない0歳児を与えられたことに気づかなければいけない。

文化人類学的に言えば、「祈り」の世界に、「絆」を導くために、赤ん坊を「授かる」わけです。

アメリカのサラ・フリードマン博士だけ女性だったのですが、私が基調講演でアメリカの現状を批判したので不愉快な思いをしていたと思います。六割の家庭に大人の男性がおらず、公立の小学校を使って父親像を教えようという首都ワシントンDCのことを話し、「正常な人間社会ではない」と言ってしまいましたから。夕食時も目をあわせようとしません。

基調講演、パネルディスカッションのあと、夕食をはさんで、実は、そのあと深夜まで討論は続いたのです。

本当は「もう英語でしゃべるのは疲れましたね」と仁志田先生と二人でホテルのバーへ逃げたのですが、なぜか、みなさんがそこへやってきた。それから本気の、面白い討論会になった。英語で、通訳なしで。

私は、長時間保育で問題行動を起こす子どもが増える、という風に考えるべきではなく、長時間保育で親側に親心が育つ機会が減り、それが子どもの問題行動につながる、と考えるべきで、子育ての問題を「子どもが親を育てる。とくに絶対的弱者である乳幼児が人間から善性を引き出す」と考えないと根本的なところで間違う、という視点を繰り返し話しました。

彼らの履歴書を読んでいた私は、この人たちは国際会議に出るくらいの専門家、私の話をヒントに実際に国に帰って行動を起こしてくれるかもしれない。そう思うと、力が入ります。

イギリスとイスラエルの学者が長時間保育の問題だけではなく、保育の質、保育者は親に代わることはできない、というところまでつっこんでくるのに対し、フリードマン博士は、女性の社会進出、「自立」に不可欠な保育施設の存在を守る姿勢が鮮明でした。「機会の平等」(イコール・オポチュニティー)という点で、男女間に不公平なことが多すぎたのです。その反動が、「社会」の定義を経済活動に偏らせていったのですが、競争に没頭するあまり、役割分担の否定まで行ってしまうと、子育てが宙に浮く。それが「子ども優先」という人間性の喪失、感性と絆の希薄化につながる、と私は、数字を上げて説明しました。すると、深夜になるころ、サラは、ずいぶん私の話に理解を表明してくれたのです。

私は、ふと、「あなたは本当にアメリカ人ですか?」と聞きました。

すると彼女は、「二〇歳までイスラエルで育ったんです。それから三〇年間アメリカに住んでいます」と答えました。

女性が乳児を預け経済競争に参加することによって社会から失われるものがある、人類学的に言えば当たり前のことです。しかし、子育てを避けること、自分の人生をその束縛から、(ある程度)切り離すことが幸せであり、権利だと思い始めると社会からモラルや秩序が失われていく。そのことから目をそらすことは責任回避です、と言い切る私の視点は、純粋にアメリカ育ちの女性、しかも競争社会における勝ち組である「学者」という立場まで登りつめた女性にとって受け入れられるものではない。それがわかっていながら、その場で私が強引に、しかも短時間に私の通常の論法で話をすすめたのには、イギリスとイスラエルの学者の共感があったからかもしれません。

二人とも私の本を英訳すべきこと、出版社を紹介してもいい、共著を考えたらいいのではないか、とすすめてくれました。

保育園という仕組みが普及する手前で、「社会で子育て」の入り口に立っているインドネシアとネパールの学者が、「欧米なんか、絶対に真似してはいけない」という私の話を、時々、確認しながら、非常に興味深そうに聞いています。何しろ、先進国であるイギリスとイスラエルの学者は大いに頷きますし、サラも、そこまで過激に言わないでよ、という表情を見せながらも、笑顔になっています。

私が、「子育てと祈りの関係」について話し出すと、ネパールの学者は、目を輝かせて加わってくる。ネパールもインドネシアも、まだ宗教が、「学問」より上位にあって、子育てという「信心」が、「教育」に呑み込まれていないのです。いい会議になりました。

 

赤ん坊を「泣きやませる」ことは、人間の存続にかかわる重大事です。原始時代、それは肉食動物から身を守ることだったはず。生き残るために、道は用意された。

赤ん坊は、泣きやむことによって「信じること」を学ぶ。それが「部族」としての絆に結びつく、その原点に回帰して考える時なのだと思います。

以前、文部科学省と東京都が主催した青少年健全育成地域フォーラムにパネリストによばれたことがありますが、その集まりのタイトルは「子どもの健全育成と大人の役割」というものでした。このタイトルが「大人の健全育成と子どもの役割」とされたときに、現代社会が抱える様ざまな問題の糸口が見つかるのです。

保育園の園長先生が嘆いていました。「仕事をするために保育園に子どもを八時間以上も預けておいて、小学校に入ってから子どもが心配だからそろそろ仕事をやめようか、という母親がいるんです。本末転倒。小学校に入るまでが大切なのに」。

学校が普及した社会で、〇歳から五歳までの子どもたちの役割を軽く考えるようになっている。その存在に感謝していない。黙って、この人たちを抱いたり、見つめたりすることの重要性を忘れている。

国際会議の後の、私的なディスカッションで、学問がそうであってはならない、と私は必死に専門家たちに説明したのです。

温厚な仁志田先生が、横で、ニコニコ笑っていました。

今、考えると、ケストナーの児童文学「動物会議」のようですね。

 

(ブログ「シャクティ日記」:http://kazu-matsui.jp/diary2/ に、書いたものをまとめています。タイトルも付いています。ぜひ、参考にしてください。重複する内容が多いですが、初めてその文章を読んだ人にも、経済施策と家庭崩壊の関連性、それがどう保育や教育に影響を及ぼすか、全体像を理解してもらいたいために、そうなっています。コピー、ペースト、リンク、なんでも結構です、拡散していただけると助かります。

「ママがいい!」、にわかりやすくまとめています。ぜひ、推薦してください。

親の1日保育士体験をやっている公立園の園長先生が嬉しそうに報告してくれました。一人の女の子が、「お誕生日プレゼントいらないから、来て」と母親にお願いしたそうです。自分もお母さんを自慢したい。

園長先生にとってその言葉は、自分たちが「いい保育」をしている、という証しでもありました。部族の勲章です。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。園で、親心のビオトープを作るやり方、など説明します。今週は、山口県で、子育て支援センター連絡会で講演します。保育園が主体になっている会ですが、それだけにとても期待しています。)