「保育の無償化」国は責任を持てるのか。

 「保育の無償化」:「子育て」を損得と考える流れを象徴するような言葉が施策となり、この国のモラル・秩序が壊れていくような気がしてなりません。
 「タダで子育て」、「無料で子育て」そう言い換えてみると違和感がはっきりする。
 背後には「無料にすれば、もっと子供を産むだろう」という幸福論とは無関係な少子化対策がある。あまりにも人間性を馬鹿にした発想です。たぶん経済学者(経済財政諮問会議に出るような)や社会学者(保育の公教育化などと出来もしないことを言うような)が思いつくのだろうと思いますが、これは即ち、「子育て」を国が引き受けると言っていることでもあるのです。そんなことが出来るわけがない。人材的にも財源的にもすでに限界を超えている。「保育は成長産業」という閣議決定の危うさは、市場原理化された老人介護の惨状を見ればわかるはず。
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 子育ては、親が育ち社会に絆が生まれることの方が、子どもがどう育つかよりも大切で、「子はかすがい」ではなくて「子育てがかすがい」だった、人間の生きる動機だった。そういう原則論をとりあえず横に置いたとしても、最近の保育界の追い詰められ方は、子育てを責任を持って引き受けられる限界をとっくに超えている。
 ここ十数年間、国の保育施策が、保育の質を上げる方向に動いてきたならまだしも、規制緩和や市場原理の導入によって、質より量の乱暴な施策を積み重ね、保育士不足と保育の質の低下はどうにもならない状況まできている。保育施策は、少子化対策、経済施策を装ったその実は選挙対策だったのではないか、そんな疑問さえ湧いてくる。票の獲得を意識するあまり、幼児たちの「願い」が無視されてきた。そして、乳幼児を保育園で預かることが「乳児たちの願い」のように勘違いする政治家さえ現れている。
 
 「0歳児は寝たきりなんだから」と言った経済財政諮問会議の座長や、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った厚労大臣の無知さは論外としても、いまだに保育という仕組みを根本から揺るがしかねない施策が、現場の不安をよそに進められる。
 
 「保育の公教育化」などと馬鹿げたことを言うならば、その前に学校教育も無資格者が3分の1という状況でやってみたらいい。
 資格を持っていれば「子育て」ができるという学者の思考自体が相当おかしいのですが、それさえなくてもいい、という政府の姿勢は、福祉全体の良心の崩壊につながります。
 待機児童をなくせという掛け声のもとに行われた「保育の壊され方」は、あっという間だった。保育界の状況は15年前とはまったく異なります。「公教育化」など不可能な状況をすでに生み出している。社会全体の子育てに対する意識だけでなく、親たちの子育てに対する意識がすでに相当変わり始めている。
 児童福祉法や保育所保育指針の骨格でもある「子どもの最善の利益を優先する」という意識を保育界に取り戻すためには、サービス産業的、市場原理的な発想を捨てるという、原点から耕し直す発想がなければ無理だと思う。そして、親たちの意識が相当変わらないと、つまり自分の子どもの子育ては自分に責任がある、という方向に意図的に戻っていかないと、保育界の修復は不可能になっている。
 
 「誰が子どもを育てるのか」(その責任を感じるのか)、この根本的な疑問に答えない政府の経済施策に呑み込まれ、愛着関係の土台(主体)を失い、根無し草のように義務教育に入っていく子どもが増えています。義務教育が義務である限り、それはすべての子育てをしている親たちの人生に影響を及ぼし、様々な形で連鎖する。他の親たちがどういう親たちか、ということが「他人事」ではなくなってきている。
 子どもの集団を支える優しさや温もりがなくなり自浄作用が働かなくなっている。子ども同士のいじめが増え、それが陰湿になり、同時に、授業中座っていられない子ども、他人の話に耳を傾けられない子どもを抱え、教師も授業が成り立たないことへの苛立ちを募らせている。そんなザラザラと荒れた空気の中で、感性の豊かな子どもや幸せを土台に育ってきた子どもたちが不登校になっていく。不登校になる子どもの方が、感性の豊かないい子なのではないか、と思われるケースが最近増えています。嫌になって辞めてしまう教師や保育士の方が、普通の人間性を持った人たちなのではないか、と思われるケースも増えています。
 
 子育ては、信頼関係のもとに成り立つ行いです。子どもは人間社会に信頼関係を生み出すために存在するのです。
 保育士が、場合によっては0歳の時から子育てに長時間関わりながら、保護者との間に十分な信頼関係が育たない、そんな「仕組み」を国が作り、そこに預けることを「雇用労働施策」として奨励すれば、子どもたちの不安や不満が増すばかりです。そいういう子どもたちが義務教育の中で集団を作れば、いじめや不登校が増えて当たり前です。乳幼児たちの「声なき声」を無視し続ければ、保育から学校教育へ受け継がれた温かさや落ち着きの感じられない日々が義務教育という形で子どもたちを苦しめる。
 そこで育った子どもたちが大人になって経済競争をより殺伐としたものにし、「ひきこもり」という現象を生んでいる。「経済施策」の名のもとで進んでいくこの心の荒廃へ向かう流れが、この国の個性でもあった「絆と安心」という幸福の基盤を崩していく。早急に「子育て」と「経済論」を切り離さないと、戻れなくなる。
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(以下は、内閣府で先日、参考人をした時の記録です。)
 
第198回国会 内閣委員会 第9号(平成31年3月27日(水曜日))
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000219820190327009.htm
内閣提出、子ども・子育て支援法の一部を改正する法律案を議題といたします。
 本日は、本案審査のため、参考人として、中京大学現代社会学部教授松田茂樹君、元埼玉県教育委員会委員長・元埼玉県児童福祉審議会委員松居和君、社会福祉法人桑の実会理事長桑原哲也君、弁護士・社会福祉士・保育士寺町東子君、以上四名の方々から御意見を承ることにいたしております。
(動画)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=48872&media_type=
 
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衆議院内閣委員会:国会議員用レジュメ「保育の無償化について」
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2801
 
 このレジュメは、衆議院内閣委員会:国会議員用に配ったものです。ブログの内容と重複しますが、これまでの経緯を知ってもらうために作りました。簡単に無償化と言いますが、子育てに「誰が責任を感じるか」、「福祉が、それをどこまで引き受けられるか」は国のあり方の根幹に関わる問題だということを国会議員の方たちに理解してもらいたかった。右とか左、保守とか革新、与党とか野党、そんな最近のイデオロギー主体の争いごとはこの問題に関しては置いておいて、もっと真剣に、深くこの国の未来を考えて欲しいのです。
 仕組みに絡む大人たちの利権(権力)争いに巻き込まれ、意見も言えず、選挙権も持たない小さな人たちの「思い」「願い」が考えられていない。
 簡単なことなのです。子どもたち、特に乳幼児は何を願っているか。それを想像し、声なき声に耳を澄まし、その願いを優先する人たちが普通に、社会に多く存在していればいいのです。そうしないと学校教育がな成り立たなくなってくる。政治家が優先順位を間違わなければ、まだ、この国は大丈夫。間に合うはずです。
 
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「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2498