大学生の早期退職、詩人、内閣府





 同じテーマに関心を持っているひとの輪から、選ばれた情報が送られて来ます。

 新聞に、「就職できず・早期退職」/大学生ら2人に1人/高校生は3人に2人(一昨年春・内閣府調査)という記事がありました。(毎日3/20)八王子の共励保育園の長田先生がFAXで送ってくれました。

 内閣府は、「ミスマッチ(求職者と雇用者の意識の食い違い)」対策などをいそぐため、近く有識者による組織を設置し、6月をめどに就職支援の拡充策をまとめる、と書いてあります。

 ミスマッチが問題ではないですよね、これは政府の就職支援で解決出来ることではなく、若者たちに働く意欲がなくなっているだけですよね、と電話で長田先生としばらく話します。幼児と人間たちの関係(幼児も人間ですが…)、人生の初期の体験が社会の土台を築いている、特に意欲という面でかなり影響を及ぼしている、そんなテーマで二人でしばらく意見交換します。

 少子高齢化問題もそうなのですが、こういう現象の背後に、現在2割、10年後3割の男たちが一生に一度も結婚しない、という一つの集団としての意思があると思うのです。ひとつの国の中で、ある条件のもと、集団としての無意識の意識が動く。たぶん人間の進化にかかわる力学がそこにあって、その原因をだいたいでいいから探り、想像して対応しないと意味がない。対応の仕方がすでに動いている力学に要素として組み込まれている場合があるので、視点や思考の次元を変えて渦巻きの外に一度出て考えないと、対処するほどはまって行ったりする。ひと世代前の常識ではかり、ちゃんと働けとか忍耐力が足りないと彼らを責めても、自らの意思で辞めて行く者を引き止めることはできません。いまの「社会」という観点からは間違っていようとも、彼らは彼らなりに幸福になろうとしている。

 

  「三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは安心の土台がないから新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもには、新しい体験がチャレンジになって、壁がその子を育てる」

 長年現場で保育に携わってきた長田先生が常日頃言っていることですが、もちろん全ての子どもに当てはまるわけではありません。人生には出会いがあり、祖父母との関係、保育士や教師との関係も人格を形づくる重要な要素です。しかし、人間が哺乳類である以上、まず親子関係、特に母子関係に特別な意味を持たせるのは正しいと思います。これまで人間たちがその進化の過程でほぼ選択肢がないこととしてやってきたことが急激にされなくなってきているとしたら、それは人間の遺伝子、仏教で言えば修羅のようなものと摩擦をおこし始めてもおかしくない。その第一に福祉や教育の普及で「子育ての時間と意識がかなりの割合で親から離れたこと」が挙げられると思うのです。

 幼児期の発達を観察し現場で試行錯誤し、同時に親子関係を見つめてきた保育園の理事長の発言です。これが正しければ、国会に消費増税法案と抱き合わせで提出される「子ども・子育て新システム」は、長期的な国家戦略上の最重要案件といってもいい。雇用労働施策の一部として、5年以内にもう45万人未満児(三歳未満の乳幼児)を様々な手段を使ってシステムが預かる(社会で子育て)という政府の方針が増々意欲に欠ける子どもを増やしてゆくことになる。子育ての第一義的責任は親にある、という常識が崩れてゆく。

 人間が社会を形成する時、子はかすがいではなく、実は子育てが根底にあるかすがいでしたから、社会で子育てという施策はますます絆を希薄にし、崩壊家庭を増やし、生活保護受給者を増やしてゆくのでしょう。

 生きる意欲が減少しているいま、家庭崩壊の流れは一度崩れ始めたら止まらない。


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 子ども・子育て新システムで幼保一体化プロジェクトチームの座長をつとめている学者さんが言うのです。「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある」(NHK視点論点)。放送を聴いていると、社会(保育所)が育ててくれば産む、ということらしい。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする美学ととらえることもできます。この方が自然でしょう。自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれない。人類にとって危険な一線がそこにあると思えてなりません。

 

 最近の高校生男子の草食系化や、平均年齢34歳二百万人ともいわれるひきこもりの数を考えれば、「がんばりなさい、君たちには無限の可能性がある」「夢を持ちなさい」といった安易なモチベーショントークではどうにもならないところまで来ています。励ましのように聴こえるこうした常套句は、真面目に受け止めると自己責任につながる。経済競争が社会の基盤になり義務教育が普及してから広まった強者の論理から出ている言葉だと思います。生まれつき自力精進型の人か強運の持ち主を除けば、自己責任は自己嫌悪につながる可能性が高い。そして、この自己嫌悪に人間は弱い。他人の責任か神様の責任にするほうが健康的です。地球上に現存する神や仏を祀る場所の多さを考えれば、それは明らかです。祠や神殿、社や神像の数を精神科医の数が上回った時、人類はどういう時代を迎えるのか。

 連帯責任と神様の責任は、人間社会に「絆」を育てます。

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 自立の先に「孤立」があるのでは、と若者たちは気づいています。無意識のうちにそれを避ける。

 経済政策にいま必要なのは文化人類学的視点と幸福論でしょう。欲に頼って経済をのばす時代は終わっています。この国では。

 (草食系男子は実は育ちの良さそうないい子たちで、繁殖しないかもしれませんが、地球の平和に貢献しそうなひとたちだと私は感じます。母親たちの意識が動いているのかもしれない。人間が豊かさに弱いことの反動だと思えばいいのかもしれません。)

 

 こんなことも考えます。

 現在、若者の多くは消費者であって、生産者にはなれない。

 育つ過程で消費者であることに慣らされている。消費者であることを義務づけられていると言ってもいいかもしれません。数人の小学生がゲームに熱中する姿を見ていて特にそう思います。

 嫌な上司に当たって早期退職しても、内閣府がミスマッチ対策と言って有識者を集めてくれる。それを当然のことと思う。

 内閣府の姿勢はサービス産業的発想です。消費者と生産者の中間に位置するサービス産業が意識の主体になり始めている。学者と政治家というサービス産業の中核を成す人たちが施策を考えているのですから仕方ありません。若者たちはますます消費者の立場に置かれて行くのです。

 福祉もそうですが、社会全体のサービス産業的発想への偏りは、政治家が次の選挙に受かりたいという心理が動機で起こっているような気がします。これもまた民主主義の一つの欠陥と言えるのかもしれません。

 (歴史の浅い民主主義という仕組みの一番の欠陥は、親しか投票出来ないこと。「親心」という人間性が薄まると、発言できない者たち、特に幼児の希望、願いを想像しなくなるか、後回しにするようになる。)

 生産者はめぐり巡って自分のために働くのですが、そこには必ず「誰かのため」という意識が存在します。それが人間の本能に沿ったかたちで社会に経済力を与えてきました。経済力の基本は絆をつくろうとする力です。

 簡単に言えば、人間は自分のためには中々頑張れない。誰かのため、友人や恋人、特に家族のためになら頑張る、ということです。家族を持とうとしない男性がこれだけいる、ということが問題の根本にあるのです。

 日本の昔話の主人公には怠け者が多いし、古典落語の重要な登場人物が与太郎です。人間が意欲を持つためには、必ず弱者、先天的な非生産者の存在が必要です。弱者や非生産者の役割を理解して、意欲が生まれるのです。だからこそ乳幼児とつきあうことが宇宙から義務づけられていたのです。

 

 人間の心理は不思議で、例えば「男女共同参画社会」という言葉を市庁舎に掲げ、ニュースや報道で流したり、法律をつくったりすると、宇宙に向けて男女が共同していない、と宣言することになってしまい、実際そのような社会になってしまうことがよくあります。「言葉」は背後で人間を誘導し支配することがあるのです。

 特に法律になる言葉には気をつけないと、言葉でがんじがらめになってゆきます。法律は作ればつくるほどいいのではない。17ヶ条くらいで治まっている社会が良い、ということを忘れてはいけません。特に法律家や立法者はそれを念頭に置いて活動しなければいけない。法律で、「助け合っていない」と宣言するより、遺伝子の進化の歴史に近い所にある慣習とか本能とか伝統、常識と呼ばれるものの存在理由をもう一度理解し、移動手段の発達とコミュニケーション網の発達で異常に膨らんだパワーゲームに巻き込まれないようにするといいのです。自然に近い体験から自分自身をまず体験する方が重要です。だからこそ、一番効き目がある方法として、一日保育士体験、保育者体験を薦めているのです。

 

 すごい感性で見抜く人がいます。私が子育ての詩を送ってもらい感銘した小野省子さん。http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm

 この人の詩を読むと、詩人というのは、一番感性の磨かれた人たちではないか、と思います。他の芸術家に比べて生産活動から遠いところにいるからでしょうか。レオ・レオーニのねずみ「フレデリック」を思い出します。



  不特定多数のだれでもいいだれかへ   

                  by 小野省子



すべてがくるまって並べられて
売られている時代に
私たちは産まれたんだ
不特定多数のだれでもいいだれかのために
どこかのだれかが機械じみて作った何かを
私たちは整列して受け取って生きてきた

手の届かない品物はあきらめ
商品が無くなれば終わり

ああ 私たちはだんだん
熱い欲望を失ったと思わないか?
(私たちの体は クローンのような寸分たがわぬ商品に
育てられすぎたんだ)

自分のことを
くるまって並べられた
不特定多数のだれでもいいだれかだと思った瞬間
私たちはもう
不特定多数のだれかの中からだれかを
選ぶことができなくなるんじゃないのか?

私のためだけに作られた熱いスープをすすり
あなたのためだけに作った甘いデザートを差し出し

むかいあって わらいあって こぼしあって
おこりあって なぐさめあって ないたりして

そうして口に運びながら
そんな延長線上に
セックスはあったんじゃないのか?



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